海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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72・ジェラシーアイスクリーム

数日後、当たり前のようにジェネルは海の家にトレーニングをしにきた。ともに辛さを紛らわすために雑談なんかをして――リズムに合わせながらゆっくり、ゆっくりとスクワットをし続けていた。

 

「新くん、反抗期だって聞きましたけど」

「年頃の子にはよくあることだって華耶も言っていた」

「可愛いじゃないですか。生きるのに必死って感じで。そういう意味では海さんも生きるのに必死ですよね。海さんもいわゆる反抗期が原因でこう……苗字の件とか、色々あったんでしたよね」

「……まぁ、反抗期みたいなもんだね。親を見限ったんだから」

ジェネルからの問いかけに、海は答えづらそうにぶっきらぼうな返事をした。

 

「今、本当に一切連絡取ってないんでしたっけ?」

「誰があんな犯罪者と連絡取るかよ。お前はその頃子供だったから知らないかもしれないけど、俺の父親は犯罪者だ。社会的な意味での犯罪者だけでなく、本当の意味でも犯罪者になっている」

「何やらかしたんです?」

「横領」

「ああー……」

「その後どうなったかは知らない。手切れ金として"当時の"愛人にお金を渡して、それっきり」

 

さも当たり前のように縁を切った話が出てきたことにジェネルは少しだけ驚いたが、それよりも気になる言葉があったものだからついつい追求をしてしまった。

「"当時の"、って」

「当時の、は当時の、だよ。アイツが一人と付き合ってるだけとは、俺は思えない」

「実際のところ、どうなんですか?仲直りはたぶん無理だと思いますけど――家族っていうか……子供たちにはどう説明してるんですか?」

いちいちそんなことを掘り下げてくれるなよ――と海は思いながらジェネルを睨んだ。

ジェネルも一瞬睨まれたことにびっくりしながら、そんなにまずいことを質問しただろうか――と海を見つめ続けた。

 

「長野にある華耶の実家にお義父さんがいるから、それで十分だろ。俺の親は二人ともいなくなった、っていうのは遠まわしには子供たちには話してある。おふくろは……どうだろうね。若手の頃まではお金が振り込まれてたけど、今はどこに住んでいるかはもう本当に分からないんだよ。死んでるんじゃないのかな」

「死んでる、って……。会いたくはないんですか?」

「会って、なんになるんだよ」

「えぇ……?」

海から放たれた、自分の親に対して向けた言葉とは思えないような響きにジェネルは思わず声をひっくり返した。

海は相変わらず、普段と同じような顔のままだ。冗談で言っているような顔ではない。

 

「えぇ?じゃないよ。会ったところで、俺の失われた20年が戻ってくるわけじゃあない」

「戻ってこないかもしれませんけど――」

「俺だけじゃないよ。おふくろだって、20年の時を失っている。今更会って、隙間のできた時間を埋めるほどの何かがあるとは、俺には思えない」

「……だからこそ会いたいとか、ないんですか?」

 

ジェネルは少し悲しげな表情を浮かべながら海を見つめたが、海はさも当たり前のような表情をしながらスクワットを続け――

「思わないね。俺から会って、今の生活があるおふくろに、穿り返されたくない過去をわざわざ掘り起こして問い詰めるようなことはしたくないし、俺だって失われた20年の間におふくろが別の男とよろしくやってる姿だって見たくない。なんなら、別の男と子供だって作ってるかもしれない。そうなったとき、俺は異父兄弟がいるってことになるだろ。おふくろだけじゃなくて、兄弟にとってもそれはよくないことだ。互いに、知らないまま生きてたほうが、きっと幸せなんだよ」

そう言って海はしばらく黙ったあと、再びぽつりと呟いた。

 

「仮にそうじゃなかったとしても――20年という月日を埋めるには、俺は歳を取りすぎた。守るべきものも多くなったし、自分の生活、家族というものがある中で、仮に今おふくろと会ったところで、互いに別の生活があるんだから、複雑な気持ちになるだけだろ。言葉が何かを解決してくれるわけでもないと思うし、言葉がかえって変な空気を作るかもしれない。だったら、おふくろは国に帰って、いい男を見つけ、その後幸せに暮らしてひっそりとこの世を去りました――でいいだろ。相手のことを知るということは、相手の人生の責任や運命なんかを、一緒に背負わないといけなくなるんだから。俺は今、自分のものだけで十分だ。おふくろのその後のことなんか知ったら、いよいよ潰れてしまう」

淡々と話し続ける海を、ジェネルはずっと見つめ続けた。

 

「あんたのおかげで俺もいい妻と出会えて、子宝にも恵まれた――なんて皮肉を聞かせるためだけにおふくろと会っても、どうしようもならない。住所を明かさないまま、金を振り込むだけ振り込んでパタリと消息を絶ったのは、おふくろなりの罪滅ぼしなんだよ、たぶん。だから、俺が一方的に会いたいって言って、おふくろに年老いた俺を見て月日の経過感じさせて――20年という絶対に埋まりようがない時間を、もう若くもないおふくろに突きつけるのは、いくらなんでもかわいそうだ」

海は言うだけ言い終えて、額から流れる汗に構わずスクワットを続けた。ノルマまでの回数は遠く、ジェネルとしては少しでも喋っていないとかえって気が散りそうだった。

 

「それは、そうですけど。でもそれ、なんか悲しくないですか?」

「いくら哀れんでも、おふくろが俺を見捨てたことは変わりないからね」

「そんな……」

「まあ、おふくろが本当に見捨てたのは、俺じゃなくてあのクソッタレな親父なんだけどさ。だからもう、なかったことにしたほうがいいんだよ。わざわざ会って掘り返すことなんかしなくてもさ、元気で生きて、互いに互いを忘れて今を生きるのが、きっと正しいんだよ。互いのためにも」

海は目を細め、物悲しそうな表情を浮かべた。分かってはいたものの、ジェネルはやはり海に対して両親の話題はあまり聞くべき話題ではなかったな――と反省した。

 

「その点、新くんは海さんほどこじれなさそうですよね。海さんは奥さん一筋ですし」

「それをなんとかして崩そうとしている女が言う台詞なの?それは」

「別に私は家庭を崩そうとしてるんじゃなくて、一瞬だけでも片思いだけじゃなくなればいいなっていう話をしてるんです。永続的な話じゃなくて、一瞬だけでもいいから、っていうやつですよ。だから、憧れなんです。別にこれから海さんと結婚したいです!なんて話になるなんて私は思っても居ませんし、仮にそうなったら正気に戻ってください!って海さんを殴りますし」

「どっちみち、同じようなもんだろ」

海はジェネルに対し鼻で笑うようにして、本当にこいつに俺が殴れるかね――などと思いながらその身体を一瞥してみせた。

 

「ちーがーいーまーすーよー。本当にガチの奴は家庭の隙間につけこんで、家庭ごと崩壊させに来ますからね」

「俺にはお前がそうしようとしているようにしか見えないんだけど」

「でも、一応私を練習には招くじゃないですか」

「他に練習しにくる奴もいないし、どうせ俺が誘わなくてもお前が俺のところに練習させてほしいって連絡入れに来るだろ。……お前以外の後輩もこうだったら、どれほどうちは未来が明るいものかね。未来が明るいっていうか……きっと、お前くらい練習熱心な後輩がもう一人くらいなんかいたら、俺たち、100敗なんかしてないよ」

海はそう言って、空になったペットボトルを軽く蹴飛ばした。どうやら海は規定回数を終えたようで、給水機から茶を出してジェネルに見せつけないようにしながらそれを飲み干した。

 

「そのぶん私がなんとかしますから」

「お前だけが打って試合に勝てるなら、野球は9人でやる必要なんかないんだよ」

ジェネルはそう、吐き捨てるように呟いた海の表情がとても悲しそうに見えて、いたたまれなかった。

 

憧れていた佳井海がこれほどの重圧と戦っているとは思わなかったし、憧れていた世界がこれほどヘドロくさく粘っこいものだとは思っていなかったものだから、確かに海の言うように自分は甘いのかもしれない。

だからこそ、海には希望というものを見せてやりたい――ジェネルはそう思っていた。

 

自分ひとりで海が本気になれるならば――自分ひとりで海の本当の力を発揮できるならば、なんだってしたいとも思っていた。そのためなら自分の身体を差し出すこともいとわない覚悟でジェネルはいた。それが人として仮に間違っていたとしても――自分にできることなら何でもしたいとジェネルは思い続けていた。

 

自分の思いは本気だし、単に佳井海という人間がかっこいいから憧れていたというだけではない。

打席につきながら、常に出塁を考えてバッティングする海。それをピクリとも喜ばずに淡々とヒットを打ち続ける海。時折悔しがる海。

 

この男は一体、何をすれば本当の笑顔を見せるのだろう――単に安打製造機としての海だけではなく、決して何事にも満足しない佳井海の世界を追い続けたいし――自分にできることならば、自分がその世界に野球という側面で光をもたらしたいと思っていた。

 

家庭面の光ではきっと華耶には勝てないだろうけれど、ともに野球をしているという点でジェネルはそこに自負があった。自分ならば妻にできない側面で海をなんとかできるはず――と。

 

「動き、止まってるぞ」

海はバットでジェネルの腰と尻をつつき、ジェネルにスクワットの続きを促した。

「あっ、ちょっと海さん、そういうのは……」

「自分から色仕掛けするのはよくて、他人に身体を触られるのはよくないのか、お前」

「心の準備ができてなくて」

「バカ言ってないで、早く続きやりなよ」

海はそう言いながら自分もまたスクワットをもう1セットはじめ、ジェネルに対してペースを上げろ、と目線を送った。

 

汗だくになってジェネルの身体にぴたりと張り付き、スポーツメーカーの名前がしっかり見えるほどにインナーが透けてしまっているシャツにも目もくれず、海は淡々とスクワットをし続ける。

 

練習してるときとそうでないときのメリハリがきっと海の夜の顔をより一層強くさせるのだろうな――とジェネルは思ったが、それと同時に改めて、海が練習にひたすら打ち込んでいることを思い知った。

 

しばらく、そうしてジェネルが自宅に通っていた頃、新はなかなかリビングには下りてこなかった。

あくる日の朝、洗面所で新が海と出くわしたとき、新は険しい表情で海を睨んだ。

 

「感心しないね、ああいうの」

「何が?」

「母さんがこれから大事な時期になるっていうのに、あんな無防備な服着た女の人連れ込むなんて」

「アイツは……ああいうファッションなんだよ。別に、裸になったりなんかしないからいいだろ」

「言うだけならなんとでも言えるからね。裏では何やってることだか」

新の馬鹿にするような言葉に海は思わず鼻で笑い声を上げそうになった。一体どこでそんなことを覚えたのだろう――ということも思ったと同時に、自分もこういう口ぶりで楓悟に対して言葉を投げつけたものだ――とも思った。

 

「分かってると思うけどアイツはチームメイトだ。それ以上でも、以下でもない。チームメイトを連れてくるなって言うのか」

「あの人、父さんにベタベタしすぎなんだよ。父さんだってまんざらじゃなさそうな顔してさ」

「世の中の人間を全部そういう風に見てるのか、新は?お母さんだってスキンシップはするほうだろ」

「母さんは別にいいんだよ」

「どうして」

「どうしてって……そりゃあ、家族だからだろ。家族以外にああいう態度されてるんだから、もうちょっと拒否しろよ」

「じゃあ、学校であんな風に距離感近い子には、新はみんな拒絶して睨みつけるのか?」

「それは……そういうわけじゃないけど……」

「そうだろ」

新はどうやら痛いところを突かれてしまったようだ。この様子だと、恐らくそれなりにクラスなんかでは女子に囲まれたりもしているようだ。自分の子供なのだから、確かに自分がそうだったように、きっとモテることだろう。

海は自分の息子ながら、そういうところまで自分に似なくても――と思っていたが、新の文句は止まらなかった。

 

「母さんも母さんだよ。あんな女の人連れてきてるのに、見せびらかすようにしてっていうか、対抗するようにして父さんの腕なんか組んだりしてさ。そういうの、よくないって学校で習った」

「よくないって、どうよくないんだ?」

「それは……」

思わず言葉に詰まらせて何も言えなくなる新は、目線を泳がせながらしばらく黙って――

 

「とにかく。今の父さんはだらけていると思う。父さんを中心に、あの女の人も、母さんも、みんななんだかだらけてると思う。それは父さんの責任だと思う。父さんがしっかりしてないからみんなあんな風にイチャイチャしてるんだ。父さんが浮かれてるからそうなるんだ」

そう言って新は乱暴に扉を閉め、身支度をはじめ足早に学校へと向かっていった。

 

「ジェラシーだね」

「ジェラシーなのか?」

「ジェラシーだよ」

「そうか」

脇で話を聞いていた華耶がニヤニヤしながら海に話しかける。

 

「ジェラシーって」「アイスクリームみたいなやつ?」

真結と広乃がその後ろで華耶の脚にぴたりと抱きつきながら見上げる。

「二人にはまだちょっと早い言葉かな。さ、学校行く準備しないと」

と晴留がさらにその後ろからやってきて二人をリビングへと連れ戻した。

 

それからしばらくして、今年も秋季キャンプの時期がやってきた。もう若手という歳でもないのだから、そろそろ選抜メンバーから外れる時期かと海は思っていたが、今年も海はメンバーにしっかり強化中心選手として指名されていた。

 

30代に入ったというのに未だに強化中心選手として選ばれ続けているというのもなかなかお笑いなものだが、チームの上層部がそう決めてしまったものは仕方がない。

 

清兵衛はコンディション不良のため秋季キャンプのメンバーを外れ、田中は季節はずれのインフルエンザで同じくメンバーから離れていた。

実質、佳井とジェネルを中心に強化するようなものだ――と取材陣からも軽くぼやかれる中、ここのところ、新しく入団してきてはすぐに離脱を繰り返していく二軍選手と、半ば懲罰で呼ばれているような準レギュラーらがメンバーに加わり、今年も厳しいキャンプが始まろうとしていた。

 

「ねーえ。そのやる気さ、もうちょっと自分の魅力に回してもいいんじゃないの?ねぇねぇ」

横嶺がジェネルに馴れ馴れしく話しかけるが、ジェネルはにこやかな笑顔のまま

「やる気も魅力もない人に私のことをどうこう言われる筋合いはないです。悔しかったらレギュラー、奪い返してみてください。私は来季もレギュラーを譲る気はないので。正々堂々と勝負です」

とまっすぐな毒を吐いてみせた。

 

「あー、やだやだ。自分のやる気で周囲を動かしてみせるみたいなタイプ、嫌いだわ。そういや、うちにはもう一人レギュラーにそーいうタイプがいたっけ。え?何?お前らやっぱりデキてるわけ?ねえ、もうやることまでやっちゃったの?ねえねえ、教えてよ」

軽口を叩き続けていた横嶺だったが、生駒に後ろから尻を蹴られ、もはや拷問レベルの練習コースへと引きずられていってしまった。

 

「よくあそこまで言うもんだね、お前も」

「私、野球を浅いところでなめてる人は嫌いなんですよ」

ジェネルは海に向けてニッと笑顔を向け、悪びれもしないようなそぶりで発言を振り返っていた。

 

「あ、でもさっきのレギュラー譲らないっていう発言は本当ですよ。私、あんな人にレギュラー奪われるくらいなら死にますもん」

「過激派だな」

「過激派ですよ。はぐれてはいませんけど」

「……あぁ、昔流行ったアニメかなんかか」

「いいですよ、無理にあわせてくれなくて。とにかく、私は私なりに全力で頑張りたいってことです」

 

翌日、横嶺を含む中堅選手3名がマラソンを手を抜いて走ったことをとうとう今野に咎められ、キャンプからも追放されてしまったことが明らかになった。

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