2番に座り、当時の監督やコーチからは『何も考えなくていいから好きに打て』――そう言われていた高校時代。今振り返ると、あの頃自分は随分と楽なポジションで打たせてもらっていたのだなと海は思った。
それはむしろ、楽なポジションで打たせてもらっているのではなく、当時から自分が複雑な事を考え込みすぎることを見抜いていた高校時代の監督やコーチが編み出した自分の起用法なのだろうか――とも海は考えたが、当時の監督もコーチも今は散り散りになって、その後どうしているかまでは分からないから、今となってはそれを知る術がない。
あの頃のコーチたちとは基本的に公私を使い分けていたから、海はこうしたとき、プロ入りするときにせめて連絡先くらいは聞いておけばよかったな――と思った。
4月も中旬に入り、桜の名所が今年も早咲きの満開だのと――今のままでは一生行くことのないだろう観光名所の数々がニュースで報道される中、海はこの春、前年に続いてレギュラーで起用してもらっているものの、少しだけ出遅れていた。
『本当は打てるものを、お前さんが打てねェと思い込んでるだけかもしれねえだろ』
『お前さんが俺を一度でも多く帰してくれると、俺ァ信じてるからな』
清兵衛はこの春、海に『上に相談してくる』と言ったとおり2番に座り、好調をキープしていた。積極的に次の塁を狙ったり、盗塁をしかけようかしかけまいかと投手に揺さぶりをかけてくるその姿は、本当は投手ではなく海と闘っているようにも海にとっては感じられた。
そしてその清兵衛をなんとか次の塁まで進めよう、ホームまで帰そう――どうしてもそう考えてしまい、海は3番打者としての重圧とも闘わなくてはならなくなった。何しろ、清兵衛がチャンスメイクをすればするほど、目に見えるプレッシャーがそこにいるものだから、なおさらその重圧は大きく感じられた。
練習では何度も打っていたコースも、『試合の流れ』という、練習や紅白戦程度では経験できないものが海を焦らせる。
年間144試合のうち1つ落とすくらいが何だ――そう割り切ったほうがきっと楽なのだろうけれども、その1試合の重みがシーズン最後まで尾を引くことをこの数年何度も味わっているチーム状況としては、1試合たりとも落とさぬくらいの気持ちがより一層求められていた。
あの夏――自分に悪送球をしたショートは5番を打っていた。自分よりも大事な場面を打っていることは多かっただろう。
自分はあの頃、今よりは野球というものに、今ほどは真剣に取り組んではいなかったから分からなかったが、クリーンナップを打つということは、試合を決めるメンバーとして考えられているというものだから――しかも、一試合を落とすということが夏の終わりに繋がるのだから、その重圧というものは計り知れなかっただろう。
たった一つの判断が、たった一つのミスが、自分たちから夏を奪ってしまう――そんなプレッシャーの中、いったいどんな気持ちで打席に立っていたのだろう――。
考えれば考えるほど、自分がいかに今までぬるい環境下で野球をしていたかを海は痛感した。そしてそれは、海の打撃を余計に鈍らせるものでもあった。
「大変だろ?3番打つのはよォ」
海と試合前のキャッチボールをしていた清兵衛が、そんな話をしはじめた。
「あぁ。前にあんたがいるからな」
「ガハハ。最初の1本が遠いときは、辛いものだよな。分かるぞ。そういう時はな、酒を飲め。飲んで食って忘れろ。男ってのは、どんなに複雑な頭や顔をしていてもな、結局は単純なもんだ」
「皆がみんな、あんたみたいな直列的な思考回路をしてるわけじゃない」
呆れた表情を見せながら海はその案を即座に却下した。
「じゃあ、女だ。一発でかいのを打てば、気持ちも変わる。その点においては、お前さんだって同じだろ」
「人の夜の生活を知った風な口で言うもんじゃない」
「ガハハ。でもお前さん、明日にはホームランを打つからさせてほしい、とは言わないだろうが、こんな話をした日にはきっとムキになって、抱くんだろ?そうして、抱いた数だけホームランを打てばいい」
「俺の夜の予定はお前が決めることじゃない。大体、大阪に戻ったあと、その計算で次の試合から何本もホームラン打たなきゃいけなくなったらどうするんだよ。お前の想像の範疇に及ばないほど俺は夜激しいぞ、誇張抜きでな」
そんな海の言葉に対して清兵衛はケラケラと笑いながらわざと捕り辛いところへボールを投げてみせ、海を睨ませてみせた。
「どうするんだよ、じゃねぇよ。打つんだよ。2桁打ちてぇんだろ。10試合に1本ホームランを打つペースじゃねェと、2桁は打てねぇんだよ。分かってんのか?このカードが終わって、甲子園で三連戦が終わったらもう20試合目になるんだぞ。20試合目終わるってことは、シーズンの1/7終わるってことだぞ。ペース的にはそろそろエンジンかからないと、お前さん、今年もあっという間に終わっちまうぞ」
「打てと言われてすぐに打てたら、楽なもんだね。あんたのおかげで、いらない三振ばかり増えてるよ、最近は」
「なァに。シーズンが終われば、三振だろうが、安打だろうが、いつもどおりの数になるさ。お前さんだって本当のところ、そろそろ何か感覚がつかめそうなんじゃないか?ただ馬鹿の一つ覚えにブンブンと振ってるわけじゃなかろうに」
清兵衛はそう言ってニヤニヤしながら、しっかりと振りかぶりながら投げるフリだけし、遠くで豪快なスイングを飛ばす選手たちをこっそりと横目で流した。
「やめろよ、そういうの」と海は清兵衛を制するが、「お前さんが普段あいつらのことをそう思ってることを顔に出しただけだろうに」と清兵衛は知らぬ顔を浮かべた。
「仮に1試合だけいい感覚をつかめた気になっても、大体次の試合でどこか躓いてるからなんとも言えないね。おかげさまで、とりえの打率も不調だし」
「違うな。不調の原因は、お前さんが大振りしてるからじゃあねェよ。お前さんが去年までのお前さんを引きずったままだからだ。一発出たら、きっと気持ちも変わるさね」
「そんなもんかね」
「そんなもんさ。ガハハ。言っただろ、男は複雑な顔してても、単純なもんだと」
相変わらず海の少し不安定な送球を清兵衛はしっかりとキャッチしながら、普段どおり豪快に笑ってみせた。
「だから、俺はお前とは違うんだよ」
そう海は吐き捨てるように言ったが、清兵衛は何も気にしていないどころか聞こえていないような素振りでボールを再び投げつけてきた。
試合が始まると、初回から清兵衛のタイムリーが飛び出しチーターズは先制した。続けて海も打ち所のボールを待とうと思っていたところ、清兵衛が盗塁にしては少し遅いタイミングで突然のスタートを切ったものだから、これを振らずにおいて刺されるといけない――と、外のストレートをなんとか流し、レフトにそのボールを運んだ。
レフトが捕球の際にボールの処理を誤り送球が遅れそうになったのをしっかり確認した清兵衛はその俊足をさらに飛ばし、一気に三塁まで進んだ。
念のため一塁で止まって様子を見ていた海に向かって三塁からガッツポーズを取ってみせた清兵衛に、海は思わず首を振ってみせた。
自分だからうまくボールを捌けたものの、これを仮に空振りしていたらどうするつもりだったのだ――と海は睨むが、清兵衛はわざとらしく海のフォロースルーを真似て、まるで『お前さんなら打てると思ってな』とでも言いたさげな表情を浮かべた。
初回2点リードといういいスタートを切ったチーターズだったが、かつて海とレギュラーを争い、FA権を行使し出て行った選手がその裏の攻撃で2ランホームランを放ち、相手のスカイクロウズにすぐさま追いつかれてしまった。
この男にだけは意地を見せたいと思っていた海だったが、気持ちというのは空回りするもので――清兵衛や1番打者が作った、走者をかかえた打席を海は二度もふいにしてしまった。
これで守備のミスをしなかっただけまだいいが、チーターズは4回裏にさらに追加点を奪われ、3点を追いかける状況になってしまい、海は思わずため息をつきそうになった。
ネクストバッターサークルから見る、敵地・神宮のさほど広くないはずの球場が、とたんに大きく見えるような気がして――どうやっても自分はあの男には勝てないのだろうか、という気持ちにさえなった。
そんな海の意識を引き戻すように、オオッ、と球場が少しだけ沸く。
清兵衛はこの試合もよく当たっていた。6回にして早くも猛打賞を記録しただけでなく、この打席ではまたもその俊足を飛ばし、並の打者ならシングルヒットで終わりそうなものを、外野の守備がもたついている間に二塁までその足を進めていた。
二塁ベースをしっかり踏みながら、再びわざとらしく海のフォロースルーを真似てみせる清兵衛の姿が腹立たしいほどしっかりと見える。普段は自分のことくらいにしか興味を示さないベンチが、清兵衛のプレーに思わず声を挙げて唸り、関心する。
『ああいうのが試合の流れを変える打撃というやつや』
前野の嫌味な顔が脳裏によぎった海。
6回、3点ビハインド。ランナー二塁ながら二死――いや、二死ながらランナー二塁と言わなければ清兵衛に小突かれるところだろう。
もう一回打席が回ってきてもおかしくないこの試合、少し賭けに行っても罰が当たらなさそうな場面だった。
打席に向かいながら海は監督の今野と打撃コーチの生駒に目配せし――ゆっくりとその打席を均した。
いまどき珍しく、パームに定評のある投手だと聞いているマウンド上の中継ぎを見て海はどうするべきかを考えた。何が来ても打つという意識だけはあったが、この状況――少し一発を意識してもいい場面だ。
その初球、海は引っ張るという事を意識しすぎてストレートを思いっきりファウルにしてしまった。
打球の勢いだけは完璧だ。惜しい事をした――悔やむまもなく、うわさのパームが放り込まれる。
海がパームに対して抱いていたボールの落差よりは、むしろその変化量よりもしっかりとブレーキを利かせるタイプのボールとして投手は使っていたようで――もとがチェンジアップの亜種と言われる球ということもあって、変に魔球扱いなどしなければなんてことない球のように見えた。
――こんなものか……。
海はそう思うあまり、決め球にパームを来るというヤマを張りすぎてしまった。
一球、大きく外したストレート。次の球は間違いなく仕掛けてくる――そう思っていた海だったが、向かってきたのは真ん中から少し高めの――キュルキュル……とまっすぐ――いかんせんパームを張っているものだから普段よりも勢いよく、浮き上がって見えるストレートだった。
せめて振らなければ――海はなんとかそのボールを流して打とうとするのだが、落ちるボールを意識するあまりバットはボールの下を叩き――大きく大きく打ち上がったその白球は、ショートとレフトのちょうど中間くらいまで飛んだあたりで、特に何のドラマを生む事もなくしっかりとショートのグラブに収まってしまった。
せめてエラーをしてくれさえすれば、と清兵衛は思い切り三塁を蹴飛ばして走っていたが、アウトが宣告されると悔しそうにして海のもとへ駆け寄った。
「お前さん、逃げなかったな」
「……ああいう場面でこそ率を意識せずに振れってことだろ、お前が言ってたのは」
「おうよ。次もああでいい」
「……それはコーチや監督が決める事だろ」
サインも出さずに『任せる』なんて態度で居た生駒を海はチラリと睨みながら、不機嫌に口をひん曲げた。
「何言ってやがる。次も俺が塁に出てやるってことだよ。お前さんがどれほど嫌がっても、この試合を左右する場面をこの俺が作ってやるってことさ」
「このまま3点差ならね。4点、5点差となったら、俺たちでどうにかできる相手じゃあない。悔しいけれど、向こうとの戦力差は明白だ。伊達に勝ち続けてるチームじゃあない。まとまり方や雰囲気だって、全然違う」
「いーや。向こうは打線や先発がブ厚い分、リリーフがうちほど磐石じゃあねぇ。見た目ほどセーフティリードじゃねェんだよ。一発かませば、流れを引き寄せることだって不可能じゃない。お前さんだって、毎試合、落とすつもりで試合なんかしてないだろうに」
ベンチに下がりながらそう笑っていた清兵衛。
「……俺は落とすつもりじゃないけど、俺たち二人のやる気に周りがついてきてくれるかどうかはまた別じゃないかって話なんだよ」
と海はぽつりと呟いたが、誰にもその言葉は打ち明けられるものではないため、かすれるようなか細い声にとどめておいた。
清兵衛の言葉通り、8回表――マウンドに上がった投手は最初の打者を三振に打ち取った後、変化球が大きく逸れてデッドボールを与えてしまった。そこで何かが狂ってしまったのか、続け様に清兵衛にあっさりとフォアボールを出し――ランナー一・二塁で海は打席に立つことになった。
やはり、極端に狙い球を張りすぎてもあまりよくないものだ。もともと、どんなコースの球だって捌けるようにこれまで練習してきたのだから、多少狙い球を決めるくらいのことはしても、来た球を軽く打ってその打球がホームランになってないようでなければ、本当のホームランバッターとは言えない――海はそう思いながら、キャンプでの感覚を思い出そうとした。
キャンプのときほど力まずに、ボールがバットに乗った瞬間、押し出すようにして高々と打ち上げる――きれいに鋭く、外野スタンドだけを目指して飛んでいった打球のことだけを想像し、海はその初球、バットを一切振らずに見送った。
これが甲子園の大歓声に包まれている場面だったなら、ありがたい反面、もう少し色々と余計なことを考えてしまうところだろう。
敵地ということもあり、甲子園よりもだいぶ――だいぶどころか、かなり控えめな応援に海は内心少しだけ感謝しながら――内角から切れ込んでくる左投手特有の角度のついたボールをゆっくりと睨んだ。
内角を攻めようという意識と、内角のストライクゾーン外からなんとかしてストライクゾーンの内側のコースに入れようとする意識とが中途半端に入り混じった球だ。しかし、内角を突くには少し変化が大きすぎた。
――ど真ん中だ。
普段よりも大きく、でも、決して必要以上に力まず、自然体でゆったりとしたフォームがしならせたバットは、想像していたよりも若干角度の低く、鋭い弾道でこそあったが――ぐんぐん伸びて高々と舞い上がっていき、スカイクロウズのファンで一杯になったライトスタンドを一瞬にして絶望に染め上げた。
悲鳴にも近い絶叫とどよめきが、着弾してからもまだしばらく止まない。
インパクトの瞬間、手首をしっかりとひねりながら、その打球の行方を確信したかのようにバットを真横へと放り投げる海。
海は3歩ほど小走り気味に歩き、間違いなくそれがライトスタンドに着弾するであろうことを確認すると、無意識に控えめなガッツポーズを腰のあたりでしながら一塁に向かって走り始めた。
一塁から飛び出していた清兵衛は頭の上で豪快に手を叩きながら、後ろを振り返り海に向かって両腕を突き上げるようにしながらガッツポーズを見せていた。
「バカ、お前を追い越したらアウトになるんだよ」
「ガハハ。悪ィ悪ィ。あんまり見事な一発だったんでね、お前さんを待ってたかったんだよ」
「気持ち悪いこと言うなよ。冗談でも背筋が寒くなる。ほら、とっとと先行けよ」
海はそんな清兵衛を諌めながらしっかりとベースを踏み――ホームベースを踏みながら、与えられた席が少ないにもかかわらず黄色一色にしっかりと染まった、大きく旗を振り続け得点コールを大合唱し続けるレフトスタンドに向かって脱帽した。
先にホームベースを踏んでいた二塁ランナーはバッターサークルのあたりで二人を待っていて、海の脱帽に便乗するようにして同じく脱帽した。
真黄色に染まった応援団がそれに応えるかのように大きな歓声と拍手を上げ、球場は一段とワッと沸いた。スコアボードに刻まれた5-5という数字に、海は改めて今のこの流れは自分がもたらしたものなのだということを噛み締めていた。
「よくやってくれたな、佳井」
「黙って負けてられませんから」
生駒に祝福されながらも、ベンチに戻る頃には普段の冷静さを取り戻した海は――もう一度打席が回ってきたら、そのときこそは試合をもう一度決してやろう――と静かに誓った。