思いの強さだけで勝利ができるほどプロの勝負というものは優しい世界ではないということを、海はこの15年あまり何度も見てきた。
スコアボードに無常にも照らされている6対5という数字、ファールグラウンドやフェンス際に転々と転がっていくゴミ――延々と内野席から暴言を吐き散らし、スタッフや警備員に連行されて行く暴徒化した複数のファン――。
それを「いつものことだから」と冷ややかな目で見つめたり、冷笑を浮かべながら見ているベンチの数名に対して、なかなか席から立とうとしないジェネル。
6回、代打にホームランを打たれた直後、突如先発が崩れた。
その直後の攻撃で、海にはチャンスが回ってきたのだが――1ボール2ストライクと追い込まれてから突如制球が乱れ始め、甘く入った球を痛打されるよりはマシだ――と、相手投手に勝負してもらえず歩かされてしまった。
最後の一球はもはや勝負を諦め、次の打者に回そうというような一球で――海は舌打ちをしながら一塁へと歩いた。
4回、満塁のチャンスであわや走者一掃のタイムリーとなりかけた2点タイムリーを放った海。絶対に当てる自信があったからこそ、この勝負には海は不快感を抱かずにはいられなかった。
そうして結局、8回に回ってきた逆転のチャンスで海は気持ちを切り替えられず凡退した。
『肝心なときにお前は役に立たない』
前野の言葉が未だに呪いの装備のように海にまとわりつき、海は廊下の壁を殴った。
この試合は勝てたのだ。追いついてから打たれたリリーフのせいではない。8回に自分が打ってさえいれば勝てたのだ。
負けてしまえば、4回に打ったタイムリーのことなど、誰も振り返らなくなるし、負けた試合のタイムリーなど、何の価値にもならない。
決してそんなことはないのかもしれないが、前野の呪縛はこうした試合で海を苦しめ続けた。
ジェネルもまた、確信を持って捉えたボールの感覚に囚われ続け、次の打席での追加点のチャンスで4球続いたストレートをつい大きく振ってしまい、サード前に無惨にも転がったボールはあっという間に内野の守備陣に回され、併殺打となってしまった。
年間144のうちたった1つ――
そんなことを簡単に周りは言ってみせるが、勝機がまったくなかった試合を落とすのと、つかみかけていた勝機を何度も自分の手で落とした試合というものは、ひとつの試合に真剣に打ち込めば打ち込むほどそのダメージは大きい。
呆然としたジェネルが見ている世界と、清掃員がぶつくさ言いながらゴミを拾っているのを見ている海の世界とはその色合いは微妙に違うのだが、共通して悔しいという思いだけがその場をつないでいた。
「……なんか、引きずっちゃいそうですね。今日の試合」
ぽつり、とジェネルがうつむいたままつぶやいた。
「引きずってるのは俺たちだけだよ。周りはもう、なんとも思っちゃいないよきっと。負けたの、自分のせいって思ってる顔じゃないし、負けるのが当たり前になっちゃってるから、もうどんな負け方も響いてないよ。どうせ」
誰も残って練習したり、あるいはこの球場の惨状を目に焼き付けようとしないガラガラのベンチを見て、海はため息をついた。居残ってファンに文句を言われるのが嫌だからなのかもしれないが、今や遅くまで残って罵声を浴びせ続けるファンすらいない。
やけくそにネットに貼り付けられたままの
『次からヴァリエ大阪の試合見に行くわ』
と、地元で好調なサッカーチームのことと引き合いに出されたボードだけがむなしく存在感をアピールし続けていた。
「そのくらいの気持ちでいたほうがいいんですかね」
「それだけだときっとこんなチーム、一生このままだけどね」
「……ご飯食べに行きましょう。気持ち、切り替えたいです」
「ジェネル」
すっ、と立ち上がってベンチから出ようとしたジェネルを海はいったん呼びとめ――
「俺が引退するまでに、あのゴミの数を0に出来るとまだ思う?」
「……0になるまで居続けてくださいよ。あと5年待ってください」
「5年で優勝できるとでも?」
「優勝なんかじゃ足りないです。日本一のフラッグ、二人で持ちましょう。そこに清兵衛さんも、田中さんもいなくなってたとしても――二人で持ちましょう。他の誰かが持ちたがったとしても、私たち二人でフラッグを独占しましょう」
「……でかいのは胸だけにしておけよ」
海はぴくりとも笑わずに、ベンチを後にした。
5連敗のあと何事もなかったかのように5連勝、そしてまたすべてを忘れたように4連敗――そんな乱高下を繰り返している間に今年の桜前線も日本を去っていき、大型連休がどうこうと日常は騒ぐようになった。
そんな日々の中で1番打者がコンディション不良を理由に2軍調整に入り、いよいよチーターズは一番を誰が打つのかという問題が浮かんだが、結局その問題は解決しないまましばらく、ああでもない、こうでもない――といった試合が続いていた。
欠員が出ている以上、ジェネルは相変わらず1軍に登録され続けていて、あの鮮烈なホームランの後もそれなりに若手選手に求められる仕事はこなしていたが、ジェネルのような若手選手がフル回転を求められるチームという以上、ジェネルが頑張れば頑張るほどチーターズの不調は浮き彫りになっていく悲しき連鎖が起きていた。
「いやァ、やっぱりこのチームは俺がいないとダメだな。見てられねェ」
清兵衛が合流し、チームは活気付いた――というのは、きっと創作だけの話で、その清兵衛も復帰直後の試合は5打席無安打に終わり、チーターズも敗北した。
海の相変わらず4割前後を維持し続ける打率だけがそこにはなんとなくふわふわと浮いていたが、肝心な試合で打てない場面をメディアやファンがやたらと騒ぎ立て、『打率の割には勝利に結びつかない』なんてイメージをつけたがるものだからいよいよ海は『打率詐欺』だの『八百長打者』だの『約束された敗北時にだけ打つサムライ』だの、言いたい放題ボードやSNSに書かれていた。
球団広報も応援団やファンなどが他球団への煽りや暴言を飛ばすことはもとより、所属選手への暴言や人格否定をやめるよう再三注意を行っていたのだが、やはり30年規模に及ぶ優勝戦線から遠ざかっている状況というのは人を悪く変えてしまうようで、注意されたからどうだというのだ――という勢いでその暴言や誹謗中傷は鳴り止まなかった。
「……嫌んなっちゃいますよね。開幕投手としての格がどうとかなんて言われるの。俺には田中楓斗ってちゃんとした名前があるのに、最近は『格下』って内野席から野次られるの本当嫌なんですよね。応援団の一部も格下コールしてきますし。ネットなんかじゃ『田中どなた』とか『田なんとか』とか言いたい放題ですよ。……混合戦もうすぐ始まりますけど、ぶっちゃけ俺は嫌ですよ。投げたくないです」
少しだけ自分を大きく見せるためにやったというブリーチがかえって自分の性格の弱さを露呈させるような気がしてしまう、と嘆いていた田中。その弱弱しい金髪、人工的な金髪とミスマッチを起こし、余計に田中をやつれさせて見せた。
数日の休養日を挟んでから今年も前期混合戦が始まるが、ローテーションの都合上その開幕を飾る田中は早くも戦意を失いかけていた。
海が『勝たせてくれない天才打者』と言われるなら、田中はまた『数字の割に打たれて負けてるエース』そのものだった。
昨シーズンは24先発、17QS。そのうち13回がHQS。数字上、田中の投球内容は実に安定している――はずだった。
その割に防御率は2.90、6勝15敗と大きく負け越していた田中。抑えるときはしっかり抑えるのだが、一度打たれ始めると歯止めが利かないくらいに打たれ始めてしまうという田中の致命的な弱点が、QS数やHQS数と全くかみ合わない防御率によく現れていた。
もちろん、田中の防御率自体が飛び切り悪いわけではなく、年間防御率は規定到達者の中で10位と健闘している。消去法エースと言われるには、あまりに酷なのだ。
一方で、チームの先発投手の中で規定投球回に到達したのが田中ただ一人という状況がより一層『田中くらいですらエースになれるのに』なんて風潮を生んだ。
まして、どこのチームにも目の覚めるような快速球や、思わず二度見をするような変化をする変化球――そうした派手さのあるエースを抱えている。
一方で、田中のピッチングスタイルというものは最速140km/hほどのストレートを中心に、極端に縦に落ちるわけではない、どちらかというとチェンジアップのようなパーム――そして、ツーシームのように投げて使い分けているという、主に芯を外すために使う高速シュート――それらをうまくコースいっぱいに投げて見逃し三振を狙ったり、タイミングを外して打ち取らせるという、玄人向けなものだった。
現代的な言い方をするであれば田中のピッチングスタイルの"映えなさ"がまた、ファンからは『そもそもエースの格ではない』などという乱暴な言い方を産んだ。
「……俺だって、150投げられる肩があれば欲しかったですよ。でも、俺にはそんな肩はない。俺、捨てたんですよ。150投げられたかもしれない肩を」
「捨てた?」
海の隣でハンバーグを食べていたジェネルが思わず食いついた。
「……俺、実は中3の頃には最速143くらい出てたんですよ」
「おい、初耳だぞそれ。143くらいって、今より出てるじゃねェか、おい」
清兵衛は思わず田中の告白に身を乗り出した。ここ数年、田中の速球はよくて140km/hジャストから誤差数キロほどだから、田中の告白に対しては海も清兵衛も、よほど過去のエピソードとして盛っているものだ――と疑ってやまなかった。
「……隠してましたから。たぶん、俺が本来パワータイプの投手だったってことを知ってるのは一部のスカウトと、俺の知り合いくらいですよ。それこそ、エンペラーズのシノ……犬塚は高校時代、俺のチームメイトでしたから。……知ってます?犬塚」
「……他のチームの選手のことはあんまり興味なくてね」
「……すんません」
田中は海の言葉に黙り込んでしまったが、ジェネルが「それで、球速の話の続きは何なんですか?」と話を促し、田中は俯いたままぽつりぽつりと呟き始めた。
「……もともと、球だって暴れるほうだったんです。暴れてる球に、あの頃よく投げてた、ぐいぐい曲がるスライダーがあればいくらでも抑えられる自信だってありました。さすがに相手にぶつけるなんてことはなかったから、ノーコンなりに、俺、自信があったんです。暴れ球でも抑えられるんだぞ、って。……でも、高校入ってすぐに紅白戦で3年生相手に頭にぶつけちゃって…………幸い、そんなに大きい怪我だってありませんでしたし、上下関係には恵まれてましたから、周りから何かされたとか、そういうわけじゃなかったんです。でも、俺一人が気にしちゃって……」
そう言って黙り込んでしまった田中は運ばれてきた料理にもなかなか手をつけず、はぁ、とため息をついた。
「どっかの毎回頭に向かってボール投げてくる奴に聞かせてやりたい話だね。あの野郎、ぶつけても謝りもしねェ」
「清兵衛さん。茶化すところじゃないですよ」
ジェネルが清兵衛を制し、田中はコーヒーを飲んで再び話し始める。
「……たぶん、あのまま誰にもぶつけずに150投げられる時がきていたら、俺はいつか、取り返しのつかないデッドボールをやっていた可能性だってある。そう考えたとき……このままじゃいけないって思ったんです。突然、自分のノーコンが怖くなったんですよ」
ためしにyoureTUNEで検索をかけた清兵衛は、恐らく田中本人であろう投手が中学の選手権大会で豪快なフォームから快速球を投げている動画を見つけ、これが嘘ではないということを確認した。
「……だから、フォームを徹底的に調整して……出所が分かりづらくて、クイックモーションで投げられるように徐々に変えていきました。70%くらいの力で相手を打ち取る技術を身につけて、二度と頭になんかぶつけないように……そう思いながら高校生活をうまいことやってきたんです。大きく曲がるスライダーも、思い切り腕を振らないと前みたいにキレよく曲がってはくれませんから、捨てました。70%の腕の振りだと、キレだけじゃなくて余計に制球が安定しなかったんです。ストレートが安定したとしても、スライダーがすっぽぬけたり、曲がり幅をコントロールできずに相手にぶつけてしまったら、俺、また悩んでしまいそうだったので……」
3人とも、内心そうだろうなと思いながらうっすら首を縦に振った。
田中はそれに気づいたかどうかまでは分からなかったが、少し呼吸を整えてから続けた。
「でも、ストレートだけだと抑えられないでしょう。だから必要最低限の曲がり幅、落ち幅でなんとかできそうな球を見つけて、今に至るんです。プロ入ってからも、時間があればカーブなんかも試してみたんですけど……カーブのあの、ふわっと浮き上がるあの軌道がすっぽぬけたときのやつと似てて嫌で。コーチからも『投げたときの顔でカーブだと分かるからやめたほうがいい』って言われちゃって」
「バレるって……どんな顔してたんだよ、お前さん」
「泣きそうな顔しちゃってたそうです」
「……」
「フォークは落差ばかり気にしてコントロールが雑になるから、合わなくてこれも結局やめてしまいました。スプリットならフォークほど落差を気にしなくていいから球が安定するかな、と思ったんですけど……ダメでした。ストレートと同じくらいの速度で芯を外すだけなら、俺にはシュートがあります。最終的に行き着いたのが、何シーズンか前から使い始めてるムービングファストでした。ストレートを投げるようにして、微妙に握りを変えてるだけの地味な球ですけどね。でも――」
田中は少しだけ不機嫌そうにハンバーグをひとかけら頬張りながら、再びコーヒーで流し込み――
「……そんな過去、ファンからしてみたらどうでもいいことですもんね。ムービングファストだって、テレビ中継なんかじゃだいぶ分かりづらい球ですもん。バックネット席はともかく、内野席とかから見てても地味ですもんね。俺が地味と言われるのは仕方ないですけど、俺なりに頑張ってきたことを横から否定されるのは、やっぱり……面白くないですよ。フロントからも、足元見られてるような査定しかしてもらえませんし」
悔しそうにしながら、田中はグラスを置いた。
「お前さん、打撃練習でそのシェービングフォームとかいうのは使ったことがあったか?」
「ムービングファストだぞ、清兵衛」
「俺ァカタカナが弱ェんだよ」
「そういう問題じゃないだろ。茶化すなよ」
「二人とも、田中さんの話聞いてあげましょうよ」
つい田中は清兵衛と海の話に流されがちなので田中はおろおろとしてしまうのだが、ジェネルがいることでなんとか田中は再び会話を続けることが出来た。
「……予告せずに使ったことはあります。秘密兵器にしたかったので、コーチにすら黙って練習してた球なんですよ、実は。甲子園は風が強いこともあるから、突然変な曲がりをしても風のせいにできますからね。たぶん、コーチの中でも俺がムービングファストを使ってること、知ってる人あんまりいないじゃないのかなと思います。……たまに癖のある球投げてるな、くらいに感じてるか、本当に気づいてないか。投げてます、って言っちゃうと、相手チームなんかにも研究されちゃいますし。それに――」
「……それに?」
言いよどんだ田中の顔をじっと見て、海が復唱した。田中は突然ぐっと悔しそうな顔を海に向けたものだから、海は少し押されるようにしてのけぞった。
「……打撃練習でこの人が俺のムービングファストをバカスカ打つので、なんか宣言しづらくなって」
海をピンと指差した田中に、海は困惑した。そんなことを自分のせいにされても……と海は返事に迷い、髪をぽりぽりとかくくらいのことしか出来なかった。
「……え?何これ、俺のせい……なのか?」
「……佳井さんを打ち取れるような球までいったら、公言してもいいかな、って思ってたんですけど、佳井さんはこういう芯を外すタイプの球も普通に打っちゃうじゃないですか。だから、目標としては佳井さんが『何?今の球』ってなるくらいの球になるまでは黙ってようとしていたんです」
「なんか癖のある球投げてるなと思ったけど、あれ意図的だったんだなって今やっと分かったよ」
「……ええ。関係なくバカスカ打つから、封印しようかどうか迷いました。でも、佳井さんが普通の打者じゃないからと切り替えてその後も試合でいくらか使ってみましたけど。幸い、その辺の打者にはまあまあ通用してくれましたから」
「あー、海さんそれはやっぱ気づいてほめてあげなきゃいけないところでしたね」
「いや、俺のせいにしようとするのよくないよ。清兵衛、そうだろ?」
「俺ァ気づいてたがね、そのゲーミングマウスとかいうの」
「気づいてなかったよな?」
「……なんか、このくだり話さなきゃよかったです」
「あーあ、二人のせいで田中さんへこんじゃった」
田中は清兵衛に茶化されたことがこたえたのか、少しオレンジ色の強い金髪をかきむしって、悔しそうに口を曲げた。