海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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80・逆襲開戦

ここのところ好調を維持していた海は、勝った試合には必ず海が絡んでいると言われるほどの獅子奮迅っぷりを見せ付けていた。6月の月間MVPも受賞し、誰が見ても今の海は脂が乗り切った誰しもが認める天才打者――そう思っているのは周囲だけで、海は相変わらずまだまだ納得いかないような様子を見せていた。

 

きょうは奢らせてほしい、と珍しく田中からの誘いでいつもの焼肉屋にいた海は、田中に薦められて高い肉をじゃんじゃん頼まれていた。

 

「田中」

「……はい」

「初回2点リードあれば逃げ切ってくれるか」

「……リードさえあれば、何点あっても逃げ切るつもりでいつも投げてますよ、俺は」

「お前の理想を聞いてるんじゃない。初回から1番か2番の両方が塁に出てたら、俺は2点入れられる自信がある。これは単なる理想論じゃない。俺なりに今の俺になら出来るという自負だ。2点リードがあれば残りの回をしっかり逃げ切れる自信が、お前にはあるか」

「……言ったでしょう。リードの点数が俺にとって、大事なわけではありません。何点リードがあろうが、2点ビハインドだろうが……俺は、俺の仕事をするだけですよ。でも、そうですね――こないだみたいに、2点リードがあれば、確かに気持ちは楽です」

「まぁ、だろうな」

 

ここのところ、田中の投球内容は決して悪くなかった。身体の温まっていない初回に点を取られることがしばしばあったものの、それも大体は1失点くらいの話で、援護がもらえないまま負ける――ということが田中の投げる試合にはよく起きていた。

 

現在のチーターズの先発投手の筆頭というと田中なのだから、当然、相手チームだってエースをぶつけてくる。そうなると、田中との投げ合いは当然熾烈なものになることは至極当然なのだが――それでも、田中は強がっては見せているものの、やはり初回からしっかり援護が欲しいということは本心なのだろう。

ファンは分かりやすい数字ばかり見るものだから、田中の投球内容なんかよりも勝ち負けと表面上の防御率にしか興味がなく、勝ちきれない田中の成績というものは相変わらず『冴えないエース』だとか『あと2枚田中以上の先発が居ればな』などと言われたい放題だった。

 

2点あれば余裕がある――という田中の言葉は、投手をやったことがない海にとってはそれがどれほどの安心感になるのかは分からなかったが――海はベンチから、初回の攻撃で間違いなく回ってくる自分の打席をイメージし、バットを見つめた。

 

先頭打者が鋭い当たりを放つが、ライト正面へのライナーとなりアウトを告げられる。

「……まぁ、そんなおいしい話なんて、ないですよね」

「アウトまだ2つ残ってるのに、贅沢言うんじゃない」

海はそう言いながらネクストバッターサークルに向かうために立ち上がり――

「2点あれば、いいんだろ」

とぽつりとつぶやいた。

 

やや流された当たりがあわやファールゾーンに飛び込むかどうかというところで落ち、清兵衛はまんまと出塁し、一塁で大げさに見得を切ってみせた。清兵衛なりの博打が成功したのだろう。長打をあまり狙わなくなった清兵衛は最近、こうした相手の守備の裏をかいたり、きわどいラインを狙うようないやらしいヒットがずいぶん増えていた。

 

痛みに耐えながらプレーする清兵衛なりの悪あがきが、最近の打球にはよく現れていた。打つか捕られるかは博打だ――そういう思いが、清兵衛の、悪い言い方をすればセコく――いい言い方をすれば曲者な打球は、打率以上にそのいやらしさを増していた。

 

何を仕掛けてくるか分からないのだから、必要以上にバッテリーも守備も神経を使う。その真後ろに海が控えていることもあり、清兵衛を雑に扱えば海の長打でタイムリーを打たれる危険性があるし、清兵衛を打ち取ることだけに神経を使いすぎると海に対する集中力がおざなりになる――老いてなお清兵衛の存在感は相手に影響を及ぼしていたのだ。

 

清兵衛さえ塁に出ていれば、初回から得点を仕掛けられる方法はいくらでもある――海は打席を慣らしながら、田中へ援護点をやるためにはどうするべきかを少しばかり考えた。

 

相手投手は左右への揺さぶりをかけてくるタイプの投手でこそあるが、基本的にはストレートを多投する投手だ。

いわゆる速球派としてこの投手を挙げる者もそれなりに居るが、いわゆるパワーピッチャーではなく、田中のように丁寧にコースいっぱいに糸を引くようなストレートをビシバシと決めてくる技巧派投手としての側面のほうがどちらかというと強いだろう。

 

一方で、淡々とストレートを中心に投げるからなのか、それとも、あまりに無駄のなさ過ぎるフォームのせいなのか――極端に大きくテイクバックを取るなどしないこともあり、海にはその自慢のストレートが表示ほどは速く見えていなかった。

 

150km/h台後半をコンスタントに投げてくる投手ではあるものの、速度とコーナーの四隅を意識しすぎて変にスイングをこじんまりとさせてしまったり、逆に快速球をイメージしすぎて自分も気持ちを大きくしすぎ、それがスイングに出てしまうようなことさえしなければ、打てるはずだ。

 

中途半端なコースには投げてこないだろう――そう思った海は、踏み込む瞬間の足の開きを注視した。四隅を狙って投げる技術がある投手というものは、どこを狙って投げてくるかも想像しやすい――。

 

外――それも低め。

 

海は初球から積極的にストライクゾーンいっぱいを攻めて来ることをイメージし、自分のイメージしたところへ吸い込まれてくるストレートの軌道をしっかりと見続けた。

 

思っていたほど外いっぱい、というわけではないが、高さとしては低めいっぱいにまっすぐ――縫い目までしっかり捉えられるほどにあまりに素直に向かってきすぎるそのボールを海は自然なスイングですくい上げた。

 

仕留めた――。

 

バットを振り抜いた瞬間、観客席からの歓声や、しっかりとしなったバットから漏れる嬌声なんかよりも先に、プロに入ってすぐに打撃用手袋をつけないようになったその両手に確かな手ごたえがあったことを海は感じていた。

滅多にない、思わず自惚れてしまいそうなその感触に、海はボールの行方も見ずに控えめにバットを放り投げ、一塁へと軽く走り出した。よほど突然打球が鳥に当たっただとか、突然強烈な逆風がスタンドから吹き出しはじめただなんてギャグ漫画のような展開さえなければ、間違いなくスタンドインするという確信がそこにはあった。

 

甲子園の強い風に白球は少しだけ右に流されながら、バックスクリーンめがけてその白球はぐんぐんと伸びていき、ぽーんと突起に当たって高く跳ね上がったが、その行方も海は全く見ようともしなかった。

ただただ、控えめに観客席に向かって人差し指を立て、やらされてるような"歓声への受け答え"をしながら、先にホームベースへとめがけて大げさにスライディングしようとしている清兵衛を半分ほど白けた様子で海は眺めていた。

 

鬼門とされていた初回を切り抜けた田中と、それを後押しするかのような2点リードとなるホームランが生まれたことに、ぐんとこの日の勝利が近づいたことを確信した応援団は大きく大きく旗を振っていた。

本当に観客というものは気まぐれなもので、ちょっとこういったことがあるとすぐに大げさに喜んでみせる。

 

なかなか罵声や誹謗中傷は止まなかったが、それでも、初回からの得点には喜びを見せる野球ファン。

華耶をして『メンヘラの彼氏彼女の関係みたい』というそのファンの感情の乱高下は海にはよく分からなかったし、メンヘラというものが海にとってはそれもよく分からなかったが――ただひとつ言えることは、田中にとってこれ以上なく投げやすい環境が生まれたということだ。

 

「あとはよろしく頼むよ」

海は田中にそうつぶやき、大して喜んだ様子も見せずに再びベンチでバットを見つめ、今のスイングやその手ごたえを確かめるように、くいくい――と手首を動かしてみせた。

 

「……もうちょっと素直に喜んでくださいよ。打撃が好調なことだけでも嬉しいことじゃないですか」

「清兵衛がスリーベース打っただろ。あんな追加点が入って当たり前な場面で俺は見逃し三振なんかしてしまった。審判の判定が今日は少しあやふやだったとコーチや他の選手も言ってたけど、あんなことしてるうちは、肝心な試合で勝てない」

「……佳井さん、昔言ってたじゃないですか。野手は4打席あれば1~2安打してるだけでいい、って。……今日は4打席3安打だったでしょう。これ以上を望んだら、打撃の神か野球の神に嫌われますよ」

「わざわざ試合見に来てまで文句言う奴らを黙らせるには、3~4打席で1安打、それも、肝心な場面で打ってるだけじゃ、もう何も変わらないんだよ。4割だぞ――4割打ってなお、コーチからも観客からも文句ばかり言われ続けるとは俺も正直言って、この業界に入るまでは思ってなかったよ。お前に勝利をひとつでも多く届けるためにも、観客の皮をかぶっただけの、ただの暴徒をどうにかするためにも、俺はこのままじゃまだまだ不十分だ」

「……それだといつか佳井さんが倒れてしまいますよ」

「じゃあ、あと誰がいるんだよ、このチームは。お前が中3日で投げるか?無理だろ、そんなの。それはそれでお前が倒れるだろ」

「……だけど……」

無茶なことを言い始める海に田中は辟易した。それでいて、反論材料がないのだから、田中は言葉を失った。

世代交代に失敗し続けたチームというものは本当に悲惨なもので、リーグを代表できるほどの働き盛りの動き盛りがチーターズの野手にはもはや海くらいしかおらず、相変わらず野手をめぐっては年齢層の両極端化が進んでいて、野球ファンからは『限界集落』などと揶揄されているほどだった。

 

「清兵衛も歳には勝てない。ジェネルの奴が一軍で恥ずかしくないような選手に仕上がるまでは、まだまだかかる。よくて2年、3年先のことだろう。フロントも相変わらずFAじゃ遅れを取ったままだろ。ちょっと前まで潤ってたはずのリリーフ陣だって皆、そのフロントに愛想尽かして出て行った。先発だって……」

海はそこから先が言い出せなかった。田中だってそんなことは分かっているのだから、先発について言及することなど、到底できなかった。

 

「……契約安くていいからって入ってきた奴もいるけど、どいつもこいつも、ここを出てってからイキイキしてるのが気に障る。そうなることだって分かってるのにフロントが引きとめもしないどころかろくに昇給だってしないで、『どうせ何やったってお前らここから出て行くんだろ』って気でいる。じゃあもう……俺が打つしかないじゃないか。俺だって、投げ出したいよ、こんな状況。なんだ?忍者の修行でもして、俺が分身でもしたらいいのか?」

「……なんか……すみません」

「いいんだよ。チームの顔ってのは、こういう状況背負ってこそなんだろ。歳だけ食った先発のベテランがなんか偉そうにそんなことカメラの前で言ってたらしいじゃないか。アイツだって何も背負ってないくせに、言いたい放題やってくれちまってさ。だったら……俺一人で背負うよ。球団が思うような美談を俺が作ってやればいいんだろ。いつか歩いてやってきてくれると思ってる、"その日"のために、俺が打ち続ければいいんだろ」

「……佳井さん、やめてください。……肉が焦げます」

田中がぼちぼちと、海が焼いていた肉を裏返しはじめる。

 

「……悔しいですよね。この状況。……俺だってそうですよ。前にも言いましたけど、俺に150投げる肩がもう一度やってきたなら、もっとたくさん勝てる自信があります。でも……それは無理です。150投げる俺はきっと、試合にならない球ばかり投げてしまいます。本当は、ぶつけるくらいの気持ちで投げて、もっと速い球投げたほうがいいって俺だって思ってるんです、こう見えて本当に。でも……そうもいかない。佳井さんが置かれてる状況、俺……立場は違うかもしれないけど、分かってるつもりです。だから……一人で戦ってるみたいな言い方、しないでください。一応……同期じゃないですか、俺」

「……ごめん」

声を震わせながら肉を焼き続ける田中に海はうつむき、ぽつりと謝った。

 

「……正直、俺だって見返したいんですよ。肩は生ものですから、金のために移籍するのは間違ってないんです。でもね……提示だけが全てじゃないんですよ。俺は……ここで勝ちたいんです。出てった奴ら皆に投げ勝って…………ここで日本一の旗をつかみたいんです、俺は」

田中は唇を噛みながら、食べごろになった肉に手をつけずにぽつぽつと語りだした。

 

「……最初から残留するつもりなんかなかったとか言ってる奴だって居たでしょう。今のドルフィンズが首位を独走してるのだって、うちから出てった三人の投手がそろって活躍してるからじゃないですか。三人ですよ?三人。同じリーグでそんなまとまって横移動されるだけで正直どうなんだって思うのに……こんなの悔しいじゃないですか、やられっぱなしのままで。だから……今のままじゃ、絶対に終われない。でも……佳井さんが言うように、一人じゃどうにもできない。……ね?佳井さんが思ってることだって、一人じゃあないんですよ。佳井さんが一人で戦ってるつもりでいるのは、別に構わないです。俺は……悔しいけど投手だから、佳井さんが悔しがってる144試合のうち、たった24試合しか一緒に居られませんからね。でも……俺が投げてるときくらいは……二人で戦争しましょうよ。……それとも、俺と一緒の戦争は嫌ですか」

 

いつになく真剣な田中の表情は、今にも泣きそうな顔でもあった。半分べそをかくような感じで田中はタンを食べながら――

 

「……舌、噛み千切ってやりたくなるんですよ。嬉しそうにペラペラペラペラ喋ってる移籍組や、調子のいいときだけ大口叩いてるベテラン見てると。だから……あいつらの舌だと思って俺はタンばかり食うんです。舌引っこ抜いて噛み千切ってやって……俺の選択は間違ってなかった、って……いつか絶句させるために。……肉に対して失礼なのは分かってるんです。でも……俺なりのゲンかつぎというか……今にも崩れそうなモチベーションを保つための手段なんですよ。他に八つ当たりできる手段が俺にはないですから。佳井さんと違って、きれいな奥さんだって居やしませんし」

「俺が華耶に八つ当たりしてるみたいな言い方するの、やめろよ」

「でも、感情をぶつける先はあるじゃないですか。その結果があのたくさんの子供たちでしょう。佳井さんは……贅沢ですよ。あんなにたくさんのかけがえのない得るものがあってなお、まだ足りないって言ってるんだから。……それでいて、俺すら信じてくれない」

田中はひとりでにタンを食べあさりながら――

 

「……俺は、佳井さんがその気じゃなくても、二人で戦争してるつもりでいますからね。佳井さんだって、舌噛み千切ってやりたい奴の一人や二人くらい……いるでしょう」

「……」

 

海は網の上で焼かれているタンを数枚取り皿に盛り付け――

「……嫌なゲン担ぎの方法を聞いてしまったもんだね」

と、肉厚のタンを一気に口いっぱいに頬張って噛み始めた。

 

脂が跳ね、網の中の炎がめらり、ゆらり、と不規則に揺れて燃え上がる。

二人の中で共有された、不健全で不恰好な闘志が具現化したような気がして、海は田中に隠れて苦笑した。

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