「いやァ、悪かったな。お前さんもあの場面、もうちょっと楽したかっただろうに」
「別にいいよ。結果的に勝てたんだから」
海はこの日、清兵衛にいつもの焼肉屋で肉を奢ってもらっていた。頼んでも居ないのにサーロインなんかを大量に頼み、清兵衛は焼いたその肉を次々と海の皿へと盛り付けていき、わんこそばを食べるかのようにして肉を食べるような光景がそこには広がっていた。
「23本目、だったか。残り試合考えたら……30本はギリギリってところか。どうよ?それなりに大きい数字が並んでくると、思うところもちったぁあるんじゃねえか?」
「別に……。俺はホームランだけを打つために打席に立ってるわけじゃあないからね」
「お前さんがそう思っててもな、お前さんに期待する連中がそうはいかねェんだよ」
「都合のいいときだけな」
「遂にお前さんが30本の大台に乗るかどうかってェのは、長年お前を追ってきた記者なんかもそりゃあ注目せざるを得ねェんだからよ」
海がつい挟んだ嫌味にも全く構うことなく、清兵衛はそう言って数字のことを話題にし続けたが、海は鼻で笑うようにしながら――
「別に、興味ないね」
と、一言だけ返した。清兵衛はそんな海の相変わらずの様子にケラケラ笑いながらにんにくをたんまり乗せた牛タンを巻いて頬張り、ビールで流し込んだ。
「まァ、お前さんはそうかもしれないがね。実際、お前さんがホームランを狙ってる時ってェのは、ここでこそ打たないといけねェ場面ってェのがほとんどだろ。たまたま入ったホームランならまだしも、お前さんが意図的に一発大きいのを狙う場面ってェと、打たなきゃ場の空気が変わらなかったりするような、大体、よほど追い込まれてるときとかだもんな」
「打たされて打つホームランなんか、俺らしくない。まして、それで調子を崩したら崩したでまたどいつもこいつも、好き勝手だ。もっと楽な気持ちでホームランを量産できるようになれたら、またこの気持ちも変わってくるのかもしれないけどね」
「ま、その時が来たとしても、今のお前さんが軸である以上は自分の打撃に納得なんてしないだろうがね」
「印象に残る一打なんかよりもよっぽど多く、打者っていうのは凡退するもんだからね。一打で全てを帳消しに出来るようなホームランなんて言うと、それこそ、あれだろ。サヨナラの場面で満塁ホームランだとか、そんな劇的なものでも打たなきゃいけない。そんな人生で一度あるかどうかのドラマを待つより、普段からヒットを打ち続けてる奴のほうが偉いに決まってるだろ」
海はそう言って厚切りのタンを一口噛んだ。
きっと自分が5割打つような打撃専門のサイボーグか何かになったとしても、打てなかった残りの5割を人は指摘するだろう。
0か100かなんて極端なものさしで野球なんてスポーツは見られないのだが、それでも、人は100でないものに文句をつけたがる。
そんな世界に長く居すぎてしまったから、海もまた、自分が普段高いレベルで打率を維持し続けていることを皮肉るようにして毒を吐いた。
「そんなの、気持ちの持ちようだとは俺ァ思うがね」
「こういう気持ちにさせたのはそれこそ、お前が言うように俺の周囲だろ」
「それがドラ1の定めだ。諦めろ」
肉を焼いては、酒を飲む。その繰り返しを続ける清兵衛。
飲みっぷりや食いっぷりだけは相変わらずなのだから、体の衰えというものは他人には分からないものだ。本当に些細なところから壊れていくのが衰えというものなのだろうけれど、海はそれを清兵衛に直接聞くのは野暮に覚えて、しなかった。
「まぁでもお前さんは、30本届くかどうかくらいの数字を毎年打ちながら、そのバットコントロールを使ってチームバッティングに徹したほうが、よっぽど"らしい"とは思うっちゃあ、思うがよ」
「どこ見て言ってるんだよ」
「お前の――」「やめろよ、公共の場だぞ」
海はニヤついた清兵衛を諌めた。調子に乗るとこいつはすぐこうだ――と海は呆れながら肉を食べ、ウーロン茶で流し込んだ。
「俺もよ、時折考えるんだよ。ジェネルの奴がよく、自分が15年早く生まれてきたら、って言ってるだろ」
「あぁ」
「ジェネルが15年早く生まれてきただけじゃなく、俺があと5年……いいや、せめて3年くらいだけでも遅く生まれてこれたならよ――お前さんの言う、楽な気持ちで打席に立てる場面をもっと増やせたんじゃねぇか、なんて時々思うことがある」
「へぇ」
それが冷やかしなのか茶化しなのか、思ってもいないことを話しているのか、清兵衛の本心なのかはまだ分からなかったから、海は生返事をした。
「お前さんが俺をホームにしっかり帰すことを常に頭の中に入れて打ってることが分かってるから、俺ァ今の俺のこの身体の張りってのが気に入らねェ。自分の体に気に入らねェところがあるかどうかなんて今まで思わなかったがよ、俺ァまだまだやれると自分では思ってるが――身体がどこも痛んでなかった頃の俺が、今のお前さんの前で打てていたなら――お前さんの力をもっと引き出せてやれたんじゃねェかと思って、俺ァそれが正直言ってな、悔しい」
「……」
清兵衛なりに本当にそう思っているのだろう。不機嫌そうに脇腹を指差し、そして癪に触ったのか――肋骨や脇腹のあたりをつねってみせた。
海はそんな清兵衛にどう声をかけるべきか悩んでいたのだが――
「悔しい、悔しいなんて言葉を何度か使ってきたがよ。今のこの悔しさったら、こないだの万馬券をあとちょっとのところで逃したときの悔しさの比じゃあねェ」
「……俺を競馬と一緒にするなよ」
そんなことだと思った――と海は箸でつまんでいた肉を思わず皿に落とし、このぶつけようのない感情を一体どう身体で表現すべきか悩んでいた。
「ウィンターラブがあんなズブズブの重馬場のくせにド先行して逃げ切るなんて思ってなかったんだよ俺ァ。なんで逆に普段のあんな走りができねェかなァ、ウィンターラブよォ。大体、本命にしてたハーネスがよォ、1枠取ってんのに出遅れやがって、せっかくの内枠をフイにしやがってよ。あんな載り方じゃあ、今後どんな馬に載ったって勝たせてやれねぇよあの騎手はァよォ」
「人の話を聞けよ」
海はグラスで清兵衛の額を軽く小突いた。
思っていたよりもひんやりとした感覚が清兵衛を貫いたらしく、珍しく少し驚いた様子で清兵衛は一瞬海を睨んだが、すぐにニッと笑ってみせた。
「あァ、悪ィな。とにかく……俺の体が歳に耐えられねェ貧弱っぷりなのが悪いんだがよ。俺ァ、お前さんと一緒に優勝してぇと思って野球をやってるつもりだ。今でもな。お前さんみてェな爆発力を持ってそうな奴がいるから、野球ってのは……博打ってのは面白ェんだ。だが、肝心の俺が、とうとう博打の神に嫌われちまった。俺がお前さんの同期だったならきっと――お前さんに年上面するな、なんて言われずに酒ももっと飲めただろうに」
「結局酒が飲みたいだけじゃねぇか。禁酒しろ、禁酒」
「ガハハ。あいにく、この身体の不調は酒が原因じゃあねぇことも分かってる」
「そういう問題じゃないだろ、お前の飲み方は」
「第一、俺から酒を取ったらもう博打と女しか残らねぇ」
「野球は?」
「馬鹿野郎、お前、俺ァ野球があるから酒が飲めるんじゃねぇ。酒や博打や女があるから野球ができるんだ。打つか、打ち取られるかの命の取り合いだぞ」
「……まぁ、よく分からないけど」
海は清兵衛の独特な哲学に翻弄されながらも、肉を食べ続けた。
海はしばしば、『言ってしまったらその言葉を自分で認めたことになる』と言うことがあった。
自分であとで思い返して、必要以上に意識してしまうから、ということもある。清兵衛と飲み食いしたときに話した『もっと楽な気持ちで打席に立てたなら――』という言葉は翌日、まさにしっぺ返しのように海に襲い掛かってきた。
やはり、自分の胸の中にある思いなんか、あまり言葉に出すべきではないものだ――と海は思った。
1点を追いかける4回、三者連続のレフト方向へのタイムリーを放ち逆転に成功したチーターズ。さらに突き放された後、5点を追いかけていた7回、海はライトへのタイムリーを放った。あともうちょっとだけでも打球が伸びていたなら、ホームランになっただろう。
ランナーを一・三塁に置いての状況、しかもツーアウトとなると、逆転しきるには一発狙うしかないと海は思っていた。三塁ランナーを帰すことだけ考えて9対5にするよりも、ここで一発ホームランを打って9対7になれば、試合の状況や流れだって全く違ってくる。
後ろに控えている大振りをする重量級打者の群れだって、ツーアウトでランナーがたまった状態を任されるよりは、ランナーがいない状況でぶんぶんと振ったほうが自らのバッティングがしやすいはずだ。
この打席、ストレートをあとわずかなところでスタンドに入れられなかった海は激しく悔やんだ。一人で戦争をするな、と田中は言ったが、そうは言われても、好調不調の波の激しい若手重量級打線が後ろに控えていることを考えると、やはり自分がなんとかしなければならない――海はどうしてもそう考えてしまった。
その後の9回、1番から始まった攻撃は絶好の反撃のチャンスに思えた。ノーアウトでランナー一・二塁という、打線の火のつき方次第ではサヨナラ勝ちだってありえる場面、海はどうするべきかを激しく迷った。
ノーアウトだから、大きく賭けに出てこの打席もホームランを狙うべきか、相手にプレッシャーをかけるべく、まずはここでしっかりとランナーを帰すべきか――。
相手投手が自信を持って投げてくるカーブに的は絞られていたが、結局――考えがまとまる前に投げられたテンポのいい投球に翻弄され、海は珍しく空振り三振を喫した。
らしくないミスをした――と海は思いながらも、自分で昨日あんな事を言ってしまった分、結局試合を動かすためには自分がどうにかしなければいけない、ということを意識しすぎてしまった結果だった。特に難しいことを考えず、いつもどおり来た球を素直に弾き返していれば、また結果だって違ってきただろう――そう思うと海はこんな場面で結果を出せずにいる自分が情けなくて仕方がなかった。
結果的にこの日の試合は9対8で敗れた。
自分が打たなかった結果、1点差で負けるという、悔やんでも悔やみきれない負け方――9回の攻撃で、自分があの場面で迷ってさえいなければ――海はそう思うと悔しくてたまらず、自宅の地下室のサンドバッグを何度も何度も殴りつけた。時に頭突きすらして、物言わぬ感情の終着点にひたすら自分の不甲斐なさを吐き捨てずにはいられなかった。
シャワー室で汗を流してからリビングへと戻り、くだらないテレビ番組に次々とチャンネルを回しながら――海はドカッとソファに座りなおした。
9月に入っても未だその暑さが抜け切らない夜の不快感にエアコンを少しだけ強め、最終的に薬にも毒にもならないような雰囲気だけの海外映画をなんとなく見始めた。
「お父さん、まだ起きてたの?」
「それはこっちのセリフだよ。寝てたんじゃなかったのか」
「喉が渇いちゃって」
「そっか」
晴留が薄着のままリビングにやってきて麦茶を飲み、そろりそろりと近づいてきて海の隣に座る。
「何華耶と同じようなことしてるんだよ、お前は。とっとと寝なさい」
「お父さんが寝るって言うまで私も寝ない」
「言うことを聞きなさい」
「だって今のお父さん、ほっといたら朝まで起きてそうだもん」
「お父さんが夜をどう過ごそうと、お父さんの勝手じゃないか。晴留は早く寝なさい。授業中寝たりしたらだめだからね」
「お父さんの心配する娘の言葉くらいは、素直に聞いてほしいなあ」
顔つきこそどちらかというと自分に似たように見えるものの、ねだるような上目遣いで海をじっと見つめる晴留の表情はまさに華耶の遺伝子をしっかりと受け継いでいた。
海はそんな晴留の表情に思わず髪をかきむしり、ため息をつかずにはいられなかった。
「……そういうところばっかりお母さんに似て……」
「家族ですから」
晴留はふふん、と鼻で笑ってみせるが、海はそ知らぬ顔で再びソファに座ってしまった。
「あぁ、だめだって。寝ないと」
「俺は今日ここで寝るからいいんだよ」
「えー?お母さん一人にさせる気?」
「今部屋に入って柊理を起こしたりするのも悪いだろ。こう見えて、気を遣ってるんだよ。お母さん、すぐお父さんのことにも気を遣うだろ。寝てるなら、黙ってて寝ててほしいんだよ」
「じゃあ私と一緒に寝てほしい」
「それはしないね。晴留ももう自分の歳のこととかくらい、理解してるだろ。もうそういう歳じゃあないんだよ、晴留は」
「でも、お父さんが一緒に寝てくれたこと、私、他の子よりもだいぶ少ないんだよ。新だって本当はそういうのを気にしてあんな風になってるんだからさあ」
「晴留と一緒に寝たとして、新が何思うかまでは考えないんだ?」
「それは……まぁ…………その……」
新が海のことをよく思っていないことは晴留だってよく知っている。
新のことを突きつけられると、晴留は思わず言葉に迷い、海にうまく言葉を言い返せずにしどろもどろになってしまった。
「晴留。お父さんがこんなんで、申し訳ないとは思うよ。もっと家にいる時間を作れたらよかったな、とも思うよ。でもね、もう一緒にお風呂に入るような歳でもないし、一緒に寝るような歳でもないと思うんだ。晴留はもう、立派に大人の階段を登ってるわけだから、お父さんの存在がその階段の邪魔になってちゃ、いけないんだ」
「……それは、お父さんがそういう常識をどこかしらから拾ってきて、それでなんとなくそれっぽくして生きてるからでしょ。逆に考えてみてよ。あと4年くらいもしたら、私、家から出てってるかもしれないんだよ?そのときさ……子供と一緒に寝た数や一緒にお風呂に入った数だとか、どこかに出かけた数が少なくて、なんて思っても、今度は私がお父さんと一緒に寝るのためらう歳になっちゃってるかもしれないよ。今はこうでもさ、私がある日突然、新みたいにお父さんと一緒なんて嫌だ、とか言い出したらどうする?」
「……分かったよ。でも――」
どう言っても聞かないだろう、と半分諦めた海。それを見てニッと笑った晴留を制止するように海は――
「布団は分けろよ。お母さんに変に誤解されたり、変に思われたくないからね。晴留ももう、お父さんが何言ってるのか分かる歳だろ」
「はーい」
海は仕方なく晴留の部屋に入り、大げさに距離をとって布団を敷き始めた。
「ねぇ、お父さん。野球、いつまでやるつもりでいるとかってさ、考えたりしてるの?」
「いいから寝なさい」
「寝るまで少しくらい質問させてよ。普段ぜんぜん話だってさせてくれないんだから」
「……」
きっと、華耶が幼かった頃は竜匡や三葉にこうして迫っていたのだろうな――と思いながら、海は渋々答えた。
「考えたことがないね。でも……出来ることなら、日本一にはなりたいよ」
「それは、やっぱりなんだって出来ることなら一番になりたいから?」
「……そういうわけでも、ないんだけどね」
かつて、自分に野球を続けるように説得し続け――そして、結婚を決めたときも、『自分が見たかった景色に連れて行ってほしい』と言っていた華耶。
その『見たかった景色』というものが具体的に何なのかは、結局分からないままだ。海としては、きっとそれが日本一だとか、優勝だとか――本来なら野球を続けたかった華耶が最後に手にしたかったものはそういったものなのではないか、と海は思っていた。
野球を本気でやっている者であれば、きっと誰しもがそれを目標にしているだろうから、海は"なんとなく"でそれを目標にすることにしていた。
自分がタイトルを獲ったくらいでは華耶が本当に見たかった景色なんて言葉は言わないだろうし、どうせ華耶に聞いたところで華耶だってそれが何なのかをはぐらかすだろうから、自分なりに華耶の願いに自分の手でケジメをつけなければいけない――それが海なりの考えだった。
「えー、何そのちょっとわけありな感じ」
「でも、出来ることなら誰だって日本一にはなりたいだろ」
「それはそうだけどさ。じゃあ日本一になったら野球スパっと辞めるとかも考えたりするの?」
「それは……どうだろう。ある日突然日本一になったら、次に何を目指したらいいのかって確かになるかもしれないし……それはちょっとあるかもしれない」
「……お父さん、本当は野球そんなに好きじゃない?」
「それは、父親の立場からは言うべき言葉じゃないね」
「それ、もう半分言っちゃってるようなもんじゃん。え?お金を稼ぐために野球してるの?それとも……何か他に理由があって野球してるの?」
「……あんまり言いたくない話かな、それは」
「えー」
「いいから早く寝なさい」
自分の辞め時だとか、自分がなぜ野球をしているかだとかは、あまり詮索されたくない話題だった。
何も考えずに、ただ、華耶との約束のためだとか、ローンを返済しきることだとか――最近はそこに『このままでは終われない』という復讐心が付随するようにこそなったが、それは結局、自分は正直なところ、周りほどは野球を好きでやっているわけではないということが常に隣り合わせになってしまう。
何か言葉を言うたびにそれを自分で自覚してしまうからこそ、海は野球をすることの意義について、それこそ――実の子供からですらあまり聞かれたくなかった。
考えれば考えるほど、9月の夜明けの早さが海に襲い掛かってきそうで、結局、指で数えるくらいしかこの日海は眠れなかった。