海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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40・逃げる事の出来た者へ

「お久しぶりでございます、監督様」

「どのツラ下げて俺んとこ来よったんや、お前」

「ハッハッハ……あんたが俺に顔を上げられないようにするために今日ここに着たんですよ、私は」

「なんやと!?」

昨季まで所属していていたが、FA権を行使して今はスカイクロウズに所属している選手が練習中にこちらのベンチに回ってきた。

その挨拶に食って掛かった前野は、思わぬ飼い犬からの噛み付きに顔を一気に紅潮させた。

 

「ハッハッハッハッハッハ……敵に回すとその顔にも何の憎たらしさも覚えなくなるものですな。まぁ、嫌というほど見せてやりますよ。あんたという枷を外れてのびのびと自分らしくプレーする私というものをば」

誇らしげにわざとらしく胸を張ってターンしていったその男の姿を、遠くから複雑な感情で海は見つめていた。

 

仮に自分がここから出ていけていたならば、あのように監督にわざわざ挨拶――もとい、挑発などしにいくだろうか。

清兵衛には挨拶しに行ったとしても、わざわざその憎たらしい顔を拝みに行くほど、自分は暇ではない。

 

ともすれば、実際のところ、自分以外の選手というものが抱えている監督への不信感というものはあくまで――たとえばプロレスのように、本当はキャラ付けというものでやっているものであって――監督を心の底から憎しんでいるのは自分だけだから、あのようにわざわざキャラとしての言動をしに来るのだろうか――とさえ海は思った。

 

だとしたら、自分が監督とうまくいってないことを世の中には随分とうまく使われてしまったものである。便乗しておけばキャラとしてそれが成り立つし、大義名分としても使える。

まさか、そんなリスクの伴う事をするような人間は居ないだろう、と海は思いたかったが――

 

『男が番を探すことに何の問題が――?』

 

リスクを犯してまで自分のためだけに言動しかしない人間というものを間近で見てきて育った海は、人間というものは、自分のためにならどれほど手を汚したり、あるいは自分の手を直接汚さずに、回りくどく汚い手段を使って生活する人間というものがこの世には一定数いることを知ってしまっている。

 

人間というものはそうして自分を正当化するためにならどんな手段も選ばない奴ばかりなのだ――と、すぐにそうやって他人を悪いように捉えてしまう海の癖はどうしても治らなかった。

だから、彼なりに監督への不満は大なり小なりあったからわざわざ監督に嫌味を言いに来たはず、と海は思い込んでしまっているのだ。それが海の見てきた世界だから――。

 

「お前も、こんなつまらんところ、とっとと出たかったろうにねぇ」

「……」

フリー打撃の出番を待っていた海にも、その男の影が忍び寄った。

 

「まぁ、4年後また頑張りなさんな。着れるユニフォームはチーターズの縦じまだけじゃないんだから。ハッハッハッハ……」

「……」

海はそんな言葉を黙って無視し、手首を返しながらバットのちょっとしたひねり具合を確かめていた。

「…………」

「………………」

「気難しい奴だねー。前の同僚がこうやって来てやってんだから、少しは絡んでやってもいいじゃないの、君」

「練習中なんで」

すっ、と立ち上がり、そのまま素振りを始める海。何をいまさら、同僚だった頃は絡もうともしてこなかったくせに――と海は内心侮蔑しながら距離をとってスイングをし始めた。

近寄ったら容赦なくバットを当てるぞというようなそぶりで、バットを芝に何度か叩きながら、ここのラインを越えてくるなと海は無言の警告をした。

 

「出てった選手のことなんか、自分には関係ないみたいな顔すんの、やめたほうがいいと思うね、私ゃ。お前だってここよりいい水が飲めたらすすんで飲んだだろうし、一番ここから出て行きたそうにしてたのはお前だろうに。週刊誌のひとつくらい、俺だって読むんでね」

「練習、しなくていいんですか」

「……」

「…………」

火花が散る、という表現をよくこの国では使うらしいが、火花なんて言葉は生ぬるく、まるで今にでも互いに戦争でもし始めそうな緊張感がたった半径数メートルの間にじわじわと広がっていった。

 

何か言葉を喋れば喋るだけ自分が惨めになるだけだと思ったし、何を言われても向こうの言うことには反論しても勝てないのも分かっている。

ただ一つ、喋りかけるな――という、コミュニケーションの遮断以外に今の海には手がなかった。

 

華耶から『喋らないで下さいとでも言ってしまえ』などと言われなければ、きっと自分は少しくらい噛み付いただろうし、そうして噛み付いてからしばらくして、自分の惨めさに耐え切れなくなるところだっただろう。

ただ今は、黙って結果で見返す、ということしかできない自分が悔しかった。

まして、見返すことのできる日が来るのかどうかすら分からない日々の中で――自分だけが虚勢を張っているような気がしてならなかった。

 

「ま、いいですけど」と向こうのほうから痺れを切らしていなくなってくれたことに海はせいせいしたが、心の中ではやはり、悔しさが溢れ返っていた。

結果で見返すといっても、その結果で見返せないからここまで自分がこんな思いをし続けているのだ。体調不良でもなんでも訴えて、ここからいなくなってしまいたい気分だった。

 

『お前の打撃は勝ちに繋がらない』

 

前野から口酸っぱく言われていたその言葉が一生ものの呪いになるような気が海にはしてならなかった。

3連戦の初戦は、満塁で巡ってきた第一打席でタイムリーを放つもこの試合、そのあと二度もチャンスが回ってくるも、共にそのチャンスを生かせず敗北。

 

2戦目は確かに自分がヒットでつないだことにより先制点をもぎ取り、そのまま2回に7点を奪う猛攻に絡んだとはいえ、その後は得点にもつながらなければチャンスメークにもほとんど絡むことができなかった。

チームは勝ったものの、海はまだまだ自分の打撃に納得がいかなかった。

 

1勝1敗で迎えた3戦目、3回裏には海は同点となるタイムリーを放った。手ごたえはあったし、そのあとも押し出しのフォアボールで勝ち越したチーターズ。

 

ど真ん中のスライダーだった。

あれがあと5メートル伸びていたならば、一塁ランナーだって帰ってこれたはずだ。それが分かっててスタンドまで届くような打球を打てない自分がまさに『勝ちに繋がらない』打撃であるように感じられてしまった海は、次に回ってきた打席で思わず力んでしまい、せっかくのチャンスをふいにした。

 

3回と同じ、ランナー1・3塁。同じようにやれば打てたはずの打席だった。

同じように投じられたスライダーを――外野の頭を超えようと、無理に欲張りすぎてしまった。普段どおりに素直に弾き返すことを考えて振っていたなら、きっと同じようにヒットが打てたはずだ。コースだって特段きわどいボールではなかった。

 

自分のミスが試合の流れを壊したといってもいいようなこの日の試合展開。5回に追いつかれ、そして7回には満塁弾を打たれ――以降は攻撃が散発に終わったチーターズは、9回裏まで一切得点ができなかった。

4点ビハインド。もともとは勝っていた試合ということもあるせいか、甲子園の内野席やバックネットからは熱狂的なファンの怒号が飛び交い始める。

 

「金返せドアホ!」

 

「だから選手に逃げられるんだよ!!」

 

「勝つ気あんのかボケ!!」

 

絶滅危惧種にすらなっている、やたらと声だけの大きいファン。ファンというよりは、ファンという立場を自称しているだけの暴徒だ。

 

昔はこんな怒号では済まされなかったと生駒やヘッドコーチは話していた。

監督とこうした一部のファン、どちらの言葉が汚いかと言われれば、おそらくファンのほうが汚い言葉を使っているときもあるかもしれない。

 

ただ、ファンには気分で選手を入れ替えする権限はない。

そうした違いがあるだけ、海はまだファンのほうが可愛げがあるものだと思っていた。

勝っているときやヒットを打とうものならすぐに手のひらを返してくれるのだから、楽なものだ。

 

〈7番――ショート――佳井――背番号――25――〉

 

いつもどおり、入場曲であるsan sebastianに迎えられて海は打席に向かっていく。監督の気まぐれで、1番に固定されていたはずの打順はいつの間にか打順は7番まで落とされていた。

 

近頃は歌にあわせてオーオー……と一緒に応援団や観客が歌ってくれるのだから、自分は少なくともファンには恵まれたほうだと思う。

 

もう母国ではなくなってしまったが、フィンランドの有名メタルバンドの曲がこうして日本でも受け入れられ――自分の入場曲として周知され、それどころか観客の歌声によって入場する。

こうした部分においては、自分がここまでやってきたことは間違いではないと思いたいし、観客が自分の打席をこうして手厚く出迎えてくれるのだから、なおさらいい加減自分はしっかり打たなければという思いも最近は海の中に芽生え始めた。

 

華耶くらいしか自分を応援してくれる者はいないと思っていたものだから、こうして春からレギュラーとなり、だいぶ定着した応援歌に乗りながら打球を飛ばすということは、ある意味では自分の使命に感じた。

 

  ――唯一の高みを目指し

    羽ばたけ佳井 海の彼方へ――♪

 

ファンとしても、自分が遠くまで打球を飛ばす姿は見たいのだろう。自分だって、自在に遠くに飛ばせるなら、遠くに飛ばしたい。

しかし、毎打席そんな長打ばかり狙うわけにはいかないのだ。

こういった一打で流れを変えられるような場面くらいでなければ、一発長打など――。

 

海はスコアボードの6-2という数字を見て、ため息をついた。

自分がここで本塁打を打っても、6-4だ。しかし――しかしだ。このまま打線がうまく繋がりさえすれば、打順は1番に戻る可能性だってある。

1番からの打順が、3点差を追うのか、2点差を追うのかでは状況がまったく違ってくる。だからこそ、海はここでどう打つべきなのか迷った。

 

1球、そのスライダーを海は見逃し、様子を見る事にした。

ボールに勢いがあるかどうかと言われれば、そうでもない。平凡な投手という表現が適切であるかどうかは分からないが――言うなれば、その球はごく平凡だった――。

 

2球目のストレートを海はもう一度見逃した。直球にも極端にキレがあるわけでもなく、スピードが乗っているわけでもない。ピッチングマシンのような、無機質な感じの速球が、別にマシンのように正確無比に放たれるわけでもなく、アームの具合の悪いようなピッチングマシンのようにアバウトなコースに放り込まれてくる。

 

「パパー!パパー!!」

テレビに夢中の晴留が、画面越しの父親の姿を指差し、手を振っている。

 

「そうだね、パパだねー。晴留。パパね、これは一発ホームランあるかもしれないよ」

「ホームラン!?」

「そう。ホームラン。パパの目つきがね、一発狙ってる顔してるよ」

「ママにはわかるの!?」

「そりゃあもう。ママは、世界で一番のパパの味方だからね」

そんな二人のやり取りをそ知らぬ顔をしながら、新は床に置いてある使い終わったカレンダーに落書きをしていた。

時々チラチラとその様子を華耶は確認するのだが、試合の行方も気になる華耶は目線をせわしなく変え続けた。

 

〈――後ろには8番打者とはいえ、一発を狙ってくる打者が控えてますからね。ここは佳井くんは無理につなぐ事を考えずに佳井くんも大きいのを狙ったほうが、逆転の道筋としてはあると思いますよ。間違いなくここで打線がつながれば9番の投手の打順では代打が出てくるでしょうし〉

〈そうですか。狙うとしたら何でしょう〉

〈甘く入ったボールですよね〉

〈甘く入ったボールですか〉

〈ええ〉

〈この状況、甘く入りそうなボールといいますと――〉

〈甘いコースに入ったボールです〉

〈……さあ佳井。バッターボックスに戻って構えなおします〉

 

いつもどおり何かを考えてそうな深刻な表情ではなく、強く何かを決心したような顔つきで海は打席に戻る。

横から切り抜いたその海の構えは、ギラギラとした――それこそ、夜、自分に対しても向けることが何度かあっただろうか――普段押し殺している感情をむき出しにしたときの、強い一人のオスとしての目つきがそこにはあった。

 

〈まあここは転がしたら絶対あかん場面ですからね。ランナーも決して足が速いタイプではありませんし、ここで変に三塁の間抜いてやろうとかいつもの、考え抜いた先の打撃みたいなのを佳井くんはあまりするべきタイミングではないですね。転がして一発でゲッツーでは試合が終わってしまいますから〉

〈バッテリー、なかなかサインが決まりません。……ピッチャー、ようやく首を振って――投げました〉

〈ああっ――〉

〈真ん中高めだッッ――!!〉

「海くん――」

 

力みすぎてボールが少し浮き、ストレートというには少しお粗末な――絵に描いたような棒球が向かってくる。

これを意識しすぎて強く振りすぎてもよくないし、かといって下手に小細工をして打つべき場面でもない――。

 

繰り返してきたトスバッティングをきれいに打ち返すときのような――何も考えずにただひたすら前に飛ばすことだけ考えるときのフリー打撃のような――ごくごく自然体で、でも少しだけ角度を意識したスイング――。

 

風はライトからレフト方向に、それも少しだけ追い風だ。一発をイメージしているこんな打席で向かい風が吹いていたなら、また少し考えを変えなければいけなかったかもしれない。

 

運命というものは、残酷で、気まぐれだ――。

 

最近、ずっとそんな事ばかり考えていた海。運命というものにきっとこれからも自分は翻弄され続けるのだろう。

今はその運命とやらに、この打球の行く末を委ねたい――。

そう思って振り抜いた一打は、自分の耳元にしっかりと届く高い破裂音のようなインパクト音を残していった。

 

オオオッ!!と白球の行方を察した観客の歓声が、一瞬にして大きく、大きく上がっていた。

バックスクリーンめがけ、その一打は強く強く舞い上がり、そして少しだけレフト方向へ風でスライスし――文句なしの飛距離で着弾してポーンとボールは跳ね上がった。

 

打った瞬間、その打球の行方を確信した海は投げ捨てるようにしてバットを軽く放り投げ、いつもどおり控えめなガッツポーズをとりながらベースランニングを始めていた。

 

ホームランを打ったという感覚に浸っていたいわけではない。

試合の流れを変えるために――自分の打撃が勝利に繋がらないということを覆すための一打なのだ。ゆっくり浸るようにしてベースを回る、という考えは今の海の中にはなかった。

ただただ、気持ち早めにベースランニングを終えて――こちらをしっかりとらえたカメラに小さく会釈をしながらいつもどおりのI love youのハンドサインを決め、そして内野席に向かって控えめに脱帽する海。

 

「おいおい、あんなもん打てるのかよお前!?」

生駒が海の肩を叩き祝福したが――

「まだ試合は終わってません。これが勝利に繋がる打球ってもんなんでしょう、あんたらとかが口うるさく言う。であれば、あとは後ろがなんとかしてくれるはずです。俺は、俺の仕事をしましたから。これで仮に今日、負けた責任を俺に押し付けてくるようなことがあったら、俺はマスコミにいくらでもあんたらの文句を言ってやりますよ」

 

いつもはこんな悪態だとか、打球に反応してくれる清兵衛がいなかった。コンディション不調により今日からしばらく試合を離れるということだった。

より一層、自分がもう少ししっかりしなければ――そんなことを思いながら、海はベンチから打席を見続けた。

 

「でも、このまま行けば今日の試合はお前が決めたようなもんだろ、これは」

「言ってるでしょう、まだ試合は終わってないって。勝つまでが試合ですから、喜んでられません」

「打ったこと自体にはもっと喜べよ、お前」

「これで結局勝てなかったら、ホームランすらも勝利に繋がらないとかなんとか監督【クソジジイ】にまた言われるのが嫌なんですよ。マジで脅しでもなんでもなく、今日のアイツの言葉次第では俺はマスコミをいくらでも使いますからね」

「やめとけ。聞こえたらお前また文句言われるぞ」

「言えばいいじゃないですか。別に俺は、あんな奴のために野球やってるわけじゃあないんで」

「だったらなおさら喜んでくれ。仏頂面でベンチに座って、それをカメラで抜かれたらお前のファンが何を思うか」

「……」

生駒がカメラの方向を指差し、手を振る。

 

「……俺は振りませんからね。分かってるんですか。まだ2点差で負けてるんですよ、この試合。俺一人だけ喜んでられないんですよ」

生駒の軽々しい態度を軽蔑するような目で海は生駒を睨み、カメラにどれほどベンチの様子を撮られていようが構わない様子で海はスポーツドリンクを口にし、いつもどおり静かにコップをゴミ箱に入れた。

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