年末、チーターズは再び厳しい冬を迎えていた。
フル回転していた投手二名がFA権を行使し、球団との契約に折り合いがつかず移籍を早速決めていたのだ。
フロントが『試合に打ち勝てない』ということばかり気にしているものだから、野手偏重の契約になりがちで、おまけに守備にまで最近は手が回らないものだから投手にあまり契約が優しくない上に投手からの不満が挙がっているらしい――そんな話がマスコミの間で囁かれていた。
実際のところ、確かに他球団ほどは契約条件があまりよくなかったということを広報らからこっそり海は教えてもらっていた。
野手と大型契約を結びすぎて投手に回せる予算がないらしい――という噂も海は広報から聞かされていた。
長打を欲したフロントがここのところチームを大改造するレベルで打線にテコ入れをしたツケが回ってきた――などといわれているが、かといって大型契約を結んだ野手に対して減俸すれば解決する――ということもない。
いかんせん、野手は年俸に見合った成績を残している。それを財政面の都合で減俸などしては、野手だって食っていけなくなってしまうし、せっかく大金をはたいて獲得した野手にまでも逃げられるといよいよチームは崩壊の危機に瀕してしまう。
まして、そうして大型契約ばかり結ぶものだから、中堅や若手はモチベーションが低く、最近はこれといってパっとする選手も出てこなかったものだから、ここで退団なんてされてしまうとまた最下位争いまっしぐらという未来が見えてしまっていた。
球団は財政難、というほど財政難ではなかったが、そうしてフロントが大義名分として既存の選手に対して『勝つまでは出さない』と、今季は2位で終わったにもかかわらず外様以外の選手に対して年俸を出し渋るものだから――少しでも条件のいいほうに選手は流れていってしまうものだ。仕方のないことだ。
海にとっても明日はわが身だ。3年連続で3割後半を打っていることを評価して単年1億6000万の契約を結んでくれてはいるが、これがある日突然、コストカットだのなんだのと理由をつけてその半分も支払えないなどと言われれば、家のローンの支払いのことだってあるし、次こそはどんな手段を使ってでもFA権で出て行くことだって考えなければならない。
「……すみませんね。突然連絡入れて。今日は奢りますよ」
田中が吹田駅付近のレストランに少し遅れてやってきた。
夕方に突然BINEで『ちょっと話がしたい』などと言うので海は近くのレストランに電話を入れ、急遽予約を取った。
平日夜ということもあってあっさり予約はとれたものの、海は『あとでチップは払うから』とさすがに店主に謝らないと気がすまなかった。
とりあえず夕飯でも食べながら、と海は牛タンの煮込みとチーズハンバーグを頼み、田中もまた同じものを頼んだ。
「まぁ、大体何の用で呼んだのかくらい俺にもわかるよ」
先に頼んだアイスコーヒーに手をつけながら、海は田中をじっと見つめた。向かいに座った田中は気まずそうに、目線をそらしながら――逃げ込むように紅茶を口に運んだ。
「条件、よそのほうがいいんですよ」
「だろうね」
球団の評価が聞いてみたい――今年13勝を挙げた田中は、年俸に期待していたところもあったのだろう。ローテーションの裏とはいえ、チームトップの勝ち星を稼いだ田中は、規定投球回にも到達していた。
最多勝利、最優秀勝率――二つのタイトルをも勝ち取った田中にとって、球団から提示された額はあまり返事のいいものではなかったのだろう。FA権を行使すると宣言してから、12月中旬の現在に至るまで――田中はその返事を出せずにいた。
「……俺、人生でこれほど悔しいって思ったこと、ないんですよ。今までは、早く一人前の投手になりたいって思いで投げてました。……それが今年になって、試合も壊さないまま、勝ち星がどんどん増えていくにつれて――俺はここで優勝したい――ここで日本一になりたい、って思うようになったんです」
田中は握った拳をテーブルにおいて細かく震わせながら、淡々と言葉を搾り出した。
「でも……『お前の投球は顔よりも地味やからね』だの、『まぁ裏ローテでそんなタイトルつかんだって喜ばれても、表で勝てるかどうかはまた別やし』なんか言われて。自称ファンの人たちや、自称野球評論家の皆さんから言われるのはね、別にいいんです。外から言うのは簡単ですから。でもまさかね……身内ですよ。身内からすらもあんなこと言われて。俺はそれが悔しいんですよ。折角監督が変わったらのびのびプレー出来る思てたのに、今度は……今度は何や……球団が俺のモチベーションを潰しに来るやないですか」
必死で爆発しそうな感情をこらえながら田中は拳をテーブルの下の膝に隠し、深くうつむいたまま深呼吸をし、そのまま話し続けた。
「……そら、僕かて……見返してやりたい気持ちが爆発しそうな一方でね……もっとええ額や条件を出してくる球団があるわけやないですか。どうせ見返したくても見返せへんのやから、いっそ逃げてしまおうかっていう気持ちもあるんですよ。今までだって、そうして、皆よそに移籍してったやないですか。あのゴリラみたいな野手も、蚊の鳴くような声しか出さんショートも――これまでもそうして皆いなくなっていったやないですか。俺がこのまま移籍したって、誰も悪く思わへんことかて分かってます。でも……それでほんまにええんかなって……」
田中は声を震わせながら、お冷を口に入れて少し冷静になろうとしたようで――天井を仰いだ。
「で、その相談はちなみに、何人目?」
「……他にできる人がおるように見えますか、こんなデリケートな話」
心外そうな目つきで田中はその青白い顔を海に向けた。
「てっきり清兵衛に相談したんじゃないかなって思ってたんだけど」
気を悪くして申し訳ないと海は思いながら、清兵衛くらいには相談したのではないかという本心を田中に向けた。
なにしろ、田中が自分に対して一番最初に相談してくるような男には到底思えなかったからだ。
「清兵衛さんじゃあかんのです。佳井さんに聞いておきたかったんです。こういう話は」
「それは何、俺が前にあんな形で残留したからか?」
「……すみません」
海もまた、じっとコーヒーの波を見つめながら、しばらく黙った。空気をごまかすためにコーヒーを一気に飲み干し、そして再び黙ってしまった。
鼻で大きくため息をつきながら、どうしたものかな――とうつむき、海は観念したように口を開いた。
「あんまりさ、よくないと思ってるんだ」
「よくない?」
思っていたものとは違う言葉が返ってきたのか、田中は素っ頓狂な声を出して目を丸くした。
「あぁ。見返すとか、そういうの」
「……なるほど」
「俺もね、見返したいとかは思うし、行動に起こしてもみるんだけど、なかなかうまくいかないまま20代が終わろうとしている。ファンのために、って毎分毎秒思えるほど、この辺の野球ファンは優しくもない。そこまで言うならもうファンなんかやめちまえ、っていう奴だってたくさん球場に来る。お前だってよく分かってるだろ、それは」
「……はい」
「だから、ファンのためになんて聞こえのいい言葉で、俺たち選手一人ひとりが抱えてる事情なんて濁しきれない。でも……フロントや、前野や、さっき言ったようなファンだとか……あくまでごく少数に俺たちが踊らされてるのもさ、きっと事実なんだよ。球場に詰め掛ける客みんなが、一人ひとりが皆あんな荒っぽいわけじゃない。ビジターでも罵声も飛ばさずに応援しにきてくれる奴だってたくさんいる。あの4万、5万の客のうち、本当に俺たちのことをディスりに来てるやつなんかは、1割どころか1分……1厘だって、本当はいないはずなんだ」
「……ノイジーマイノリティってやつですね」
田中の言葉に海はこくりと頷いた。
「客がいつも味方してくれるわけじゃないけど……こんな状況でも声を枯らして叫んでいる一部の客のために打ってやる、だとか、そういう気持ちに切り替えられそうなときは、最近は俺も気持ちを切り替えられるようにしてる。もちろん……いつもじゃないけど。俺たちは客のためだとかなんだとか以前に、そもそも試合に勝つために――自分のために野球やってるんだから」
海は髪をかきむしりながら舌打ちした。どうにも言いたい言葉がうまく出てこなくて、もどかしかった。主張が時折寄り道をしてしまい、こんなとき一言二言でズバっと言える人間が羨ましく感じた。
「だから――俺たちは、どの気持ちも捨てなきゃいいと思う。見返したいっていう気持ちだって捨てられない。ああ、そうだ。絶対捨てられないよ、これは。だけど、見返したいって気持ち100%だけで野球やっちゃ絶対よくない。……そりゃあ俺も、残留決めたときは絶対見返してやる、って気持ちしか残ってなかったけどさ――やっぱり、よくないもんだよ。そんなんじゃ『今の俺はダメだ』って、プレッシャーばかり肩にのしかかる。振り払いたくても振り払えない。きっと一生、呪いの装備になってしまう。だから、そう――バランスなんだよ、バランス」
とにかく話し続けていさえいれば言いたい言葉がまとまるのではないかと思いながら海は口を開き続けていたが、とうとうまとまらなかった言葉に自分自身の説得力のなさを海は内心嘆かずにはいられなかった。
コーヒーで間を取ろうにも空になったグラスに海は戸惑い、手をつけてなかったお冷に今度は手を伸ばして喉を一旦潤した。
「お前が俺から聞きたかったのはこんな言葉じゃないんだろうけどさ。……大体、俺だって、どうしても最後に搾りカスになって出てくる感情は『見返してやりたい』ってのになってがちだよ。世の中、そんな綺麗事だけで回れないから。……よくないとは思ってるよ。思ってはいるんだけど……ね。お前が今後どうしたいかは……自分の感情を整理したり取捨選択していって、最後にどんな感情が残ったかで決めたらいいんじゃないかな」
「……」
田中は黙り込みながら、海の言葉をじっと聞きいっていた。
「お待たせしました。牛タンの煮込みとチーズハンバーグです」
「ありがとうございます」
しばらく会話が滞ったタイミングでテーブルに料理が運ばれてくる。たぶん、多少テーブルにやってくるタイミングを見計らっていたのだろう。海はポケットから店員に小包を渡しながら――『悪いね。これ、受け取って』と耳打ちした。
「俺は――」
「田中。まず飯を食べよう。……清兵衛みたいだな、これじゃ。でも、食べ物が冷めたらマスターに悪いだろ。まず食ってからにしよう。俺たちはあんまり口が達者じゃないからな」
何かを言いかけた田中を海は制しながら、ナイフでハンバーグに切り込みを入れた。今頃家では華耶が子供たちに自分が出かけている理由をうまく説明しているのだろうな、と思うと少し申し訳ない気持ちになった。
帰りにアイスクリームか何かでも買ってやろう、と思いながら海は料理を少しずつ口に運び始めた。
田中もまた、無言で料理を食べ始めた。
「……よく、こういう店来るんですか」
「たまにね。うちは子供も多いし。子供の面倒を叔母さんやお義母さんが見てくれるときなんかにデートで来たり、小さい子供の面倒を見てくれてる間にたまに子供たちも連れてくることもあるけど」
「……フッ、今でもデートなんかするんですね」
田中は海が素直に吐いたデートという言葉にふと口角を不器用に上げた。子沢山だということは田中だって知っていたから、きっと夫婦仲はいいものなのだろうとは一応想像してはいた。
ただ、いざ本当にそうして仲睦まじい関係であることを直接言われるとどうしたらこの不器用な男を伴侶が受け止めてやろうと思ったのだろう――と田中はそれがおかしくておかしくてたまらなかった。
「華耶にはいつも面倒をかけてるからね。同じくらい、子供にも迷惑かけてるんだけどさ」
「……実際、どうなんです。あの時、関東からオファーがあったら……本当に行ってましたか」
「当たり前だろ」
海は田中の問いにやや声を張り上げて食い気味に主張した。冗談で言ってるわけではない――という表情に、本当に前回のFA権取得時の悔しさがにじんでいるような気がして、田中は少し気の毒に思った。
「何も前野【あのハゲ】がどうこうとかいう理由だけじゃない。お義母さんやお義父さんが住んでるのは長野だから、できるだけそっちに近いほうを選びたかったし。お義父さんはまあまあ歳っちゃ、歳だからな。だからオフの間はよく東京に行ってた。来年からは冬休みの間とかしか駄目だけどね。幼稚園の頃は短期入園でよかったけど、小学校ともなるとそうはいかない」
「一番上の子……晴留ちゃんでしたっけ。もう小学生なんでしたっけ」
「そんなに驚くことでもないだろ」
「驚きますよ。まだ29でしょう。俺たちの世界じゃ、なかなかですよ」
「まだ29なんて社会人の感覚だろ。俺たちは、もう29なんだよ」
海はそう言いながら、牛タンの煮込みとハンバーグとを交互に食べ続ける。田中もまた、冷めないうちに――と駆け足気味で料理を食べ、あっさりと平らげてしまった。
「……とにかく、俺がお前に答えられるようなことは、さっきの言葉くらいだよ。俺はそんなに口が利口じゃないし、清兵衛みたいにこうしろ、ああしろ、って言えるほど俺は偉くもなければ、他人の領域にズケズケ上がるようなタイプでもない。それに、投手の気持ちは、俺のように高校まで一塁しか守ったことのないような奴にはあまり分からないと思う。投手にしか分からない世界ってもんがあるだろうからね。だから――これ以上の言葉を期待するのはやめたほうがいい」
「……じゃあ、佳井さんは――俺が投げ続けてる姿、見たいですか」
「……」
海は飲みかけていたお冷を片手に一度止め、田中をじっと見つめた。
「逆に聞くけど、今の俺相手に抑えられる自信はお前にあるのか?」
「……それは……どうでしょう」
微妙に噛み合わなかった質問への答えに田中は少しだけ悩みながら、お冷を飲み干した。
翌日、地元紙には田中が残留を決めたニュースが一面に特集された。
「ねぇねぇ、見てよこれ。海くん、きのう一体何話してきたの?」
華耶がその新聞を大きく広げ、記事を人差し指で指し始めた。
「『よそのユニフォームを通す自分の姿は想像できても、佳井を抑える自分の姿を想像できなかった』だってさ。なになに?圧でもかけたの?」
「そういうつもりはなかったんだけどな……言葉の受け取り方って人によって違うじゃないか」
「まぁ、そうだね。……やっぱ何か言ったんだ?」
「そりゃあ、質問されたら、答えるだろ。意見を求められたら、答えるだろ。その言葉がアイツにとってどう刺さったかは分からないよ」
海は罰が悪そうに頭をかき、あまり詮索してくれるな――といった眼差しを華耶に向けた。
「何言ったもんだか……。でも、よかったね。同い年なんでしょ?」
「別に。同い年だろうがなんだろうが、あんまり気にしないから」
「でもさあ、同期ってやっぱ存在大きくない?」
「……気にしないかな」
「まぁ、そんな顔してるよね、海くん」
「どんな顔だよ」
華耶の言葉に思わず笑みをこぼす海を見て、華耶はふふっとまた一段と口をにんまりあけて笑った。
「パパとママ、ほんとーになかいいね。カップルみたい」
晴留がそんな二人を見て笑顔で茶化す。
「カップルみたい、じゃなくてね、晴留?パパもママも、カップルだったから晴留が生まれたんだよ?」
「そーなの?」
「そーだよ。……なーに?本当は分かってるくせに」
「ははは」
晴留の頬をつんつんとする華耶に晴留はにまにまと笑みを浮かべながらリビングを走り回った。