5月の大型連休の最中行われていた前期混合戦が終わる頃には案の定最下位街道を爆走し続けていたチーターズ。
可能な限りは勝負を諦めないつもりでいた海だったが、ビッグスコアによる大敗のときはチームバッティングを海もまた止め、自分が本当になすべきスイングを実践の中で見極め続けようとし、相変わらずらしくないスイングを続けていた。
勝負する気があるのか、という野次も少なからず飛んできた。
なかなか調子の上がらない清兵衛、そして海までもがやけくそになるようでは今年のチーターズはもうジェネルくらいしか見るものがないが、そのジェネルもプロの洗礼を受けはじめ、成績は徐々に下降線をたどっていた。
「144ある試合の1つも私は捨てたくないんです」
ある試合後、ジェネルは残ってティー打撃をし続ける海に苦言を呈した。
「またその話か」
「絶対、海さんはこれまでのスイングに今すぐ戻すべきです。戻すべきっていうか……お客さんだって、海さんのしなやかなバッティングを見に来てるんですから、その期待に応えてあげるべきだと思うんです、やっぱり」
居残り練習でもひたすらにバットを折り続け、ジェネルからしてみればまるでやけくそで、怒りに身を任せたようなスイングにしか見えなかった。
海が単なる思いつきで自身のプレースタイルを変えようとしているわけではないとはジェネルも思ってはいたが、それでも、こうして試合後も力任せのスイングを続けている姿を見ていると、単にボールに八つ当たりをしているのではないかと思うようにもなった。
「それは分かるよ。俺だって本当はそうしたい。俺だって、大差がついた試合なんか好きで自分から自分を捨てるようなスイングを続けてるわけじゃあない」
「だったら――」
「だけど、俺たちは――いや、言い方を変えよう。俺も、お前も、次の一手を打つためには、今は耐えないといけないんだ。だから今は、まっすぐに逃げるんだ。まっすぐに逃げて――いつか、倍で返すんだ。これは、弱気な退却じゃない。いいや、逃げるという言い方もよくないな――カウンターなんだよ、これは」
カコンッッ――!と、力みとしなやかさのちょうど海の中でほどよいバランスの打球が、いつになくいい音を響かせながらケージに跳ね返った。
「……本当にただのやけくそじゃないんですよね?モノは言いよう、とか思って言ってるわけじゃないんですよね――?」
そんなジェネルの問いかけに対して『黙れ』とでも言い返すようにして響いたのは、思わず目が覚めるような、官能的な打球音だった。
ジェネルはそんな海の、何かを確かめるようにしてフォロースルーを確認する姿をしっかりと見つめていた。無駄のない細い筋肉質の腕をむき出しに、海は自画自賛することなく黙って再びボールを叩き続けた。
最近の海のホームランは、やけくそで打てるような打球ではないことはジェネルも分かっている。ここにきて変に肉体改造をして自分の中のバランスを変えようとしているわけではないことも分かっている。
ただ、飛距離というものにとらわれて、佳井海が自分から佳井海を自暴自棄に捨てようとしているのではないか――それだけが不安だったのだ。
「お前が何を言おうと勝手だけど……お前が信じた佳井海という男はその程度で信頼が揺らぐ存在だったのか?」
「だって、私は――天才打者・佳井海を見て憧れて育ってきたんです。どんなコースも、何事もなかったかのようにあっさり捌いてみせる佳井海を。今の海さんは、手当たり次第、どんなコースも力任せに振ってるようにしか見えませんもん。それがたまたまホームランになってるからいいものの、もともと4割打ってたんですよ?4打席回ってきて1回長打打ったくらいでドヤ顔キメて終わっていい人間じゃありません」
確認するようにして、海にそう問いただすジェネル。
返ってくる答えなど、おおよそ分かっているのだ。
ただ、愛する男から、直接答えを聞いて安心したかったのだ。
「……言っただろ。俺だってこのままで終わるつもりはない。そのために、少しだけ時間が必要だって言ってるんだよ」
ジェネルのまっすぐさは海の心を時々痛めた。
見せるべき年上の姿というものがもっと憧れの存在でい続けられたならばどれほどよかっただろうか。1試合を捨て、そして1年を捨て、次の1年の糧にする――本当の一流はそんなことをせずにステップアップをしていく。
到底、今の自分は誰かが憧れていい存在ではない――。
ジェネルはスイングを元に戻すように言ってきたが、自分だって徐々にポイントを見極めるためにスイングを調整しようとしているのだ。今、中途半端にスイングを戻してしまうと、自分は本当に中途半端になってしまう――それはそれで、ジェネルが憧れ続ける佳井海ではなくなってしまうのではないかと海は思った。
だからこそ海は、今は耐えろと自分にもジェネルにも言い聞かせてきた。
『お前は口を挟まずに黙って見てろ』と言うのも違うと思ったし、自分はそんな強い言葉を言えるほどの人間ではない。
ジェネルが聞き入ってくれるかどうかは別としても、今は自分のことには黙っていてほしい――そういう気持ちも正直なところあった。
自分自身、どこか以前のスイングと今のスイングとのちょうど中間の手ごたえをつかみつつあるし、自分だっていつまでも勝負を捨てたときのような力任せのスイングばかりし続けるわけではないのだから、外野は何をそう焦っているのか――という思いもあった。
下品なスイングでのホームランから、自分の中のスイングに徐々に戻しながら自分のちょうどいいところを見定める過程で――理想のスイングに近いものは時々その手の中に宿りそうな予感は確かにあった。
それでもまだ、それはあくまで単なる予感でしかなく、しっかりと理想を自分のものにしきれるまでは自信を持ってはいけないと海は自分に言い聞かせていた。
自分はもうそう若くもない。
理想をつかめそうな予感だけが自分の手の中にあって、本当の自分の理想のスイングというものは一度もつかめないまま自分の野球人生は終わってしまうのではないか――とさえ海は思うようになった。
それほどに、自分の中の"何か"をつかみとるということは難しいし、それを他人に吐露しようともしなかった。ただでさえ自分は悩んでばかりなのだから、これ以上、他人に話してどうにかなるような余計な悩みを他人に打ち明けたくなかったのだ。
そうした海の気持ちの揺らぎが、少しの力みが、それまではそんなに多くなかった三振を生み、普段なら難なく捉えていただろう打球を詰まらせたり、不必要に打球を地面に叩きつけさせたり、キャッチャーフライにしかならないような打球を量産する。
いっそバットの質を変える、という手もあったのかもしれないが、普段の自分のスイングで4割前後の打率を毎年のように残しているバットを今の自分のスイングのためだけに整えたら、いつか肝心なときにその考えが足を引っ張る気がした。
規定ギリギリまで伸ばしたバットに、あくまでも自分は中距離打者だという理念からミートスポットをやや広くとったバット。
そのバットを相棒に、最近は2桁本塁打だって何度も記録しているのだから、あとはバットなんかじゃなく、自分のスイングの問題だ――というのは海の中で確信としてそこにあった。
普通に振っていれば例年通り4割近く、あるいはまた4割だって乗せることもできただろう。次の一年のために捨てなければならなくて、そのために捨てたボールや打席だって何度もあった。
ただ一人、勝利を信じて投げ続けている田中の背中を――普段ならもう少しなんとかしようと思って見送っていたのに、そうも言っていられない日だってあった――。
そしてそんな感情をひた隠しにして毎日、打席や守備につき、そして黙ってベンチの奥へと下がっていかなければならない――。
海の"らしくなさの代償"を、受け止められるときは出来る限り全力で華耶は受け止め続けた。去年とは違い、明確に次の一歩を目指し始めたという海の心境の変化が、より海の夜の姿を獰猛にさせた。
今まではただ慰めるようにして受け止め続けた華耶だったが、最近は海の荒々しく奮い立った、決して他人には見せない荒っぽさや野心――そういった今までとはまた一段と強くなった海の芯の太さに負けまいと、華耶もまた今までに無く力強く海を求めるようになった。
海も華耶も、二人のそうした感情のちょっとした変化の中にジェネルが起因していることは、二人ともあえては言わなかった。
「いやァ、お前さん。これで生涯8本目だったか。今季はその倍は打てそうかい」
「茶化すなよ」
試合前の円陣で行った海の報告に、清兵衛はつい茶化さずにはいられなかった。
『もう子供はいいかな、って思ってる――』
琉美と諒斗を妊娠したときにはそう言っていて、近頃は避妊薬を服用していた華耶だったが――昨晩、華耶は海に笑顔でこう告げた。
『なんかさ、海くんの強い意志が薬を突き破ったんじゃないかなって思う。きっと、強い子になるよ。だから――私、産みたい。可能性はゼロじゃないとはお医者さんも言ってたけどさ……まさかって思ったよ、さすがに。凄いよねー、海くん。そんな力があるんだ、って。笑っちゃったよね。だからきっと……スランプだって打ち破れるよ。ううん――打ち破って。あたしを打ち破った強さでさ――スランプなんかなかったくらい、今じゃなくていい――いつか、打ち破って』
「3月に生まれてくる予定の子にも誇れるような父親でありたい。みんなも、誰かに誇れるような人間であれるよう、この試合頑張ろう」
「おぅよ」「はい!」
練習態度をめぐって横嶺が生駒からきつく注意されたことなどもあり、露骨に円陣の際に和を乱す者はある程度減ったものの、相変わらず元気のいい返事は清兵衛とジェネルくらいで、きょう登板予定の田中は早くも吐きそうなほどの青白い顔をしていた。
好投、力投をしても9回を任せられない――あるいは、チームの打線や守備が貧弱すぎてその力投が報われない――そんな投球を今季繰り返していた田中は、投球内容とは裏腹に『勝てないエース』という烙印を押されていた。
援護をやれないもどかしさに海は毎試合のように申し訳なさを感じながらも、かける言葉が見つからず、相変わらず、ただただホテルで清兵衛と飲み食いをするくらいのことしかできずにいた。
「田中」
「……なんですか。なんかもう最近、甲子園で投げるの怖くて――」
「今日は任せて欲しい」
「……何言ってるんですか」
肩をバン、と田中はグローブ越しに叩きながら――
「……いつも任せてるに決まってるじゃないですか。今日も、来週も――任されてくださいよ。俺は、佳井さんを一秒たりとも疑ったこともなければ、信頼がぐらついたことだってありません。……調子上げてくるの、待ってますから」
「……悪いね」
「……お互い様です」
フッ、と力なく笑った田中は相変わらず青白い顔のまま、一度ベンチの奥へと下がっていった。
『100敗まであと67敗』
48試合を終えて33敗――大連敗を喫する事はないものの、なかなか勝ちきれずに黒星を積み重ね続けるチーターズ。ファンの一部は早くも100敗を揶揄するボードを掲げて応援席に立っていた。
初回、立ち上がりをつつかれた田中は1点を奪われるが、清兵衛らが出塁したその裏、海はライトの頭上を越えるタイムリーを放った。
今までなら、ライトの頭上を少し超えるくらいの打球のイメージだったが、自分の中では軽く打ち返したつもりの打球はフェンス前まで転がる鋭い当たりを見せた。
逆転も狙える場面の打席――さすがにこの場面だけは三振はできない、と自分では今までと同じようなスイングをしたつもりだったが、しなやかさを保ちつつもしっかりと力強さもあるスイングは、確かな自信をとともに、今までよりも強く、勢いを保ったまま白球を遠くまで飛ばした。
これ好期と清兵衛も、一塁ランナーもぐんぐん速度を上げてホームへと帰ってくる。しかし鋭い返球で1点をもぎ取ったあと、2点目を狙った一塁ランナーは本塁でタッチアウトとなってしまった。
角度によってはセーフに見えたかもしれないきわどいタイミングだが、初回ということもあってか今野はリクエストを行うことなくこの場を引いた。
賭けに出てもいい場面だったのではないか――そう海は思ったのだが、初回からリクエストを使い果たして肝心な場面でリクエストが出来ないというのもそれはそれで悔しい思いをしてしまう。どうせ、次また自分が打てばいいのだ――海は気持ちを切り替えて二塁からホームを見据えた。
試合は膠着状態のまま5回を迎えた。
1対1。試合はまだどうとでも動けるような状況で、海はどうするべきか迷った。
まずは1点を確実に取って勝ち越しておきたい――そう思いながら海は打席にゆっくりと歩いていった。
二死、ランナー一・二塁。一塁に清兵衛、二塁には田中が構えている。田中には楽をさせたいから、長打でゆっくりと田中をホームまで返せるならばそのほうがいいが、確実性を取るならば先ほどのようにライトの頭を超えるような打球がいいだろう。
しかし、二死ということもあって、田中に無理をして走らせてアウトになったとき、この後すぐにマウンドへ向かわなければならない田中の体力の消耗を考えると――できれば田中をあまり全力疾走させたくはない。
どうするべきかベンチをチラ、と確認するが、今野からも生駒からも『好きにしろ』のサイン。その奥ではわざとらしくジェネルが海のフォロースルーの真似をして見せた。
舌打ちをしながら辺りを見回すと、清兵衛も田中もわざとらしく腕を振ってフォロースルーの真似をしている。
『今日も、来週も――任されてくださいよ。俺は、佳井さんを一秒たりとも疑ったこともなければ、信頼がぐらついたことだってありません。……調子上げてくるの、待ってますから』
田中の言葉が、海に突き刺さった。こういう試合を一体自分は何度落としてきたものか。
これからは田中に楽をさせてやる回数を増やさなければならない。田中だけではない。勝利を信じずに投げている投手などいないのだから――海はダメもとで大きく振ることを選んだ。
――唯一の高みを目指し
羽ばたけ佳井
海の彼方へ――♪
『白きサムライ 佳井海』
『唯我独尊 乾坤一擲 佳井』
『正直言ってエグい 佳井』
そんなタオルや幕を掲げるファンが内野席にもちらほら見える。一体どれほどの人間がまだ勝利を信じて応援し続けているものだろう、と思っていたが、それでも、こうした大きいチャンスに大声が返ってくるあたり、自分はまだ期待されているうちなのだろう。
この声すらもなくなったときが本当に自分の終わりだと海は思ったし、これほど自分勝手なスイングをしてまでこれほどの声が返ってくるということは、それでも自分がこの苦境を乗り越えられるものと信じている人もまだいくらかはいるのだ。
《身勝手だよな。ちょっと期待できる場面になったら、コロっと声を張りやがる》
海はそう独り言を吐きながら、初球、内角をえぐってくるシンカーを見送った。
完全に打ち取らせにくることを狙いにした球だ。ストライクゾーンから外れていくシンカーをスッと避けながら海はもう一度打席に立つ。
二球目も立て続けに同じようなボールが来た。今度はもう少し内角のギリギリをついたような球だったが、審判に嫌われ、ボールを告げられた。
今のはストライクでもよかったのではないだろうか――海も一瞬困惑しながら審判を振り返るが、審判は何事もなかったかのようにプレイを宣告した。
内角の判定が甘いとなると、次に投げ込む球はもう外に逃げる球を投げて打ち取らせにくるしかないだろう――海は狙いを外へ逃げていく変化球一本に絞り、その球を待った。
逃げ場を失った投手のしぶしぶ投げたような外へ逃げる変化球は、海の顔面付近から外角方向へ向かって――少し甘めのコースへ逃げていく。
その球はきゅるきゅる……きゅるり……と更に逃げるようにして外へ変化するが、少し力んだのだろうか、曲がりが浅い。
素直にバットを振ればしっかりと芯で捕らえられる、腕の長い海にとってはあまりにちょうどいいコースへ逃げていくスライダーだ。
あとはそれをしっかり――ライトからレフトへ少し強めに吹いている追い風に乗せて捉えるだけだ。
仕留める――!
つい、少しだけ力んでしまったバットは、それでもパキン!と甲高い音を立てながら、レフトスタンドの中段あたりを目掛けぐんぐんと鋭い弾道で伸びていく。
ああっ――と球場がどよめく中、ネイビーブルー一色に染まったバトルシップス応援団へ向かって、勢いはそのままに外野席へと突き刺さるようにして文字通り"着弾"した。
普段のスイングよりは力が入ってしまったものだったが、ボールの流れに逆らわずにスタンドまで飛んだ白球の行方を海はしっかりと見届けながらゆっくりとホームを回った。
打った瞬間、無意識に放り投げてしまったバットの行方を少しだけ気にしながらホームをしっかりと踏んだ海は――それでも表情を変えずにベンチへと戻っていく。
「あれで何点だ」
カメラに向かってI love youのハンドサインを決めたあとベンチに座った海に、ハンドサインをこれみよがしにやってみせる清兵衛がニタニタしながら話しかけてきた。
「65点」
「ガハハ。相変わらず厳しいねェ。陶芸家か彫刻家のそれだ」
ぶっきらぼうな海の返事に、清兵衛は豪快な笑い声を出しながら海の肩を叩いた。
「コースが読めてたんだから、あれを力まずにあのくらい飛ばせるようじゃないといけない。意識しすぎてスイングが変に力んだのもよくなかった。よくて65点だけど、なんなら、30点でもいいくらいだ」
「おお、職人様だね」
「もう少しコースが厳しかったらスタンドまで届いてなかったかもしれないだろ」
「打球なんていつもそんなもんだ。お前さん、何度も言うが難しく考えすぎなんだよ。あの辺だぞ、打球が飛んだのは」
ベンチで打球の行方がどのあたりまで飛んだかをもう一度確認しながら、清兵衛と海が話し合ってる様子をジェネルは少し離れたところで見つめていた。
やはりこの男は自分の憧れた男に違いない――と思いながら。