海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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57・熟れた果実が撒いた種

「……あまり乗り気がしないんだけどね」

「まぁ、気持ちはわかるけどさ。悪い話じゃないと思うからさ」

「でもな……」

 

突如舞い込んできた学校訪問の依頼。その話に対し、海はあまり気が進まないでいた。

 

長く暮らしているこの大阪という街が心の中で自分のホームグラウンドになった気で居たわけでもないし、シーズンが始まると球場を移動して試合をすることになる海にとっては、日本のどこかが特別、自分の第二の故郷だと思ったことがなかった。

 

そうした中で、突然舞い込んできた学校訪問の話は大阪ではなく、今の海にとってはそこまでいい思い出のない街――川口だった。

 

川口という街に恨みがあるわけではない。川口という街で起きた自分の生活というものが自分にとっての枷となっているのだ。

ようやくあの頃の自分を忘れた頃になって、ベストナイン2年連続受賞ということをきっかけに学校訪問の依頼が球団に来たらしく――球団も二つ返事でその依頼を受けてしまった。

重ねて、市長表敬までする事になってしまったものだから、海としてはなぜ先に自分に話を通さず、球団とのやり取りだけで話を進めてしまったのか――という思いがそこにはあった。

 

とはいえ、自分が同席していたとしても結局自分は断りきれたかといわれると、今は周りの目というものもあるから、結局断りきれなかったかもしれない――そう思うと、余計にこうした講演は気が進むものではなかった。

 

川口に思い出があるかと聞かれて、まだ日本に馴染みきっていなかった時期の思い出のほうが多いものだから、なかなかうまいコメントが出せる自信が海にはなかった。

近場にある大きい本屋で参考書を買ったりしたくらいだったし、確かにゲーセンなんかにも通ったりした時期もあったけれど、高校になると徐々に行動範囲は東京に広がっていったから、川口そのものにはさほど……という思いが海にはあった。

割と外国人の多い街ではあったから、自分以外にも定住した外国人がそこらを歩いているという光景はよく目にしたけれど、そのことだって別にわざわざ口にして何か話題が広がるとも思えなかった。

 

まして、せっかくのオフの期間に――しかも、川口というと埼玉だ。埼玉にはライガーズというプロ球団もしっかり抱えているというのに、わざわざチーターズのユニフォームを着て現地に行かなければならないということを考えると、なかなか気が進むものではなかった。一体埼玉にどれほどわざわざライガーズではなくチーターズをすすんで推したがるファンがいるというのだ――。

 

12月、やっとしばらく落ち着いて家で休めると思っていた海は、そうして渋々再び東京へと飛ぶ事になった。この出張の間には晴留や新の参観日とも重なっている。授業参観に来られなくなったということに、二人の気持ちを考えると、海はなおさら断りたかった。

もっとも、新はというと――

 

『別にいたらいたで皆お父さんのことばっかり見るからお母さん一人でいいよ。期待もしてなかったし』

 

そんな言い方で参観日にはあまり来て欲しそうにない顔をしていた。どこまでが本心かは分からないが、子供にこんな事を言わせてしまう申し訳なさは海にとっては大きなものだった。

 

球団を通しての講演会ということもあり、海は学校を訪れてからまずはユニフォームにサインをしたもの、そしてバットや、いくつかのグローブにそれぞれサインしたもの、そして甲子園の砂を寄贈した。

渡された色紙にサインをすらすらと書く海。

もう手馴れてしまったもので、プロに入ってからの年月を海はこんな形で感じることになるとは――と思った。

 

久々の"母校"というものは自分が居た頃とはあまり変わりなく、15年という月日が変えたのは自分の苗字と、自分の職業くらいに思えた。

ただ、学校そのものは自分の功績というものをそれなりに意識しているようで、新聞の切り抜きであったり、自分がベストナインに選ばれたときの写真などもコーナーを設けてまで作っていた。

新聞の紙の状態なんかを見ても、とてもこの日のために急造したものとは思えなかった。コーナーには等身大の自分のポスターがあり、ボールを打った瞬間を捉えたものがさも球界を代表する打者かのように飾られていて、少し気恥ずかしかった。

 

後援会は特に川口には設けておらず、華耶やその親族が華耶と打ち合わせ、自分の知らぬ間に長野に本部を置いたものがあるくらいだった。一応球団とも話は通してあるようで、入会特典としてサイン入りのチケットやカレンダー、そしてPC用の壁紙などを配っていた。

 

このあたりはさすが華耶の実家や華耶の本家の――佳井グループの力というものを海は感じた。自分が何かせずともうまい具合にやりくりしているのだから、まったく自分に負担がかからない。

 

企業の協賛にも華耶の実家や、その本家が運営しているゲーム会社、ヨシイ・エンターテインメントだとか、そのグループ会社が立ち並んでいた。後援会の協賛には川口の企業もおそらく入っている。

おそらく、ということしか分からないくらい海は後援会にかかわっていない――というか、自分が何かしなくてもいいように華耶たちがうまく工面しているから、川口に何か直接縁があるかと言われると、改めて思いをめぐらせてもなかなか浮かんでこなかった。

 

海自身、自分からわざわざ川口という街にあれから足を運んだ事はなかったし、これからも自分からここに来る事はないだろうと思っていたから、川口に何か還元しているかといわれると、特に何もなかった。

 

川口が自分を追い出した、というよりは、自分が川口からすすんで出て行ったのだから、多少の負い目も感じていた。

これほどしっかりしたコーナーがある一方、自分は川口にどちらかというと否定的な感情で今日ここに来ているのだから、どうしたものか――と海は思っていた。

ライガーズへの移籍は考えていないんですか、だのと校長や教頭から言われたが、適当に質問を受け流して海はユニフォーム姿へ着替え、体育館の前へ立った。

 

「――えー、きょう皆さんに集まってもらったのは、少し話があるからです。水曜の午後、わざわざ2時間使って学活の時間をいただいてしまってごめんなさいね。少し眠い時間かもしれませんが、大事な話なので皆さん我慢してください。さて、私から話をするにあたって、きょうはお客様を呼んでいます。入ってください――」

 

校長が壇上で挨拶し、それにあわせて体育館の重たい鉄の扉が開く。左の扉が右の扉よりも少し鈍く重いのも相変わらずだ。

 

わざわざ体育館は幕を下ろし、暗闇の中でプロジェクターの光だけが壇上を照らしている。真っ暗な中、海は体育館の壇上へと向かっていく。

何かただならぬ気配に気づいた生徒もいるようで、体育館が徐々にざわつき始める。

壇上に上がり、暗闇の中にぽつんとユニフォーム姿の海が照らされると、生徒からは大きな歓声とどよめき声とが混じった、困惑と歓喜とが交互に入れ替わる不思議な雰囲気が壇上を包んだ。

 

「えーっと……どうもこんにちは。川口第三中学校卒業生、兵庫チーターズ所属の佳井海です――」

 

それから海は、自分が日本に来る前に日本語を大体は覚えてはいたが、転校してきてからは日本語の若干の不自由から念のため特別学級で一年だけ過ごしていた事、体育の授業で野球をやったことから野球部に入る事になったということ、そして本当は自分はサッカーのほうが好きだったという当時のことを、なるべくありのままに話した。

 

あまり高校入学に苦労したことはなかったし、高校での野球生活だって今のプロでの日々と比べれば今振り返ればただただ楽だったし、今よりもずっとプレッシャーのない日々だったから、大人になってからのほうが大変だということも素直に話した。

今の中学生からしてみたら、物心ついていた頃から海はそれなりに活躍していたから前監督のもとで苦労したことはまったく知らないはずだ。

 

だからこそ、そうした理不尽との戦いも世の中にはある――ということも海は話したが、生徒からしてみたらそんな事よりも興味があるのは――

 

「中学のときからそんなに背が高かったんですか」

 

「もともと日本人じゃなかったってことはやっぱりモテたんですか」

 

「今の奥さんとはどうやって会ったんですか」

 

「どうやったらモテますか」

 

「家でっかいって聞きましたけど、どうやったらそんなでかい家建つんですか」

 

……と、外見にまつわることだとか、異性関係のことばかり気になるようで、海は所詮中学生なんてそんなものだよな――と思った。

 

いかに苦労したかだとか、いかにして成功をおさめただとかはどうでもよく、今そこにある『佳井海』という人間の生活のほうがよっぽど気になるというのは、いかにも子供っぽいものだと海は思う一方で、自分が中学生のときもこのくらい中学生でいられたならな――とも思った。

 

母親がいなくなってからは父親の爛れた生活に振り回された海としては、そんな一般的な中学生としていられる時間は少なかったから、こうした『俗っぽい』中学生というものは話していて憧れを少し感じてしまった。

 

とはいえ、正直なところその俗っぽい質問にも飽きてきたので、何か流れを変えるものはないだろうか――そう思っていたところ、一人の女子生徒が手を上げた。

 

「3年D組、野球部、浅井薫【あさい・かおる】です」

 

背筋をしっかりと張り、ビシッとしたたたずまい。それでいて、周囲は期待するような目線を少女に送っていた。

その姿が学年を代表する中心人物であろうということが海にはしっかり伝わってきたし、他の生徒よりも一回りもふた周りも前を向いて生きている生徒だということが壇上にまで漂ってくるようだった。

 

「私は左投手で、今はサイドスローで投げています。高校でも野球部を続けたいと思っています。今は女性選手もプロになれるので、自分もプロに絶対なりたいと思って野球を続けていますが、出所の分かりづらいフォームと左のサイドハンドという長所だけではプロの世界を目指すには少し厳しいといます。これからも野球を続けていくにあたって、緩急が必要だと思って最近カーブを練習していますが、私の本当の武器は、あまり速くはないですけども、コーナーをビタビタに突いていけるナチュラルシュートするストレートとその制球力だと思っています。もっと武器を多く持ったほうがいいのでしょうか、それとも、自分の武器を徹底的に磨いたほうがいいのでしょうか。プロに入って色々とポジションを任されてきた佳井選手かはどう思いますか」

 

まっすぐな質問に海はどう答えるか少し考えながら――マイクを握って壇上で深呼吸をし、静かに語り始めた。

「えーと……たぶんもう知ってると思うんですけども、たとえば僕も、中学高校は2番しか打ってなかったんですが、プロではいろんな打順を打たされました。守備だってそれまで一塁しか守ってなかったけれど、プロに入ってからは一塁はほとんど守ってなくて、三塁を1年ちょっと、残りは二塁とショートを交互に……みたいな感じでプレーしてることは知ってると思います」

「はい」

「プロを意識して野球を続けるのであれば、そのカーブとストレートは徹底的に磨くべきだと思うけれど、いつか、自分の中で武器だと思っていたものを真っ向から否定されて、1からやり直さないといけない日がくるかもしれないです。1から出直さないといけなくなったときに武器にするのが、浅井さんの言うコントロールなのか、速球なのか、今磨いてるカーブなのか――それとも、まだ浅井さんの試したことのない変化球なのかどうかは、僕にはまだ分かりません――」

 

浅井は海の言葉をまっすぐな表情で聞き入っていた。畏れることなく、ただただまっすぐな瞳が壇上に向かってくる。野球を楽しんでやっていた頃の華耶もきっとこうだったのだろうか――と海は思いながら、少し言葉を詰まらせ――なんとか続けた。

 

「――高校も、プロも、ある日突然自分を全否定される日が突然来て、自分の進路を考えないといけなくなる時がくる可能性があります。これは浅井さんに限った話ではなく、今日この話を聞いている皆さんにも起こるかもしれないことです。そのとき自分を支えてくれる人が身近にいるか、あるいは、自分ひとりで乗り越えていくのは分からないけど……その辛さに耐えられるかどうかというのは、大きいポイントだと思います。僕としては通せる意地は通して、プロを目指して頑張って欲しいと思っています」

「ありがとうございます!3年後か7年後にプロの場で会えたらいいですね」

「……期待しています」

浅井は嬉しそうに、ストレートヘアをぴょこぴょことさせながらイスに座った。プロを意識する生徒が一人くらい居てもいいだろうとは思っていたが、今後が楽しみな生徒がいたことに大して海は少しだけここにきてよかったと思った。

 

「浅井は、生徒会長も務めてるんです。面白い子でしょう。まっすぐな子で、あれでも負けん気が強くて。でも決して勝気なだけではなく、聡明な子です。蛮勇と勇猛との違いとをしっかりあの歳で分かっている、立派な子ですよ。いつかは男子より速い直球を投げるんだ、って、浅井なりにプロへの道筋を立てているようなんです」

教頭の言葉に海はふと、浅井の速球の話を思い出した。

 

「実際、球の速さはどうなんです」

「まあ、自分でもあのように言ってるように、上の男子には速球の速さは到底敵いません。それでも、球速を上げるためのトレーニングなんかも自分なりにいろいろ勉強してるみたいで、その辺の男子とは同じくらいの速さにはなりました。カーブなんかもプロの投げる球を分析しながら投げているようなんです。推薦で、春からは尾美森への進学も決まっているんですよ」

 

尾美森高等学校。西東京地区の強豪のひとつで、過去には何人もプロを輩出している高校だ。その尾美森に推薦で行くということは、並大抵のことではない。

 

「尾美森。じゃあ、相当評価されての進学ですね」

海は素直に感心したような様子で教頭の話に頷いてみせた。

 

「ええ。本校二人目の野球選手が出るかと思うと、今から楽しみです」

教頭がそう言いながら、海に茶を差し入れる。

 

「浅井は毎日佳井選手のパネルをじっくり見ています。打撃ではかなわないかもしれないけど、投球でなら佳井選手に勝てるかもしれない――そう思いながら野球を続けています。アイツは佳井選手のファンであり、佳井選手を勝手にライバルとして思っています。アイツにサインをプレゼントしてやってはくれませんか」

教頭の頼みに海は普段よりも少しだけ乗り気でサインをしてやった。

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