海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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75・無限の空に想いを描け

「今日からまた合流しました。しばらくどころか今年はここから可能な限り1軍に帯同したいと思っているのでよろしくお願いします!」

 

練習前の挨拶でそう元気に挨拶したジェネルは海にふふん、と鼻で笑ってみせながら得意げな顔をしてみせた。

 

「えーっと、分かってるとは思うけど、2勝5敗で甲子園に戻ってきたわけです。ちょっとファンがまた変な空気出してると思うけど、まあ、諸君らはあんまり気にせず試合に集中するように。私からは以上です。各自、他に何かあるかな。……ないなら、練習はじめようか。時間がないからね、我々には」

 

今野の相変わらずあまり覇気の感じられない挨拶がそこそこに、練習が始まった。

喋ってる暇があるなら練習しよう、というのが今野のスタンスらしく、試合前も試合後もミーティングでは必要以上のことはあまり話そうとはしなかった。

 

監督の声で士気が上がるならばそれに越したことはないのだが、たぶんそういうタイプでもないのだろう。海は自分もきっと監督なんかになったら同じようなことになる気がしていたが――試合前にキャプテンとして一言求められるようになることなんかを考えると、正直なところ今野の覇気のなさというものは気になった。

今野のピリっとしないところの責任を全部自分に押し付けられているような気がして、海は今の監督は今の監督であまり好きにはなれそうになかった。

 

選手に対して大声で叱責したり、長々と文句を言わないだけまだマシだという気持ちはあるのだが、今野が名将かと言われれば違う。なんなら、どちらかというと裏で糸を引いているような参謀タイプだろう。

黙ってコーチでとどまっていればよかったものを――と、選手の立場ならば簡単に言えるのだけど、きっとOBというものはそうもいかないのだ。

海はそう考えると失望感とともに、一種の哀れみも隣り合わせた感情が今野に対して湧いてきた。

 

「戻ってきてやりましたよ。海さん」

「あぁ、モテる男は辛いね」

 

そこに軽口を言うはずの男は、いなかった。

かねてより気にしていた脇腹痛の悪化により、大事を取って少し休養を取ることになった清兵衛。その際の登録抹消に伴って1軍に緊急昇格したのがジェネルだった。

 

「らしくないこと言って、清兵衛さんのつもりですか?」

「アイツ、もうすぐ辞めるだろうからね」

ジェネルの茶化しに、海は厳しい冗談を放った。

半分冗談のつもりだが、もう半分は事実だ。昔からずっと、清兵衛は自分のキャリアの最後について話をしていた。清兵衛のことだから、こういうとき、真剣に自分の引き際について考えていても不思議ではない。

 

「やめてくださいよ、縁起でもない」

「アイツ本人が何年か前から気にしていたことだ。俺だっていつ突然身体の調子がおかしくなったっておかしくないし、俺だっていつまでこうして軽口を叩けるものか」

「でも……でも、海さんはまだ志半ばじゃないですか」

「それは、アイツも同じだよ」

 

『俺ァいつか優勝すっぞ!海ィ!なァ!天才打者佳井海とォ、超!天才打者!この大鈴清兵衛!この二人が揃ってりゃあなァ、あの不細工なドームの天井に穴あけることだってェ、容易いもんよ!あるいはよォ、あの警備会社の看板に穴開けてなんかよォ!ガハハ!球団代表のあんちくしょうめ、いっつも俺らみたいに率を稼ぐタイプの打者の足元ばっかり見やがって。なぁ海。佳井海よォ。悔しいよなァ!?』

 

酒に酔った清兵衛が海のもとでそう話してから、5年の月日が流れようとしていた。

その翌年、チーターズは久々のAクラス入りを果たし、シリーズ戦をかけたプレーオフにも進出したが――2勝4敗で惜しくもシリーズ戦への切符はつかめなかった。

 

『感心しねぇな。言っただろ、俺ァ。なぁ海、佳井海よ。まるでお前さん一人でチーム背負ってるみてェなツラ、俺ァ好かねェ。まだ発展途上のお前さんがしていいツラじゃあねぇ。上がいるうちはな、上に責任転嫁しときゃいいんだよ』

 

清兵衛は常に豪快だった。豪快だから、見え透いた裏のありそうな言葉をわざとらしく言う時以外の清兵衛の言葉は、冗談だろうが本音だろうが、まっすぐだった。

そのまっすぐに向けられた言葉は、考えてみたら自分だけでなく、清兵衛自身にも向けられていた言葉だったのかもしれない。

 

清兵衛だって悔しくないわけがないのだ。優勝したいという言葉は決して泥酔していたから出た言葉なのではなく、清兵衛もここで勝ちたかったから出てきたのだ。だから、あんな言葉を使って自分自身をきっと鼓舞していたのだ。

 

本人に言ったら間違いなく否定するだろうし、大体、清兵衛の性格上きっと覚えていないと言い張るか――もしくは本当に忘れてしまっていることなのかもしれないが、それでも、こうして歳をとり、開幕直後から離脱しているということに今の清兵衛がまったく悔しいと思っていないわけがない。

 

その一方で、清兵衛の闘志を燃やしうるものが、闘志に耐えうる身体が、あとどれほど残っているものだろう。体は言うことを聞かず、脚力は数年前から少しずつ翳り始め――それでもやらなければいけない、という使命感から、その闘志を身を削って捻出している清兵衛。

そう考えたとき、自分がここでしっかりやらなければ、いっそもう辞めてしまおうか、と清兵衛は自分から夢を諦めてしまうのではないか――海はそう考えた。

 

他人のことなど他人に聞かないと分からないし、本心なんてどれほど明かしてくれるかは分からないが、少なくとも今の清兵衛に一番薬になるのは、残された自分たちが奮起することだろう。

 

「この試合、落としたくないもんだね」

「海さん、元に戻ったんですね。去年、あんなこと言ってたのに」

「元に戻っただけじゃないよ。この試合――清兵衛のためにも落とせない。アイツ、きっと一日でも早く戻ってきたいだろうから」

「プレーで元気付けよう、ってことですか」

「俺たちにできるのはそのくらいだろ。安っぽいドラマだけど」

「一発、狙いますか」

「それは、狙わないといけなくなった状況になったら考えるよ」

「私は――」

ジェネルはバットを担ぎながら、海をじっと見つめた。

 

「私は狙いますよ。海さんは海さんにしかできないバッティングがありますし、海さんだからこそ打てるヒットっていうのがあると思います。背負ってるもの、大きいですからね。だったら――私が代わりに一発を狙います。どうせ私、そこまで期待されてないでしょうから。当たって砕けてやります。その覚悟があるかどうかを見極めるために呼ばれたものだと思ってますから」

やる気まんまんのジェネルを見て、海は苦笑した。

 

「お前はもうちょっと狙いを絞って、ヒットを優先したってもいいだろ」

「でも、今日の試合を勝つためにはきっと私の一発が必要です。わざわざ私を昇格して起用するくらいですから。こんな時ドカンとやらないと……その姿勢くらい見せないと、またすぐ2軍送りになってしまいますからね。2軍……ほんと、ここ以上にみんな顔が死んでたんですよ。あのままずっと居たら、私まで腐ってしまいそうですから」

 

ジェネルはそう言って笑顔を見せた。

海もまた、狙うべき場面では狙うべき日というものがきっと今日であると思いながら、遠くに構えたバックスクリーンを睨みつけた。

 

私まで腐ってしまいそう、という言葉の裏に一体どれほどの環境をジェネルが見てきたかは分からないが、ジェネルのやる気を今だけは海は頼もしく思った。

 

試合が始まり、1回裏の攻撃が始まった瞬間、ファンの怒号は早くも熱を帯びていた。

相変わらず客席には『100敗カウンター』と呼ばれる黄色を基調とした大きいお手製のボードが掲げられいて、本当に応援する気があるのかどうか――と思いたくなるような光景が広がっていた。

 

昨シーズン100敗したという事実はファンにも打撃を与えたらしく、開幕直後だというのに――平日の試合だということも多少考慮しても客席のまばらさと、それに反比例する形での半ば暴徒化した観客の声の大きさは度を越していた。

 

『稚ー絶ーズは球団改革を』

 

『ヒョロヒョロチンケーズ、うんち!w』

 

『金返せ!』

 

『#年俸の返還を求めます』

 

そんな横断幕なんてまだ可愛いもので、無言でアウトで帰って来ると『もっと悔しがれ』と怒号が飛び交い、悔しがって帰って来ると『悔しがるだけなら誰にでも出来る』と罵られ――まるで会場一体が前野のような人間、あるいは前野そのものに支配されたような、そんな雰囲気が球場を包んでいた。

 

「こんなところで野球なんかしてるとさ、やりがい、なくしそうになるよな」

イニング間の休憩の間、ふとジェネルの隣で、海がぼやいた。

 

「えー、逆に燃えませんか?」

「チームの中からも外からも圧がかかってやる気を無くしていって、ここから何人も去っていったのを見てるからね。お前だっていつ折れるか。俺だって、ギリギリなところで踏みとどまってるんだから」

「でも、海さんもこういう場面、燃えるタイプじゃないですか」

「俺はあいつらのことを観客と思ってないからね」

「悲しい達観ですね」

 

先制点を奪ったものの4回にはバトルシップスに勝ち越しを許したチーターズ。ベンチに戻る間際、観客席からは『やっぱりこうなるんじゃねーかよォ!!』という叫びが聞こえてきた。

 

ファールボールを防ぐためのネットが、いまやファンからのモノの投げつけを防ぐネットになっているようで、早くもグラウンドにはネットの隙間やネットの上をくぐらせるようにしてゴミを投げる者がちらほらと現れては警備員に連れられていった。

 

「でもね、海さん。たぶん――こんな状況でマウンドに立つ相手投手も、きっと嫌だと思いますよ」

「そうかな」

「ボール球が先行してます。こんなピリピリした状況で一気に試合の流れを引き寄せられたら、向こうのピッチャーだって投げづらいと思います。なんやかんや、ここの観客、勝てそうになるとさっきまでの態度がウソみたいに応援でかくなるじゃないですか」

「打てたらの話だけどね」

「打ちますよ。私は」

「高い理想と自信があっていいね」

「理想だけでも、ハッタリだけでもないですよ」

「そうかな」

 

自信に満ち溢れてギラギラと目を輝かせているジェネルを、正直なところ羨ましいと海は思った。

仮にハッタリだとしても、こんな状況でネガティブに飲み込まれずにただ前向きに居られるメンタルの強さがきっと、ジェネルの本当の強さなのだろうとも思った。

そうした心の強さが自分にはなかったから、きっと自分はこんな歳まで中途半端な――傍から見たら決して中途半端ではないのだが、海からしてみればこんな中途半端な選手にしかなれなかったのだろうと思っていた。

 

制球力には一定の評判のある相手の先発投手がこの空気に飲まれつつある――そう判断しながら打席に入ったジェネルは、打席でボールを二球――ストレートとチェンジアップをそれぞれ見送った。ハーフスイングすらせず、まるでバッテリーの様子を伺うようにその球をジェネルはニヤつきながらただ眺めていた。

 

チェンジアップか、ストレートか――投球割合のほとんどをその二つで抑えているということは、かなり的を絞られやすいということにも繋がる。そんな状況下で、何を投げても微動だにしないジェネルに対し、相手バッテリーは思わずマウンドで話し合いを始めた。

勝負を逃げるほどの打者ではないにしろ、何か考えがあるのではないか――そんな不気味さが、バッテリーを大いに惑わせていた。

 

カウントは1ボール1ストライク――その状況でも、ジェネルは全くボールを振ろうとせず、しばらく間を置いてから放たれたストレートを再び見送った。

 

ボールだ。

 

続けざまに投げてきたチェンジアップは真ん中低めいっぱいに決まったが、ジェネルはそれもまったく振ろうともせず、ひたすら構え続け――不気味なまでに一切スイングをしなかった。

2ストライクと追い込まれているというのに、ジェネルは全く気にしない様子で不敵な笑みを浮かべた。相手投手はそれがいやに不気味で、何か悪いものでも食べたのではないか――と思った。

 

もう一球続けてチェンジアップを投げた相手投手。内角、高さはやや真ん中に投げられたチェンジアップをよく見たジェネルは一塁側に逸れていく鋭い打球を放ちファールを告げられた。

 

甘い球一本に絞っている、というのがしっかり分かるジェネルのたたずまい。応援団だけはしっかりとその姿に呼応するように応援歌を全力で演奏していた。

 

 ――♪

  ――憧れに いざ挑めジェネル

     無限の空に 想い描け――♪

 

プロ1年目から固有の応援歌を用意されていたジェネル。あのような記者会見があったからかここぞとばかりに海を意識して作られた応援歌らしく、ジェネルも気に入っているようだった。

 

いざ挑め、と言われても挑んでくるのは試合中だけではなくプライベートもなのだから、応援団もまた余計なことをしてくれたものである。自分がいなくなったりでもしたら、この応援歌はどうするつもりなのだろうと海は思っていたが、きっとジェネルは応援歌を変えてほしいなど言わないだろう。

 

もう一球続けて投げたストレートは外に大きく上ずり、キャッチャーが慌てて捕球した。場の空気に呑まれる、というのはこういうことだろう。

投手は首を振り続け、なかなかサインが決まらない。その投球内容のほとんどがストレートかチェンジアップかのどちらかなのだが、その二択が決まらないようだ。

いかんせんカウントを2ストライクと追い込んでいる一方で3ボールとこちらも追い込まれているわけだから、どうするべきかその判断に悩んでいるようだった。

 

その間もジェネルは動こうともしなかったし、待てば待つほど観客の声は大きくなっていく。

自分たちに向けられていたヘイトが徐々にバッテリーへと向けられ――『早く投げろ!』『早よせぇ!!』という声が内野席からも出始め、相手投手は決断を迫られた。

 

3ボール2ストライク――カウントを追い込まれているものの、ジェネルはひたすらに次の一球を待っていた。

内角少し高めの、ストレートにしては少しだけ抜けたようなボールがまっすぐ飛んでくる。

ジェネルはそれをニッと笑いながら豪快なテイクバックでバットを差し向け――パワー自慢の外国人選手のように、豪快に腕を振り切るフォロースルーで、その白球の行方を眺めた。

 

高く高く舞い上がった白球が一体どこに向かっているかなんてものは誰の目にも明白で、レフトで旗を振っているバトルシップスの応援団が構える座席の看板付近を目指すようにして綺麗な放物線を描いていき、やがてレフトスタンドへゆっくりと落下すると、球場からはワァッと耳鳴りを起こすような歓声が沸いた。

 

打った瞬間、ジェネルは完全に確信したようなそぶりで高々と右腕を突き上げながら一塁へと走っていき、人差し指で外野の黄色に染まった応援席をしっかりと指しながらゆっくりとベースを回り始めていた。

 

ホームベースまで回ってきたジェネルはカメラに向かって投げキッスをし――そしてゆっくりとベンチへと戻ってくる。

控えめなハイタッチを受け、ベンチに戻ってきたジェネルは海にべったりとくっつき――

 

「見てました?完璧でしょ?ね?ね?」

と自画自賛を始めた。

 

「あれを決められないようならまた2軍だよ、お前は」

「あー、またそういうこと言う」

ジェネルはふてくされながらも海の腕をつかんでは離さなかった。

 

「……そりゃあ、来て早々2軍送り返しは嫌ですもん。狙いますよ、そりゃあ」

とまじめなトーンでポツリとつぶやいた後――こちらに向かっている内野席付近のカメラに向かってジェネルはピースをした。

 

「勝ちましょうね、海さん。この試合――私が振り出しに戻してやりましたから」

「あぁ、そうだね」

海もまた、スコアボードに刻まれた2対2というそのスコアをじっと見つめた。

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