「佳井先輩」
デイゲームだったこの日、球場の長い廊下で海は木村に呼び止められた。
いつも以上に不機嫌そうにした海の態度に木村は特に構うことなく、少し急いでそうな海に併走する形でそのまま話を切り出し始めた。
「うちら相手に3タテとは、なかなかやるじゃないですか。Aクラス入り、狙えるんじゃないですか?」
「お前ら相手に3連勝したくらいでAクラスに入れたら苦労しないよ。大体、そこに至るまでに何連敗したと思ってるんだよ。Aクラス入りがどうこうなんてからかわないでもらいたいね」
そう言って海は歩くペースをさらに速めたのだが、木村も負けじと海の歩幅についてくる。足の長さでは勝てることがないから、木村は小走り気味にして海に並んだ。
「待ってください。食事、行きましょうよ。いろいろ聞きたいことがあるんですよ、こっちは」
「悪いけど、最近出番がなくてスネてる奴と一緒に食事しにいくことになってるんだ。お前が俺に聞きたいことがあること以上に、俺には俺の予定がある」
「じゃあ、一緒させてくださいよ。その選手にもいろいろ話を聞いておきたくて」
木村の声に海はぴたりと足を止め、うんざりしたような表情で振り返って木村を睨んだ。見下ろす形になる海の表情には眉間にしわがしっかりと入っていて、般若のような形相だった。
「……察しろよ。相手が誰か分かってるんだろ?」
「分かってるから俺がついていくんじゃないですか。まさか先輩、慣れない土地で女性選手一人連れまわして街を練り歩くつもりですか。あまりメディアをナメないほうがいいと思いますよ」
脅しともとれる木村の言葉に海はさらに怪訝な表情を浮かべながら木村を睨みつけ、ハァ――と深いため息をつき、しばらく黙った。
「……お前、自分のチームの選手ももっと取材したほうがいいと思うよ。俺なんかに熱心になったって、お前の出世に響かないだろ」
「俺は別にどちらかというと対外情報のほうで飯を食おうとしてるのでお構いなく」
「……お前の出世街道なんて、心底どうでもいいけどさ」
ここのところ、海はよく当たっていた。3月、4月とあまり調子のよくなかった打率を一気に巻き返すようにヒットを重ね、きのうきょうと二試合連続ホームランも決めていた。
軽く打ったつもりだった打球がぐんぐんと伸びていくケースがこれまでよりも目に見えて増え、きのうのホームランもドルフィンズの本拠地・ダガヤドームの高く聳え立つフェンスをライナー性の打球のまま乗り越える形で決めていた。
海としては思っていたほど打球も上がらないから、そのうち打球も勢いが衰えてせいぜいフェンス直撃の二塁打くらいだろうか――と思っていた打球がポンとフェンスを越えたものだから、それなりに手ごたえはあった。
去年の大振りを意識した打撃。それが今年になって、自分では軽く打ったつもりでも今までよりも、自分が自分に抱いているイメージよりもずっと自然に、より鋭いスイングができるようになっているということを再認識した。
逆に、あまり今の好調ばかり意識しているといつしか長打の打ち方を忘れてしまいそうだから、改めて自分が今感じている手ごたえをしっかりと自分がイメージしている打球とすり合わせ、外野の前で落ちるような打球の打ち方を忘れてはいけない――と戒めなければと思った打席でもあった。
一塁ベースを踏んだ頃、投手が一番自信を持って投げ込んでくる変化球がそうしてスタンドを越えたこともあり、相手投手が思わずグラブをマウンドに叩きつける場面が海にとっては印象的だった。
自分は打たれて悔しいと思われるほどの打者になったのだ――咲くにしては少し遅かった気もするが、32歳にして自分は確かに今、強打者としての道を歩みつつある――。
自分自身は強打者というよりは巧打者であるつもりで居続けているのだが、打ち上げすぎることなくライナー性の鋭い弾丸のような打球がそのままホームランになることが増えたことから、近頃では海は強打者として扱われることも増えてきた。
高校時代、甲子園で連続ホームランを放ち、そして10割男として名を馳せた男は遂にプロでもあの時のような輝きを放ちはじめた――木村はそれが嬉しくてたまらず、自分たちの給料にもかかわるドルフィンズの成績などお構いなしに、海にこうして声をかけていたのだ。海がどれほど自分のことを疎もうが、それこそ木村にとってはどうでもよかったのだ。
「だからってこんな高いところでひつまぶしなんか奢らなくていいのに。給料、そんなに高いわけでもないんだろ」
「高い飯奢ってまで一緒にご飯食べたいってことですよ」
「前はチェーン店のラーメンだったのが、こんな高い店でなんてね」
「せっかくなのでちゃんといいものを食べて帰ってほしいので」
海がはじめて木村と出会ったときのことを引き合いに出す。
別に高価な食事をしたかったわけでもなければ、あのラーメン屋がどうという話をしたいわけではなかった。なんなら、三人で食事をするならあの時のラーメン屋でもいいと思っていたくらいだった。
「私もこれ食べていいんですか?」
7000円と書かれたそのメニューを指差し、ジェネルがさすがに申し訳なさそうにして木村を見つめる。
海以外の人間には多少そういった礼儀を気にすることが少しだけおかしく、海はジェネルのそんな様子を見て隠れて笑った。
「ええ。期待の若手からもいろいろ話を聞きたいですからね」
「分かってると思うけど――」
釘を刺すようにして海は会話に割り込み――
「それをダシにして移籍がどうこうだの、あることないこと書いたらこっちもただではおかないからな。今、うちの球団広報がいろいろと気が立ってるの、知ってるだろ」
「もちろんですよ。少なくとも俺はそういうことは書きません」
木村はわざとらしくポケットの中からICレコーダーを取り出し――
「盗聴してるなんて思われたくないですからね。預けます。携帯はさすがに渡せませんが、ここまでしておいて携帯でここでの会話を録音するほど、俺も性格悪くないですよ」
海は相変わらず謎に気前のいい木村の様子を確認し、確かに電源の入っていないレコーダーを手元に置いた。
そうは言ってもこいつはメディア側の人間だからな――そう海は思いながら、いやに男気を見せる木村を内心信用しないまま、ジェネルに目線で『あまり変なことを言い過ぎるなよ』と訴えたが、ジェネルはそんなことには気づいていなさそうだった。
「どうです?実際、カメラの回ってないところの佳井先輩っていうのは、あまり変わらないですか」
「変わらないですねー。円陣のときにちょっと無理してる様子とかなんかは、球団広報もあまり撮影してませんけど」
「どうして」
「うちの円陣、ノリが悪くて」
「ジェネル」
「ほんとのことじゃないですか」
言葉を遮った海に対してジェネルは『それの何が問題なのか』といった表情で続けた。
「去年とかよりはいくらかよくなったんですけどね。私と清兵衛さんが大きい声出して、あとそれで終わり、みたいなの結構多いんですよ。映像に出ないだけなんですよ。あんなの公になったらいろいろ問題になりますから。終わってんですよ、うちらは」
「ひでぇ。最悪だ」
「えぇ、最悪です」
「やめろよ、二人して。そんな言葉を使ったら、最悪な状況にいることを自分で認めてしまうことになるだろ」
「でも、去年は本当にひどかったじゃないですかー。今年は少しよくなるかと思ったらファンがあんなんですし。それに海さんだって、ゴミの量がどうとか……」
「あんまりこいつの前でそんな話をペラペラと話すな」
海はジェネルも清兵衛も居ない間の地獄のような円陣なんかも一瞬脳裏によぎったが、木村の前でこれ以上その手の話を広げたくなく、首を振ってジェネルの話題をなんとかして食い止めようとした。
「うちらもファンは割と乱暴な人が多いですが、それでもやっぱり長年の積み重ねっていうんですかね?佳井先輩のとこの取材行くときのファンの圧、やっぱり重いですよね。圧って言い方したら、かわいいもんですけど」
「あんなの、ファンだと数えなきゃいいんだよ。本当のファンは暴言なんか吐かないとでも思ってないと、自分でファンにすら応援してもらえないって認めることになってしまう。そうとでも思ってないと、自分で自分はファンにすら応援してもらえない選手なんだって認めることになってしまう。……とっくにそうなのかもしれないけどね」
海は木村の言葉に無意識にそう返事をし、自分からふとその話題を広げてしまったことに気づかぬまま不機嫌そうに腕を組んだ。
「だいぶ追い詰められてますね」
「追い詰められてるんですよー」
「もうお前ら二人で話してろよ。俺の口からあまり話したい話題じゃあない」
海は出されたお吸い物に手をつけ、しっしっと手をのけるようにして食事に集中しはじめた。
ではお構いなしに――といった表情で木村はジェネルを見つめ、テーブルについた肘を前にせり出して話題を切り出し始めた。運ばれてきたひつまぶしにすら手をつけないほどの熱中っぷりだ。
「で、ジェネルさんから見て、佳井先輩はどうですか。憧れの対象……いや、それ以上の感情を込めて入団会見に挑んでいましたが」
「はい。やっぱり、海さんは私の憧れの存在ですし……一人の男として意識してます。間近で見て、改めてこの男の人を本気で振り向かせたいと――私は最近常々思っています。あの感情に間違いはなかった、って」
「お前さ、俺の居る前でよくそんなこと言えるね」
興味なさそうにしていた海も思わず首だけ一度木村やジェネルのほうを向いて、鼻で笑って呆れてみせたが、ジェネルは意に介さない様子でニッと笑って――
「本人を前にして言い出せない感情というものは、嘘になりますから」
なんて言ってみせるものだから、海は
「俺は恥ずかしくてとても言えないね、そんなの」
と、自信満々に答えきったジェネルをよそに、黙々とひつまぶしを食べ続け、ついには三人で分けて食べるつもりで頼んだう巻きにも手をつけ始めた。
「まあ、俺も気持ちは分からないでもないです。俺も一人の男として佳井先輩を意識することはよくありますし」
「は?」「は?」
何か聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がした海は思わず身体をぐるっと回転させた。思わずジェネルも首を大きくひねって木村を見つめた。嫌なシンクロをしたところで木村は不思議そうに――
「何か?」
と見返すものだから、海は
「……いや、なんでもない。続けてくれ」
と咳払いをした。
変に他意はない言葉だろう、と思い海は食事を続け、ジェネルもさほど深い意味はないだろうと思いながら、もう一度箸を伸ばした。
しばらく、ジェネルと木村の話は止まらなかった。それをうんざりした様子で海は眺め――
「……もうさ、俺の話だけしたいならさ、そのままどっか喫茶店とかにでも行きなよ。俺のフォロースルーの美しさがどうとかさ、俺の前でそんな話してても俺がなんかこう、恥ずかしいんだよ。ただの厄介ヲタクみたいなトークになってるじゃないか、二人とも」
そんな海の言葉はもはや二人には届いていないようだった。
「いやー、でもこの写真見てくださいよ。こないだのあの高めのボールをホームランにしたときのこの手首の返しですよ。あんなに鋭い打球打ってるのに手首の返しがしなやかで、ゆったりしてるんですよね」
「聞いているのか、お前ら」
「いやー木村さん。私としてはやっぱり海さんが珍しく感情むき出しにして打ったときのホームランも捨てがたいですね。なんかこう、オスとしての力強さというものを」
「お前なあ、そういう下品な言い方やめろよ」
「海さんは黙っててください。一人のオスとしての力強さと、めったにむき出しに出さないあの野性的な感情がですね……」
ジェネルからすらも黙っててください、とまで言われてしまった海はこっそりと店員を呼び、もう一食ひつまぶしを追加で頼みながら、ぽちぽちと携帯をいじり始めた。
――【特集】 尾美森高・浅井、圧巻の5回11K斬り
――【特集】 風師、小宮、浅井の尾美森三人娘は覇権を獲れるか
自分を憧れに抱いているものがもう一人、最後の夏を迎えようとしていた。
浅井薫。
去年は惜しくも甲子園には進めなかったが、今年の尾美森は浅井を中心に三枚エース格がそろっており、三人で継投して逃げ切る戦法がはまっていると聞いた。
あまり球速が伸びなかった分、浅井はその見えづらいフォームからの高校生離れしたコントロールと変化球を武器に三振の山を築いている。三人とも異なるタイプの投手ということもあり、その緩急と目の慣れなさが相乗効果を生んでいるらしい。
――【特集】 J-ROCK界の新星アイドル NaOtomoに迫る
マルコとニコがサポートメンバーに入ったというアイドル、NaOtomo――本名・大友菜穂【おおとも・なお】が先日デビューし、デビュー曲『二極性青春』がシングル初登場3位を記録するなど、上々のスタートを切っていた。
てっきり、単なると言ってしまえば失礼極まりないのだが、単なる『本格的な清純派アイドル』なのかと思ったら、本人もギターを構え、時にはギラギラとした衣装に身を包んで全身で感情をアピールするそのビジュアルの力強さが印象的で――後ろに控えるマルコとニコもまた、生き生きとしながら演奏している姿がCMや音楽番組で度々目に付いた。
アイドルというものは想像以上に生ものらしいから、いつまでこの路線で突っ走れるかも分からないし、いけるところまではこのスタイルでいきたい――とマルコからは先日メッセージが送られてきた。
少なくとも、嫌でやっているようなことではないようで海は安心したし、楽しそうに音楽をして、それで日の目を浴びる歌手の裏で音楽をやれるのであれば、自分のもとで音楽をするよりはよっぽどよかったのだ――と海は自分の判断が決して間違っていなかったことを確信した。
自分がどれほどの人間に影響を与えているかなど、分からない。
それでも、自分の下にはこうして一人の厄介な新聞記者がついており、そして、一人の厄介な後輩がついている。家に帰れば、厄介で――一番大事な嫁がついてくる。
自分の姿を頼りに、一人の高校球児が最後の夏を満喫しようとしており、そして、自分と一緒に音楽をしていたものは今、成功の階段を駆け上がり始めた。
自分は多くのファンには失望されたかもしれないが、それでも、こうして自分を慕っている人間が少しでもいるならば、それらがいなくなるまでは今の調子で――今よりさらに調子を上げて頑張らなければならないと海は改めて思った。
「あー!何勝手にまた頼んでるんですか、海さん」
「お前らだけが盛り上がってるからもうちょっと食べることにしたんだよ。ほら、勝手にまた何か話してろよ」
「佳井先輩。さすがに追加した分だけは払ってもらえますか」
「人を食事に連れてきておいて人をほったらかしで話しておいて、よく言うよ。こっちの身にもなれよ」
「それとこれとはまた話が別でして……」
木村は財布の中身を思わず確認しながら、海に少しだけ申し訳なさそうにしながら――それでもジェネルとついつい海の話で盛り上がってしまった。