「そう嫌そうな顔するなよ。俺がいるじゃねェか」
役所近くの室内プールの更衣室で心底嫌そうな顔をしながら、清兵衛に少し遅れる形で渋々海は着替えを始めた。はぁ、と深いため息をつきながら――
「一応さ、華耶はそういうの気にしないっちゃ気にしないんだけどさ。こういうのを記者は面白がって書くんだよ。子供だってもう週刊誌の内容が理解できちゃう年齢なんだから、勘弁してくれよ」
「書かせてやりゃあいいじゃねェか。記者たちだって、あることないこと書きながら内心訴えられやしないかどうかと肝をひやひやするのが仕事なんだぞ。あいつらが本当に恐れているのは、単なる炎上じゃあねェ。踏み込みすぎて、世論が急に冷めて、てめェらは要らねぇと思われてしまうことだ」
「訴えるのもエネルギーがいるんだぞ。わかってるのか」
「まぁまぁ。好きに躍らせてやれよ。記者どもも、ファンたちも。何かあったら俺がちゃんと保障してやるから。ガハハ」
「お前が言うから余計に信用できないんだよ」
上着を嫌そうにしながら籠に入れ、海はバッグから着替えを取り出す。
清兵衛はそんな海の、野球選手としてはかなり細身の無駄のない身体をじろじろと見つめる。
「にしても、お前さん。本当にその細い身体でこの一年戦い抜いたんだな。相変わらず、大したもんだ。普通、あんなに大振りをするなら、多少ウェイトトレーニングのひとつくらいして身体のバランスを崩してしまうか、しっかりトレーニングに成功して一回りも二回りも体が大きくなるもんだが」
「身体だけ大きくなって、内角捌くための小回りがきかなくなったら、今度は内角ばかり攻められるだろ。前にも言ったかも知れないけど、俺は別にホームランを打ちたいんじゃなくて、ホームランに出来る球やコースを増やしたいだけなんだよ。結果的にホームランになってくれればいい。今年はその可能性に賭けるためにちょっとスイングを変えただけで。……大体、細身って言ったらお前も似たようなもんだろ」
そう言いながら、海は着替えを続ける。清兵衛はなおも海の身体を見つめながら、感心した様子で頷いていた。
「だが、俺ァお前さんの歳の頃に突然長打を求めたりはしなかった。俺にゃ俺のプレースタイルがしっかりあるからな」
「誰かさんが俺に30本塁打くらいは打てって煽るからね」
「まァよ、それで自分のスイングを調整しながらシーズン22本打ったんだから、大したもんだ。普段4割前後打ってるお前さんからしてみたら、3割中盤に終わった打率ってのは、気に入らねェだろうがよ」
「まあね。打率をここまで減らしてたった20ちょっとしかホームランを打てなかったっていうのはよくなかったね。でも、あんだけ大きいのを重視しても3割中盤を切らずになんとか踏みとどまった。それは、逆に考えればいいことなのかもしれない。ちょうどいいところを自分なりに今年は見つけたつもりではいるから、来年はたぶん……大丈夫のはずだ」
「だといいがね。まぁ、お前さんのその特大級の打棒に期待してるさ。ガハハ」
「どこ見て言ってるんだよ、バカ」
水着に着替えた海と清兵衛は、清兵衛が貸しきったという室内プールのプールサイドにぺちぺちと足音を立てながら向かった。
「遅いですよ、清兵衛さん。海さんも」
「すまねぇな。こいつが、帰りてぇ帰りてぇと駄々をこねるもんでな」
若干窮屈そうな青と白を基調とした競泳水着に身を包んだジェネルが腕を組みながら――しばらく待たされたのだろうか、不機嫌そうに待ちかねていた。
華耶の水着姿というものは海も何度か見たことがあったが、それは大概あくまでもビキニスタイルの水着姿であって、他人の競泳水着の姿を間近で見るのは海は初めてだった。
……いや、よく考えてみたら華耶が自発的に競泳水着を着てくれたこともあったのだが――いかんせん、抱いた数が多すぎて、それがいつだったか思い出せない――。
若々しく健康的な肌に、華耶にも負けないどころか、華耶よりも背や脚の長さがあるぶんさらにメリハリのあるように見える身体には競泳水着はずいぶんと窮屈そうに見えた。
華耶も『なかなかこっちのサイズが合わなくて』と窮屈そうに水着を着ていたのはよく覚えているが、華耶のように割と選り好みがまだできる水着とは違って、ジェネルはこの先もしばらくトレーニング用のものも着続けないといけない。
大変だな――と海は思っていたが、一方のジェネルは何も気にしていないのか、どん、と胸を張りながら
「どんな練習でも私、先輩たちには負けませんからね」
などと自信満々にしていた。
「大丈夫だぞ、海よ。取材班は呼んでねェ。チームの広報にも今日は取材を控えるように言っている。さすがに外からカメラを構えているかもしれねェ奴まではどうにもできねぇが、今日日、そんな奴がいたら不審者として捕まってるだろう。気にせず泳げ」
「泳げって……まだ今日何をするか教えてももらってないんだけど」
「とりあえず、水中歩行からはじめるか。簡単に想像がつくと思うが、水の中を歩くってェのは陸を歩くよりもずっと大変だ――」
田中は胃腸が弱く、長い間プールに入っていると身体を冷やしてしまうようで自主トレの誘いには来てくれなかったらしい。
仮に田中が来ていたとしても結局いつものメンバーだけじゃないか、と海は思ったが、清兵衛が声をかけてついてきてくれるのが今はこの『いつもの』メンバーだけだということが、チームが今どんな状況かを海に改めて教えてくれたような気がした。
「――じゃあ、俺ァこのあと飛田に行くから、お前さんたちはその辺で飯でも食ったらどうだ」
「お前なぁ――」
「海さん、奢ってくれるんですよね?」
海の腕に絡み付いて身体を押し付けてくるジェネルを見て清兵衛は高笑いをし――
「ガハハ。とっとと俺ァ遊びに行ったほうがよさそうだな。お前ら、あんまり火遊びするんじゃねぇぞ」
「お前、余計な真似をするんじゃないよ」
清兵衛はニヤつきながらポケットに手を突っ込むと、海に何かを握らせてから、ひらひらと手を振った。
「まぁ、そういうことだ。じゃあな」
「おい、待て――」
何を握らせたんだ、と左手に感じる硬い紙質の物体を覗き込んだ。
アミューズメントホテル・プリンセス
豊中市明神――
うっすらと開いた紙のその先は見ずに海は紙を握りつぶしてポケットに無理矢理ねじ込んだ。
一緒に、妙に薄っぺらい個包装の物体の感触が手に伝わったが、その物体が何かを察して海は余計に不機嫌になった。
「あっ……あの野郎ッ、何がそういうことだよ」
ジョークにしてもやっていいことと悪いことがあるぞ――と海は追いかけようとしたが、ふと後ろのジェネルが気になって振り返った。
「……おい、ジェネル。お前、アイツとグルだろ」
「いーや。清兵衛さんが要らない気遣いを勝手にしてくれただけですよ。さ、海さん。向かいの中華料理屋にでも行きましょう。あそこなら車に乗らなくてもすぐですし」
これ以上変なところを取材班や一般人に見られるのもどうかと思った海は、ジェネルが指差した隣接する市役所向かいの中華料理屋に歩き、そそくさとジェネルを引き連れてテーブルへと向かった。
「運動したあとはやっぱたくさん食べないとですからね。辛いものは代謝をよくしてくれますし、たくさん辛いの食べましょう」
「せっかくシャワーで汗流した後なのに、また汗流さなきゃいけないのか」
「私は別にもう一泳ぎしてもいいですよ。海さんもどうです?」
「それはお前一人が勝手にやればいいよ」
「えー」
「わかってると思うが、俺はお前の彼氏じゃあない。大体、俺、妻子持ちだぞ。わかってるよな?それともアレか、流行のドラマみたいに家庭崩壊を狙ってるタイプの――」
海の言葉にジェネルは唇に向かって人差し指を向け――
「そこまで陰湿なことしませんよ、私は。ひっどいなーあ。単純に私が海さんにかなわぬ片思いをしているだけです。さすがに家庭捨ててまで私を選んでほしいとかそういうアレじゃないですよ、私。それはちょっとガチで心外です。傷ついちゃいました、私」
頬をむっと大げさに膨らましたジェネルを見て、海は呆れ返った様子でため息をついた。
ここで額を小突いたりしたらジェネルの思う壺だと思い、特に何もアクションをせずに海はジェネルを睨み――
「よく言うよ。公衆の面前であんなこと言って。野球に興味ある奴だけがきっとお前の顔を覚えてるだろうから、お前のことだけだったら世間様はもう覚えてないと思うけど、俺はそうはいかない。俺は顔が売れてしまってるから、二人で出歩くと『ああやっぱりあの二人そういうことなんだ』ってなってしまうだろ。なかなか気を遣うんだよ」
「その時は私がなんとかしますって」
「なんとかできるもんかよ、お前なんかに。大体、なんとかって、具体的にどうするんだよ」
海はメニュー表に肘をつき、指を組んでカタカタとさせながら――周囲の客を見渡した。さすがにランチタイムから少し外れた時間までみっちり練習していた上に平日ということもあって、客の姿はまばらだ。
清兵衛もたぶん、少しはそういった部分を配慮して昼の時間を少し過ぎたところまで練習させたのだろう。それにしても、二人きりにさせるのはどう考えても余計な世話だとは思ったが――。
「ところで海さんは、家の地下室にトレーニングルームもあるんですよね」
「ブッ…………待て、誰……から聞いッッ……ゲフンッッ……誰から聞いッッた、そ……の話ッッ――」
しっかりと辛さの染み渡った太麺を食べていた海は、唐突なジェネルの言葉に大きくむせこんだ。
なんとかしようと思えば思うほど口と気管いっぱいに辛さが染み渡り、水を飲んでなんとかしようとしたが――余計に辛さが口いっぱいに広がるものだから海はジェネルを思わずギロリと睨み、手のひらを突っ張るように差し出してちょっと黙ってろ、というサインを出した。
「清兵衛さんからですけど」
「あの馬鹿」
「清兵衛さんすら家が建ってすぐにちょっと顔見せくらいに行ったくらいって言ってましたよ。トレーニングルーム、すごいらしいですよね」
「子供たちにあまり親が練習してるところは見せたくなかったからね」
「そういうことだったんですね」
「清兵衛もさすがに子供の相手は気を遣うらしくてな。アイツ、ああ見えて意外と他人のプライベート、ズケズケと足踏み込むようでそこのところは一歩ちゃんと引いてるんだよ。お前と違って」
「私もちょっと見てみたいです」
「お前は寮があるだろ」
「寮、なんか皆が変に気を遣ってるみたいな感じでちょっとイヤなんですよね」
「……まあ、それは確かに」
ジェネルの放り投げるように吐き捨てた言葉はたぶん本心だったのだろう。海も自分が寮に居たときのことを思い出し、その言葉に対してはあまり深く反論しないでおいた。
「大丈夫ですよ。本当にトレーニングルームで一緒に練習したいだけですから」
「信用できないね」
「そんなに信用できないですか」
「お前はもう少し、自分の性別というものを考えたほうがいいよ」
「性別の壁なんて、あると考えるからあるんじゃないですか」
「お前が言うとちょっと別の意味に聞こえるからよりダメなんだよ」
「でも私、海さんの奥さんとも友達になりたいです。きっと奥さん、私の知らない海さんをたくさん知ってると思いますし、奥さん的に私のこと動思ってるかも知っておきたいですし」
「知ってどうするんだよ」
「私の目標とする海さんがどんな人かを改めて知った上でさらに憧れたいんです」
笑顔でそう言ったジェネルの言葉を海は鼻で笑った。
「俺よりもっといい男は世の中いっぱいいるよ」
「世界に海さんよりいい男はたくさんいるかもしれませんが、私が憧れている人はただ一人、目の前にいる佳井海という男性だけですよ」
「……そういうこと言われると、より一層家に呼びたくなくなるんだよな」
海は嫌そうな顔をしながら――華耶に電話をかけるだけかけてみることにした。
〈――別にいいじゃん。むしろさ、チームメイトを家に招かなすぎだよ、海くん。清兵衛さんだって家にあんまり連れてこないでしょ。それに、本人が練習しにきたい、っていうのはいいことだと思うし、寮に居づらさを覚えてるならなおさらじゃん。晴留だってきっと喜ぶと思うし、あたしは賛成〉
「お前がこいつを止めなきゃ誰が止めるんだよ」
〈それは海くんが双羽ちゃんのこと気にしすぎだって。あたし言ったでしょ?海くんを取られない自信があるって〉
「……そうかよ」
海は眉間にしわをよせ、しばらくしわが戻らないほどに顔をゆがませながら携帯をテーブルに置いた。
「奥さん、何って言ってました?」
大体返事の内容をわかっているくせに、ジェネルはニコニコしながらテーブルに手をつき、少し前のめりになって海にその是非を伺った。
「是非来てくれってさ。三葉……お義母さんも、そういうことなら是非、って」
「やったー。決まりですね、決まり。海さんの車の助手席に乗るの、夢だったんです」
「お前の夢のサイズ、ずいぶん歪んでいると俺は思うよ」
ガッツポーズを作り、子供みたいな無邪気さを見せたジェネルを海はうんざりした様子でため息をつきながら、テーブルで食べられるのを今か今かと待っている最後の餃子をひとつつまんで食べた。
「人の夢や希望なんて、結構歪んでるもんですよ。海さんだって歪んだ希望のひとつくらい、持ってるでしょ?」
「それは仮にあったとしてもお前には言わないね」
「あはは。それはそうですね」
ジェネルもまた、移動が決まったとなると早く家に行きたくなったようで、食べている最中だったラーメンやチャーハンを急いで食べ始めた。
「わかってると思うけど、華耶は妊婦だからお前、あんまり変なことするなよ。大事な時期なんだから」
「大丈夫ですよ。なんなら私、夕飯も作りますから」
「夕飯作るのはトレーニングとはまた違うだろ。そういう気を遣わなくていいんだよ。料理ならお義母さんがやるから」
「でもほら、子供の世話だってありますし。一番下の子、今いくつでしたっけ」
「2歳。……いいんだよ。お前が変な気を遣わなくても。お前は今日、トレーニングに専念する。それでいいだろ」
「こう見えて私、シチューなんか作るの得意なんですけどねえ。きっと子供受けするんじゃないかなって」
「お義母さん、一体何人の子供見てきたと思ってるんだよ。年季が違うよ」
海は何かと役に立とうとしたがるジェネルを軽く鬱陶しく思いながら、街中を走るためのコンパクトスポーツカーに乗り込んだ。
「あ、そうか。一人で移動するから二人乗りの車で来たんですね」
「行き来するのに変に大きい車持ってても仕方ないからね」
「ですよね。ガレージにもほかに4台あるんでしたっけ、車」
「華耶が乗るためのやつとかお義母さんが乗る奴とかもあるからね。別に俺一人で5台乗ってるわけじゃない」
「でも5台全部保険効いてるんですよね?」
「1台に一家全員は乗れないからね」
「子供が多いのも大変ですね」
「……お前が思ってるよりもずっとね」
ジェネルのその言葉が海には少しだけ癪に障り、海は若干不機嫌そうにアクセルを吹かして駐車場から吹田の自宅へと車を走らせ始めた。
「ところでさっき清兵衛さんから何渡されたんですか?」
「絶対言わない」
「えー、そんなに不機嫌になることないじゃないですかー」
海はジェネルの純粋な疑問を鬱陶しく思いながら、なかなか切り替わらない信号に苛立った。