海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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5・抱いた感情の名は

「…………」

「どうした。スランプ?」

「スランプってほどじゃあ」

「こっちから見てみたらスランプだよ十分。ここんとこ、なんとなく気がこっちに向いてないよ。何かあった?」

ティーバッティングをしながら、今日何度目かのミスをした海を見てコーチが寄ってきた。バットをじっと見つめたまま、何かを考えているような、考えていないような――上の空でいる海にコーチは特に責めるような言い方をせずに話しかけた。

 

一週間ほど、海はずっとこの調子だった。気分転換をしようとすればするほど、なかなかうまく気分転換ができない日々が続いた。

これまでの『自分の閉塞感』だけでなく、華耶のこと、そして、華耶に対して自分がしたこと――華耶に対して抱いている感情がどうにも引っかかって、どうにもすっきりしなかった。

 

「……何かあった、ってわけじゃあ」

「まぁ、人間、悩むことはいろいろあるだろうけど。新学期も始まったばかりだし、早めに切り替えないと勉強だってついていけなくなるからね。大丈夫?無理して続けても怪我のもとだし、早めに切り上げて休む?」

「…………」

バットを置き、最近長さを感じるようになった夕暮れ前の青空を仰ぐ海。しばらく黙って――

「寄り道するかもしれないけど」

と断りを入れた。コーチも

「まぁ、放課後にしか見えない世界もあるだろうし。そこはご自由にどうぞ」

と深くは追求しなかった。

「顔に出るタイプは、分かりやすくていいね。口より先に顔で語っちゃうタイプなんだよな、彼は」

そう独り言を言いながら、遠ざかってなお存在感を発揮している長身長髪の男の背を眺めていた。

 

寄り道するかもしれないけど、とは言ったものの、池袋で数件楽器屋を見て回り、めぼしいものがあるわけでもなかったので結局そのまま海はあっさりと自宅のある川口へと戻った。

 

最近は父親が泊まりで家を空けることも多く、食事もその際に一人で済ませてくるものだから、冷蔵庫の管理はほとんど海が一人でしていた。

帰りぎわに近所のスーパーで適当に買出しをし、他愛もない夕方の再放送のドラマを見ながら夕飯の支度をはじめる海。

極端に難しい料理を作れるわけではなかったが、今時携帯で調べれば大体の料理のレシピが出てくるのだから、便利なものだ。変に背伸びして揚げ物なんか作らない限り、海くらいの手際では失敗することはほとんどなかった。

 

大雑把に野菜スープとチャーハンを作り、一人で食べる。自分にはまだ大して関係のない、政治家の不祥事がどうだとか、きっと自分からは足を運ぶことがないだろう地方の議員が議会中に問題を起こしただとか、そんなニュースがBGM代わりだ。

高校生活のうち、父親と一緒に夕飯を食べたのは一体何度だろう。高校三年間どころか、日本に引っ越してきてから父親が食事の時間帯に家に居たのは一体どれほどあっただろうか――。

 

引っ越したときにはまだリビングに飾られていた家族の集合写真は、いつの間にか処分されてしまっていた。

海もまた、特段写真や記念品などはとっておくほうではなかったから、千葉の人気レジャー施設・ウィズミーランドで撮った、ピクシーマウスと母親とのスリーショットが並んであるオルゴール一体型の時計が机に飾られてあるばかりだった。

置き時計なんて、今時携帯電話を見ればいいから、大して役目を持たない。おまけに、デジタルでもない時計なんていつしか時間が狂っていくものだから、別に取っておいてもどうしようもないのだけど、母親が家を出て行ってからは、せめて母親がこの家に居た証明に――と海は捨てられずにいた。

 

今、この家には、父親が新しく作った愛人との空気に自分が申し訳程度に存在している。帰ってこない間、父親は愛人の家に行っているか、あるいは他の愛人を作っているかだろうと海は推測していた。

引っ越してきてからたった数年の間に、ガレージに置かれてある車が一体何台変わったか分からない。その度に、日本で乗り回すには勿体無くない程度の高級車が次々入れ替わっていく。

ひょっとしたら、他にガレージでも借りている可能性だって否定できない。

 

一体父親に何人もの愛人がいるのかは海は分からなかったが、時折複数人の靴が玄関に並んでいるのを見ていると、相当女性関係にはだらしないし、だらしないことを分かってて付き合ってやってる女も同時にいることに海は薄ら寒さを覚えていた。

それが金目当てなのか、外国人の男目当てなのかは分からないが――そうしただらしなさを海は心底軽蔑していた。

 

何が女だ。そんなものに乱されてるなど――ついこの間までそう思っていたはずだったのだが――

 

『へー。いい名前だね』

 

『あとなんかお礼ってほどのお礼、あたしにできることあるかな?』

 

「…………」

 

現に、華耶という女たった一人に、自分はこのところ調子を乱されている。

以前付き合った女がたまたま合わなかっただけで、自分にはきっかけがあったら、ひょっとしたら父親と同じようにだらしなくなるのではないか――。

 

そう思うと、洗っていた包丁を突然自らに向けて、このまま死んでやろうかとも一瞬考えがよぎったりもした。

現に、そうして似たような血が流れているから、自分はあの時どさくさにまぎれて連絡先を交換してしまったのではないか――なんなら、連絡先を交換し、あわよくば――。

そんな嫌悪感が海の中でぐるぐると渦巻き、大きな波を作っていた。

引いては寄り、寄っては引いてを繰り返し、時折電車の中や授業中の教室なんかですらも発狂したくなるほどのその満ち引きが海にはとても辛かった。

 

引いている間は少しでも動いて、考え事をしなくていいようにしよう――そう考えた海は、ガラリとした家の中で、ひたすら素振りをしはじめた。

背が高いからなんて理由で投手をやってみないかと先日冗談でコーチに言われたが、こんな精神状態でマウンドに立ってまともに投げられる気がしないと海は思った。ただでさえ今は自分のことで精一杯なのに、グラウンドに立つ全員を背負ってマウンドにでも立ったら自分はいよいよどうにかなってしまうだろう。

 

シャツで額をぬぐいながら、息を上げてソファに座り込む海。

滅多に点灯しないBINEの通知が携帯のホーム画面で自己主張をしていることに海は気づいた。

 

〈 自分から連絡先交換しといて全く連絡してこないのはどうかと思うよー海くん

20:27 既読

 

〈 そういうの他の子にやっちゃ嫌われちゃうぞー

20:28 既読

 

かれこれ一時間ほど前にこんな連絡が来ていたらしい。

連絡を取ることを避けていた――と言えば避けていたし、連絡先こそ交換したものの、自分から積極的に連絡していいものなのかどうか躊躇っていたところもある。

考えてみたら、以前付き合った女とうまく行かなかったときも連絡の頻度がどうだの、返事が遅いだの、そういったことを度々言われた気がした。そのときの、24時間常に監視されているような気分が海は嫌だった。

 

返事に困った海は、とりあえず一言、ごめんとだけ返しておいた。それ以上の言葉で何か付け足そうにも、全部言い訳がましくなりそうだったからだ。

これだって言い訳になってしまうのだけど、そもそもBINEで何を話したらいいのかだって、海はあまり分かっていなかった。

 

  いや返事軽っ

〈 なんかもっとめっちゃ言うと思ったよー

21:59 既読

 

言い訳っぽくなると思ったから 〉

22:03 既読

 

〈 あー、そういう

 

  全然そっちから誘ってくれないからちょっとこっちから提案なんだけどさー

  よかったら次の土曜にスカイツリー行かない?

〈 さすがにあんなことがあって苦手意識があるまま行かずじまいってのも癪だし

22:06 既読

 

そう言えばあの男はもともとスカイツリーに行きたいという言い草で声をかけたんだったか――と考えると、確かに華耶が一人ではあまり行きたいと思えない場所になっているのも無理はない。

いいよ、と海は一言だけ返し、すぐさま『反応が薄い』と再び華耶に指摘されながらも、時間と集合場所が送られてきた。

 

華耶は押しが強いように見えて、こちらのことを責めることはしなかったし、無理強いもしなかった。幸い今週の土曜は練習が休みだったから、スケジュールにも余裕があることを伝えたら、集合時間も少し余裕をもったスケジュールを提案してくれた。

 

前付き合っていた女は部活が休みだと言おうものなら、朝イチで会いたいだの、予定が空いているのなら家に来て欲しい――だのとグイグイ来ていたが、これが年上の余裕なのだろうか。

それこそ、華耶の言う"おねーさん"的なものと言うものなのだろうか、育ちなのか、もともとそういう性格なのか――その全貌は分からないが、決して必要以上には海のプライベートな部分にまでは踏み込んでこないことに海はありがたみを感じた。

 

華耶のことが頭を占める割合は強まったけれど、こうして家のこと以外を考えるきっかけというものがあると、不思議なものでその間は余計に色々と考えなくて済んだ。

父親のことを気にしていても土曜のスケジュールはどうにもならない。

いかに土曜日まで平常心でいられるか、ということだけを考えればいいのだから、楽なものだった。

 

~~~

 

〈次は、上野――上野――〉

滅多に土曜日に人が激しく往来するような場所に自分からはあまり行かないから、海は待ち合わせに上野駅の銀座線乗り場へと向かっていたものの、平日とはまた違う人の群れの感じに、早くもスカイツリー方面の混雑具合を感じ取っていた。

 

七部袖の上着に、小柄な割にしっかりとボディラインが際立つようなカーディガンを合わせた姿の華耶がこちらに気づいたようで、ニッと笑いながらこちらに手を振ってきた。小柄で小動物のような見た目の割に、自分の女性的なものを華耶は全面的に出す傾向にあった。海にはそんな華耶の姿をまじまじと見るのは、少し躊躇われた。

 

「お待たせ」

「海くんおはよー。あたしも今来たとこだから大丈夫」

「本当?」

「そんなこと強がったってどうしようもないでしょー。海くんだって待ち合わせの15分前に来てるわけだし」

「まぁまぁ距離あるところから来てるからね」

「じゃああたしも同じ。まぁまぁ距離あるところから来てるから」

「どこから?」

「蒲田のあたり」

「……あんまり聞いたことないとこかな。どのへん?」

「羽田まで行かないくらいのところ」

「へぇ」

その羽田がどのあたりかも海にはまだピンと来ていなかったが、あとで調べたらいいだけのことなので海は適当に合わせておいた。

 

「海くんはどこから?」

「その辺の草食ってるようなとこ」

「へ?」

「その辺の草食ってるようなとこの近くだよ」

一瞬何だっただろう、と華耶は首を傾げたが、何のことかすぐに分かったようで――

 

「いやいやいやいや、それは映画の話じゃん。本当に草食べてるわけじゃないでしょさすがに。怒られるよ、埼玉の人に」

「食ってるんだよ本当に」

「またまたー」

その辺の草グルメは埼玉の一部でのブームであって、東京では知名度があまりないようだった。

 

混んでるとはいえ、通勤ラッシュのような混み具合をしているわけではない車内。本数があるからなのだろうけど、座ろうと思えば座れるくらいの電車に揺られ、乗換えを経てスカイツリー前へとたどり着く。

 

座ってるときよりも、電車から降りて二人で並んで歩いていると身長の差がまるで親子のようだった。

「スカイツリーが隣歩いてるみたい」

「何言ってんだよ」

駅からもはっきりと分かるその存在感。東京のシンボルと言うと、東京タワーを思い浮かべる人もまだいるのだろうけれど、人の群れがスカイツリーの市民権を現している気がした。海外から来たらしき人の数も少なくない。

どうやら展望台目当ての人だけでなく、周囲の人間のカバンや持ち物を見ると、併設されているキャラクターショップに用がある者も少なくないようだった。

 

「どうする?中見たい?」

「俺は別にどっちでもいいけど」

「そこはほら、見たいーって言ってくれないとさぁ」

「別に高い景色見てはしゃぐ歳じゃねーよ、俺はもう」

「一応前売り券買って来た身としてはさ~、見たいな~、おねーさんと一緒に展望台行きたいな~って言ってくれないと」

「え?前売り券買ったの?わざわざ?」

「あったりまえじゃない。この人の数見てさ、まさか並んでチケット買ってそっからまた並んでー、なんてしてたら、せっかくのデートだよ?時間がもったいないじゃない。だから前売り券予約で買っちゃったんだよね。ほーら」

ひらひら、と前売り券をかざす華耶。

 

「その金は俺が払わないと」

海は財布を開けようとしたが、華耶はその手をやんわりとつかんで拒否した。

「いーや。きょうは私が誘ったから。一応おねーさんだし。そのうちちゃーんと海くんもあたしを誘ってくれたまえよ、っていう意味もこめてここはあたしが払います。……一応、スカイツリーにはちゃんと来たかったしね。出来れば誰かと」

途中まで胸を張っていた華耶は、目を細めながらスカイツリーを見上げた。

 

「気にしてるんだ、やっぱり」

「そりゃそうでしょ。あれ、今でこそデートだなんだって言えるけどさ、結構怖かったんだから。あんなおっきい人相手にいきなり腕掴まれてさー。あ、これマジでヤバいやつだって思ったもん」

「そりゃ、そうか。やなこと思い出させて悪かったね」

「今はもっとおっきい人がきっとあたしを守ってくれるからいいけど」

「なんだよ、それ」

「ということで、並ぼっか。どこ行って何見るかはその後考えよう」

自分で腕を掴まれたという話をしておきながら、海の手を握って人の列のほうへと向かって歩こうとする華耶。

ニッ、と笑顔を見せながら歩いていくその姿に、また海の中で記憶がよぎった――

 

《ほら、あそこにピクシーマウスいるよ、カイ。写真撮ってもらおう、写真》

《もう写真って歳でもねーだろ》

《未成年が何言ってるんだか。ほら、行こう。せっかくの夢の国なんだから》

 

「……どうにかしてるよ、俺は」

華耶に聞こえるか聞こえないかの声量で、海は呟いた。

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