海の彼方で   作:錫樹トシアキ

60 / 238
59・間引かれた果実の反抗

「開幕初戦からちょっと厳しいね。まぁ、あの打線を1点に抑えることができたってことを好材料として、野手は明日またしっかり甘い球を見逃さないように気持ちを切り替えて。初戦からあんまガタガタ言いたくないから、今日のところはこれで終わり。明日もデイゲームだから、夜ゆっくり休むように。それじゃ、佳井。なんか言いたい事あったらどうぞ」

 

監督の今野が、いつもどおりどこか不満げに、でもその不満の真意をあえては露呈しないようなのらりくらりとしたテンポで話し終えると、海へと話を振った。

 

「今日の試合最大のミスは3回のチャンスを生かせなかった俺のしょうもないセカンドフライです。あそこで相手に流れを作ってしまったのは俺の責任です。監督も言ってましたが、明日に切り替えてまた明日、しっかり打てるときに打ちましょう。お疲れ様でした」

 

ミーティングの締めを任された海はそうして、半ば監督の代わりのようにして場をなんとか引き締めるような言葉でスピーチを終えた。

 

試合後のミーティングを終え、各自が着替え始める。開幕戦を落とすことなんてもう慣れてしまったいるのか、ぶつくさと独り言のような愚痴なんかをこぼす者もいたが、それぞれが互いに目線を合わせることなくそそくさと着替えて、それぞれが帰路についていく。

 

開幕投手を任されていたベテランも、勝ったときだけはニコニコと調子よく景気のいいことを言ってのけるが、開幕戦を落としたものだからか仏頂面のまま誰よりも早く黙って更衣室から出て行ってしまった。

広報相手にしたときやカメラの前ではチーム内の交友がどうこうなどと語るが、実態はこんなものだ。

 

「あれがよくもまあ自分こそがチームの顔だと言えるものだよな。なあ清兵衛――」

 

――そう振り返って声をかけたかったのだが、景気よく揺らされる辮髪はそこにいなかった。

 

正直なところ、今年のチーターズに希望は持てなかった。去年あれほど補強に失敗しておきながら今年もろくに戦力を補強できず、相変わらず横嶺はレギュラーとして起用され、今年もまた外野は去年の新人を続けて併用して起用しなければいけないほど追い込まれていた。

 

いわゆる働き盛りの脂の乗った野手というと清兵衛と自分くらいしかおらず、入団まもない新人か、峠は越えてしまって足腰の状態があまり芳しくなく、シーズンフルで出場すること事態が厳しい大ベテランの両極端な選手ばかりが一軍で自転車操業状態だった。

 

比較的リリーフ陣は安定していたものの、先発として計算できる投手もほとんどおらず、開幕投手を任された投手と田中くらいしかろくな先発候補も存在せず、田中とはまた別のベクトルの生気のない選手ばかりが集まっていた。

 

こんな状態では自分がどれだけ頑張っても勝てるわけがない――。

頼みの清兵衛すらもコンディションが万全ではなく、海は開幕戦から打ちひしがれていた。

キャンプの時点で既に今年のチーターズもダメだということは分かっていたはずだったのに――海は自分の見通しの甘さに自嘲した。

 

「見たらさー分かるじゃん。開幕戦の相手、スカイクロウズでしょー?あのブ厚い選手層にうちが勝てると本当に思ってるわけ?ないない。今年もうちら、ブッチギられて終わりだよ。今年も110敗くらいしちゃうんじゃない?うちら」

後ろで嫌なやつの声がして、海は歯軋りをした。

 

「向こうは今補強もうまく行ってるしさ。さっすが、大手のテレビ局とパイプがある金満球団は違うよねぇー。あーあ、俺たちにももーうちょっと補強額と、もうちょっとの年俸なんかが分けてもらえないもんかな、スカイクロウズから。あわよくば俺が試合に出られる程度にあそこから戦力なんかも分けてもらってさ。あー、そうだそうだ。ろくに活躍もできそうにない高給取りなんかからも年俸削ってもらって俺みたいな希望の星に回してもらいたいよなー」

「……それだけ言いにわざわざ残ってた"のか"、"あんた"」

 

ミーティングの後、小室とプレーの確認などをしたりしていたせいで他の選手よりも着替えが少しだけ遅れていた海は、何故か残っていた横嶺に対して振り返って鼻で笑ってみせた。

 

携帯をいじりながらニタニタした笑みを浮かべ、ブリーチした、いやにケミカルな色味をした金髪をくるくると指で巻いている横嶺。明日も試合があるというのにどこかに遊びに行くつもりなのか、大きめのピアスをチャラつかせ、試合中にはつけていなかった青いカラーコンタクトなんか入れてみせていることに、海は心底軽蔑した。

 

「ごっめーん。一応さ、俺のほうが年上なんだけどさ。やめてくれる?タメ語。失礼だよ、そーゆーの」

「人に敬ってもらえる人間か?あんたは」

「あーあ。不動のレギュラー様は年上も敬えないってわけか。なんだよ、お前だって自分本位の打撃しかできないくせにさ、生意気なんだよな。自分一人でチームをどうにかできると思ってんの、すげえヤな感じ」

海は悪態をついた横嶺に対して後ろ手に握りこぶしを作りながら、ぐっとこらえて平静を装い続けた。

 

「俺が敬えないのは"年上"のあんたじゃなくて、今俺の目の前に居る、まだ始まったばかりの勝負の結果を自分で勝手に放棄して、そのくせ自分ひとりでは何もしようとしない、そこでキャンキャン吼えてる"負け犬みたいな"あんただよ」

「ハッ……バカ言え。言葉ではどう言ったってさ、勝てるかよ。皆分かってんだよ、一軍の皆も、球場に来てるバカ丸出しな客どもも。俺、言ったよね?お前一人なんかで試合に勝てるほど、野球ってのは甘くねーって。お前が4打数4安打打ったら勝つか?そんな話あるわけねーだろ。お前がこれまで自己満足なヒット打った試合だって、片っ端から負け続けてきたことくらい、分かってるくせにさ。え、何?まだ野球マンガみたいな展開がこのあと起きるとでも思ってる?その歳で?ないわー」

ケラケラと笑いながら椅子にドンと座り、ゴミ箱を荒く叩いてみせた横嶺はじっと黙って自分を見下ろし続けている海を睨み、続けた。

 

「お前一人の期待と力だけで試合に勝てたらさ、誰だって苦労しねーんだよ。見たよね?スカイクロウズの連中。飛距離が全然違うんだよね。あんな連中にシーズン通して勝てると思ってるとかさ、お天気にもほどがあるわ。頭お花畑かよ。お前確か、もとが日本人じゃなくてオランダ人だったよな?頭ん中にチューリップ畑が広がってて、風車が回ってるわけだ。うっわこりゃ傑作だよ。バカもいいとこだ」

「俺はオランダ人じゃない」

「んなもんどこだっていいんだよ」

「どこでもって――」

「いいか?俺たちみたいなのは、ちょっとまじめに頑張った体で試合やって、それでファンにちょっと目立ったプレーなんかしてみせてたまにサルみたいに喜んでもらって、あとは自分のことだけ考えて自分の安定だけ考えて、個人事業主として都合いいときだけチームの体裁借りて金と地位と名誉だけ集めて裏で汚い大人やりながら、表向きキラキラしたフリしとけばいいんだよ。うちのエースなんてまさにそうだろ。外面だけよくて、チームの中ではなーんもしない。あれが普通なんだよ。俺たちの世界、あれがスタンダードで、あれこそが理想形なんだよ。どーせチームなんて球団の方針と金の周りしだいで、選手の努力なんか一瞬で無駄にできるんだから」

「その努力すらしてこなくて、だらしないプレーばっかりしてるのはどこのどいつだよ。力の差が開いたのは所属した球団のせいじゃない。お前の努力不足だろうが。一丁前に女と遊ぶことだけ覚えて、一体お前はここに入団してから野球の何を覚えたんだよ」

 

ジャケットを羽織り、帰ろうとした海を横嶺は立ち上がってつかんだ。ギリギリ……と皮のジャケットの胸元が握られ、しわを作った。

頭ひとつと半分ほどの身長差のある横嶺は、下から睨みつける形で海をずっと見つめた。

 

「口を慎めよ。努力の差だけで勝てない喧嘩だってな、世の中あるんだよ。俺とお前の身長だって、こんなに違う。分かるよな?世の中努力でカバーできる差なんてのはな、案外ちっぽけなんだよ。大体お前だって、家に帰ったら随分ハデに奥さんと遊んでるみたいだよな。お前も人のこと笑えないんだよ。お前だってそんな時間があったら努力してみせたらどうなんだ?」

「……ろくに練習もしてないような手で触るなよ。俺にも、俺の服にもお前みたいなのが感染ったらどうしてくれるんだ」

 

パチン!と乾いた打撃音が室内に響き渡った。

他に誰も見ていない空間というのは、人間を無駄に大きくさせるものだ。海自身も、よくもまあ自分の口からこんな汚い言葉が出るものだと思ったし、横嶺もまた、感情を抑え切れなかったその右手を思い切り振りぬいてしまっていた。

海は少しだけ腫れたその頬を押さえながら、横嶺をじっと見つめた。

 

「ジャケット、くれてやるよ。あんたみたいなのに触られたもんなんか、もう着れないからね」

「あぁ?」

ジャケットを投げつけられた横嶺は、さらに目を赤く充血させて海をもう一度睨んだ。次に手を出したらさすがに自分の身分が危ないと思ったのか、震える右手のあて先を迷っているようで、威嚇するようにして海へもう一度振りかぶりかけた右腕を掲げている。

さっきとは違って、握りこぶしだ。これが振り抜かれてしまったら、いよいよ問題になってしまうだろう。

 

「とても哀れで、あんたにかける言葉がこれ以上見つからないんだよ。努力しなかったツケを、俺を引っ叩いたくらいで払った気になったなら、いくらでも殴ればいい。ほら、殴ってみろよ。どうせ、グーじゃ殴れないんだろ。こんな下らないことでクビにはなりたくないだろうから」

「……いちいちなあ、言うことがムカつくんだよ、お前はなぁ!!」

ロッカーに思い切り拳を打ちつけ、海を睨む横嶺。

息が荒く、長柄なんて持っていたら突き刺されそうなほどの殺気が部屋中に充満していた。

 

「……で?俺の代わりにロッカー殴ったら気が済んだのか?そのくらいで気が済む安っぽい感情ばっかり抱えていて、羨ましいよ。俺も、あんたにこれ以上付き合ってられるほど暇じゃないんだよ。あんたみたいに何とも真剣に向き合ったことがない人間には分からないだろうけど、遊びの付き合いなんかじゃ実らない、家族という存在が俺にはあるからね」

顔を紅潮させ、唇をぷるぷると震わせながらも、次の言葉も動きも出てこない横峰を海はかわすようにして出口へと向かった。

 

思い出したように振り返って海は――

「そうそう、顔に自信があるなら、ファッションくらいは当然、知識があるんだよな?そのジャケットを売りに出して、生活費の足しにでもしたらどうかな。今日の事も、誰にも言わないでやるよ。あんた、まだ現役でいられると思ってるだろうからね」

 

鼻でふんと笑い、海は部屋を出た。Tシャツ1枚には少し肌寒い空気だが、汚らわしい手で自分のジャケットを掴まれたことに海は我慢がならなかった。

横嶺は顔をさらに紅潮させ、そのまま爆発してしまうのではないか――というような顔色を見せたが、とうとう海にそれ以上の手出しはできず、黙り込んでしまった。

 

「なーに。浮かない顔して。ジャケットなくしちゃったの、そんなにショックだった?」

「……まあ、他にもいろいろと」

「たとえば?」

「……ごめん。あんまり言いたくない」

「そっか」

 

家に帰り、華耶と夕飯の支度をしていた海は華耶に軽く詮索されたが、海自身、あまり自分からすすんで気持ちを吐露しようとは思わなかった。

 

何があったかを言いたい気分ではなかったし、言葉にしたら自分がそう思っている、ということを認めてしまう事になる――それが嫌で、本当にこのままチーターズに居続けるべきなのかだとか、どうやったら自分はキャプテンとしての仕事を全うできるのかだとか――そういったことはあまり口には出せなかった。

 

『なんだよ、お前だって自分本位の打撃しかできないくせにさ、生意気なんだよな。自分一人でチームをどうにかできると思ってんの、すげえヤな感じ』

 

『俺たちみたいなのは、ちょっとまじめに頑張った体で試合やって、それでファンにちょっと目立ったプレーなんかしてみせてたまにサルみたいに喜んでもらって、あとは自分のことだけ考えて自分の安定だけ考えて、個人事業主として都合いいときだけチームの体裁借りて金と地位と名誉だけ集めて裏で汚い大人やりながら、表向きキラキラしたフリしとけばいいんだよ――』

 

多分、さっき横嶺に言われたことは、そんなに間違っていないのだ。間違っていないからこそ、海は反論したのだ。反論せざるをえなかったのだ。お前だけにはそんなことは言われたくない――と。

だからこそ、ずっと心の奥で、刺さったままの棘が取れずにいる――。

まして、自分は一人の野球選手としても今一歩壁を破れていないというだけではなく、父親としてだって未熟だ。父親としてすら未熟な人間が仕事のことばかり言って、華耶に慰めてもらってばかりというのはあまりよくないのではないか――海のそうした気持ちが、海の心にまた一枚一枚シャッターを下ろしていった。

 

現状を悔しいと思うことすら無駄なのではないか、とすら思った。これ以上もっと出来ると思っているのは本当は自分と清兵衛だけなのではないかとも思った。

上がり目のないチーム状況、育たない新人、自分のことばかりで無関心なベテランたち、都合のいいときだけチーム仲を我が物顔で語るエース――。

 

逆に、自分がもっと輝けるチームが他にあるならば、それはどういう光景なのだろうかとも考えたし、それでも、自分が今まであまり築いてこなかった人間関係を考えると、果たして、こんな自分を受け入れてくれるほどのチームが一体どこにあるものだろうか――とも考えた。

 

それだけではない。

 

子供たちの学校生活を考えると、そう自分の都合だけで移籍を考えていいようにはとても思えなかった。同じ大阪圏内のバイソンズが自分にオファーを出すようなことがあれば気持ちは揺らぐかもしれないが、そのバイソンズが自分を求めているかどうかは別だ。

おまけに、よそのチーム事情なんかを考えている余裕は、シーズンを戦っている間の海にはなかなかなかったし、いかんせん今はとにかく自分のプレーで精一杯なのだから、どこのチームの誰がどう、なんてことに興味を持つ暇は海にはなかった。

 

横嶺のことを、自分の事ばかり考えている哀れな奴だ――と思っていた海だったが、改めて自分のことを冷静に考えれば考えるほど、真に自分の事しか考えていないのは自分自身なのではないか――そうした自己嫌悪が海に激しい耳鳴りと頭痛をもたらした。

 

周囲からしてみれば、本当に哀れなのは自分だ――

 

そんな言葉が頭の奥でぐるぐると渦を巻いて、意識を引きずり込もうとする。

頭の中のアリ地獄が、吹きこぼれたスープをとうとう海には気づかせないまま――大きなキッチンで海は呆然と立ち尽くしていた。

 

「海くん?本当に大丈夫?っていうか、大丈夫じゃない顔してるよ?自分で分かってる?」

「ん?……ああ、うん」

「うんじゃないよ!あー、ほらほら……スープ勿体無いじゃんほら……どうしちゃったの?何?あたしにも言えないようななんかこう……大きなものと戦ってるの?遅れてやってきた思春期?違うか、海くんはずっと思春期か」

「そうかもね」

「そうかもね、じゃないよ!言葉のキレがもうほら全然ないもん。何があったかわからないけどさ、海くん、ちょっと横になって休んだほうがいいよ。一人で歩ける?」

「たぶん」

「たぶんて……じゃあまず頑張ってソファまで歩こう。ねっ?強い子だもんね?」

「……子供扱いするなよ」

 

隣でわざとらしく肩に寄り添って介抱したがる華耶を海は今だけは少し鬱陶しく思った。

華耶そのものが鬱陶しいのではなく、華耶にそうして自分の感情を分け与えて、同情してもらったり、その感情を吸い上げてもらって自分だけが気持ちよくなろうとしている自分が惨めだから、顔を直視したくなかったのだ。

 

「いつまでたってもあたしは海くんのおねーさんであって、お母さんだから。ほら、ママだよ。おねーさんだよ。さぁ、海くん。私に甘えたまえ」

「まだ言ってるのかよ、そんなこと」

「でもあたしはそのつもりで生きてるからさ。……うんうん、ちゃんと一人で横になれたね」

「……ちょっとだけ馬鹿にしてるだろ」

「してないってば」

キッチンから不安そうに海を見守る華耶は、ソファに横になった海を少しだけ見送りながら――再び夕飯の支度を始めた。

もとから白い肌をよりいっそう青白くさせながら、海はクッションを顔に乗せて顔を覆った。

 

「ご飯、食べられそう?」

「食わないって言ったら、華耶や子供たちが心配するだろ」

「私たちの心配よりさ、自分の心配してよ。父親らしさにこだわるのも分かるけどさ、一人の父親以前に海くんは一人の人間なんだからさ。一人の人間としても成り立たなくなっちゃ、父親にだってなれないよ。こればっかりはマジトーンで言うけどさ。そういう建前とか抜きに、ご飯は食べられそう?」

「……一応」

「じゃあ、気持ち少なめにしておくね。……ねぇ、海くん。そんなにあたしには言えないような何かがあったの?ジャケットだって、本当は何かあったんでしょ?暴力沙汰?事件?そういうのじゃないんだよね?そこだけは教えて?」

「……そういうわけじゃないよ」

「ならよかった」

 

《あんな奴殴ったら、俺の手まで汚れるからな》

ぽつり、と海はフィンランド語で呟いた。

 

「ん?」

「……いや、なんでもない。なんでもないんだよ」

「ねーえ。フィンランド語で逃げるのやめてよー。気になるじゃん、なんかさあ、ワケありです、みたいなさあ。昔とちっとも変わんないね、そういうところ」

「悪かったな」

「えーえ。悪うござんす」

その華耶のおとぼけにすら反応しない海を見て、華耶は思わず包丁を止めた。

 

「ねぇ。海くん。海くんがさ、昔――昔って言ってもまだ7年くらい前のことだけどね」

「もう7年も前の事だろ」

「そこはいいからさ。あの頃、海くんがあたしを――救ってくれたことがあったじゃん。職場から」

「あったね、そんなことも」

「あれさ、嬉しかったんだよ。とっても。やり方は少し荒っぽかったかもしれないけどさ」

かつて職場がうまくいってなかったことを思い出しながら話し始める華耶。海はそれを黙って聞いていた。

 

「海くんが思ってるよりもずっと、あたしは海くんに助けられてる。あたしが海くんのおねーさんで居てあげてるとこもあるけどさ、海くんが思ってるよりずーっと、海くんってあたしにとっては王子様なんだ。海くんが自分で気づいてないだけで」

「……」

「だから、あたしに出来る事なら、なんでもしたいんだよ。そういうのが重たいって思われてるなら、仕方ないけどさ。でも……あたしが一生かけて海くんを支えるんだって決めたことだから……あたしに、あの時助けてもらったその倍、いーや、何倍も……おねーさんでいさせてほしいんだ。抱いたら、元気になれそう?」

「……そういう次元じゃ……ないかな。ごめん。重たく思ってるわけでもないんだよ。ただ……」

ただ、という言葉の続きが出せない海を見て、華耶はよほど海の中で言葉として表現しがたい何かネガティブが渦巻いていることを察した。

「そっか。普段なら、飛びついてくるもんね。抱いて解決できないレベル、か」

 

「……本当に抱いて解決しない?」

「何だよ、抱かれたいだけなんじゃないか」

「いやなんかこう……今、すっごい女として否定された気がしてちょっとグサっときて」

「そういうわけじゃないんだよ。ただ……なんだろうね、ひたすら自己嫌悪に陥ってるときに華耶を抱いて何かが解決するとは思えなくて」

「でも今までも似たようなシチュエーションに陥るたびにあたしを抱いてきたじゃん、何度も何度も」

「それは――」

「あたしのはじめてをあげたときもそうだったし」

「それはそうだけどさ」

「ねーえ。あたしが別に一人でたまってるわけじゃあないんだよ。あたしの全身で海くんのそういう、なんだろう。なんかもやもやを吸ってあげたいんだよ。スポンジみたいに。ううん。スポンジは吸ったら、そのまま垂れてきちゃうからね。そういう意味では、あたしはきっと、海くんの心の珪藻土マットなんだ」

「珪藻土マットて」

「抱いたら何もかも解決するわけじゃあないとは分かってるんだけどさ、海くん、そういうのいっつも一人で抱え込んで一人でずっとモヤモヤしてるじゃん。言いたくないなら言いたくないでさ、その言葉にできないのか、したくないのか……どっちでもいいけどさ、そういうヤな感情、全部吐き出して欲しいんだよ。全身で。いつでも海くんのそういうのに応えられるように、あたしはずっと綺麗で可愛くあり続けてるわけだからさ。みっともないとも思わないし、ダサいとも思わない。あたしは、どんな海くんだろうとずっと隣で支えるのが仕事だから」

「……」

「22時半、地下室で待ってるから」

 

海の返事など聞かずに、華耶はそう言って再びリズムよく包丁を叩き始めた。

海は特に返事もすることもなく――ただ黙って、クッションで覆った暗い世界を見つめていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。