海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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4・Aiti

「ちょッとイいですカ――ンー、スカイツリー行きたイけど、ンー、どうしたらいい?」

ちょうど向かいで、自分よりは背の低い、同じように金色の短髪の男が、すぐ隣にいたごく小柄な少女に話しかけていたのを海はちらりと見ていた。見た目だけなら中学生くらいにしか見えないほどだ。一方、短髪の男は、スカイツリーをいわゆる『カタカナ語』で言えず、ネイティブさをまったく隠し切れていない。

 

少女は「自分に聞いているのか?」という態度を一瞬取ってから、携帯を取り出し答え始めた。

《スカイツリー?えっと……スカイツリーだったらここから五反田に折り返して乗り換えたほうがいいと思うよ》

珍しいものだ――自分よりもずっと怪しい日本語のイントネーションが少し気になる男に対して、少女ははっきりとした英語で受け答えをしたことに、海は感心した。授業で形だけ習うような、いかにも形式ばった言葉遣いでないあたり、単に英語が得意なだけ、という感じはあまりしなかった。

「オウ、ホント?」

《うん》

日本人だと思って話しかけたのか、一度はカタコトの日本語を使ったものの、少女は続けて英語で答えた。男もあぁ、遠慮しなくていいのか……という表情で頬を緩めた。

 

《んー、でも乗り換えちょっと不安なんだよね。ちょっと一緒に着いて来てくれる?》

《スカイツリーかぁ……まぁ、行こうとしてたとこの方角が同じだし……浅草橋までならいいよ》

《おう、サンキュー、サンキューね》

 

そうか、考えてみたら山手線がいつどう動くか分からないのだからこいつらに着いていって浅草橋で乗り換えれば秋葉原には着くのか――海は感心しながらこの二人の後ろをつけていった。

 

《この辺に住んでるの?》

《まぁ、一応》

《学生さん?》

《え?うーん、まぁ。この春から大学生になったばかり》

《よかったらさー、このあとお茶でもどう?》

《お茶って。スカイツリーに用事があるんじゃ?》

《せっかくだから一緒にどうかなって話してるんだよ。お茶くらいなら別にいーでしょ?》

《せっかくって言われてもなあ……》

 

少し離れたところで椅子に座り、イヤホンをつけて音楽を聴いていた海にその会話は届いていなかった。

スカイツリーを目指す観光客が多いのか、一駅一駅と近づくにつれ乗客が増えていく。

 

〈まもなく、浅草橋――浅草橋です――。秋葉原、両国国技館へは、お乗換えです――〉

 

案外乗り換えてからあっという間に乗り換え駅へと着いた海はそそくさと電車から降りようとした。次々と降りていく客の群れの中で、まるでその空間だけを切り取ったかのように人気のない入り口で、先ほどの少女が電車から降りようとしたところを、先ほどの男に腕を掴まれた。男が笑顔のままでいるから、さほど不自然に見えないのが憎たらしく海には見えた。

 

《ちょっ……そういうの、困るんだけど》

《ちょっとお茶するだけだって。なんなら、俺もここで一緒に降りるからさー。お茶くらい、どうってことないっしょ?》

《とりあえずその手を離してくれたら考えてやってもいいけどね。女の子誘うにしてもさ、やり方ってもんがちょっとあるんじゃないの。少なくとも日本じゃモテないよ》

《でも残念ながら日本じゃ、俺たちが今何を話してるか誰もわからないんだよなあ。素直にお茶についてきてくれたら、乱暴なんかしないからさー》

 

自由で開放的な都会は、同時に、自分以外のことに興味を持たない空間でもある。

なにやら物騒なことになってるのはなんとなく遠巻きも分かってはいるのだけれど、知らない顔をして顔を背ける。

 

空間は切り取られたのではない。断絶されたのだ。

 

俗に言う、サムライスピリットとやらが、聞いて呆れる――海は舌打ちをしながら、降りかけた電車から反転し、ずかずかと二人のもとへ行き、男の腕を掴んだ。

 

《……おい》

《なんだよ、お前?》

予想外のところから話しかけられた男は、少し強がったそぶりで振り返りながら海を見上げた。海はサングラス越しに男を睨みつけながら、咳払いをした。

《あんた、俺の女に何か用でも?》

《お、俺の女……?》

こういうとき、自分の身長が役に立つことに海は少しだけ優越感を感じた。自分よりも背の高い男に睨まれるということは、誰だってそれなりに恐怖を覚えるものだ。男は最初のうち腕に力をこめてなんとか自分のほうが力が強いことをアピールしようとしていたが、その力が見る見る弱まっていくのを海は感じていた。見た目よりもずっと非力なタイプらしい。

《そうだ。人の女に手ぇ出すなんて随分ナメた真似してくれたな。嫌がってんの、分からねーか?》

随分自分でも非現実的なセリフをハッタリとともに吐き出したものだと海は思った。

この場を乗り切る手段がもっとあったのだろうけれど、あまり喧嘩が強くなさそうなガタイの男にはこれでいいだろう――と海は判断した。

《くそっ、分かったよ。俺が悪かったよ、この野郎が!日本人のくせに英語なんか生意気に使いやがって!》

絵に描いたような捨て台詞を吐いて男は逃げていく。追いかけて警察につまみ出すという手もあったのだろうけれど、近々同じ手口でどうせまた誰かが通報するだろうと思ってやめておいた。

 

はぁ……と海は深いため息をつきながら舌打ちをした。突然割り込まれる形でピンチを脱した少女は、電車から降りてしばらく男の行方を眺めていた海をしばらく見つめていたが、さすがに黙っているのもどうかと思ったのか、海の前に出てきてぺこりと頭を下げた。

《ごめんね、ありがとう》

 

近くで見ると余計に小柄な身長が目立った。小柄、というよりは海が大きすぎるだけなのだが。あってせいぜい150cmを越えているくらいだろうか――背の割には大きく見える、物怖じしないまっすぐな目つきと、メリハリのある体つきが、少しだけその小さな背を大きく見せたが、そうして見つめれば見つめるほど、背の低さが浮き彫りになった。

ニッ、と屈託のない笑顔を浮かべた少女。

 

「……Aiti――」

 

〈まもなく、2番線に、電車が参ります――危ないですから、黄色の線の内側までお下がりください――〉

海は少女の笑顔に記憶が一瞬かき回された気がした。思わず飛び出した言葉に口を押さえ、伸ばしかけた右腕をポケットに突っ込んだ。轟音を立てながらブレーキをかけて止まるその電車の音に、少女は海のその言葉を聞き取れはしなかったようだった。

《ここだと人の邪魔になるし、ちょっとどっか行こうか》

少女の声に、海は意識を叩き起こされた気がした。このまま言葉が途切れたままだったら、どうしていいか分からなかったから海は内心ほっとしていた。

「……別に日本語でいいよ」

「なーんだ、日本人だったんだ」

ぎこちなく少女の言葉に答えると、少女は再びニッと笑顔を見せ、流暢な日本語を使い始めた。

「お前だって日本人じゃないか」

「えへへ。まあね」

海はなるべく平静を装っていたが、かき回された記憶は目の前の世界を再び塗り替えた。

 

《ちょっと料理失敗しちゃった。ごめんね、カイ》

《ちょっとなんて、いつもじゃないか》

《えへへ。ちょっと焦げただけだから――》

 

何考えてるんだよ、俺は――

思わずそんな独り言を漏らしそうになった海は手で額を押さえた。心を読まれでもしたら、ホームドアを乗り越えて電車にその身を投げ出してしまいそうなほど、海は動揺した。隣を歩く少女の顔なんて、しばらく直視できなかった。

「それで、どこ行こうか?」

「……俺は秋葉原に行こうとしてたとこだったけど」

「あたしもちょうど秋葉原行こうとしてたんだ。あんなことあったばっかりだから電車乗るのちょっと嫌になっちゃったな。そんな距離でもないし、ちょっと歩かない?」

「別に構わないけど」

「おっけー。ついでだからお茶しようか」

少女の提案に海は思わず噴き出しそうになった。今さっきお茶に誘われてトラブルになったばかりの人間がお茶はどうかと聞いてくるとは思わなかったから、こいつは大したものだと思った。

 

「お前、さっきアイツにお茶誘われて断ったばっかりじゃないか」

「えー。でも、お礼くらいしないと。秋葉原だってきっと目的違うだろうしさ。だったら、お茶くらいしかお礼のしようがないじゃん。君、いくつ?」

「高3だけど」

「じゃあなおさらじゃない。あたし、こう見えても春から大学生だし。少しはおねーさんっぽいことさせてよ」

「おねーさん、ね……」

ずい、と海の目の前に飛び出してその小さな背丈をかかとを伸ばしながら最大限背を大きく見せる少女。極端に攻めているコーディネートではないのだが、春物のコートに、うっすら胸元の開いたシャツの組み合わせだ。ピンと張った胸が海の高い目線からだと、少し気まずい。

そんなことなどお構いなしにじいっとこちらの顔を見つめ、ニッと歯を見せながら笑みを浮かべたその姿は"おねーさん"というよりは、人懐っこく元気のいい子犬だ。

 

「近くに評判のいい喫茶店あるんだって。ちょっと行ってみようよ。あたし、華耶【かや】っていうの。佳井華耶【よしい・かや】。君は?」

少女の笑顔が、ふと海の記憶の中を再びかき回そうとしはじめた矢先、華耶は自ら自己紹介を始めた。

「俺は――」

自分の名前に抵抗のあった海は、必要最低限以上に自分の名前を名乗りたくなかった。許されるなら、ここで適当に偽名でも名乗っておいてもいいのではないかとすら一瞬思ったりもした。

何を馬鹿なことを。別に、海と名乗るくらいいいじゃないか――日本人としてもカイなんて名前はありきたりだ。自分が考えすぎなだけなんだ――そう思いながら、少しだけ躊躇って海は控えめに

「……カイ。海って書いて、カイ」

と名乗った。

「へー。いい名前だね」

「……そうかな」

「そうだよ」

華耶の素直な笑顔を、海はどうしても直視できなかった。

 

そんな会話をしながら、駅の西口から秋葉原に向かい、佐久間公園の裏にあるのだという喫茶店へと二人は歩いていった。

「知ってる店なの?」

「ううん。携帯で調べた。近くに他にも喫茶店あったんだけど、喫煙目的の店とか、なんかこのへん、ちょっとマニアックな店多いみたいでさ。そりゃ、秋葉原自体がそういう街だから仕方ないんだろうけどさ」

「……で、今から行こうとしてる店が?」

「チリコンカルネなんかが評判のお店らしいよ」

「十分すぎるくらいマニアックじゃないか」

「でも、そういうの好きそうな顔してるから」

「どんな顔だよ」

「納豆とかあんま好きじゃなさそうな顔」

「……」

納豆。確かに、最近は少しくらいは食べられるようになったものの、納豆の特に粒のタイプのものが海は苦手だった。海苔巻きだとか、ぶっかけそばだとか……アクセントとして納豆が入っている、それもひきわりのものは少量であればいくらかは食べられるようになったが、あの粒の大きいものの匂いはともかく、食感がどうしても好きになれなかった。不思議なもので、食べ物に混ざっていればそこまで気にならないのだが、それでも納豆オムレツというものを食べたときもひきわりかそうでないかの些細な差が海にはまだ高い壁に思っていた。

「図星だ」

「……そうだよ。当てられてあんまいい気しないけどね。ザ・偏見って感じで嫌な感じだ」

「大きいのに、意外とお子様だなあ」

 

確かに、子供だと言われれば自分はみっともないくらいに子供を捨てられていない気がする――海はそう思いながら喫茶店へと足を運んだ。

ランチメニューのタコスと、随分と評判のいいらしいソフトクリームを食後に頼み、店のベンチ席で注文を待つ。

 

「背、大きいよね。いくつあるの?」

「……196.3」

「うっわ。あたしより40cm以上も違う世界にいるんだ」

「あんまり高くてもいいことないけどね」

「のれんとかくぐるとき大変そうだもんね、ラーメン屋とか」

「……まぁね」

そういう物理的なことだけが大変なのではないのだが……と海は思ったが、ちょうど割り込むようにして店員がやってきた。

「お待たせしました――」

 

テーブルに運ばれてきたタコスを手にする海を見て、華耶は思わず口を押さえてふふっと笑う。

「なんだよ」

「ははは。いやさ、背が大きいから……お菓子食べてるみたいで可愛いなって」

「もともとサイズが小さいんだよこれ」

「そんなことないよ。海くんが大きいだけ」

「背が大きいとこうだ。お前……華耶だってそうだろ。背が小さいから、リスが自分の顔よりでかい木の実でも食ってるみたいだ」

「確かにあたしが持ったら大きく見えるかもねー。それは否定しないかな。でもそれは海くんが大きいからそういう対比ができるわけでさ、別にあたしが一人で持ってたらそうは思わないわけじゃん」

「そんなもんかな」

「そんなもんだと思うよ」

 

その後、溶けやすいから早めに食べるようにと店員に促された自慢のソフトクリームを足早に食べ、そこからはしばらく沈黙が流れた。人間、食べるのに集中すると次の会話がなかなか弾まないものだ。

華耶も少しは満足したようで、しばらく食事の余韻に浸っているようだった。

 

「あとなんかお礼ってほどのお礼、あたしにできることあるかな?」

「お礼って言われても、別に――」

 

別にない――そう言いかけた海は、一瞬その言葉を止めた。

 

「……また会ってくれる?」

「えぇ?」

思いも寄らぬストレートな言葉に華耶は目を丸くし、微笑を浮かべた。驚いたような、少しおかしそうにしたような、なんとしかして声色にまで笑みが漏れるようにはしまいとしながら、話し始めた。

「それって、あたしを口説いてるってこと?おませさんだなぁ、海くんは」

「……そういう意味で言ってるわけじゃないんだけど」

「まぁ、別にどういう意味だっていいよ。一応、恩人ってことになるしね。いいよ、別に会うくらいなら。連絡先、交換したいんだよね?いやあ、年上にも積極的にアタックできるなんてなかなかガッツあるね~」

華耶から茶化されたような言い方をされ海は少し不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。華耶はここぞとばかりに"おねーさん"ぶったそぶりで携帯を取り出しながら、海にわざとらしく身体を密着させるようなそぶりをしたものだから、海は唇を歪ませて舌打ちをしそうになった。

 

「……」

「連絡先よし、と。それじゃあたしはちょっと他に寄るとこがあるから。会計済ませたら先に行くね。それじゃあね、海くん」

 

BINEに互いの連絡先が反映されたのを確認した華耶は満足そうに笑みを浮かべた後そう言って海に向かって手を振り、少し足早にその場を立ち去った。

そうして見る見るうちに遠ざかっていく背中を海はじっと眺めていた。また会ってほしい――そんな言葉をいきなり口走ったついさっきの自分の姿を客観的に回想する海。

 

「……どうにかしてるわ、俺」

 

ご機嫌に揺れるサイドポニーが遠ざかり、やがて曲がり角から見えなくなったのを確認し、海は再び額に手を当てた。

 

幼い頃に膝を擦りむき、その傷跡がまだうっすら残っている。その傷跡をさすっても痛みはしないし、よほどしっかり見ないとその傷跡は分からない。

だが、心の傷跡というのはどうだろう。

擦れば痛むし、体の傷跡と違って治ったつもりでもふとした瞬間に傷口は開いてしまう。

 

とてもこのままゲーセンに入り浸って集中して何かを遊ぶような気にはなれなかったが、少しでもどこかに立ち寄って気分転換しようと、大股で海もまた街へと歩き始めた。

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