「……」
「……」
部屋に入ってからも二人の間にはなんとなくぎこちない空気が漂っていた。
『いかにも』な感じのベッドと椅子に、海も華耶もどう言葉を出していいか少し考えているような、威圧感のある気まずさが部屋中に漂っていた。
「ご、ごめんね。一応事情だけ言わせて。うち、寮でさ。ちょっと外部の人は入れられないんだ。それでほら、"こういうとこ"だと身分証なくても泊まれるらしいって聞いたからさ――」
「……別にいいよ、そんなこと。考えもなしにこんなとこ連れてくるような奴じゃないって思ってたから」
気まずそうに話を切り出した華耶の言葉を海は遮った。
しばらく、重苦しく、酸素の薄まるような空気が続きそうだったので華耶は思わずリモコンで壁に備え付けられているテレビをつけた。いったい何型のサイズなのだろう。二人で見るにはあまりに大型のテレビだ。"こういうとこ"のテレビというものは"そういうもの"だということくらい年頃の華耶にもよく分かってはいたが、こうして実物を目にすると、あまりにバランスの悪いそのサイズに少しばかりナンセンスさを感じずにはいられなかった。
〈――続いての試合です!!!!こちらも長い長い乱打戦でした!!!!!!〉
「うるさっ」
驚いたのか、うつむいていた海もいったん首を跳ね上げて華耶のほうを振り向くほどの音量が響き渡った。華耶は慌てながら手早く音量を下げ、気まずそうに海へ笑顔を向けた。
〈いやー、10対27ですか〉
〈はい。さっそくハイライトを見ていきましょう。試合が動いたのは――〉
「……ごめん。音量もそうなんだけどさ、チャンネル変えてくれない?」
「あ、ニュース以外になんか見たい番組ある?この時間帯だと……『ダメトーク』とか?」
「……ごめん。ニュースじゃなくて、野球の話、あんまり耳に入れたくなくて」
「……あ、そっか。あー、そうだ。今期のアニメさ、面白いんだよ。異世界で発酵食品を作ろうとして奮闘するやつ」
「……ごめん、それも割とどうでもいい」
「……そっか」
華耶は海の沈んだ表情を読み取ると、すぐさま他愛もないBSの自然番組にチャンネルを切り替えた。
〈――シマエナガの親子です。とってもかわいいですね〉
「……そこまでしてテレビつけてないと駄目?」
これならいいかな、と華耶は安心したようなそぶりで海を見下ろしたが、海は華耶の気遣いをお節介に思ってそうな怪訝な表情を浮かべた。
「あたしをこんな時間に呼び出すくらいだよ。何かよっぽどのことがあったってことでしょ?……少しでも気がまぎれればいいなって思って」
「……」
「どうしてもやかましい、鬱陶しい、って思うなら、テレビ消すけどさ」
と華耶はリモコンを手にしながら、思い出したようにして海を見つめた。
「いや、ちょっと待って。その前に」
華耶は海を指差し――
「とりあえずお風呂入ってきて。マジで風邪ひいちゃうからさ。嫌ならシャワーだけでもいいから。ほら、バスローブ。あがったらこれに着替えて。服も乾かさないとだし」
「ほっといても乾くよ、こんなの」
「そういう問題じゃないんだってば。服は乾くかもしれないけど、海くんが風邪引いたらあたしの立場がないからさ。ほーら、早く」
「……」
しっしっと追い払うように海を風呂場へと連れ込み、バスローブへ着替えるよう促す。嫌だと言っても華耶はきっと聞かないだろうから、海はしぶしぶ風呂に向かった。
陰気くさいというか、わざとらしい色の照明に海はうんざりしながら、海は浴槽の壁に備えつけてあるテレビをつけた。
自分で華耶に対してテレビをつけてないといけないのかと言ったくせに、いざ無音になると少しでも気を紛らわすものが欲しくなる――海はそんな自分のわがままさに嘲笑を浮かべながら、特に見たいわけでもないバラエティ番組を白けた様子で眺めていた。
風呂から上がり、バスローブに着替える海。身長の割にはごく細身だった海だが、いかんせん195cmを越える身長が仇となってサイズが合わず、窮屈だ。
「お前は……華耶は入らないのか」
何を馴れ馴れしく自然に『お前』なんて呼び捨てで呼んでいるのだ、と海は自戒しながら咳払いをした。こういうところに、父親の嫌な部分を遺伝しているような気がして、海は唇を噛み締めた。
「あたしはもう寮で入ってきたから」
「そう」
何故か、と言われたら、時間も時間だし当たり前のことだろうと返ってくるのだろうけれど、宿泊部屋だと言うのに椅子が一つしかない部屋だから、いまいちどこに位置取っていいか海には分からなかった。確かにマッサージチェアは置いてあるのだが、マッサージチェアに揺さぶられるような状況ではない。
椅子に座っていた華耶は「嫌じゃなかったら、隣に来ない?」と促した。
それ自体は嫌ではなかったのだが――
《お前もそうやって俺の知らないところで作った女のもとで慰めてもらうんだろ?》
「……」
「海くん?」
しばらく海は黙り込んだ。華耶の表情を見るのが怖かった海は、そのまま目線をそらし続けながら
「……ごめん。ベッドに座るよ」
と、少し華耶からは距離を置くようにして、海はベッドに座り込んだ。
「そっか。……それで?話戻すけどさ。あんな雨の中会いたいなんて、よっぽど何かあったんだよね。何か嫌なことでもあった?」
「……」
海はしばらく、何も言おうとしなかった。ただ、首を振って、それ以上のことをしなかった。
言葉にしようとしても、一体何から説明すればいいのか――一体自分が何に困っているのか、何を華耶に訴えればいいのか、分からなかった。
閉塞感が海から言葉を奪い、部屋には空調の音だけが響き続けた。
「……まぁ、きっとそうだよね。家飛び出すぐらいだもんね。それはあたしに話せそうなこと?……あぁ、ゆっくりでいいよ。……話したくなければ、それでいいからさ」
華耶はそう言いながら、黙ったままの海に向かってバッグから取り出した缶コーヒーをゆっくりと放り投げた。
まだひんやりとしたままの缶コーヒーを握り締め、しばらくじっと黙っていた海は、一瞬天井を見上げた後――静かに口を開いた。
「……俺さ。日本人じゃないんだよ」
「日本人じゃない?……いやいや、見たらなんとなーくは分かるよ、そのくらいは」
「違うんだよ――」
華耶は少し冗談めいたような言い方で海に笑みを向けたが、海の刺すような目線と言葉にすぐさま表情を引き締めた。
「……そういうのじゃなくて、俺は日本人の"なりそこない"なんだ」
「"なりそこない"?」
「……親父も、おふくろも――どっちも日本人じゃないんだよ」
「……そっか」
そっか、以上の言葉を華耶は言わなかった。ただ、海の言葉を肯定してやることだけがこの状況をどうにかできる方法だと思ったからだ。
「親父は、女とばかり遊んでいた。おふくろはそのうち、国に帰った。たぶん、おふくろも、親父のそういうところに愛想が尽きたか、親父になんか言われたんだと思う。……今日親父から……愛人との間に子供が出来て、そんで、そいつと再婚するから卒業したら家から出て行けと言われた。親父の勝手で俺は国籍を取られて、名前も取られて、おふくろも取られ、次は家まで取られるんだってさ。俺は高校を卒業したら、どうにかして家から出られたらそれでいいとばかり思ってた。でも、俺は俺の意思で出て行くんだ――。あいつの意思で出て行くんじゃない。あんな奴のためにおふくろがこの国から出て行ったかと思うと、殺意だって沸く。ああ、そうだ。あったよ、殺意。手は出さなかったけど、もしなんかの弾みで手を出してたら、俺は……やってしまってたと思う。さすがに結婚相手までは不用意に傷つけたくはなかったから、親父に話しかけられたときにわざとフィンランド語で喋ってやったけど、親父のほうが一枚上だった。フィンランド語で俺を―ー俺だけじゃない。おふくろのことも侮辱した。あんな男と一緒の空間で俺は生活はできないし、俺にあんな奴の血が流れてることを、俺は……これ以上なく憎んだ」
華耶は黙ってその話を聞き続けていた。
どう海へ声をかけるべきか、華耶は悩んだ。
もっと単純な逃避行なものだと思っていたから、海が自分の想像よりもずっと重苦しいものを抱えていることに、思わず声を失ってしまった。
それでも、自分が心配そうな表情を浮かべたら、余計海を傷つけてしまうだろうから、せめて、平常心のまま聞いてやることにした。
「正直言って、俺の顔も髪もこんなんだから、どこまで行っても、俺が日本国籍だと主張しても、俺は日本人としては見てもらえない。あんまり難しすぎる四字熟語だとかなんだとかも、受験や進学のため以外には知識をつけてないから、日本語だって、実は完璧じゃない。仮に、いつか言葉の壁を全部乗り越えたとしても、出生を知れば、きっと俺のことは日本人としては扱ってもらえない。そりゃそうだよな、実際、俺には日本人としての血は通ってないんだ。日本人じゃなくて当然だよな。だけど、俺にはもうフィンランド国籍がないから、帰る場所だってない」
海はいったん天井を仰ぎ――ため息をついた。
握っていたスチール缶をギリリと握り締め、せめてもの感情の捌け口にしようとしたが、握った缶はへこんだまま戻らないものだから、ぶつけた感情は一度きりしか受け止めてもらえなかった。
「おふくろのところに帰ることだって考えた。でも、俺が戻ることでおふくろの負担だってかけたくない。変に現状報告して心配かけるのも嫌だから、おふくろの連絡先だって親父からは聞いていない。じゃあ俺……俺はどこ行きゃいいんだよって。卒業まであと8ヶ月、毎日めくるカレンダーが薄くなっていくことだけが俺の楽しみだった。だけど、その残り8ヶ月を正気で居られる自信が俺にはちょっと……無くなっちまった。無理だよ。親父に言われたんだ――どうせ、女に慰めてもらうんだろ、って。反論が出来なかった。俺には友達と言える友達だって居ない。だから今までこんなこと、誰にも言ってこなかった。言ったところで、俺の生まれのことを受け止めてくれる奴なんかきっといないだろうから。結局、親父の言うようにさ、華耶――お前にこんなこと言うために家飛び出して、慰めてもらおうとしている。俺――ダメなんだよ」
半笑いを浮かべながら、ぼんやりした目線で淡々と話す海。
華耶はそんな海の言葉を遮らずに黙って話を聞いていた。
海は華耶が何も言葉を発さないのを確認したのか、それとも最初から華耶のことなんて見えてないのか――深くため息をついて再び話し始めた。
「時々さ、ダブるんだよ、華耶が。おふくろにさ。髪の色だって違うし、顔だって似てるかって言われたら、そこまで似てないんだけどさ。なんだか、ダブるんだよ。ちょっとした仕草っていうのかな、雰囲気っていうか、なんていうか。だから、家から出てったおふくろが……いいや、ひょっとしたら、とっくの昔にもう死んじまって、生まれ変わったおふくろが別の姿になって、俺を迎えに来てくれたのかとか思ってしまうんだよ。でも、そういうのってよくないと思ってる。華耶は華耶だ。おふくろとは違うんだ。だから、華耶のことは一人の女として見ないといけないって思ってる。でも、俺が華耶を一人の女として見たら、その時はきっと俺は親父みたいに――」
半笑いのまま、言いたいように次々と言葉を吐き出していった海はとうとう頭を深くうなだれ、再び顔を手で覆ってしまって再び黙ってしまった。
「海くん――」
顔を覆っている間に立ち上がった華耶は、そのまま海をそっと抱きしめた。
少しだけ甘ったるい――洗剤かシャンプーか香水かは分からないが、妙に安心する香りが海の鼻を刺激した。額や鼻の辺りに懐かしい感触が広がるが、海はそのままじっとしていた。
海の背中をぽんぽんと叩きながら、生乾きの髪を撫で回す華耶。何か言うべきなのかどうか迷った海だったが、華耶のほうが先にその重たい口を開き始めた。
「……たくさん苦労したんだね。あたし、海くんのことちょっと誤解してた。誤解してた、っていうか……ちょっとカッコいい、ぶっきらぼうを演じていたい、そういう年頃の可愛い子だと思ってた。……あたし、海くんのこと何も知らなかったんだなあって。そりゃ、そうだよね。まだ知り合ったばかりで知らないことだらけだから、あたしがあたしの中で海くんを都合よく解釈しちゃってたんだと思う」
少しだけ抱く力を強めた華耶。腕から逃げないように――こぼれ落ちないように――心配させまいと、華耶は海を引き寄せた。
海は拒絶することなく、華耶に身を任せ続けていた。
「でも――あたし、ちょっと浮かれてた。助けてもくれたし、誘ったデートにも来てくれるし、突然会いたいなんて連絡入れてきてさ――。ごめんね。ちょっとだけあたし、ドキっとした。突然の呼び出しを見てさ、あたしにとって都合のいい解釈だってちょっとした。男を顔で選んじゃいけないなって思ってたけどさ、でも、海くんは顔がかっこいいから――あたしにとっての運命の王子様だったらな、とか思っちゃってた。裏でそんなこと抱えてたなんて、思わなかった。きっと何か抱えがちな子なんだろうなー、とは思ってたけど……あたしもおねーさん失格だね。てっきり、普通の親子喧嘩して出てきただけだって思ってた。……反省するよ」
「……」
「そうだよね、そりゃあ、甘えたくもなるよね。頼る相手だっていないし、自分のことで精一杯生きてきたんだもんね、きっと。そりゃあ、あたしがお母さんにダブって見えてもおかしくないよ。……別に、ぜんぜん嫌じゃないよ、あたし。むしろちょっと嬉しいかもしれないかな。あたしのこと、そう思ったからきっと海くん、色々話してくれたんだろうし。きっと、海くんのお父さんが言ってるようなのと、海くんがあたしに連絡してこんな風にお話したの、絶対意味違うよ。違うから、安心して――」
華耶が海に優しく語り掛けると、海は黙って頷きながら、華耶の上着をうっすらと濡らした。
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「――そうだ、海くん。あたし今日午前中は臨時で講義があるからちょっと大学に行かないとなんだけど、授業のあとどっか出かけたい?」
朝、髪を乾かしきり、その長い髪を束ねながら華耶が海に問いかける。
鏡を見ながら、首元のボタンをしっかりと閉め、襟足を少しだけ前に出して首を隠すようにしてセットをする華耶。
それを少しだけ気まずい様子で海は見ていた。
「講義って――間に合うの?今から寮行って大学って」
「へーきへーき。大学、近いんだ。蒲田から30分かかるかどうかってとこだし」
「……え?」
「え?って、何?」
「……この辺の大学って……華耶、ひょっとしてお前……啓皇通ってる……?」
「そうだけど?え?どうかした?」
「……俺、高等部通ってるんだよ、啓皇の」
「え、そうなんだ!?」
どうして出身校なんかの話よりも、出自の話なんかを先にしてしまったのか、海は少し気恥ずかしくなりながら学生証を華耶に見せた。
華耶もまた驚きながら、相変わらず無愛想な映りの海の学生証を見つめて笑顔を浮かべた。
「へー、全然知らなかった……。海くん、そういうのはほんとなかなか教えてくれないからねー。じゃあ、どうする?高等部の近くでうろうろでもしてる?」
「今日は部活休みだし、適当に駅の近くでもうろうろしてる。昼には終わるんだろ、授業」
「まぁね。本当はそんな必要じゃない講義だからサボっても全然いいんだけど、なんか今日はちょっと講義に出たい気分で」
「そんな気分でサボっていいものなんだ」
「気分でサボってる人も結構いるけどね。でもなんか、今日は出たい気分なの」
「どういう気分なんだか」
呆れた様子で海は答えた。
朝食のサービスでパンが出てきたのでそれを食べ、足早にホテルを出る二人。
昨晩の雨がよほどひどかったのか路面はまだ濡れていたが、雲の間から太陽がうっすらと覗き、天気は回復しそうな様子だった。
「あんまり振り返らないでよ海くん」
「朝でも派手な建物だなって思って」
「普通のとことそんなに変わらないでしょー」
「そりゃ、そうだけど」
実のところまだ生乾きの衣類に少し不快感を覚えながら、華耶を待っている間、まずは日吉の駅ビルが開店し次第中で着替えを買おう――と海は思った。
土曜の朝、いつもとは違う空気感の中、海は少しだけ普段よりも前向きな気持ちで駅へと向かった。
昔、父親から見せられたアニメで主人公が言っていた『悔しいけど男なんだな、僕は――』というセリフの意味が、なんとなく時間とともにじわじわと分かってきた気がした。