オープン戦の間にすっかり定着した『2番ショート佳井』というその響きが、3月の末、甲子園の地に鳴り響いた。
春のセンバツが終わると同時に慌しく始まる、早いもので9度目の開幕戦。毎年のように自分がそのとき立っているポジションや立ち位置は変化していたことに、海はもはや何も驚かなくなっていた。
初めての開幕戦、立っていたのはルーキーとして――5番サードという破格の扱いだった。
慣れないサードをキャンプの間急造で練習し、年間通して守ることになり――プロの打席にうまくアジャストしきる前に、そのシーズンはあっという間に終わっていた。
守備に関して『一塁しか守った事のない奴が三塁など……』だとか、皆から言われていたあの春から10年近くの時を経て、今度は自分がショートという内野守備の要を守らされていることに、海はおかしさを感じずにはいられなかった。
運命というものは残酷で、気まぐれだ。倫理観をまだ知らない幼児が気分で自分の運命の針を好き勝手いじくり回しているような――そんなように海には思えた。
だからこそ、神なんてものはいないと海は思っていた。
何かあったときに自分の運命を神というものに依存させておきたいから、人々は自分の都合で神を身近に居させたがっているようにしか海には感じられなかったのだ。
自分の運命を左右するのは、結局、自分か、自分の周囲の人間か環境なのだ――。
海は空に向かってヘッと引きつったような笑みを吐き捨て、実態のない神に向けて蔑称を送ってやった。中指でも立てておきたい気分だったが、観客の入った今、それはやめておいた。
試合を終え、相手にはひとつの内野安打を許し、自身は4打席1安打。開幕戦、緊張で全く身体が動かなかったというわけでは決してないのだが――どこか物足りない結果がそこにあった。
翌日の試合では同じく4打席1安打。1つのエラーを喫し、2三振。チームは2対1で勝利したとはいえ、到底、開幕レギュラーを任された身分としてはあまり好ましくない結果だ。
そうして最初の3連戦、あまりお世辞にも好調とはいえない結果に終わり、次の3連戦も――自分の出塁から得点に繋がる場面は出始めているのだが、求められている自分の働きのことを考えると、満足いくものではない結果が続いていた。
他に入れ替えるほどの選手がいないからなのか、よほど別の理由があるのか、前野は自分に対して極端な嫌味を言うことはまだなかったが、今のままでは前野から何かされるのは時間の問題だと海は思っていた。
どうにかしなければ――内心そう焦っていた海に、大きなチャンスが巡ってきた。
敵地・名古屋で挑んでいた愛知ドルフィンズとのカードの2試合目――9回表、チーターズは2点を追う状況でランナーを1・2塁に置いていた。
ほぼほぼドルフィンズのファンで埋め尽くされた、ダガヤドーム内に響き渡るあと一人コール。まして、6回を終えた時点まではチーターズがリードしていたのだから、このまま逆転勝ちとしてしまいたいファンとしては、これ以上なくテンションが上がっているところだろう。
開幕直後、今年の調子を占うかのようにして詰め掛けた、球場いっぱいのファン。ドルフィンズのチームカラーであるオーシャンパープルもあいまって、観客席は大きく波打っているように見えた。まるで優勝争いでもしているかのような賑わいっぷりに、球場自体が揺れているようにすら感じた。
マウンドには球界屈指の制球力を持つリリーバーがこの回も続投して打線を抑えていた。二者連続ヒットを許し、多少疲れが見え始めているようにも見えるが――それでもあと一人抑えれば試合は終わるのだから、監督としてもこの場面は投げきらせたいのが心情だろう。
「……変化球かな」
ぽつり、とそう呟いた海は、バットを構えた。二者ともにストレートを中心に投げ、カウントを不利にされたところから少しだけ球威の落ちたストレートを軽打で繋がれたとあれば、この場面、心理的にストレートは投げづらいだろうと海は考えた。
しかし、悪くないコースのストレートすら少し球威が落ちているのだから、少し変化球が甘く入ってしまえば、きれいに弾き返せたならばランナーが二人帰ってきてもまったく不思議ではない状況だ。
マウンドには選手が駆け寄り、声を掛け合っている。絶対的な信頼をチームメイトもベンチも寄せているものだから、ここは投手と心中するようなつもりなのだろう。追い詰められてなお、そのマウンドの雰囲気は笑顔にあふれていて、悲壮感がなかった。あのような空気は今のチーターズでは絶対にありえないだろう――海はそんな光景を、冷めた表情で見つめていた。
運命というものは、残酷で、気まぐれだ。
こんな場面に自分を立たせてくれているのだ――自分は今、野球人がやたらと口にしたがる『野球の神』とやらに試されている。
開幕直後の出だしがチームを占うように、この打席が自分の今年を占うと言ってもおかしくないような、大事な大事な場面だ――などと海は考えながら、その初球を見送った。
チェンジアップだ。
一球見送る、という考えがもし自分の頭になかったならば、この一球を引っ掛けてしまい、初球でゲームセットになっていたに違いない。
そして海は今の一球で確信した――。
今のような、あまり指にしっかりとかかっていないチェンジアップならば、流して打っても球威に負けない、と。
外野は少し前に出てきている。
それもそうだ。海がこの状況で外野の頭を越すような思い切った打撃ができるとは誰も思っていないし、外野の奥に飛んでいくなんて誰も思っていないから、ホームでランナーを刺すつもりでいるのだ。
なめられたものだ――海は自分のこれまでの不甲斐なさと、そんな守備シフトを敷いてくる相手陣営に少しだけ不満を抱きながら――再び放たれたそのボールを見つめた。
しっかりと腕を振り抜いているが、リリースの瞬間、一瞬その腕の振りに緩みが生じたのを海はしっかりと目視できた。
チェンジアップだ――。
ぎゅる、ぎゅるり、ぎゅるりり――ぎゅるるりりり――と強烈にブレーキのかかるチェンジアップ。
サイドスローから放たれる、ほんのわずかだけシュート回転しながら落ちるその球は、流して打つ、という海の考えにとっては、実によくゆっくりと見えた。
内角に食い込んで、バットの芯をそぎ取るようなコースへと向かってくるボールだが――海は手首をひねり、芯というほど芯ではないにしろ、いい当たり所でその自信に満ちた――こちらの自信を打ち砕こうとしたであろう白球をしっかりとバットに乗せた。
バットから放たれた快音よりも遥かに大きい声量で、ああっ――!と、球場がどよめき、揺れた。
普段の守備位置なら危なかったかもしれない。前に出てきているがために、左打席からレフト方向へ流すような少しふわっとした弾道で飛んでいく白球に、レフトは一瞬反応が遅れた。
決まった――海はそう確信し、一塁――そして、二塁へ進路を取り、相変わらずもともとの俊足を生かせないままの少しぎこちないベースランニングを、ベースを踏み外したりラインを越えないようにしまいと細心の注意を払いながら加速させた。
反応の遅れたレフトだが、なかなか鋭い送球でショートへの中継を行う。
二塁ランナーは悠々自適にホームへと戻ってきていた。まるで自分がヒットを打ったかのように、ベンチに向かって何かポーズを取っているのが見える。
お前がヒットを打ったわけじゃあるまいし――と海はその様子を呆れ返った様子で眺めていたが、一塁ランナーもまた、三塁ベースを蹴散らすような勢いで、清兵衛ほどではないが球界上位クラスの俊足を快調に飛ばし、ホームへと突っ込んでくるのが見えた。
中継がキャッチャーへと向かって投げたボールは鋭く、的確で、そしてホームどんぴしゃだった。
タイミング的にはセーフだが、寸分たがわぬコースへと戻ってくる送球がタッチプレーのきわどさを生もうとしていた。
一塁ランナーが滑り込んでホームへと腕を伸ばしていたが――球審はアウトを宣告した。マウンドへと一気に駆け寄り勝利に喜びはじめる相手守備陣だったが、ベンチからは前野と生駒と小室が飛び出し、判定に異を唱えていた。
なぜ今のプレーがアウトになったのかがいまいち分からないでいるままの海は、そのまま二塁で呆然とし、両軍ベンチもまた、騒然としていた。
ホームベース付近で前野が顔を真っ赤にしたまま球審とずっと揉め――リクエスト制度を使用し、なんとか映像判定に持ち込もうとしたものの、結局判定は翻ることはなく、プレーに対して説明が入った。
ホームベースに触れていたと思われていたその手はホームベースからわずかに高い虚空を触れていて、その後、ホームベースに指の腹が届くわずか前にキャッチャーがタッチアウトをしていた――ということが映像判定で明らかになった。
なんとも後味の悪い雰囲気でドルフィンズは再び喜びの表情でベンチから出てきてマウンドのあたりではしゃぎ始め、――前野は相変わらず不機嫌な様子でベンチの奥へと下がり、去り際に壁を蹴っていった。
狙い通りのヒットを打てた、という満足感こそあった海だったが、こんな雰囲気の中で一人だけ自らのヒットを喜ぶわけにもいかず――仮にあれがセーフとされていたならば、9回の攻防はこの後どうなっていただろうか――などと考えながら、首をかしげてベンチへととぼとぼと下がっていった。
今季2度目の猛打賞をなんともしがたい後味の悪さで達成した海は、それでも、こうした場面でしっかり自分のスイングができるようになったことを少しだけ嬉しく思った。
ただ、チームの誰にもそれを話すことはかなわなかったし、試合に負けた以上、大事な場面で成果を残せたことを表情に出すわけにもいかなかったから、つまらなさそうにしながら首をひねってもはや誰も残っておらず、誰からもねぎらいの言葉が返ってこないベンチを一人最後に後にした。
「ただいま」
3連戦を終え、自宅に戻った海を華耶は少しだけ慌しそうにしながら出迎えた。
「ああ……そっか、月曜からまた仕事だもんな」
「そー。一応、火曜日までちょっと本社でいろいろ挨拶とかしたりして、そのあとまたこっちに戻ってくる予定なんだけどさ。一年ちょい休んでた反動っていうのかなー、なんだかソワソワするんだよね。あたし、また働かなきゃいけないんだよなー、っていう思いとかさ。別に働きたくないわけじゃないんだけどさ」
「あ、そうだ」
「ん?」
何かを思い出したように、海は華耶をじっと見つめた。
「例のあの上司、どうなったんだっけ」
「あぁ――えっとね。PもDも降格処分。本当なら免職レベルだし、どっかから話が漏れて報道されててもおかしくないくらいなんだけど、まあ、企業ってそんなもんだからさ……大事にはしない代わりに、ってね。こっちからはクビを切らない代わりに、降格の上減俸8ヶ月。二人とも今はお客様対応係に移されて、逆にクレームの嵐を対応させられてるんだってさ。8ヶ月頭冷やして、もう一回ゼロから出直せってことみたい」
言われていることの意味こそ分かるがあまりイメージしきれなかった海は『へぇ』とだけ言ったものの、それ以上のリアクションはせずに冷蔵庫から麦茶を取り出し、豪快に飲み干した。
「で、華耶は?」
「あたしはwebマガジンの部門に移る事になった。英語ができるからさ、アメリカの販路確保にチャレンジしてみないかー、って言われてるんだー」
「そうか、そういえば華耶は英語得意だもんな。大仕事だな」
「そりゃあ、英語に自信ニキですから」
「ジシン・ニキって」
「……ごめん。忘れて。子供のときから教育されてきた英語だもん。仕事に生かせてナンボだから、頑張らないとね」
「晴留も新も英語、順調なんだっけ?」
「まぁまぁかな。歳考えたら、これからってとこだし。英会話を嫌がってないのは幸いかな」
「へぇ」
あまり会話を弾ませられないまま、海はそうして黙ってしまった。
なんとなく、落ち着かない様子で――天井を見上げたりもしている。
「なーに。あたしが家を空ける事がそんなに不安?」
「そういうわけじゃないけど」
「そこはお世辞でも、ちょっとそうって言って欲しかったな」
「でも、そうって言ったらそれはそれで華耶は俺の事をからかうだろ」
「ふへへ」
華耶は笑みを浮かべたが、海は相変わらず硬い表情のまま足を組んで、ため息をついた。
「違うんだよ。なんかこう……乗り気がしないっていう言い方もよくないんだけどさ」
「?」
椅子にすわるなり貧乏ゆすりをしてみたり、しなかったり――カレンダーを見るたびに海は顔をしかめた。
「なんかあったっけ?」
「スカイクロウズ戦」
「スカイクロウズ?なんかあったっけ?なんか因縁ある選手かなんかでもいたっけ?」
「……うちから出て行った奴がいただろ」
「ああ、いたね。あの確か、めっちゃ自信満々に大振りする選手」
「アイツの顔、どういう顔で見たらいいもんかってさ」
「移籍なんてよくあることじゃない」
華耶はそう言ってテーブルに置かれていたポットから冷えた紅茶のおかわりを海に差し出し、自分の分に口をつけた。
海は紅茶のカップを手に取ったまま、口をつけずに話し続けた。
「アイツには選ぶ権利があった。歳だって1つしか変わらないのに、ここまで差が開くとは思ってなかったんだよ、レギュラー争いしてた頃はね。監督の好き好みで差がついたものだと思いたかったけど、現にアイツはもうリーグの顔になりはじめている。もう、っていうか、10年近くもプロやってたら、そろそろ顔になってなきゃ、ダメなんだよ」
「芽が出る早さなんて人それぞれだからさ、そこは気にしなくてもいいんじゃないかなあ」
華耶の言葉に海は首を振った。華耶は内心『いつもこうだ……』と思いながらも、暖かい目で海の様子を見つめていた。
「そりゃあ、俺の努力が足りてないだけなんだろうけどさ。選ぶ権利がちゃんとあって、自分の意思で出て行くことのできた奴の顔を、平常心で見れる気がしないんだよ。投手なんかと違って、あいつは野手なもんだから、間近で見る機会がそれなりにあるってことだろ。年間25試合だったか?……そのたびに、アイツはもう芽が出ていて、こんなチームから出て行けた、っていう現実と向き合わなけりゃいけなくなる。そりゃあもちろん、あのままアイツがうちに居続けたら、俺がレギュラーでショート守ってることなんかなくて、俺は今年も試合に出させてもらえなかったんだろうけどさ。でも、なんかさ……」
なんかさ、という言葉の続きを海はなかなか上手に言い表せずに、そのままうつむいて――そしてもう一度顔を上げ、押し黙ってしまった。
「チーターズから自分の意思で出て行けたってことが羨ましいんだ?」
「ああ、羨ましいね。正直言って。……羨ましくないわけないじゃないか。自分の意思で、自分を評価してくれるところに移籍できたんだから。評価してもらえたチームで野球できるってことは、そりゃあ、やりやすいだろうし」
華耶の言葉に、素直にそう返事をした海。どんな感情で吐くべきだった言葉なのか――それが分からないまま、そうして海はまた黙ってしまった。
「羨ましくていいと思うし、嫉妬してていいと思うよ。あたしは」
「いいのかよ、そんなんで」
「だって、もう一緒にやってるわけじゃないんだからさ。いいんじゃないかな。見返してやりたいんだよね?今年、いろんな人を。声をかけてくれなかった11球団の編成。自分のとこの監督や編成、その他もろもろたくさんの人を」
「……」
「だったらさ、別にそれを隠す必要だってないでしょ。いいじゃん。言ってやろうよ。別にさ、『喋らないで下さい』なんて言ってもバチ当たらないよ。それくらいの、絶対に見返してやるって気持ちで今年あの場所に立ってるんでしょ?それを海くんが我慢する必要なんてないと思うなー、あたしは」
「……そっか」
「そう。それに……ぶっちゃけさ、あたしに、こう言って欲しかったんだよね?本当は」
そう言いながら華耶は海の隣に座り、膝に手をあててじっと海を下から覗き込んだ。
不安なのか、海の目線は常に泳いでいて、脈もうっすらと速いままだ。
「……どうだろう。分からない。そりゃ……華耶に俺を肯定してはほしかったけどさ……張り合ってるのは自分だけなんじゃないか、みたいな気持ちになるんだよ。とっくの昔に同じ舞台では戦えなくなってるのにさ、俺一人だけがなんだかこんな事考えてたら、なんだかものすごくカッコ悪いような気がしてさ、正直言って」
海の弱気な言葉に華耶はニッと笑みを浮かべて、肩に手を伸ばした。
「だったらさ、いつか打ってやろうよ。海くんもさ。30本でも、40本でもさ。海くんの打撃のまま30本でも40本でも打てる姿をいつかみんなに見せて、見返そう。実際に打つ打たないは別としてもさ――自分だってそのくらいホームラン打とうとはしてるんだぞー、くらいの気持ちでいようよ。自分にはホームランを量産することはできないって思ってるから、気持ちで負けちゃうんだよ。虚勢くらい、張っていこうよ。ちょっとくらい。海くんは自分の評価がシビアすぎるんだよ」
「……お前も清兵衛と同じ事言うんだね」
「清兵衛?」
「……ごめん。こっちの話」
『なら、二塁打の数くらいホームランが生まれててもおかしいとは俺は思わんね』
『ガハハ。夢は大きいほうがいいだろ』
清兵衛も、自分には長打がいつか自在に打てるようになるものだと言っていた。華耶もまた、自分に長距離打者としての一面を求めた。
夢の大きさだけで飛距離が生まれたら苦労しないのだが――と海は思いながらも、気持ちでホームランが打てるならば、いくらでも打ってやりたいのだが……とも思っていた。