「それにしても、まぁまぁ上出来なシーズンだったじゃねェか。あァ?さすがに今年はちょっとは本気で挑んでくるとは思ってたが、お前さんがいきなりあんな打率残すなんて思ってなかったぞ、俺ァ。いくらだ?.360か?.370だったか?」
乾杯も早々に日本酒をぐっと一気飲みする清兵衛。次に放たれた言葉は、自分のことではなく海のことだったものだから海は驚いた。
「.371」
「あぁ、そうだったな。歳を取ると細かい数字が覚えられなくてな」
「何が歳だ。お前、まだ32だろ」
清兵衛の言葉を白々しく思いながら海は呆れた様子で控えめにビールに口をつけた。
「何言ってんだ。20代のことなんてあっという間だったんだ、30代なんてもっとあっという間だ。30代が終わったらお前、どうなるか分かるか?」
「40代が来るんだろ」
「そうだよ!ガハハ。お前さん、よく分かってるじゃねェか。自分の人生の何かを掴むためにがむしゃらに階段を上るために走ってたはずの20代がな、30代になると不思議と下り坂になってくるんだ、ある日突然な。理由は人それぞれだがね。そんな人間が40代になったらもう、息も絶え絶えよ。でもそれを見栄張って、なんとか無事ですって、下りの階段に見せないように働き続けなくちゃならねぇのがアスリートってやつだ」
カァー!とわざとらしい声を出しながら日本酒を飲み干す清兵衛。こんな話をしながら、すでに海が見ているだけで3杯目だ。酒に強いのだとしても、ペースの速さに少し海は辟易したが、本人が飲みたいように飲んでいるのだから海はあえて止めず、自らもまた控えめに日本酒を飲み干し、清兵衛の空いたグラスに日本酒を注いだ。
「で?誰かの受け売りか?それ」
「親父だよ。親父の奴ァ、話す事がいちいちジジイみてぇな感じだった。周りの父親なんかよりも10から20は年上のジジイみてぇな風貌で、本当はいくつなのか俺ァ素直に聞けなかった」
お前もその血を色濃く受け継いでるじゃないか、とは海は言わずにおいた。
「でもよ、色気をなくした人間なんて枯れていくだけだから、いつまでもシモや身体のほうは若くあろうと、親父は見た目はともかく、身体の中のほうをとにかく若くあろうとした。俺と同じく酒豪だったがね、サプリなんかもよく飲んだし、食うもんも、酒やタバコ以外の生活習慣もそれはそれは気を遣っていた。ただ、そんな親父ですら30後半のことはまぁ辛かったんだとよ。親父は、滅多に辛いだとかきついだとかいう言葉は言わなかった。その親父が辛かったと言うくらいだ。よほどの事だろう」
酒やタバコを辞めたらもっとよかったのでは――と海は突っ込むべきなのかどうか迷ったが、これも黙っておいた。
「お待たせ」
「おう大将。どうも。無理言って悪いね」
ランチの時間にしかやっていないという海鮮丼を二つ運んでくる大将。土曜の今日は完全予約制らしく、前々から予約をとっておいたらしい。
清兵衛のことだ。豪快な口調で、ずいぶんと無理を言ったのだろう。
「前菜だからな、これは。皆これを食いにランチにやってくるが、にぎりを食わずにこの店に通った気でいるやつが多すぎる」
「お前、飲み食いするのか喋るのかどっちかにしろよ」
「両方やるのが大鈴家流でな。もちろん、人目がないところだけだがな。俺がいつどこでもこんな風にいると思うなよ」
「そんな風じゃないお前を想像できないね」
どこから手をつけたものか……と海は迷いながら海鮮丼を食べ始めた。
「ここはな、梅酒もいけるんだ。おう大将!梅酒も二つ追加で頼むわ」
「あいよ」
不思議と波長が合うのだろう。大将と清兵衛は随分と気が知れた仲のように海はその様子を眺めていた。
「そう。そうだよ。他の事を話してたら、話がごっちゃになっちまってしょうがねぇな。俺ももう32だ。このまま全力で走れる日がいつまで続くかは分からねぇ。お前、6月で27になったんだよな?」
「あぁ」
「考えてもみろ。お前さんと俺はたった4つしか違わねェ。皆が同じタイミングで階段を下ることになるとは限らねぇし、なんなら、20代で階段を下ることになる奴だっている。うちの連中見てると分かるだろ?20代で階段を上る事自体を諦めて自分で下山し始めた奴だってちらほらいる。お前さんはどうだ。今年一年やって――もっと階段を駆け上がっていけそうだったか?」
「……思ってるよりはね」
「そうか。そいつぁよかった」
「でも、まだまだだ。俺の打撃は勝利に繋がらないらしいから」
「まだそんな事気にしてやがるのか、お前」
海の言葉にそう呆れたような言葉を吐いてから、ぐっ、と梅酒を一気飲みして清兵衛は目をきつく閉じ、そのままグラスを置いた。
「野球っていうのはお前さんも分かってるとおり、最低でも9人、10人でやるスポーツだ。お前さんのミスを他の奴らがなんとかしてくれるから野球っていうのは成立すんだよ。たまに完封だとかノーノーだとかなんかしてみせると、さも自分ひとりで勝利を勝ち取ったような言い方をするピッチャーなんかもいるが、そいつは重要な事を忘れてる。キャッチャーがボールを取らなかったら試合が成立するか?しねェだろ」
「そりゃあ、そうだな」
「守備のシフトなんかを見て、日和って打ち損なったり、意識しすぎて打てなかった奴だっているかもしれねぇ。ピッチャーひとりで投げてるように見えてな、守備も一球一球が作戦なんだよ。で、そんな事を言うとな、じゃあ全打者三振とって完全試合すればいいんだろ、って言う奴が居る。まぁ、それはいい。だがね、仮に27個の三振を奪って完全試合を達成したとしても、そこにキャッチャーが居なかったら27個の三振は奪えても、振り逃げやら何やらで試合が成立しない可能性だってある。肝心な場面で何を投げようか迷って、最後にサインを出してくれたキャッチャーと心中してその場を乗り切った奴だっているかもしれねぇ。だからそういう、自分ひとりで野球やってますみたいな言葉ってェのは、俺ァあんまり関心しねぇな」
「……」
清兵衛が一人で上機嫌に喋るのを、海は止めようとはしなかった。ただ黙って、清兵衛の説教を海は聞いていた。
「お前さんが打ったヒットが勝利に繋がらなかったのは、それは後ろがお前さんの作ったチャンスを拾ってやれなかったからだ。お前さんがチャンスを潰したと思ったその打席は、お前さんが勝手にその場面を託されたと思ってるだけの話だ。お前さんだって本当は分かってるんだろ?託されたんじゃなくて、監督だのコーチだのから、責任を押し付けられてるってことを。まぁ、お前さん一人で試合を動かす場面だってこれまでも一つや二つあったかもしれねぇが、お前さんに託す以上、周りだってお前さんに託すために頑張らなきゃいけねェんだよ。お前さんがいろいろ思いつめてることはまぁ分かるが、そんなに自分ひとりで勝利に繋がるものごとをしたいなら、今からでもボクシングでも始めたらいい。お前さん、きっとボクシングも似合う体してるぞ」
そう言って、何杯目かとうとう数えそびれた梅酒をぐっとそのまま飲み始める清兵衛。景気よく飲んでいる姿を見て、海は少しばかり反論したくなった。
託される側の人間にでもなってみろ――
いまさら辞められるものか――
海は他人事だから言えるような清兵衛の言葉に対して文句でも言わずにはいられなかった。
「でも俺は――」
海の言葉を遮るようにして、飲み干したコップをテーブルにダン、と置く清兵衛。海の言いたい言葉を分かっているかのようにして、じっと見つめてから、言葉を続けた。
「『野球しかない』んだろ。何だ?あのちっこい奥さんとでも約束でもしたのか?」
「……本人の前で言ったら殺されるぞ」
『あたしの代わりに、あたしが見たかった景色に行って欲しいって思ってる――』
「――なァるほどねぇ」
上機嫌に頼んだ大トロの握りの群れを清兵衛は次々と口に運びながら、海の言葉を聞いていた。
その言葉の真意が分からない――という海の言葉を噛み砕くようにして、清兵衛はしばらく2貫、3貫と握りを咀嚼し――ビールをぐいっと飲み干した。清兵衛に半ば押し付けられる形で海も寿司を食べ続けていた。
「真意なんて、お前さんが勝手に作りたいだけなんじゃないのかね。お前さんの想像に及ばないものを無理矢理答えにしたくて、その真意とやらを探すことに自惚れてるんじゃないのかね、お前さん」
清兵衛の言葉は遠慮がなかった。遠慮がない上に、核心や自分の中で思っても見なかった部分を突いてくるものだから、海は言葉に詰まった。
「そうは言ったって、どんな景色かなんて、具体的に言われなかったら考えちゃうじゃないか」
「そんなもんは、お前さんがどうにかこうにか考える問題じゃあないと思うね、俺ァ。まあ、お前さんがそれで優勝を目指してて、優勝ペナントを家に持ってってやりたいとかならまあ、それはそれでいいと思うがね。じゃあ、なんだ?来年にでもお前さんが今年みたいないい感じの成績を残して、うちらが優勝したらお前さん、来年引退するか?しねぇだろ?」
「そりゃあ、まあ……引退って歳でも、ないしな」
「だろうがよ。お前んとこの奥さんが何を見たいかっていうのは、頑張ってるお前さんの姿だろ。優勝だとかなんだとかは、あくまでそこに付随するもんでしかねぇ。だから、お前さんがその言葉の真意を問うことなんか、野暮でしかねぇと俺ァ思うね。ま、お前さんのそういう、本質を捜し求めてしまうところ、嫌いじゃねぇがよ。俺も面と向かって言われたらちょいと考えちまうかもしれねぇしな」
「フッ……お前……お前にそんなこと言いそうな奴がいるのか?」
「失礼な奴だな。一応、いるにはいるぞ」
「どうせ、酒の席か風俗かなんかで知り合った女だろ」
「何を知ったような口を。お前さんがそんなもん詮索する必要なんかねぇんだよ。ほら、お前さんももっと食え食え。シケたツラして寿司なんか食ってたら味が分からなくなるだろ。ほら、梅酒が空になってるぞ。大将!こいつと俺に梅酒と……そうだな、おまかせで10貫。今日はなァ、倒れるまで飲むぞ」
:
:
「それで本当に飲みつぶれるバカがいるかよ」
「うい~っ……海ィ、この後は高級ソープがお前さんと俺を待ってるぞォーッ」
「お前がソープを待ってたとしても、今のお前をソープは待ってねーよ」
「ガハハ。ワンナイトラブっていうのもな~ァ、なかなかなァ、オツなものだぞォ、海よォ、佳井海ィよォーッ!」
「大将、こいついつもこうなんですか」
「今日は特にひどいね」
嫌そうに清兵衛を指差した海は店主に話しかけると、店主はケラケラと笑いながら応えた。
「俺ァまだ酔ってなんかねぇぞ~。大将ォ、今日の酒は随分とうまかったなァ。梅酒作り、また腕を上げたんじゃねぇかァ?っへへ」
「……もうタクシー呼びます。会計は……こいつが今日奢ってくれるって言ってたのでツケてやってもらえますか。……あと、よかったら持ち帰り、お願いできますか」
「あいよ」
BINEで華耶には『同僚が悪酔いしたからいったん武蔵小山の家に連れて行く。そっちに合流するのは明日の朝になりそう』と若干苛立ちながら連絡をし――
「いやぁお客さん。また使ってくれるなんて嬉しいですね。わざわざご指名でなんて」
「あんまり"これ"を他人に見せたくなかったもんで」
かつて自分を蒲田まで送り届けたタクシーの運転手が渡してくれた四宮福史【しのみや・ふくし】という名刺がまだ財布に残っていた海は、すぐさまこの運転手、四宮を呼びつけていた。
「中継、こっそり聞いてましたよ。大鈴選手、ずいぶんでかいホームラン打ったそうじゃないですか。今日はその打ち上げですか」
「まぁ、ええ」
「俺ァいつか優勝すっぞ!海ィ!なァ!天才打者佳井海とォ、超!天才打者!この大鈴清兵衛!この二人が揃ってりゃあなァ、あの不細工なドームの天井に穴あけることだってェ、容易いもんよ!あるいはよォ、あの警備会社の看板に穴開けてなんかよォ!ガハハ!球団代表のあんちくしょうめ、いっつも俺らみたいに率を稼ぐタイプの打者の足元ばっかり見やがって。なぁ海。佳井海よォ。悔しいよなァ!?」
「……マジでオフレコでお願いしますね。今日はもう、しばらくこの調子だと思うので」
「ははは。分かってますよ」
四宮は後部座席で伸びきっている清兵衛をバックミラー越しに見ながら笑った。
「……それにしても、13年ですか。あの監督がやってきて。ここに転職してちょうどタクシーはじめたのがあの監督が就任した年でしたから、年月の経過を感じますね。その間にタクシーの車種だって2度変わりました。前の車のほうが乗りやすかったんですけどね。安全性がどうだの、エコに特化しましただの……新しいものをすぐ取り入れるのはうちの社長、すごくいいことなんですけどね。新しいものはすべていいものだってすぐ飛びついちゃうもんだから。もちろん、実際新しいもののほうがいいことはたくさんあるんですがね……なんだか、新しければ何でもそれがいい!みたいな感じなんですよ。もちろん、古くて歴史があるほうが何もかもいい!新しいものはダメ!っていう凝り固まった考えでいるよりはよっぽどいいんですけどね」
「耳が痛い話ですね」
海は苦笑を浮かべながら、髪を気まずそうにかいた。
「あぁ、いえ。そういうつもりで言ったわけじゃないんですけどね。タクシーなんかはその車体で覚えてくれてる人もいるものだから、車体が一斉に変わるとおじいちゃんおばあちゃんなんかが『転職したのか』なんて言ってくるもので」
「そうですか。前の仕事は何を?」
「小さなゲーム会社にいました。ただ、一緒に働いてた職員がちょっとばかりやらかしましてね。それを上に報告したものの、取り入ってはもらえませんでした。それからは、アプリなんかは一人でも作れることに気がついて、自分が本当にしたい事は何か考えたとき――少なくともこの職場じゃないな、と思って。それで、気がついたらこんな仕事ですよ。いや……こんな仕事って言ったら、佳井選手や大鈴選手に失礼ですね。まぁ、そんな感じです。おかげさまで、お得意様にしてもらえてるわけですし」
「すみませんね。都合のいいときだけ利用しているみたいで」
「いいんですよ。タクシーっていうのはそういう仕事なんで。また都合のいいとき呼んでくれれば。今度は大鈴選手がシラフのときにでも呼んでください」
罰が悪そうに頭をかいた海を、特に何事もなさそうな態度で四宮は笑ってみせた。海はなくさないようにと何枚か再び名刺を取って財布へと入れた。
「俺ァまだシラフだぞ!なァ、海ィ!」
「あんたはもうちょっと黙っててくれ。知ってるか?今のタクシーって録画されてるんだぞ。何かあって赤っ恥かくのお前だからな」
「ガハハ!そいつぁ面白ぇ!」
「……すみませんね。普段はただの豪快なオッサンなんですこいつ」
「存じてますよ。長い事ファンやってますから」
「すみません。……これ、迷惑料としてとっといてください。ご家族もチーターズのファンなんでしょう」
サイドブレーキのあたりに置いてあるおつり入れに海は一万円札を何枚か取り出して乗せたが、四宮はバックミラー越しに首を振った。
「佳井選手。前にも言いましたがこういったものは受け取れません。選手を乗せられただけでも僕の財産であり誇りですから」
「……じゃあ、これだけでももらってください」
カバンから、いつかイベントなどで配るつもりで配れずにいた缶バッチや携帯クリーナー、携帯のストラップなどを何個か取り出す海。
「まだ俺が荒屋姓だったときのグッズもあります。球団も処分に困ってるようで、いくらかもらってあるんですよ。配るほどの知り合いもいないし、かといって捨てるわけにも行かないし、家にもまだまだ在庫が余ってるので……よかったら貰って下さい。未開封のレアものとして財布の足しにしてくれても構いませんので」
「何をおっしゃるか。家宝にします。それじゃあ、大鈴選手お大事に」
「えぇ。ありがとうございます」
タクシーから引きずりおろすような形で清兵衛を引っ張り、なんとか家のドアを開け――ソファに寝転がす。
途中、コンビニに寄ってもらい、一晩過ごす分の飲料と朝食べるための食料を買ってきた海は、冷蔵庫にそれらを押し込み――自らはヘッドフォンを耳にかぶせ、部屋に置きっぱなしだったモッキンバードをかき鳴らし始めた。
『30代になると不思議と下り坂になってくるんだ。ある日突然な――』
海はモッキンバードをじっと見つめ――しばらくしてから、華耶にもう一度BINEで連絡を打った。