タチの悪い、ファンの顔をしたただの暴徒というものは、「遠くに飛ばさないと試合に勝てない」、「シングルヒットだけでは試合に勝てない」と言うくせに、遠くに飛ばすための打撃を試みると今度はこう言うのだ。
『バットに当てなきゃ意味ねーんだよ!!』
オープン戦になっても、海は大振りをやめなかった。オープン戦での打率は2割を切り、ファンからは『いよいよ今季は120敗か』『佳井も終わりならもうどうしようもない』『いっそチームを解散したらどうか』というため息がオープン戦の時点から聞こえてきた。
大きく振れと言って自分に長打を求めたのはお前らのほうだろ――と海はそうした罵声に対して中指でも立ててやりたい気分だったが、黙って打席へと向かい続けた。
そうなると今度はファンの期待というものは、一気にジェネル一人に傾き始めることになった。
オープン戦というものはあくまでも選手の力量を確かめる試合なのだから、オープン戦で好調だったからといってそれがシーズン始まればどうにかなる、というわけではない。
……ということを皆心の奥では理解しているはずなのだが、オープン戦で打率3割後半をキープしていたジェネルに観客は期待を寄せずにはいられなかった。
『佳井という花はとうとう開かなかったが、ジェネルという花が次に開くだろう』
そんな事までも大手スポーツ誌には書かれるようになり、シーズンが始まる前から海は既に終わった人間として扱われるようになってしまった。
今年の6月には33歳になる海。
普通に考えるとそろそろ下降線に入り始めてもおかしくない年齢だし、ここから飛躍的に伸びる人間というものは大体ここまで何かしらの下積みがある人間だ。
ここにきて打撃が開花する人間というのはよほど数少ないチャンスをものにした、一握りの中の一握りで――その中に海がいるとは到底誰も思っていなかった。
何しろここまでシーズン打率4割を2度記録し、レギュラー定着以降は毎年のように3割後半を平然と打ち続けてきた海。そもそもこれが海の完成形であって、既に頭打ちだったのだ――そう考えるのが誰だって自然だったし、ほぼゼロからの経験だったセカンドやショートの守備をこなしているうちに海という人間のポテンシャルは腐ってしまった――というものが誰の目からも明らかだった。
試合前に軽く食事をしていた海は、すぐ隣で食事をしているジェネルに突然話し始めた。
「今までは、せめて、ファンのために野球をしようと思っていた」
「今は違うんですか」
「荒い言葉を使うファンというものがごくごく一部なものだと思っていたけれど、そう思うのもやめた。ノイジーマジョリティなんて言葉もあるようだけど、ここのファンは違う。ノイジーなんてもんじゃないし、マジョリティなんてもんでもない。未だにサムライが居た時代の価値観でチームや選手を見ている。一個ミスしたら、市中引き回しの上打ち首獄門みたいなもんだろ、うちのファンは。それでいて、一個勝ったり、一個いいプレーした位じゃ喜ばない。貴族が奴隷同士の決闘してるのを安全圏から観戦してるようなもんだよ。それでいてちょっとチームの調子がいいと相手のチームを煽りだす。気に入らないね」
「夢がないですね~」
「金を払ってまで文句を言いに来たい人間が少数派どころか、結構いるって分かっちゃったからね、長いことこの世界に居て。もっとも、そういう状況から抜け出せないこの体たらくも、随分なものだけど」
海はそう言いながら、喉を潤すために冷製ミネストローネに口をつけた。ほどよい酸味が変に喉に絡んで、海は思わず脇に置いておいたウーロン茶に手をつけた。
「それじゃあ、今は何のために野球をやってるんですか?」
「少し前までは、前の監督を見返してやるためにやっていた。お前だって知ってるだろ?前野」
「前の監督だから前野って覚えるようにしています」
「どうでもいいよ、そんなこと。アイツは、テレビの顔以上に、ひどかった。記者会見でも分かったと思うけど、あれはキャラでやってるんじゃなくて、本当にあれが素だった。でも、あのハゲジジイが居なくなった今は、ファンを自称してるだけのクレーマーに、二度と俺に向かってそんな口をきかせなくしてやろうと思ってプレーをしている」
「動機が不純じゃないですかー」
ジェネルは思わず苦笑を浮かべ、眉間に深いしわをよせる海を見つめた。
「俺だってそう思ってるよ。でもね、こんなところから抜け出せなかったうちに、心がそうなってしまったんだよ。いいや、違うね。もとからそうだったのが、余計そうなってしまったんだよ」
「じゃあもっとこう、キラキラしたもの、見つけましょうよー。今は私が居ますから、私のために一緒に頑張るとかじゃダメですか?キラキラしてません?ザ・青春!って感じしません?なんなら、私のためにホームラン打つとか言ってくれちゃっていいんですよ?」
海はそんなジェネルの提案を鼻で笑いながら、再びウーロン茶に手をつけた。
「馬鹿馬鹿しい。俺はできない約束はしない主義なんでね。だから、嫁にもそんなこと言った事がない」
「奥さんや子供たちのために野球してるわけじゃないんですか?」
「家族を養うのは、夫として当然のことだろ。そんな当然なことは、わざわざ口に出すものでもなければ、胸を張って宣言するようなもんでもないと思ってる。家族のために頑張るってのは、家庭を持つ以上義務であって、そんなものを目標にしてる時点で、心のどこかに家族が二番目以降だってことを自称してるようなものだよ」
「海さんは物事をシリアスに捉えすぎなんですよ。家族のためにっていうのも立派な動機じゃないですか?野球、本当は好きじゃない人みたいな言い方じゃないですかー」
好きじゃないんだよな――そう思いながら海はもう一度ウーロン茶に手をつけ、やり過ごそうとした。
「そいつにンな事言ったって無駄だぜ、お嬢ちゃん。そいつは義務感や使命感で野球をやってるから、野球が楽しいと思ったことなんてねェ奴なんだワ」
間に割り込んだ清兵衛がジェネルにお茶を投げ渡しながら、向かいの席に座った。
「それって悲しいじゃないですか。野球あんま好きじゃない、って言ってるのだって、あれはキャラでやってるって皆思ってるんですから――」
「勝たないとな、意味がないんだよ。野球なんてのは。俺個人が打つだけじゃ、客も、フロントも――誰もかも皆納得しないらしいからね。ちょっと一本ヒットを打つだけで凄いって言ってくれるのは、嫁くらいだよ」
「じゃあ、私も奥さん以上に、海さん凄いって言ってあげます」
そんな言葉に対してピクリとも笑みを浮かべずに、海は席を立ちながら――
「お前はこういうところ見習わなくていいからな。お前の時代がくる頃には、きっと、こんな腐りきったチーム環境だって変わりきって、暴言吐いてばかりのファンだってヴァリエ大阪かブルーバイソンズのファンに鞍替えしてるだろうから」
そう言って一足先に食堂から出て行ってしまった。
「ま、見ての通りだ。長いことアイツを見てきたがね、あんなふうに、アイツは考えすぎだ。もっと出来るはず、もっと出来るはず――とな、アイツは失敗を極度に恐れすぎている。失敗できねぇ環境になっちまったのは何もアイツのせいだけじゃあないんだがね」
清兵衛はそう言いながら、ステーキを厚めに切って頬張り、それを炭酸水で流し込んだ。
「今のアイツは、失敗してもいい、と割り切っているようにも見えるが――いかんせんありとあらゆるものを背負い込みすぎだ。だが、アイツに男として道を開けるほど、俺ももう若くねェ。俺がもっと若けりゃ、もっとたくさん結果で示すことも出来たんだろうが、俺も今は自分のことで手一杯になりがちでな。俺がこんなことを言う日が来るたぁ思ってもなかったが、歳ってもんは、想像以上に人の身体をダメにする。お前さんが言ってるように、俺ももしあと5つ若かったら、アイツに見せることが出来た世界がもうちょっと違ったものをよ」
「海さんに、一人で戦えって言うんですか」
少し無責任な言葉に思えたジェネルは、清兵衛の言葉につい反論した。
清兵衛は少し困ったような表情を浮かべ、腕を組んだ。
「そうは言ってねェだろ。アイツは今、なんとか自分の中でなんとかしようと思ってる。アイツだって、このままでいいと思ってるわけじゃあねえ。いつもいつもアイツは自分一人の戦いばかりしてきたが、今年のアイツはいよいよ正念場だ。この一年が、アイツのこれからを決める一年になるだろう」
「でも、それって――海さんを信じてるから、清兵衛さんはあえて今は手を出してないんですよね?」
「あ?」
ジェネルの言葉に思わず清兵衛はぎょろりとした目でジェネルを見つめた。
「歳のせいだとかなんだとか――清兵衛さんは多少それっぽい理由をつけてますけど、それでも海さんが自分で這い上がれると思ってるから、今は何もしてないんですよね?」
「……そいつァ、お前さんは俺を買いかぶりすぎだな。お嬢ちゃん、アイツのことにしろ、俺のことにしろ、人を買いかぶりすぎはよくねェぞ」
「言葉の割には、目が生きてるんですよ。海さんも、清兵衛さんも。このままで終わってたまるか、って目をしてるんです。私には分かります。本当に自分のことだけで手一杯で、他人のことなんかどうでもよかったら、私にだって構わないはずです」
「さぁ、そいつァどうだかね」
清兵衛もまた鼻で笑いながら、再びステーキを頬張った。ついさっき海がしたような笑い方を清兵衛もしているのを見たジェネルは、微笑みながら食事を続けた。
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きのうの開幕戦を完封負けという最悪のスタートを切ったチーターズは、この試合も観客の波に押されそうな空気があった。開幕戦をビジターで迎えるというのはさほど珍しい事ではないが、年々ビジター応援席に見える黄色い旗やメガホンの色に空席が見え始めていることに、今野も思わず『寂しいものだね』と呟いた。
その開幕戦、海はいつに無く珍しく2つの三振を喫した。1試合2三振など年に何度かしかしないものだから、観客も思わず動揺を隠せなかったが、8回のホームランが出れば同点に追いつけるチャンスで、普段ならチームバッティングに徹する海がまたしても大振りを続け、結果的に併殺打に終わった場面には容赦なく怒号が飛んだ。
『やる気がないならとっとと辞めェ!!能無しが!!』
『お前が打たなきゃどうするんじゃボケ!!』
『わざわざ大阪から来とんのやぞこっちは!!』
『殺したろか!!コラァ!!』
海はピクリとも表情を動かさず、その打球の行方を見つめていた。
大振りしながらシーズン中、自分のスイングはどこまで振っていいのか、どこまで振るべきなのかを見定める――海がこの一年を捨てるつもりで考えた作戦だった。
どうせ自分一人が打ったところでこの一年、大してメンバーだって補強もしないどころか流出が相次いでいる以上、どうにもならないだろう――。
次の一年を見定めるために、今の自分が一体どれほどのスイングでどれほどの打球が打てるのかをしっかり見極める必要があるように海は思った。キャンプでの打ちやすい球ばかり打ち返す練習だけではもはやどうにもならない。なにしろ、どこにどのような速度のボールが向かってくるか分かってるのだから、自分の打席でどのようなシフトを敷かれ、どのような対策をしてくるかはやはり生きた球でないと見定められない――海の苦渋の決断だった。
もちろん、単なる思い付きというだけではなく、監督やコーチ、フロントにはしっかりその意思は伝えてはいた。
シーズンが始まるまでにそういったところはしっかり対策しなければならないと海はこれまで思っていたが、これからはむしろ自分がその裏を突けるような動きが必要であって、それが出来ない限り一生、清兵衛の言っていた30本、40本の世界は遠いだろうと海は考えた。
勝ちにつながる打球を放つために、自ら負けに駒を進めてしまうような行動も選ばなければならないときが来ている――海だって本来、このようにして試合を捨てるようなスイングなど海だってしたくはなかった。
しかし、そうでもして来年からのことを今のうちから考えておかないと、自分のスイングでこの先勝利を導くことなんて絶対不可能だ――海はそう思っていた。
ジェネルには到底、負けることを選ばなければならない打席だってある、などとは言えないだろう。華耶にだって、自分が来るべき未来のために打席をしばらく捨てるつもりで打席に立ってるなんて言う事はできないだろう。
プロに入ってからずっとケースバッティングばかり考えていた海は、そうとでもプレーを割り切らないと自分みたいな選手はバランスを崩しかねないと思っていた。
力任せの下品なスイングばかり常に出来る人生があったなら、どれほど楽な人生だっただろうとも海は度々考えた。そして、皮肉にもそうしてチーターズからスカイクロウズへと移った選手が、腰の不調を理由に昨シーズンからスタメンを外れている。
フルスイングしかできなかった選手がフルスイングができなくなった、というのは、大きな不安材料だが、自分のようにフルスイングしなくても自分のバッティングができる人間は、フルスイングがどうしても自分に合わないようなら、別に肉体改造をしたわけでもないから、徐々に自分のスイングの感覚に戻してけばいい――それは海にとってはフルスイングを続けることよりもよっぽど楽なものだった。
もちろん、自分では楽だと思っているだけで、簡単に実践出来るかどうかはまた別なのだが、海にはそれが出来る自信があった。最終的に自分のスイングに徐々に徐々に戻していく形で大振りのスイングを調整する作戦をしているのだから、いわば今の自分は、重たい枷を全身につけてプレーしているようなものだ。
不気味なほどの自信を抱きながらも、それでもケースバッティングを考えたくなるような――初回、一死一塁という状況で海に打席が回ってきた。
やや前のめりでその打席の様子を見ようとしているジェネルの姿と、それを抑えようとする清兵衛の姿が見えた。
素直にスイングして後ろにつなぎたいような気もするし、自分がここで打たなければ――という気持ちが揺らぐ状況だが、海はいったん間合いを取り――バットを構え直した。
初球、大きなスローカーブが投げ込まれるが、見送ればボールだろう――。海は特に動じることなく、そのボールの行く末を見守った。自分へと向かってくるような軌道の大きなゆるいカーブで内角を封じたかったのだろうけれど、海は何事もなかったかのようにバットを構え、次の一球を待った。
今更内角を攻められようが、ぶつかりさえしなければどうだっていいのだ。向こうももともと避けないほうが悪いというスタンスで内角を突いてくる投手なものだから、外に投げてくるイメージを海はまったく持たなかった。
それで外を突かれるようであれば振るだけだが、わざわざ外から外にスライダーをかすらせるほどの器用さがこの投手にあるとは思わなかった。
あとは、その球をしっかり打てるかどうかの問題であって――
再び大きく曲がる、今度はスライダーがインハイに向かって投げ込まれる。曲がりが大きく、しっかり振らなければぶつかるリスクだってあるかもしれないが――そんな対策を一体何年してきただろうか。
喧嘩を売る相手を間違えたな――と思いながらも、自分との戦いに果たして打ち勝てるだろうか――大きいスイングが少しだけバットのヘッドを遅く出したが、キャンプで何度もへし折ったバットの感触が両手いっぱいに広がる。
ガコンッ――!
しっかりと芯で捉え、はじけるような快音を奏でたバットは真ん中ほどで折れ、打席のあたりで散らばった。
そんなことには目もくれず、海も、相手捕手も、そのボールの行方を黙って見つめていた。
少しだけライトのポールにボールが巻くようにしてライナー性の打球がぐんぐんとスカイクロウズのカラーである紺一色に包まれた応援団向かって飛んでいく。相手捕手がファールにはならないだろう、と確信し愕然としたときには、ガッツポーズ一つもせずに海は一塁ベースをしっかり踏んでホームへと向かっていた。
ホームで先陣を切って出迎える清兵衛とジェネルが、海のお決まりのハンドサインを右手でふりふりしながらハイタッチを求めていた。海は渋々それに応じ、カメラに向かっても今一度I love youのハンドサインを向けた海は、ベンチに戻るや否やまだ自分のスイングが100%ではないことに首をひねり続けていた。
「先制弾ですよ。もっと喜びましょうよ、海さん。このまま勝ったら決勝弾ですよ」
「このまま勝ったらね」
「またすぐそんなこと言う」
すぐに腕に抱きつく癖のあるジェネルを海は鬱陶しがりながら振り払った。