海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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52・矜持(前)

「――次どこ行く?」

「メシでも行こうか」

「いいね。いい立ち食いの店知ってるんだよ」

「俺二次会の予約取っておきます――」

ベストナイン授賞式が終わると同時に会場の入り口はガヤガヤと賑わい、取材班と選手だとか、あるいはチームの同僚同士がその場で次のことを話し合い始めていた。

 

11月の目立ちたがりな夜空。6年ぶりにこの時期、東京に構えるこの地に戻ってきた海は、式が終わって会場にたむろし始める他チームの選手を、大きな身体をドリブルでかわすようにして避けながら――頼むから通路を塞ぐような感じで立つのをやめてくれ、と内心思いながら歩き始めた。

相変わらず今年も会場には一人で来たし、例年通り、今年この場に立っているのはチームで自分だけだから、海にはまるでこの賑わいが他人事のように思えた。

 

チームの垣根を越えた横のつながりというものも中にはあるらしいし、それを否定もしないが、積極的に誰かと――まして、他のチームの選手と話すような性格ではない海にとってはそういったものは無縁だったし、とても今はあんな輪の中に入っていっていいような時期ではないように思った。

遠くから、自分に対して声をかけるべきかどうかだの、あるいは、自分に対する噂話のようなものは聞こえたりもしたが、海は構わないような表情でホテルを足早に後にした。

向こうの選手がどれほど自分に興味を持とうが、自分のことをどれほど知っていようが、自分はあの場にいる選手がよそのチームの選手である以上、興味を持ったことはないし、興味を持たないということは、よく知らないということだ。

相手は自分のことを知っているけど自分は相手のことを知らない――そんな状況で誘われても、面白くないだろう――と海は思っていた。

 

受け取った盾を袋に入れ、さて、どうしたものか――と街を見上げる。

前は子供たちも小さかったから、三葉に家を見てもらって華耶とお台場にでも行ったものだが、あれから月日が流れ、今はそうもいかない。

小学校で順調に日々を送っている晴留、来年からは小学校に通う新、最近いろんなことに疑問を浮かべるようになった真結と広乃――そしてもうすぐ立って歩きそうな直人。

そこに、来年の2月にはふたたび双子が生まれ、家族に加わるのだ。そんな華耶を今、この寒空の中連れ回すわけにもいかない。

そうした事情を考えたとき、わざわざ自分が大阪から東京に行く必要があるのかとも考えたのだが――

 

「何言ってるの。ベストナインだよ?前にも言ったけどさ、その年一番よかった10人のうち1人として選ばれてるんだから、出なきゃ失礼だよ。それをずっと目標にし続けてる選手だっているんだから。そういう選手たちのためにも海くんは絶対出なきゃだめ。あたしのことは大丈夫だからさ。行ってきてよ。あ、別にお土産欲しいわけじゃないよ?いやまぁ、たくさんお土産買ってきてくれると、それはそれは嬉しいけどさ」

 

……などと言って聞かなかった。

 

高校の頃や、まだプロに入った頃は、東京の空をこれほど狭いと思ったことはなかった。

 

空が狭くなったのではない。自分が大きくなりすぎたのだ――。

 

このまま、まだ借り続けている武蔵小山のアパートに戻るだけ、というのも、なんだかそれはそれで勿体無い事をしている気がするのだが――私服に着替え直してホテルから出て、なんとなく近くを歩き始めた海に、東京の町並みが自分に対して目線を向けないわけがなかった。

 

歩けば歩くほど、その目線は必ず自分に刺さってくる。大阪もどこを歩いてもうんざりするくらい人で溢れているし、距離感のおかしい一般人で溢れているが、東京はそのあたりを間違えた人はさほど居ないにしても、どこを歩いても必ず大阪以上に人で溢れている。

 

別にそれが物凄く窮屈だというわけではなかったのだが、かつて自分がその無関心さと開放感を頼りに歩いていたはずの東京――それが今は、自分に向けられる関心を感じる。

これでもう少し自分の背が低ければ、それでもなんとかやり過ごそうと思えばやり過ごせたのかもしれないが、これほど目立つ背をしているものだから、どれほどサングラスや伊達メガネでカモフラージュしたり、髪を束ねるなどして誤魔化そうとしても、そうもいかない。

街を歩く高校生らが自分に向けて向こう側の歩道から写真を撮っているのが見える。変にトラブルになるのも嫌だから、それをいちいち咎めるつもりもないし、変なことをしないならば撮りたければ勝手に撮ればいいと思ってはいたが――隣に華耶がいない東京というものは、随分と自分の神経にさわるものが多いように海は感じた。

 

〈――それでは佳井選手にお話を伺いましょう。佳井選手。前回は代打でのベストナイン受賞でしたが、今年はついに遊撃手でのベストナイン受賞となりました。おめでとうございます〉

〈……ありがとうございます〉

 

「お父さんだ!」

最近パパ呼びをやめた晴留が、テレビに向かって手を振りながら、画面に大きく映し出された海の姿に飛びつく。

相変わらず浮かない顔をしながらマイクを握った海に華耶は笑いながら

「パパは今年すっごく頑張ったからあそこにいるんだよー」

と再び大きくなった腹を撫でながら、その向こうに語りかけた。

 

〈――今年は目標として掲げていた4割2桁本塁打をどちらもギリギリで達成しました。3番打者というプレッシャーもある中での記録でしたが、いかがでしょう?満足のいくシーズンではなかったのではないでしょうか?〉

海はマイクから少し目を背ける形で、ちらりとテーブルに座っているよそのチームの選手を見つめ――気まずそうにしてその口を開いた。

 

〈……ドルフィンズやスカイクロウズの選手がいる前で、こんな事言うのもなんですが――〉

 

今シーズン最終戦、Aクラス入りをかけた試合は今季も再びもつれにもつれこんでいた。

この日はデイゲームで既に試合を終えていたスカイクロウズが試合を落としたため、この試合勝てば逆転でチーターズがAクラス入りするという、ここ数年、何度も見たような光景に海は立っていた。

 

既に今季2位が確定しているドルフィンズはその応援も今日は少しまばらで、客席はいわゆる消化試合の体をなしていた。その代わりに内野席のほうまで大量のチーターズファンが詰め掛けたこの試合、一体どちらがビジターなのかが分からないような空間がそこにはあった。

 

初回から猛攻撃をかけたチーターズは5回までリードを保っていたが、5回、突然何かが狂ったかのように先発投手が滅多打ちにされてしまった。

6回には海のツーベースタイムリー、そして続け様にセンターの頭を越えたヒットの間に海はホームへ生還し、再び1点のリードを奪ったものの――救援陣がピリっとせず、その裏の攻撃で再びドルフィンズに2点のリードを許してしまった。

 

「お前さんに見せ場作るために、俺もそろそろでかいのを打つかね」

ベンチから離れる際にそう言っていた清兵衛は8回、レフトの横へ転がるライナーを放ち、一気に二塁まで進んだ。三塁まで進もうとしたが、三塁コーチに慌てて静止され、渋々二塁へと戻った姿を海はひやひやしながら見守っていた。

 

『俺ァ行ける!行けたぞ!今のは!』

 

そうベンチに訴えかけるように、珍しく両手でベンチに向かって抗議をした清兵衛は、ベンチから今野や小室に落ち着くようジェスチャーを出されると二塁で首をひねりながら、ベース付近の砂をダンダンと踏みつけた。

 

『俺ァいつか優勝すっぞ!海ィ!なァ!』

 

酔いつぶれながら叫んだ清兵衛の言葉は嘘ではなかったのだろう。これほど感情をむき出しにする清兵衛というものを海はあまり見た覚えがなかった。

 

清兵衛なりの勝ちたい、という執念だったのだろう。

 

今日、中軸はよく当たっている。

今日、ここまで自分がやったとおりの打撃さえすれば、この回2点差をひっくり返す事だってできるはずだ。この試合のリードを保ってたのは自分たちなのだから――まして、この投手からは海は以前、しっかりとした当たりを打ったことがある。球界を代表する中継ぎ投手だからと言われて黙って自分がここから引き下がるわけにもいかない。

海は普段どおり――普段どおりをイメージして打席に立った――はずだった。

 

初球のストレートに海はまったく反応できなかった。コースが飛び切りよかったわけではない。球速だって突然普段より速かったわけではない。――振れなかったのだ。

この試合に勝てさえすればポストシーズンに出られる――そのあと一歩が、海にはとてつもなく大きいものに見えた。

 

清兵衛は『一人前の選手じゃない人間があの場面で打ててさえいればなどと一丁前に悔しがるな』とも言っていた。

考えすぎだということくらい、自分でも分かっている。分かってはいるのだが、この絶好のチャンス――自分が打たなければ勝利には近づけない、という追い込まれた状況が海の腕を重くさせた。

 

内角低めのストレートを続けてまったく反応できなかった海は、スコアボードに灯る、いつもより一層まぶしく感じる黄色いシグナル二つを仰いだ。

きわどいコースだったから反応できなかったのではない。いつもなら反応できたボールにまったく腕がついてこなかった。腕が鉛のように重い。

 

テンポよく三球で決めようとした投手だったが、落としたカーブは球審に嫌われ、ボールを告げられた。

これさえも振れないまま黙って打席から帰ってくることなど絶対避けたかった海は、一呼吸置いた。脈が異様に速くなっていくのを感じる。

腕がここまで重く感じた事も、脈が高鳴ることも、今まで経験したことなどなかった。1打席にかかるプレッシャーというものがこれほど大きなものに思えたことなど、これまでの人生をさっと回顧すると自分の思い返す限りなかったものだから、海は今すぐにでも打席から飛び出してしまいたい気分だった。

 

この程度の試合でこんな気持ちになっているのであれば、自分はいつかこれより大事な局面を迎えたとき、まるで使い物にならないだろう――笑わせる。海は自分が自分で情けなく思えて仕方がなかった。

 

清兵衛の足を生かす前提で考えると、流し打ちなどもってのほかだ。ゲッツーのリスクを考えると、とにもかくにも引っ張って打つことを考えなければならない。

 

次の球は何が来ようと振る――そう思った海は、バットを静かに構え直した。落ち着くことも、自分の情けなさに打ちひしがれていることから逃れることだってきっと今の自分では不可能だろうから、とにかく今は来た球を振ることだけ考えないといけない。

勘でも本能でもなんでもいいから、自分を突き動かす何かが必要だったし、それが法に触れないものならば、いっそなんでもよかった。

 

続けて内角低めに投げられた球。ストレートならば引っ張るタイミングとしてばっちりだろうか――そう腕を前に出した海だったが、落ち着いていない分ボールがよく見えていない。

きゅるり、きゅるり、と回転するボールは少しだけ沈む。チェンジアップだ――。バットの先が運よくボールを捉え、一塁ベンチのほうへと転々と転がっていく。

ベンチからバントのサインでも出てくれればよかったのだが、ベンチもまた、海にこの打席を託したようで――

 

『落ち着け』

 

とだけサインが返ってくる。落ち着けと言われて落ち着ける人間がいたならば、たいしたものだと思う。

相変わらず高鳴ってばかりの脈に、これがポストシーズンだとか、シリーズ戦だとかの大一番であれば、自分は失神するどころか、打席で立ったまま死んでしてしまうのではないかと海は思った。

 

少しだけ間合いを取った投手は、外角高めへ再びストレートを投げ込んだ。考えるより先に体が動く。もうなんだっていい。何でもいいから、当たってくれ――清兵衛を次の塁に進めてくれ――そう思って振ったバットは再び一塁ベンチ側へと転がっていった。

 

予想以上に粘られたバッテリー。きっと海を完全にこれで仕留めることが出来ると思っていたのか、しばらくサインが定まらずに捕手と投手は互いに首を振り続けた。ファウルが二球続いたことで、カウントのことを考えた上でどうするべきなのかが定まらないのだろう。

 

ようやく首を縦に振った投手は、内角低めにストレートを投げ込んできた。この打席、随分と力で押し込んでくるそのストレートに海は自分では順応した――つもりでいた。

 

つもりでいた、という言葉は便利なもので、自分の中ではすくい上げてライト前あたりに飛ぶ打球を意識していたのだが――バットは冷静さを欠いたことに素直だ。

自分が思っているよりもだいぶズレた軌道を描いたバットは白球をイメージよりもはるかに下でとらえ、深めに守っていた一塁にしっかりと捕球されベースを踏まれた。

 

「畜生――」

思わず一塁に到達する前にそんな言葉が海の口から飛び出した。これが仮にもう少し二塁側に流れていたなら、清兵衛の足をもってしてなら、ひょっとしたらホームへ思い切り飛び出してフィルダースチョイスを狙いながらの出塁、もしくは――自分をアウトにしている間にホームへと帰って一点をもぎ取ることだってできたかもしれない。

 

ただ、あまり力のないそのゴロはまさに空回りという言葉がふさわしく――清兵衛をかろうじて次の塁へこそ進めたが――あっけなく海は一塁でアウトを告げられた。

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