海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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58・熟れた果実が傷むとき

「へー、そんな事があったんだ」

「うん」

「可愛い子だった?」

「可愛いかどうかなんてそんなに重要なことなのか?」

「そりゃそうだよー。女の子はそれでも可愛くありたいもんだよ。心が女の子で、乙女である限りはね」

「でもそいつの心はお前が思ってるほど乙女してないかもしれないだろ」

「そんな不毛なー」

「可愛いかどうかだとか、乙女かどうかなんて俺にとってはどうでもいいんだよ。大体、歳が倍も離れてる女にそんな感情抱いてどうするんだよ」

「だって、ぴっちぴちの中学生だよ?中学生からしか得られない養分というものが世の中にはあってだね」

「バカかよ。俺には、お前だけで十分だよ。そういう養分はお前からだけで十分だよ、俺は」

不意に飛び出た言葉に華耶は胸を押さえ、悶えた。

 

「くっ……!あのさ、海くん。そういう不意打ちしてくるのやめてくれるかな?いつもいつも」

「なんだよ、不意打ちって?」

褒めたら褒めたで面倒なものだ、と海は思いながら頬をかいた。

 

「あのね、嬉しいのはそうなんだよ。でもほら、そういう褒め言葉ってなんかこう……流れ、みたいなのあるじゃん?いきなりぶっこんでこられたら女の子はトゥンクするわけよ、トゥンク」

「……トゥンク?」

「ごめん、通じなかったね」

言葉が通じなかった事で急激に冷めた空間がそこにはあった。

 

いつもどおり硬く、あまり笑い慣れてない表情で市長との表敬訪問をした様子が報道された海。プロを終えたら川口に戻ってくるかどうかについても――

 

『川口に住んでた期間がそんな長いわけじゃないので……ちょっと考えます』

 

と素直すぎる回答をし、市長があわてて『でも日本においてのふるさとは川口ですから。ね?』とフォローを入れようとした様子がネットでもたちまち噂になった。

 

その後、川口よりもどちらかというと自分にとって思い出というよりは思い入れのある――汚れた思い出のない春日部へとタクシーで移動し、相変わらずPRを続けている『その辺の草』グルメを何件か回り、そこにも自分のサインを置いた。

 

その辺の草グルメに力を入れはじめたいわば発祥の地とされるスーパーの惣菜担当には『次回作の映画にぜひ出てください』などと言われたが、そこは断っておいた。

 

そうして2泊3日の弾丸ツアーは幕を閉じたのだが、家に帰ると海は浅井薫の話をしたくてたまらなかった。

別に薫に対して特別な感情を抱いたわけではないと海自身は思っているのだが、なぜだかそれでも、海は華耶に薫のことを話さなければならないような気がしてならなかった。

 

夢を諦めようとしていない薫のまっすぐな姿や目つきが華耶とダブって見えたからなのか、それとも――だからこそ、華耶には何かを成してほしいと思って話したのか――あるいは、その両方だろうか――。

華耶には話をはぐらかされてしまったが、海はそうしてしばらく凍りついた部屋の空気を再び生き返らせるべく、口を開いた。

 

「華耶はさ、俺や子供たちのこと以外になにかやりたいこととかないの?」

「それは……どうだろうなあ。あたしは、海くんを支える事がすべてであって、そして子供たちを育てる事もまたすべてだから。今の仕事だって順調だし。おかげさまでアメリカからの視聴数やアメリカからの登録者数なんかも右肩上がりだしさ、あたしとしては自分の能力を生かせてる仕事にいるわけだし、何も不満に思ったことはないよ」

「じゃあさ、俺が引退したあとなんかはどうしたい?」

「引退なんてまだまだ先のことじゃない」

「それはそうだけどさ。俺が野球選手として全うしてさ、それで引退したあとって、何かしたいこととかは?」

「それは……どうだろうなあ。そのとき、子供たちがいくつかにもよるかな」

「そっか」

「でも、なんでそんな事聞こうと思ったの?」

「俺ばっかり好きな事やってるからさ。華耶が何か他にやりたいことがあるなら、それはやっぱりやったほうがいいと思って」

「うーん、そんな事言われてもなあ。あたしは今の自分で十分満足してるもん。でも――」

「でも?」

 

ニッ、と意地悪な笑みを浮かべながら華耶は海をじーっと見つめながら――

「何も考えてないわけじゃないよ」

「何だよ。含みのある言い方して」

「仮にさ、何か考えてるとしてもさ、海くんにはまだ教えない。教える段階じゃないから」

「なんだよそれ。でも、なんかちょっと安心した。やりたいことがまったくないわけでもないんだろ」

「そりゃあ、まあね。今海くんに言うほどのことでもないことが、あるにはあるよ」

「なんで俺に言うほどでもないことなんだよ」

「今の海くんが聞いたら嫌がるかもしれないことだから」

「じゃあ、やめてほしいな」

「大丈夫。海くんに内緒ですることだってたぶんあるから」

「なんだよ。変な事考えてそうな顔ばっかりしてさ」

「えへへ。さーあ、なんでしょうね?」

スッ、とイスから立ちあがり、海を見下ろすような姿勢で腰を前かがみにしながら華耶は――

 

「いつかそのときがくるのを楽しみに待っているがいいさ」

とよく分からないような言い方で、上機嫌で冷蔵庫からコーヒーを取り出して飲み干した。

 

~~~

 

年が明けて、また春季キャンプの激しいトレーニングが行われる日々が始まった。

オフの間の時間なんて、あっという間だ。

父親としての顔をしきれないまま、また長い長い一年が始まる。その一年だって、144戦を戦い抜くのは、早いようであっという間だ。シーズン中どれほど辛い思いをしようが、月日は止まってはくれない。いい感覚をとどめようとしても、感覚すらとどまってくれない。いいイメージはすぐに消え、悪いイメージはずるずるとひきずっている間に、一日、一ヶ月……そして一年というものは過ぎてしまう。

 

だからこそキャンプという集中して野球に打ち込める時間は重要なのだ。いざシーズンが始まってしまうと修正に時間がかかってしまい、出遅れたぶんを取り返すことに精一杯だ。一切の手を抜く事は出来ない。

 

「もうちょっと内角ギリギリに投げる事はできますか。ゆるい球でいいです」

「ゆるい球って言われてもね、ぶつけないようなコースに投げるの、簡単に言ってくれますけど、難しいんですよ」

「なんなら、少しコースが外れても大丈夫です。ぶつけるくらいの勢いで」

「……それでぶつかっても恨まないで下さいね」

 

海は打撃投手に徹底して内角を投げ込むように要求した。海はズバズバと投げ込まれるその内角の球を、ただバットを構えているだけで10球ほど見逃した。

 

「振るなりなんなりしてくださいよ。このくらいのコースじゃダメですか?怖くて投げられたもんじゃありません」

「打つべき球と打ってはいけない球とを見極めたいんですよ、特に内角を。今くらいでも十分です」

 

打撃投手に嫌がられながら、海はしばらくボールを一切振らずに――20球ほど投げ込まれてから、次にきた内角の球でやっとバットを振りかけて――止めた。

 

来た球を打つだけでは変化がない――そうテーマにした海は、今までなら振っていただろうきわどいコースのボールを選ぶ眼力をさらに自分のものにしようとした。

もちろん、きわどいコースを打てる自信は今までどおりあったし、去年なんかもそうしてきわどいボールを見極める意識付けをしようとはしてきた。勿論、そんなきわどいボールをヒットに出来る自信だってあった。

 

ただ、本当に大事な場面で、球審によって多少左右されるきわどいコースのボールを見極められなければ、自分の意図せぬボールを振らされて凡退してしまうことだって考えられる。

清兵衛の言うような打者になるためには、『どんなコースでもヒットにできる自信がある』からこそ『本当に振るべき球は何なのか』をイメージする必要があるように海は思っていた。

 

ボールをただ打つだけならばシーズン中だって出来るし、それで仮にボールの当たり所が悪かったとしても、シーズン開始前には間に合うかもしれないくらいのこの時期。シーズン中にモノにする技術としてはリスクがあるからこそ、この冬の間に身につけておきたい技術に海は感じられた。

 

キャンプ早々、清兵衛は走塁練習で足をくじいた。幸いただの捻挫で、二軍キャンプへの移動を命じられるほどではなかったし、捻挫自体も1、2日安静にしていれば治るレベルだったのだが、今年のキャンプは、清兵衛の若干の体のキレの悪さを海は感じていた。この何年か、いやと言うほど近くで見ていたからこそ、清兵衛のちょっとしたステップの重さや反応の鈍りを感じていた。

 

それを調整不足、と言ってしまえばきっとそうなのだろうけれど、口だけは大きい清兵衛のようなタイプが調整を怠ってキャンプに来るとは思えない。

おそらく、清兵衛の中で何か身体の変化があったのだろう。期待の中堅と言われ続けていた清兵衛も早いもので35歳を迎えている。多少、身体のキレが悪くなっていてもおかしくない年齢だ。

それもそうだ。自分だって6月には32歳になる。本来、こんな練習をしている場合ではないくらいに自分に残された時間だってそう多くはないと海も思っている。

 

明日はわが身――そう思いながらも、清兵衛の『ちょっとした感覚のズレ』を海は気にしていた。

だからこそ自分が今年は清兵衛の分までカバーしなければ――と、清兵衛の前ではとても言えたものではないが、多少胸に秘めた思いというものを強くしなければいけないように海は感じていた。

 

「海よ。練習てぇのは、きついものだな」

「当たり前だろ。キャンプについてこれない奴は、シーズンだってついてこれない」

「あぁ。そうだ。きつくなければ、練習じゃあねぇ。そして今俺は、シーズンについていけるかどうかの岐路に立たされた気がする」

皿に盛り付けた、生ハムとチーズを巻いたものがふたつ。一つにはバジルのソースがかかっていて、もう一つには胡椒がかかっている。

清兵衛は爪楊枝を持ち――そのうち、胡椒がかかったほうを刺して一口でほおばった。それをポップのフレーバーがついた炭酸水で流し込み、目を力いっぱい瞑る。

 

「カァーっ……!これが、ビールだったらな」

「そんなもん、目を閉じて飲んだら大体ビールの味じゃないか」

「馬鹿言え。アルコール味が足りねぇんだよ」

「バカはお前だ。キャンプで酒飲む奴がいるかよ」

「ガハハ!ここにいるだろうが」

「それもそうだな」

海は冷えたウーロン茶を飲みながら、清兵衛が食べる様子をじっと見ていた。

 

「脇腹のあたりがな、張ってんだ。去年の秋くらいからずっとだ。今日のフリー打撃、見てねェだろ。柵がな、痛みで遠く感じるんだ」

「痛み止めは」

「馬鹿言え。こんな時期から痛み止めなんか打ってたらシーズンもたねぇ。それに、俺ァ痛み止めを理由に酒を止めたくねぇんだよ」

「酒を止めろよ馬鹿野郎」

「俺から酒を取ったら何が残ると思ってるんだ、お前」

「女が残るだろ」

「分かってねぇな。女ってぇのは、強い男に惚れるもんだ。時代がそんな言葉を許さなくなったとしても――それでも、女は最後に男に強さを求めるものさ。それが、生物の本能さね。俺がこんな体たらくじゃあ、女だってついてこねぇよ」

「何をいまさら。そんな事言うようなお前を俺は見たくなかったね。お前はどこまで行ってもお前だろうが。大体、こんな体たらくじゃあって思うなら、なおさら痛み止めでもなんでも打てよ。無茶し続けたら身体が治るとでも思ってるのか」

「ガハハ!他人のことになら辛辣になれるんだな、お前さん」

海の言葉に思わず噴出した清兵衛は思わず膝の辺りを手で叩き、心底面白そうにしながら目を細めた。

それを呆れたようにしながら見つめ、海は食事のスピードをやや速めた。

 

「どこかの誰かさんと同じでね」

「ガハハ!言うじゃねえかこの野郎。女を辞めるにはまだ早いとお前なんかに言われる日が来るとはな」

「1年駄目だったくらいで何だ、ってお前だってきっと俺に言うだろ。痛み止めだって打つわけでもないそんな脇腹の痛み……だったら、自分でどうとでもできる勝算があるんだろ?いや――たぶん、勝算がなくても、きっとどうとでもするだろ、お前なら。俺が一人前になるのを見届けるって言った以上、甘ったれたこと言うなよな」

「お前さんにそこまで言われて黙ってられる俺じゃあねえ。そうだな。たかだが捻挫や脇腹の張りくらいで、らしくねぇ怪我だと思った俺が間違いだった。お前さんごときに心配されちゃ、おしまいだわな」

「あぁ。田中がお前の事を心配しはじめたら本格的に終わりだ」

「それはお前さん、田中に失礼すぎるんじゃあねぇか、おい」

コーチとなにやら打ち合わせでもしているのか、少し離れたところで食事をしている田中に二人は目線をやり、首を振った。相変わらず田中の顔色は悪く、あのような顔色の人間に心配などされたものではない。

 

「でも、実際どうなんだよ」

「まぁ、そうだな。アイツにまで心配されるようになったときには俺ァもう、俺としてのプレーはもう厳しいってことだわな。まあ、大丈夫だ。そこまで俺ァ落ちぶれはしねェよ」

そう言って清兵衛は豪快にフライドチキンにかぶりついた。

 

「こいつぁ、うめえな。皮が唐揚げみてぇにパリパリしてら。大体俺ァ、このフライドチキンの皮の部分ってもんがどうしても――」

「……なぁ、ところでお前――」

何かに気づいたような表情で海は清兵衛の言葉を遮った。

 

「あァ?なんだ、おい。人がせっかく肉の余韻に浸ってるところをよ」

不満そうに清兵衛はそんな海を睨みつけ、再び豪快に肉にかぶりついた。

「お前、俺に言ったよな。俺の事は苗字じゃなくて名前で呼べ、って」

「あぁ。現に俺もお前さんの事ァ公の場所以外じゃ名前で呼んでるだろ」

「そう、それなんだよ」

 

やっとコーチから開放された田中だったが、広報に呼び止められてなにやら談笑しているのが見える。

一旦空になった皿を積み、おかわりをもらいにいこうとした田中は気まずそうにその場を離れたがっている足つきをしながら、カメラを向けられて挙動不審な動きをしている。

 

「なんで田中の奴は田中なんだよ、お前」

「田中は田中だろうが」

あまりの即答に海は失笑を浮かべた。

「いや……お前、まさか田中の下の名前知らないなんてこと……」

「おいおいおいおい、何言ってやがる。あの地味で血色悪ィ顔つきで楓斗って名前が泣くぞ。あんなのは、田中で十分だ」

「世界中のありとあらゆる田中に失礼だぞ」

「でもよ、どう見てもあれは楓斗って顔じゃねェだろ、あれは。思い切って髪でも染めるか、パーマでもあてるかしねェと、あれは俺の中ではザ・田中って感じの顔だ。アイツ、自分の顔を地味って言ってるがね、自分で自分を地味に仕立て上げようとしてるんだ。世にありふれた田中という苗字を盾に、自分を『その他大勢』にしようとしてるんだ、アイツは。だからアイツは田中のままなんだよ」

「お前の中の田中像は一体どうなってるんだよ」

 

やっと広報から開放された田中はその瞬間盛大にくしゃみをし、あまりの突発的な大声に思わず海も清兵衛も振り返った。田中は勢い余って持ち運んでいた食器類などを落としたようで、あたふたと手際悪く床に散らばったものを拾い上げていた。

「……本人が居ねェところで噂話なんざするもんじゃあねぇな」

「……そうだな」

海と清兵衛は気まずそうに食器類を拾っている田中へと近づき、手伝ってやることにした。

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