海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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82・ちいさな世界で

海が好調をキープしていた頃、少しだけ気がかりなことがひとつあった。

あった、というよりは、些細なことをすぐに気にする海にとって、気がかりなことがまたひとつ増えた、という言い方のほうが正しいだろうか――。

 

「……」

夏の予選大会のニュースが世間を賑わす頃、突然入ってきたニュースに海は思わず言葉を失った。人間、誰しもが突然の出来事に人生を良くも悪くも左右されるものではあるが、この場合、悪い方向に作用してしまったことになる。

 

 ――【特集】 尾美森高・浅井、夏の予選大会欠場か――

 

最後の夏の大会を控えていた薫が、投球練習中に転倒してしまったらしく、その際に足首を強く痛めてしまったとのことだった。どれほど早く治ったとしてもリハビリなどの期間を考えると、甲子園に出場できても少し苦しいのではないか――と診断されているらしく、薫は最後の夏を諦めなくてはならなくなった。

 

『別に最後の甲子園に出られなくてもプロに行けない訳じゃありませんから』

 

そうはBINEで言っていた薫だったが、身体が万全ではないという状況でのプロ志望届の提出というものはやはり学校や周囲が認めてくれなかったらしく、今季のレギュラーシーズンが終わった頃、薫は大学への進学を表明した。

 

『遠回りしたって、プロには行けるはずです』

 

今や高卒選手の入団率が圧倒的なこの業界では、高校を卒業してプロに入れなかった = その世界の入り口を閉ざされてしまった、という見方が強い。

それでもどうしてもと社卒や大卒でプロ入りする者もいくらかはいるものの、そもそもプロ野球界とは別に、日本各地に散らばったいくつもの独立リーグや社会人リーグなどに所属しながらプロ野球界を目指すという手があるし、独立リーグの中でも今は特に『第二のプロ野球界』とすら言われているほどに熱量が高いものだってある。

 

独立リーグの中で特にハイレベルの機構、SBLはプロ野球同様に2リーグ12球団という構成をしていた。

プロ野球は無理かもしれないけれど野球をそれでも続けたいという者は必死で努力して大卒、社会人卒を経てこちらを選ぶ者だって少なくない。

個性的なユニフォームやそのチームカラー、リーグの理念などに影響され、本来プロ球団に声がかかるような逸材だってプロ球団を蹴ってまで高卒でこちらの独立リーグを志望する者だって多数いる。

まして、個性的な選手を積極的に受け入れる体制だって出来ているから、薫のような選手は怪我さえしていなければきっとすぐにでもスカウトが来ていたことだろう。

 

だからこそ、薫のように『すぐにでもプロに進むことができなかったとしても、それでもプロ球団を選びたい』という者は今の日本において、まれだ。なにしろ、高校卒業と共にSBLをはじめとした熱意のある独立リーグからも声がかからない時点で、ふるいにかけられてしまうのだ。

社会人野球を経てプロに入ることの難しさを理由にしたり、独立リーグからすらもスカウトがないのだから自分にはプロの器はないと判断してしまったり、自分から独立リーグへのプロテストを受けに入って、どこでもいいからと売り込みにいっているうちに、そのほとんどは夢を諦めてしまっていた。

 

薫がこれからどうやって生きていくのかは、海には分からなかった。それでも、薫のような野球に真摯に向き合う人間が今のチーターズにいれば――なんてことはどうしても考えてしまった。

 

「海くんの周りには、まっすぐな子が近寄ってくるよね」

「お前がそれを言うのか?」

「あたしはまっすぐかもしれないけど、野球人としては折れちゃったから」

「折れたかもしれないけど、斜めなだけで、まっすぐじゃないか。軸がそこにある」

「えへへ。なんか、褒めてほしくて言ったような感じで悪いなあ」

「褒めてほしかったくせに」

「えへへ」

華耶は少しだけ茶化しながらも――海がタブレット端末で見ていたニュースを見ながら――

 

「やっぱさ、思うよ。あたしもセミプロや独立リーグに進む道を選んでたら、変わってたのかな、って。でも、もしそれでもいいから……って人生を選んでたら、あたしは海くんとはきっと出会えてなかった。海くんとたくさん愛し合うことだってできなかった。海くんを救うことだってできなかった」

「それは――そうだね」

「どっちがあたしにとって幸せなんて、考えてみたら分かるはずなのにさ……あたしもね、未練がましいよね。忘れた頃にこういうニュース見てさ……やっぱり野球やりたい、ってちょっとだけ思っちゃう。海くんにキャッチボールなんか付き合わせちゃってるくらいだしさ」

「別に、キャッチボールくらいならいいよ」

「休みの日とかもさ、晴留ともキャッチボールついついしちゃうんだ。晴留が休みの日にピアノなんかしてるときなんかもさ、あたしがキャッチボールしたいなーって声かけちゃうから……その度に晴留、渋々付き合ってくれるんだよ」

「いいことじゃないか」

「でもなんか……子供を親のエゴに付き合わせてる気がしてさ」

「それは俺だって同じだよ。俺のエゴで華耶や皆を振り回してる」

「でもそれは……」

「違わないよ」

違うと思う、と言い掛けていた華耶の言葉を先回りして海は遮った。

 

「色々さ、考えちゃうよな。清兵衛が体を張り続けてる理由が俺にあったり……薫だって、俺なんかの言葉を真に受けて練習に励んでしまってたかもしれない。ジェネルだってきっとそうだ。田中だって……俺の戦いに付き合わせてしまってる。あいつらにとってはそれはいいことなのかもしれないけど……あいつらそれぞれの人生に、俺という存在があまりにも大きくなりすぎてる気がして――」

自責思考に陥った海は、そこから言葉が続かなかった。ぱたり、とミュートを押されてしまったマイクのように次の言葉が出てくることなく、海はうなだれた。

 

「……それだけさ、海くんが人を動かす力があるってことだよ。ドラ1だからとかそういうのじゃなくて、単純に海くんにそういう、人を動かすほどの魅力があるってことだと思うよ。あたしのキャッチボール付き合ってるのとはまた別」

「そんなに別かな」

「別だよ。海くんはそれでお金稼いできてるし、沢山の人に影響を与えてる。でも、あたしはたまにわがまま言って晴留に付き合わせちゃってる」

「俺が華耶にわがまま言って抱くのとどう違うの?」

「あたしはだって、それが嬉しいと思ってるし」

「晴留だって嬉しいと思ってるからキャッチボールに付き合ってくれてるかもしれないじゃないか」

「それは、そうかもしれないけどさ……」

物は言いようだという話をしたかった華耶は、先に海にそう結論づけられてしまった気がして返答に迷い、華耶もまた頭をうなだれてしまった。

二人して頭をうなだれ、しばらくして海のほうが先に頭を上げ――

「本人に聞いてみたらいいんじゃないか」

と切り出した。

 

「親がそんなこと聞いたら子供は気い遣って本心なんか言ってくれないよ。晴留はやさしい子だから、なおさら」

「そんなもんかな……なんか華耶が俺のことヨイショしてあげてくれてるだけで、実際はそんなに違わないと俺は思うんだけど」

「一番好きな人のことをヨイショできない奥さんなんて、奥さん失格だよ」

「じゃあやっぱりそんなに違わないってこと?」

「海くんはそんなことより、自分のこと考えるの。はい、この話おしまい」

半ば強引にそうして、華耶に話を打ち切られてしまった。

 

そうして打ち切った後、思い出したように華耶は本題に戻すかのように――

「でもさ――薫ちゃん、だっけ。実際、どうするつもりなんだろうね。大学に進むったって、ね……」

「それは、薫が決めることだろ。今華耶が言ったばっかりじゃないか。自分のこと考えろ、って。自分の境遇と重なる部分がある奴のことはやっぱ気になるか?」

「そりゃ、やっぱりうん……別に、あたしに何かができるわけじゃないんだけどさ」

「じゃあ、この話も終わり。自分のこと考えよう、自分のこと」

海は華耶がそうしたように、わざとらしく手のひらをパン、と合わせて同じようにして話を打ち切った。

 

「あー、なんかそのやり方嫌いだなああたし……」

「たまにはいいだろ」

海は不機嫌そうな華耶の首筋に軽く口づけをしながら、椅子から立ち上がって冷蔵庫から茶を取り出して飲んだ。

 

~~~

 

超攻撃的大型セカンド――そうした言い回しを使われることに海はあまりいい気分がしなかった。他に守れる人が居ないから守らされているのだ、ということを声を大にして言い出せたならば、どれほど気が楽だっただろう。

 

今でこそ再び転換されたセカンドの守備も、送球面に不安要素があることが取り沙汰されているくらいで既に海がセカンドやショートを守っていることにもはや誰も驚かなくなったし、誰しもが違和感を抱かなくなった。

しかしながら、試合に勝つための打撃というものと、流れを変えるための一発を時には意図して狙わなければならないということ、そして、それとは別に守備もしっかりとこなさなければいけないという重圧は、海にとってはやはり荷が重かった。

 

今年もベストナインの会場に招かれた海は司会に『来年はゴールデングラブも両獲りしてみませんか』と聞かれると、少しだけ不機嫌そうに『分かってると思いますが僕はもともと一塁しか守れなかった人間です。4割30本近く打って二塁でゴールデングラブ獲る本職一塁手なんて、正直言ってそんな漫画が仮にあったなら見たいですか』と答えた。

 

『あの、毎回毎回ここに呼ばれるたびに思ってるんですけど、月間MVPと主要タイトルの中でチーターズ唯一の選出だとか、孤軍奮闘だとか言うの正直言ってやめてもらっていいですか。そういう……何って言うんでしょう、水を差すっていうか……僕一人に全部任せておきゃいいや、みたいな空気を影響力のあるあなたがたが作るの、やめてほしいです。正直言って、僕はあなたがたが思っているより一人ではありません。孤軍奮闘だとかなんだとか言うから、僕が球団の中で勝手に一人だと思い込んでしまうし、僕もついその存在を忘れてしまいそうになりますが――僕は一人で野球やってるわけじゃありません。その言葉は撤回してください』

 

そうした中、海は取材陣に対して不満を口にした。

 

ここに呼ばれたのは四度目になるが、いつもこの場には一人だった。ベストナインだって、自分と肩を並べたチームメイトというものはいなかった。いつも、他のチームが――和気藹々と肩を組んだりしながらチームについての話なんかをしたり、今年も頑張ったなどと共にこうした場でも言い合える空気というものが、正直なところ羨ましいという気持ちはあった。

 

だが、海にとって司会や取材陣の言葉は時折、自分があまり多くとは関わらないし、他のチームの選手なんかとはとりわけ関わったりしないものだから、孤高の存在だとか、あるいは、常に一人だ、なんてような言い方をされるのが海にはきわめて不快だった。

 

なんとなく、腫れ物を扱うような目であったり――どこかよそよそしいような態度なんかが会場となったホテルの廊下中に漂っている中、海は一人で会場を後にした。

自分ひとりであの中に加わってベストナインやタイトルを獲った者同士どこかに――なんて気分には到底なれなかったし、それで自分がその輪に加わることで、自分がこれまで耐え忍んできた日々が『FAで出て行きさえすればあっさりと自分も楽できる』ということを自分自身で海は認めたくなかった。

 

自分だって若手の頃のあんな日々がなかったならばそれに越したことはないわけだが、今からどれだけ空気を換えてみようとしても自分が前野にいびり続けられた日々が返ってくるわけでもなければ、仮にあの頃FAで出て行けたとして――ドラフト指名が他の球団だったとして――ここまで長く現役を続けられる保障が得られるわけでもなければ、ここよりも平和な球団でぬくぬくとプレーできた保障だってない。

 

海の終わりの見えなければ、勝機のない戦争は、海自身もみっともなく大人気ないものだとは思っていたが――

 

『あいつらの舌だと思って俺はタンばかり食うんです。舌引っこ抜いて噛み千切ってやって……俺の選択は間違ってなかった、って……いつか絶句させるために』

 

『……俺は、佳井さんがその気じゃなくても、二人で戦争してるつもりでいますからね。佳井さんだって、舌噛み千切ってやりたい奴の一人や二人くらい……いるでしょう』

 

『優勝なんかじゃ足りないです。日本一のフラッグ、二人で持ちましょう。そこに清兵衛さんも、田中さんもいなくなってたとしても――二人で持ちましょう。他の誰かが持ちたがったとしても』

 

『俺ァ、お前さんと一緒に優勝してぇと思って野球をやってるつもりだ。今でもな。お前さんみてェな爆発力を持ってそうな奴がいるから、野球ってのは……博打ってのは面白ェんだ』

 

自分と同じような悔しさを胸に秘めた人間が一人でもそこに居る以上、海はこの戦争を取り下げるわけにはいかなかった。

 

「待ってましたよ。飲むつもりなんでしょう、きょうは。私でよければ、つき合わせていただきます。もうしばらく待ってくれれば、私も仕事を切り上げて合流しますから」

呼びつけていた四宮のタクシーのドアがぱたりと開く。

「悪いね。……放送、聴いてたんでしょう」

「ええ」

「大人気ないと思いますか」

「あれでよく言った!と思えるのが本当のチーターズファンですよ。今年も一年、思ってもないことや、球団から言えって言われたような自分の気持ちじゃない言葉なんかも沢山言わされたでしょうしね。観客の野次の件なんかがそうだったように」

「……ええ」

「うまい店、案内しますよ」

「ありがとうございます」

 

また少しだけ歳をとった四宮は笑みを浮かべながら夜の東京を駆け抜け始めた。

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