『あと1勝で100敗回避』
そんな横断幕が内野席に掲げられていたのを海は見逃さなかった。
今シーズンの甲子園で行われる最後の試合、とっくに最下位が確定したチーターズは応援もまばらで、観客席の濃い緑は打席からもしっかり目視でき、その野次もまたよく響いていた。
『きょう大差で勝っても意味ねーんだよ!!』
『ヒット打つだけじゃ意味ねーんだよ佳井!!』
割れ窓理論とはよく言ったもので、誰かが飛ばした野次に便乗して、ワアッと拍手が沸いたり、時折見かける国会中継の様子のようにそうだそうだと便乗する者すら現れる。
打席に向かい、そして帰ってくる海。
あれほど不調だなんだと悩んでいた海だったが、シーズン中盤にはしっかりとこれまでの遅れを取り戻すよう復調し、今年もなんとかギリギリ4割2桁本塁打に届くかどうかというところまで成績を上げてきた。
一方で、この試合は本塁打こそ打ったものの、満塁のチャンスでカス当たりの併殺打を打つというなんともらしくない打撃を見せてしまい、相変わらず海は自分の打撃に納得が行かないという日々を今日のように繰り返していた。
試合には大差で勝ったとはいえ、追加点のチャンスで打てなかったことに海は試合後居残って練習をしていた。勝ったから満足したということは海には全くなく、結果的に100敗を目前にしたチーム状況において、自分がもっと打てていなければいけない試合はたくさんあったのだ。
いずれ、今日のように自分が打たなくともチームが大勝できるような日々が来るようになって、ポストシーズンやBBLシリーズに進出することになった際、こんな打撃をしているようでは自分のせいで大事な試合を落とすなんて場面がやってくる――海は来るべきその日のために練習を続けていた。
いや、そう思って練習に打ち込まなければ、心が持たなかったのだ。
満塁の場面での併殺打。そのときの野次が海にはずっと残っていた。
『こういう場面で足引っ張ってるから勝てねーんだろうが佳井よお!!』
決して海が勝負弱いわけではないということはデータが示している。得点圏打率だって.380ほどで、打率とさほど変わらない。
データ上ではしっかりと勝負強い打撃を見せているはずの海が、ここのところチャンスで打てないと思われているのは、こうした場面での凡退がたまたま重なっているからだ。
人間、都合の悪い数字は信じず、印象に残った場面だけでモノを語りたがる。その典型的な例が今の海の姿だった。
一方で、海が打っていれば勝てたかもしれないという場面が度々あったことだけでなく、3番打者として打点が60点台という、他の5球団――ひいては球界全体で見るとなおさら物足りない打点が、一部のファンからはそこを強く切り取った形で『佳井はチャンスに弱い』『肝心なときに役に立たない』というイメージを強くさせてしまっていた。
勿論、華耶が海に対して『打点なんて前の打者が出ていなければどうしようもない欠陥指標』と慰めていたように、実際のところ、打点が60点台に収まっていることだって海一人のせいではなく、チーターズは全体的に今シーズン打撃不調に陥っていたことも大きい。
事実、海に対して回ってきた得点圏打席数は他のチームよりも圧倒的に少ない。そうした一目では分かりづらい情報からは大体の人間は目を背けたり関心がないことだから、打点だとか、たまたま目に付いた場面での凡退だとかを理由に海に対して一方的なイメージを植えつけていた。
それはまるで自分に対して『転校生は外国人の王子様』などといった一方的なイメージで接してくる人間が多かった学生の日々と似ているようで、どこまでいっても自分は他人から一方的なイメージを抱かれるのか――と海は思い苦しんだ。
衰え始めた清兵衛、一向に育たない新人、ベンチではそ知らぬ顔をしてばかりのベテラン、やる気もなくバラバラのままのチーム――。
それだけ色濃く、海が打たなければいけない場面というものが浮き彫りになればなるほど、打者の中では海一人に強いヘイトが集まってしまっていた。
その矛先にあったのは海だけではない。
『田中の"た"ーはー「足りん」の"た"!田中の"な"ーはー「無いわ」の"な"!田中の"か"ーは「帰れ」の"か"!!』
いつからか、田中がマウンドを降りる際に使われるようになったコール。球団からも応援団に対して選手への誹謗中傷はやめるようにと再三広報を通してアナウンスをされたのだが、そのコールはなかなか収まらなかった。
ベテラン投手なんかも『田中一人にああした声をかけるのをやめてやってくれ』なんてカメラに向かっては喋るものの、田中が居ないところなんかでは『アイツがもうちょっとしっかり投げてくれれば俺だってこんなこと言わなくて済むものを。俺の若い頃はもっとしっかりエースとしての自覚を持っていたものだけどね』などとコーチだとか中継ぎ陣なんかに話したりしていて、投手は投手で海の知らない地獄が広がっていた。
野球ファンや一部のコーチたちの言う『期待の裏返し』という都合のいい言葉は怖いもので、それだけ本気で応援しているのだなどと言い始める者もいれば、罵声のない礼儀正しいかしこまった野球は野球ではない――と言い出す者すらいる。
命がけで応援しているのだから選手も命がけで試合をしろというのは、半分は間違っていないのだろうけれども、ごく一部だとはいえ、わざわざ金を払ってまで試合を見に来て選手に罵声を浴びせるというのはどういう気持ちなのだろうと海は思った。
金を払ってるのだから怠慢プレーの一つには文句くらい言わせろという気持ちもまったく理解できないわけではないが、選手というものはそもそもファンや観客の奴隷ではない。
本気で応援してくれているファンというものがどれほどいるのかは分からないし、地元のファンがそれでももう少し見ごたえがあり未来があるバイソンズの試合のほうに愛を傾け始めていることも仕方の無い事だと思う。
客を変えることはできない。仮に客を変えるものがあるとしたら、それは広報や球団連盟たちの仕事だ――海は広報の奮闘を信じ、今季最後の3連戦となる名古屋でいつもどおり円陣を組んでいた。
「シーズン100敗は回避した事だし、自分たちにできることを一つずつ積み重ねていこう。来年こそはああいう客以外で球場を埋め尽くせるよう、もう一度客を呼び戻そう――」
「はいはい」
「戻らねーよ」
誰が言ったか分からないその言葉の主が誰かなど、海にとってはもはやどうでもよかった。
そんなことよりも、空気を不穏に変化させた言葉が試合前の緊張感を解いてしまい、皆で肩を組み――一応、形だけは一体感を保っていたその最後のバランスが崩れていってしまったことのほうが、よほど問題のように海は感じていた。
表情に覇気の感じられない、田中とは違うタイプの『よくいるタイプの顔』っぽい個性のない顔つきをした先発投手がうんざりした様子で肩をぐるぐると回し始めた。
最初から円陣に加わっていなかった横嶺は携帯をいじりはじめ、周囲もその空気に流され始める。
横嶺とレギュラーを争っていた新人たちは横嶺のそうした態度に苛立っているようだったが、円陣自体にも興味がないようで、顔が既に『早く終わってくれないかな』といった言葉を吐いていた。
「……ドルフィンズの先発は、うちらを出て行ったピッチャーだ。癖だって分かってると思う。向こうも進化してると思うけど、この試合、全員で勝とう」
再度、円陣をかけ直そうとした海だったが――どうにもならない。
一度緊張感が緩んでしまったベンチの空気はもはや円陣という空気にはならず――数日前から、手の違和感により清兵衛すら欠いてしまったチーターズ。
ベンチの空気をもう一度引き戻すことは海一人にはもうできなかったし、この空気に異を唱えられるほどの正義感を持つ者もいなければ、散らばった空気を笑いでまとめられるほどの者もいなかった。
ベンチスタートで一向に来ることのない出番を待つ者の、うんざりしたような大きなあくび、横嶺のニヤついた表情――我関せず、といった表情で素振りをし始めるベテラン、『なんだったんだよこの時間はよ』と愚痴をこぼしながら首を鳴らし散らばる新人たち――。
こんなチームでは、一生勝てるわけが無い――。
こんなチームのために戦ったって、どうしようもない――。
そう思った瞬間が自分の終わりだということを海は分かっていたが、残りたった3試合を前にして、海の心は折れた。
あっという間に今シーズン最終戦を含む3連戦が終わり、足早に更衣室からは人が去っていく。
誰も居なくなり、空調の音しか響かなくなった静かな更衣室に、海は一人で愕然としながら――しばらくそこから動けずに居た。
清兵衛さえ居れば――という気持ちは、むしろ、これまでも清兵衛が居てこのチームはこのザマなのだから、きっと清兵衛が今日ここにいてもどうにもならなかっただろう――という絶望感が海を覆い尽くし、手足をからめとった。
酒が自分を救済するとは思えなかったし、女遊びが自分の気晴らしになるとも思えなかった。
各自解散――。
シーズン最後のミーティングですらも今野はろくにミーティングをすることなく、あっさりとその内容を打ち切った。
どうせどうにもならないと思っているのだろう、今野も生駒も足早にミーティングルームから立ち去ったと同時に、各々が散り散りに食事に出かけてしまった。唯一、小室だけが肩をぽんと叩いて『今季もお疲れ様でした』と一言告げたくらいで、その小室も『居残ったところでどうにもなりませんから、僕はこれで』と足早に去ってしまった。
残ったのが自分だけというその空間がなおさら自分の今置かれている状況を映し出しているように見えて、海は呆然とし尽くした。
こんな状況で、誰も悔しいと思わないのか――。
それとも、悔しいと思っている自分のほうがイカれているのか――。
しばらくして、見上げていた天井のピントが合わなくなり、前が見えなくなった。
川口の駅から蒲田に向かって雨の中電車に乗った日以来だろうか、孤独に打ちひしがれて自分の頬を冷たいものが伝ったのは――。というノスタルジックさえ、海の心から滑り落ちていった。
「佳井選手――」
「……」
「佳井選手――」
あまり長時間ミーティングルームに居座っていたってどうにもならないし、そのうち警備員なんかもやってくるだろうから、と駐車場までかろうじて歩いてきた海だったが、既に人気のなくなったダガヤドーム前をふらふらと歩きながら、これからどうするべきか途方にくれていた。
「佳井選手――!」
ふらふらと、普段の凛とした佇まいからは想像できない、まるで住処を失った放浪者のような姿を呼び止めた一人の若い男が、海の腕を掴んだ。
「……なんですか」
「僕、ナゴスポの木村――木村覧穂【きむら・みのり】って言います。こんなひどい雨も降ってるのに傘も差さないで、どこに行こうってんですか。佳井選手のそんな姿、見てられませんよ」
「……どこだっていいでしょう。そうやって、僕のこと記事に抜こうったってそうはいきませんからね」
どうでもいいような、ブツブツとした返事に対して木村は一度は振りほどかれたその腕をもう一度掴み、なんとか引き留めようとした。
「何言ってんですか、書きませんよ。……タクシー呼びましたから、とにかく、傘入ってください。風邪引きますよ」
「……なんだっていいじゃないですか、僕が風邪引こうだのなんだの。シーズンだってもう終わったんだから、ほっといてください」
「よくないですよ。僕も啓皇出身なんです。僕からしてみたら、佳井選手は先輩なんですよ。今の佳井選手は、記者としてじゃなくて、男として見てられないんです」
強い眼差しが海には鬱陶しく思えて、そんな木村のことを鼻で笑った。
「……あんたに何が分かるんですか」
「何も分かりません」
「分からないなら、ほっといてください」
「分からないけど……後輩に心配されるのはお嫌いですか」
「……あんたが俺の事を後輩と思ったとしても、後輩とはまだ思ってないからね」
「じゃあ、思わなくてもいいです。一人の通りすがりのファンに心配されたくらいの気持ちで十分です」
「……新聞記者は信用ならなくてね」
「言ったでしょう、書きませんって。先輩のこんな姿……僕には書けません」
木村は近くに停まったタクシーに半ば無理矢理海を押し込むようにして同乗した。
連れられたのは球場から少しだけ離れた、早朝近くまでやっているチェーン店のラーメン屋だった。夜遅いこともあって客はまばらで、おまけに大阪ほど自分の顔は知られていないこともあってか客たちは自分を『佳井海』だとは気づいていないようだった。
海は周囲を若干気にしながら木村に促され、椅子へと腰を下ろした。
「おなかすいてるでしょう。どうせチェーン店のラーメンなんてそう高いもんでもないですし……好きなもん食べていいですよ」
「……食事って気分じゃあなくてね」
「じゃあ、なおさら食べてください。まさか朝まで何も食べないつもりですか。どうせ、ホテルや地元に帰るまでの足とかだってちゃんと予約も取ってないんでしょう、その様子じゃ。なんですか、まさか歩いて大阪まで帰るつもりだったんですか」
「……」
「近くのビジネスホテル、とっときました。食べたらタクシー呼んであげます」
「……そうやって俺を使って出し抜こうってのか」
「僕は書きませんよ、命に誓って」
「それをどう信じろって言うんだよ」
「僕は書かないと誓いますが、他社はそうじゃないかもしれませんよ」
木村のため息に海はじろりと辺りを見回した。さすがに飲食店の中にメディア関係者が大量に待機しているとは思えないが――。
「心配してるんですよ。先輩にあたる人間がこんな悲しい姿を公に晒してるのを他社にすっぱ抜かれることを。何があったかなんていちいち聞きませんし、どうするつもりだったかも聞きませんけど、とりあえずもっと自分を大切にしてください」
「……」
まだ生乾きの髪の毛や顔を見て、木村は海にハンカチを差し出した。
「……これをネタにあんたんとこの球団代表にかけあうだとか、何か俺を使って駆け引きをしようってんじゃないだろうな」
「どこまで人を信用できないんですか。メディアのこと疑ってるっていうよりもはや人を疑ってるやつですよそれ」
「……そういう性格でね。世の中、悪いことを考える奴はどこまでも悪いことを考える。しかも、それで町中が溢れている。この国に来てから、人間というものはどんな国を問わずみんなそんなもんだ、ってずっとそう思ってる」
「だったら、それでいいですけども。……野球の話だって、したくないんでしょう?だったら、僕からは聞きません。一応、僕はオンオフをしっかり切り替える人間なんで」
「……」
本当かよ、という声が今にも漏れそうな表情を海は木村に対してしながら、運ばれてきたラーメンに手をつけた。自分で頼むのも面倒だったので、木村が頼んだものと同じものを頼んでいた。
「……一応、しつこいようですけど。僕は後輩として佳井選手に声をかけました。佳井選手が僕の事を後輩と思ってもらわなくても結構です。互いにそういう仕事してるから、それは仕方ないです。ただ、これだけは約束してください」
「……なんだよ、結局食事を口実に、俺に注文をつけるんじゃないか」
海は呆れたような様子で麺を不器用に口へ運ぶ。すすって食べる、ということが未だに上手にできない海は豪快に食べている周りの人間が少し羨ましく見えた。
「人の話を最後まで聞いてください。……あんまり、そんな顔しないで下さいよ。ライバル紙書いてる側という立場でも、佳井選手のそんな顔見たくなかったです。よほどの事があったってことなんでしょうけど、そんな戦力外が決まったような顔……しないでくださいよ。僕から言っても説得力ないかもしれませんけど」
「……俺だって、したくてこんな顔してるわけじゃあない」
ぽつり、と海が呟き――箸を止めた。
「……何があってもしんどい顔ひとつ許されない仕事だ。正直言って、とっとと辞めてしまいたくもなる。でも、俺にできる仕事なんてもんがあるとも思えない。守るべきものがあるから、死ぬ事だって許されない。つくづく、辛い仕事だよ。俺は、もうダメだ。誰の期待にも応えられない。愛する者からの期待すらもね。そうやって、ただただ歳ばかり食って、何も成し遂げられないまま死んで行くんだ」
「やめてくださいよ。そんな自暴自棄にならないでください」
「書きたかったら、勝手にすればいい。記者なんだろ」
「佳井選手――」
テーブルに札束を置いて席を立とうとした海を木村が呼び止める。
「……命にかえても、今夜の事は記事にはしません。もう一回言いますけど……そんな顔、しないでください。悲しくて、記事にも出来やしません」
「……そうかよ」
木村が呼んでおいていたタクシーに乗り込み、海はホテルへと向かった。素直に明日大阪に帰るかどうかは、明日起きてから気が向いたら考えよう――と海は思った。