「……海くん」
ベンチで座っていた海のもとで、傘を差しながら華耶が見下ろしている。
「……華耶……」
力ない声でそう呟き、それでもベンチから動けずに居る海を見て華耶は一旦は困ったような、呆れ返ったような――眉をしかめてじっと海を見つめていたが、うなだれたままの海を見て、何か海に対してとげのある言葉を発することはせずにいた。
「とりあえずさ、ここじゃないところに行こう?ここじゃ本当に風邪じゃ済まなくなるから」
「……」
中腰になって海と同じ目線で顔をじっと見つめる華耶。海の沈んだ表情を見つめながら、華耶本人も少し戸惑いを見せながらも――できるだけ笑顔で海の手を握った。春の雨は見た目以上に冷たく、季節に乗り遅れた者を切り捨てるような寒さを感じた。
「ね。行こう。話はここじゃなくても聞けるはずだから、さ」
「……ごめん」
「いいよ、謝らなくて。何があったか聞く前から怒るほどあたし、器小さくないからさ」
器は小さくない、と自分では言ったものの、笑顔の奥には一言で形容しがたい複雑な感情を秘めつつ、華耶もまた少しだけ目を伏せた。
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華耶とスカイツリーへ出かけ、その別れ際に『会いたくなったら連絡入れるくらいのことはしていいんだから』なんてことを言われた海。
とはいえ、自分から会いたいと華耶に連絡することは相変わらず海には躊躇われる日々が続いていた。華耶に対して一人の女とはまた微妙に違う意味合いで見てしまっていることに、自分の中でまだ嫌悪感があったからだ。
そうは言っても、華耶の存在がそうして海の心の隙間を少しずつ埋めはじめているのは事実だ。それもまた、海にとって悩ましいことでもあった。
黙っていても勝手に組んでくる腕。服越しに伝わる体温。海のことなどお構いなしに押し付けてくる身体。自分があまり気の利いたことを話せなくてもいくらでも白い歯を見せながら振りまいてくれる笑顔――。
こんな生まれでなければ、きっと悩むようなことではなかっただろうに――と海は改めて自分の出自を恨んだ。
恨んだところでどうしようもないのだが、本当に自分はこの国に来るべきだったのかだとか、本当に生きていていいのかなど、極端なことばかりつい海は考えてしまった。
そのたびに、このままずるずると華耶という存在に甘え続けていいわけがないのだから、なんとかして早く独立する手段を考えてみるものの、それが机上の空論に終わるという日々をしばらく繰り返していた。
考えているだけではどうしようもないから、部活の間はひときわシート打撃なんかは気合を入れて打ち込んだし、自分の間合いに引きつけて打つ、ということを今までよりもいっそう気をつけて行うようになった。
幸い、完全に現を抜かすほど気が抜けているわけではなかったから球はよく見えていた。ムキになって振るだけでなく、タイミングをずらされてもしっかり振り切れるように、わざと自分の中で反応できるタイミングの幅を増やすような工夫をしてみたりもした。
ゴールデンウィークの間も父親は帰る事は無かったし、それを分かりきっていたから海はひたすら家でギターをかき鳴らし続けた。
ギターを弾いてない時間帯は、動画サイトで料理の作り方なんかを見ながら同じように作ってみたりとレシピの幅も広げてみたりして、少しずついつ独立しても一人で生きていけるように海は自分なりに日々の生き方に工夫をつけていた。
もはや父親が居ないのが海の生活にとって当たり前になりすぎていたし、父親もまた、海に対して今日は居ないという連絡をすることはあまりなくなった。
いつからか、『今日は居ない』から『今日は帰る』という連絡の仕方に変化し、それが週に一、二度あるかどうかという風になっていた。
そうして家に帰るときは決まって父親は女を連れて帰ることが多かったから、早めに食事を済ませて部屋を施錠し、ヘッドホンをつけてギターを鳴らしたり、ヘッドホンから音楽を流しながら勉強をしたりした。
そうして泊り込みになった日は、連れてきた女や父親と出くわさないように、朝の街が目覚める前に家を出て、夜勤明けのサラリーマンたちと入れ替わるようにして電車に乗り込んで学校へと向かう日々が続いた。
カレンダーをめくるたびに、そうして一日一日と卒業式への日々が近づくのがここのところの海の唯一の楽しみだった。
そんな日々が続いた、5月の末のことだった――。
ある金曜日、海は練習を終えて家へと帰った。
珍しく家の電気が点いていることに気がつくと、嫌な予感がした。
父親が帰っている。
連絡もせず父親が帰っているということは、単に連絡し忘れただけなのだろうけれど――居間で食事をしている可能性だってある以上、女と出くわして気まずくなるのが海は嫌だった。誰だって、父親の愛人を見たいとは思わないだろう。しかもそれが、見るたびに入れ替わっているのだから、その関係が遊びだということだって分かっている。
であれば、父親のそうした一面など、見ないことに越したことがない――。
「……ただいま」
ただいま、と言えばおかえりと返すような父親ではなくなっていたし、海もまた、一人で過ごすことのほうが多くなったから、いつしかその声も独り言のような声量になっていた。リビングからはテレビの音と、聞いたことのない女の声が聞こえる。
ああ、やはりな――そう思って階段へと足をかけ、こんなこともあろうかと部屋に備え付けてある臨時用冷蔵庫と、備蓄用の棚には食料がどのくらい入っていただろうか――と海が考えていると――
《海。いるんだろう。話がある。ちょっとこっち来い》
わざわざフィンランド語で居間から呼びかけられた。「え?え?何言ったの今?」なんてキャピキャピとした声が聞こえた。どうせ、自分はバイリンガルだというネタをしたくてわざとそんな言い方をしたに違いない。
舌打ちをしながら海はカバンを持ったまま居間へと向かった。
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「えーっとゲゼルシャフトとゲマインシャフトの違いは、と……」
寮で講義の内容をとったノートを更に別のノートにまとめていた華耶は、突然BINEの通知が来たことに気がついた。
先ほど親に仕送りの連絡を取ったばかりだったから、その返答だろうか――と思い携帯を手に取ったところ、意外な人間からの意外な言葉が画面に飛び込んできた。
〈 会いたい
20:42 既読
〈 今すぐに
20:45 既読
確かに会いたかったら連絡しろ、と言い出したのは自分のほうだったが、海からこんな直接的なアプローチが来るとは思ってなかった華耶は辟易した。
今って言ってももう遅いしさ 〉
デートの誘いなら、明日朝からどこか行こうか? 〉
20:49 既読
あー、分かった! 〉
通話しよっか?通話なら今すぐできるよ!ビデオ通話でもいいし 〉
20:51
海といえども男だし、ちょっと"そういう気分"になることがあるのだろう。
案外可愛いところもあるじゃないか――という気分で返事をした華耶だったが――
〈 ごめん
〈 そういうのじゃなくて本当に今、直接会って話したい
〈 じゃないと、どうにかなりそうだ
20:57
ロビーに出てどうするかどうか迷った華耶。先ほどから降り出した強い雨が窓を叩きつけている。予報では小雨と言っていたはずだが、遠くでつけていたテレビの天気予報コーナーでは、ちょうど大雨の中継がなされていた。
寮に人を入れるわけにも行かない華耶は時計と携帯を何度か見ながら――
蒲田までは来れる?大丈夫? 〉
21:10
と連絡した。
〈 ダメだったら今からでも別のとこ行こうとしてた
〈 もう蒲田にはいる
21:20
「……」
華耶はその返事を確認すると、返事より先に携帯をいじりはじめた――。
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半開きの居間の扉を開けると、黒髪のロングヘアの女が父親である楓悟【ヒューゴ】の隣の椅子に座っていた。
楓悟も自分の記憶だと確かまだ40代だが、相手の女は随分若い女のように思った。まだせいぜい20代後半から半ばくらい、だろうか――。
「はじめまして」
「……どうも」
裏ではこのだらしのない男に好き勝手抱かれているということをなんとなく分かっているから、海はぶっきらぼうに返事をした。なんだか、事態のよく分かってなさそうなこの女の笑顔にも海は腹が立って仕方がなかった。
「まぁ、座って」
「手短にしろよ」
「大事な話なんだよ」
「それを手短にしろっつってんだよ」
海は不機嫌さを露わにしながら椅子に座った。
女が楓悟の膝に手を当てているのが、この上なく気持ちが悪かった。それが大事な話をする態度なのか――と言いたい気分だった。そんな足を組み、テーブルには肘をつく海。その姿はまさに悪態そのものだった。
「俺な、この人――さくらと結婚することにした」
「……」
しばらく黙った後、海は鼻で笑いながら答えた。
《本当に結婚すんのか?結婚相手は一人で十分なのかよ?》
《当たり前だろうが。大体、こいつはもう妊娠だってしている》
《はぁ?》
《俺はこの瞬間、本当の意味で日本人になるんだ。日本人の女と結婚して、日本人の子を持つ。ようやくその夢がかなったんだ》
楓悟の満足そうな笑みに対して、海は不快感を隠さなかった。こいつは一体何を言ってるんだ――考えれば考えるほど、理解が及ばず、自分の中の常識全てを壊されるような感覚に襲われた。
《バカか。お前、自分が何言ってるか分かってるのか?》
《何とでも言え》
一体何を話しているのだろう、と女は気にしているようだったが、楓悟は気にも留めずに笑顔で話し続ける。
《正直ね、子供作るタイミングだって狙ってたんだよ。狙ってたっていうかね、我慢してたんだよ。お前、次の春で卒業だろ。高校卒業したら、独り立ちするのが当たり前だろ。だからそのタイミングでとっとと家から出てってほしかったんだ。だから、お前が嫌でも家から出て行ってもらうためにも、なんとしてもこいつには俺の子を産んで欲しかった。こいつには黙ってるけど、多少"強引な手段"だって使った》
《クソ野郎め》
《何とでも言え。これからやっと俺の新しい人生が始められるってタイミングでお前が居られちゃ困るから、俺なりにありとあらゆる手段を使わざるを得なかった。こいつだって嫌がらなかったからな。子供が育ってから『実はお前に歳が離れた兄がいるんだ』なんてのはバツが悪いからな。幸い、こいつも俺の"モノ"が気に入ったようでね、何もかもうまくいったよ》
次々と耳を疑うような言葉が海の鼓膜を容赦なく突き刺してきたが、海はそれを黙って聞いていた。
《……いつから付き合ってた?》
《あ?》
《いつから付き合ってたんだよ、そいつ。お前の何人目なんだよ、そいつ。お前のソレはあと何人いるんだよ》
海が腕を組んで楓悟を睨むが、楓悟は鼻で笑いながら、髪を後ろに掻きなでた。自分によく似た長めの金髪をなびかせる楓悟。見れば見るほど、自分がこの男の遺伝子をはっきりと受け継いでいるという事実に海は吐き気を催す気分だった。
《さぁ。覚えてないね。ただこれだけは信じてくれ。こいつとだけは本気だ。こいつと付き合ってからは他の女とは連絡を取ってない。どうしてもこいつじゃなきゃいけないから、俺だってこいつを抱き続けたんだ。何人目かは覚えてないが、今はこいつ以外のことは考えてないし、きっと俺にとってこいつが最後の女になる》
《知るかよ。お前にとって都合のいい"本気"を探すために何年もかけて品定めしてたって事だろ、お前の好みのヤマトナデシコとやらを》
《ああ、そうなるな。それが何か問題でもあるのか?男が自分の番【つがい】を探すことに何の問題が?》
自分の番、という言葉に海は思わず手が出そうな気分になったが、ぐっとこらえて父親を改めて睨みつけた。
これは自分の分だけでははない。母親の分まで睨み付けなければいけない――そう思わずには居られなかった。なんなら、母親の分を考えると、一発殴っておくべきなのではないかとすら海は思った。
《……おふくろを最初から捨てるつもりだったのか》
《覚えてないね、そんな昔の女》
《……おふくろが『昔の女』になったように、それで今度は俺が『昔の息子』になるってことか。……そうかよ》
捨て台詞を吐いてカバンを持って居間から飛び出ようとする海。とてもじゃないが、話が通じる人間だとはもう海は思えなかった。
いや――
こんなものを人間だとすら、もう海は思いたくなかった。自分に流れている血と、この男の血とは、生物学的にまったく別の種のものなのだと思い込みたかった。そうでもしないと、日本を去った母親が不憫でならなかった。
《おい――》
一度制止した父親を振り向き、侮蔑の表情を浮かべる海。
《お前もそうやって俺の知らないところで作った女のもとで慰めてもらうんだろ?同じじゃないか。俺とお前は、同じなんだよ》
ニタニタと勝ち誇ったような笑みを浮かべる父親を海は睨み付け――
《……死ね》
と一言だけ告げて玄関を飛び出した。
ゴォオオ……と激しくも、ただ大きい音を出しているだけの安っぽさを感じさせる雷鳴が遠くで聞こえた。ついさっきまで静寂を保っていたはずの携帯からはゲリラ豪雨の警戒アラートがけたたましく震えていたが、海にはどうでもよかった。
川口駅に着く頃にはとうとう強い雨が降り出した。迷わずに携帯を改札にかざし、京浜東北線の乗り場へと向かう海。人の群れに紛れるようにして、ぬるりと滑り込むように端の座席に座りこむと同時に、頭をうなだれながらその長い髪を何度かかきむしった。
少しだけ雨を含んだ髪が時折手のひらにべたりとまとわりつき、鬱陶しそうに海は髪を振り払った。
金曜の夜特有の、若者が放つ浮かれきった空気と、今にも死にそうな中年が放つ疲れきった空気――さまざまな感情や思惑を載せて走る電車の喧騒も、自らに向けられた女子高生らからの好奇心に満ちた視線も、今の海にとっては何の関心ももたらさなかった。
『川口に住んでるって言ったっけ。あたしは蒲田のあたりに住んでるから、だいぶ離れてるね――』
スカイツリーで飲食をしながら、そんな話をしていた華耶。
海は顔を覆いながらうつむき、耳にこびりついた父親の言葉のダメージを外に見せないようにした。
《お前もそうやって俺の知らないところで作った女のもとで慰めてもらうんだろ?》
一切の反論ができなかった。
お前とは違う、というたった一言すらも言うことができなかった。
こういう時、友人の一人でも居たらまた違ったのだろうけれど、友人と言えるほどの友人が居ない海にとっては、父親と一緒の空気を吸うことを拒絶する方法として蒲田へ逃げることが頭に浮かんだ時点で、反論する権利を失ったも同然だった。
そうだ。
間違いなく自分は慰めてもらうのだ。
なんなら、慰めてもらえるものだと思っている――。
それがみっともなくて、海はこれ以上ない敗北感を感じた。
〈蒲田――蒲田です――〉
「あー、雨めっちゃ降ってる……」
「ヤバくね?ちゃんとした傘持ってくればよかったー」
蒲田に着くや否や、海は駅から飛び出した。強い雨に愚痴を漏らした女子高生の群れを追い越していきながら、申し訳程度にバッグを傘代わりにし、雨に打たれながらもひたすらあてもなく早歩きで歩き続けた。
蒲田にさえ着いたら何とかなるだろうと思っていたのだが、そのうち歩く気力もなくなり、近くの公園のベンチに座り込んだ。
蒲田なんかに来て、華耶の優しさにつけ込んで甘えようとしている自分がみっともなく思えて、海は手で顔を覆った。慰めてもらえるものだと思ってしまってることもそうだが、華耶が来てくれたところで一体その後どうするのかすら考えてなかった海は、自分がいかに感情で動いてしまったことかと思い後悔した。
とりあえず自分勝手にここまで来てみたものの、それで断られたらこの後どこに行こうかと一度は携帯を取り出し考えたが、それもやめた。
ダメならこのまま朝まで適当にどこかしらで過ごして、また土曜の夕方あたりにでも家に帰ればいいのだ。川口に、まだ帰る場所があるならの話だが――。
あの瞬間、楓悟をいっそ殺してしまうべきだったのだろうか――などとも考えたが、そんなことで自分の人生を振り回されるのも癪だ。
これ以上、あんな男に人生を振り回されてたまるか――そうは思いつつも、あれが今のところ唯一の親であるという事実は変わらない。
残りの高校生活をなんとかやり過ごしてから家を出ようにも、結局は楓悟のもとで生活せざるを得ないという自分の無力さが海の心を容赦なく刺しにきた。
「……くそっ……」
これほど生きていて馬鹿馬鹿しいこともあるだろうか。
親ガチャ、という言葉が最近たびたび使われるらしいが、家が裕福なこともあって、自分に遊ぶには困らないほどの金をよこしてくるだけマシだとでも言われそうだ。
そうだ。金ならある。進学だとかなんだとか、学校行事での旅行がどうだとか言うとすぐにそれだけの金だけは出してくれる。そこに関しては否定しない。
だが、金だけあってもどうしようもないのだ。
最初から存在を否定するつもりでこれまで放し飼いにされていたという事実が――まして、それが母親をも巻き込んでのことだったということが、海にはあまりにも大きいものだった。
母親が家を出た本当の理由は、言語の壁以外に何かあったのではないかとは海は思ってはいた。
それでも、こんなことのために日本語を覚え、"日本人のなりそこない"として扱われながらも、必死で楓悟の勝手に文句も言わず、日本での生活に溶け込むために日々を生きてきたかと思うと、いっそ、母親が自分の手の届かない世界に行ってしまったように、自分も踏み切りにでも飛び込んで死んでしまおうかという気持ちにさえなった。
激しい雨が、まるでヤラセ番組のようにやまなかった。