海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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83・積み重ねた心

FA権を行使したものの、球団からの評価を聞くのみにとどめた田中は、他の球団からのオファーも話半分に残留を決めた。記者会見で田中は

 

『……よそで勝ち星を稼ぐ自分の姿は簡単に想像ができます。――ですが、僕はこのチームでやり残したことがまだ沢山あります。……これから、地元の野球少年の子たちがチーターズに入りたいと思えるような環境にしないといけないですし……そのためには、ここで投げ抜いて、関西のチームと言ったらこの縦じまなんだって……もっと沢山の人に思ってもらえるように、僕が投げてるうちに優勝だけでなく……日本一を目指してこれからも投げたいと思います。……頼りないエースだとは思いますが……僕なりに頑張っているので、ファンの皆さんも……もう少しだけ付き合っていただけると嬉しいです。僕は……ここで勝ちたいんです。……4年契約を提示されたからとか……そういう調子のいい男だとか思われないようなピッチングをできるように頑張ります』

 

――そんな言葉を涙ながらに放っていた。

 

その田中がFA権を行使すると発表する数日前、田中は海と一緒にランニングをしていた。

海が少しだけ球場を眺めながら走り込みをしたいと思っていたところ、田中から予定が空いているかどうか聞かれたものだから、どちらかというと海が田中に練習を付き合わせたような形になる。

 

「……佳井さんは、三塁や一塁に戻れるなら戻りたいですか」

「何だよ、いきなり」

「……質問してるのは僕ですよ。このまま二塁やショートチーム事情で嫌々守り続けたいか、三塁や一塁に戻れるなら戻りたいかって聞いてるんです」

「仮に俺に望みがあったとしても、お前にそんな権限ないだろ。お前別にコーチでもなんでもないんだから」

「……俺に権限があるかないかなんか、今はどうだっていいでしょう。佳井さんが、どう思ってるかを聞いてるんです」

「どうって言われてもね……」

そんなことをお前に話してもな――という気持ちが海には正直なところあったのだが、そう直接的な言葉を言うと田中はすねてしまうだろうから、海は言葉をつぐんだ。

 

「……今から三塁に戻るとかじゃ、かえって気持ちが揺らぎますか」

「別に。今からやっぱショート守れって言われたら、やるしかないだろ。三塁守れって言われたら、またスローイングの調整だって考えないといけないし……そりゃ、一塁や三塁守ってるときのほうが気持ちは楽だけどね。俺の一存で守備位置を選り好みできるような状況なんかじゃないだろ。二塁守れって言われたら、来年だって、再来年だって、10年先だってやってやるよ」

「……でも、守れるなら守りたいですよね」

「なんだよ、さっきから。何か隠してるのか?FAの場でお前が何か交渉してくれるとかそういう話か?」

「……聞いてみただけですよ。たまにはしょうもない質問くらい、俺だってしたっていいでしょう」

「なんだよ、それ」

 

海は田中の言葉に呆れながら少しだけペースを上げ、田中を引き離していく。田中は必死に離されまいとペースを上げて海を追いかけようとするが、なかなか差は縮まらなかった。

 

田中の残留が報道されてから数日後――海はとっくにそんなやり取りだって忘れかけていたのだが、地方紙の朝刊にはそのやり取りをふと思い出させるような見出しが一面を飾っていた。

 

『犬塚 電撃FA入団や! 「田中のために最後までセンターラインを守り続ける」』

 

あまり田中は高校時代の話を積極的には話そうとはしなかったが、記事によると犬塚――かの有名な古典からその名を付けられたという犬塚信乃【いぬづか・しの】は田中の二つ上の先輩で家も近く、幼馴染だったらしい。通っていた高校も同じで、田中が技巧派に転身したときも犬塚がずいぶんと練習に付き合ったようだ。

 

聞けば犬塚はここのところ三塁の守備に回っていたが、昔からずっと二塁や遊撃を守っていたこともあり、自分の起用に関してはセンターラインで使ってくれるところを――という強いこだわりがあったらしい。

 

三塁手でゴールデングラブを何度も受賞している身分ではあったが、それでも自分はセンターラインを守りたいという思惑と、現役最後は田中のいるチームで終えたい――という二つの思惑が合致した形となる。

 

「……できた話だよなあ。なんだか。うまくいきすぎて、冷めるよ」

「別にいいじゃん。なんか歳取ってからもう一回昔の関係が戻ってくる、みたいなそういうの、憧れるなあ」

「俺にはそういうのがないからね、分からないね」

「それは、海くんの人生が他の人とちょっと違うからさ……仕方ないよ。だからって僻むのは良くないな」

「別に僻んでなんかないよ」

「……あ、高校のときの指導者とかなんかは?確か、コーチ?……あれ?監督だったっけ?コーチ兼監督だったっけ。なんか、いい人だったんでしょ?」

「ああ。俺が若手だった頃、公園で不良に襲われて死んじまったよ」

「えっ――」

華耶は思わず言葉を失ったが、当の海はさも当たり前のようなリアクションで話を続けた。

 

「集団暴行だ。一人のおっさん相手に、学生がよってたかって7人だぞ、7人。どいつもこいつももともとスポーツやってて、人生にはぐれたとかで半グレとやらになったんだってさ。スポーツマンシップが、聞いて呆れる」

「……ごめん」

「いいんだよ。こっちだってわざわざ思い出したくない話題だから黙ってたことだし。高校の時のメンバーだって、負け方が負け方だったからかな、なんだかその後は空中分解しちゃってね。今更誰かと会いたいとかもないし、誰だって俺に連絡してこない。意外とさ、そういうもんだよ。皆が皆、大会が終わった後の進学のこととかを考えてたから、余計にね。他の野球部ならまだしも、俺たちはほら、ちょっと他と違う集まりだから」

 

組んでいた足を組み直して、海は華耶が出してくれたコーヒーを飲み始めた。

上にたっぷりとホイップクリームが乗せられ、その上からははちみつとチョコレートソースがうっすらとかけられている。何かと神経質な海が少しでも落ち着くように、と華耶なりにコーヒーをマイルドな味付けにするために編み出したものだ。

 

ある意味、こうしたコーヒーが出てくるということは華耶から見て、海が朝から少し神経質になっているぞというサインでもあったし、海もまた、それを理解していたし感謝もしていたが――だからといって海の性格がそれで改善するかと言われると、それはまたそれで難しい話だった。

 

「……でもさ、でもさー。海くんは他人のことに鈍感っていうか、興味がなさすぎるんだよー」

なんとか二人の間に漂ったビミョーな空気を振り払うべく、華耶は海の膝のあたりに擦り寄って笑顔で海を見上げたが、海の表情は相変わらず硬いままだった。

 

「自分のことだけで精一杯なんだよ。皆が皆、清兵衛や田中や……ジェネルはまだ若すぎるけどね、あんな奴らみたいに意地張って『俺はここでやり続けるんだ』みたいな奴じゃあない。明日、突然居なくなるかもしれない奴にそんなに入れ込んだって、しょうがないだろ。だったら、華耶のことだけ考えてたほうが気が楽だね」

「それは……一人の女として嬉しいけどさ。でもさー、どうする?前に出てった選手がさー、ある日突然チーターズに戻っ――」

「誰も戻ってなんかこないし、戻ってこられて嬉しく思うほどの人間関係なんて俺にはないよ」

ぴしゃりと華耶の言葉を遮り、眉間に深いしわを寄せながら華耶を見下ろす海。『二度目は言わせるなよ』と目で訴える海の表情を華耶は寂しげな目で見つめていた。ひどく現実主義に生きる海の心には、冗談は宿らないのだろうか――華耶にはそれが悲しくて仕方がなかった。

 

「……もーう。ありとあらゆる可能性を否定しちゃ、人生楽しくないよ」

「俺はありえる可能性だけ考えてたいんだよ。そうだったらいいのにな、なんて思ってることは、世の中大概かなわないんだから」

海は華耶を無視しながらスプーンでクリームの山を崩しきり、くるくるとコーヒーをかき混ぜて味を調え始めた。

うっすらと甘い香りがふわっと漂い、クリームが渦を巻く。そうしてコーヒーに溶け込んでいくクリームをじっと見つめながら、海は再びカップに口をつけた。

 

「……たとえば、優勝なんかもそんな風に考えてるの?」

「……言わせるなよ。勝ちたくなくて野球やってるわけない。でも……勝利を信じて、なんてさ、ファンに向かってはいくらでも言えるよ。ファンには明日も勝つ、なんて――思ってなくても言わないとファンにもそっぽむかれちゃうだろ。……決まってるだろ、勝ちたいんだよ。勝ちたいとは思ってるんだよ。でも――本当に勝てるのか、だとか、このまま日本一になれないんじゃないか、とかどうしても考えちゃうんだよ。俺ももういい歳だし、残された時間だって多分そんな長くない。華耶が見たかった景色、っていうのが何なのかは俺は分からないから、優勝や日本一を届けられたら、とは思ってる。でも――」

「海くん」

海が吐き出した思いを緩めるようにして、華耶はしゃがんだまま海の隣にで手を取った。ぎゅっとその手を握ったまま、ニッと最大限の笑みを浮かべる華耶。冷めた表情の海とそれはあまりに対称的だった。

 

「正直さ、海くんがあたしの言葉をそんな風に受け取って野球してると……思わなかった。なんかあたし、必要以上にプレッシャーかけちゃってたんだね。海くんがそういう解釈で野球してるならさ……あたしは止めないよ。でも……あたしはただ……全力でやりきってほしいって思ってただけなんだ。本当に、それだけなんだ」

「嘘つけ。あわよくば、俺が優勝してる姿とか……想像しちゃってただろ」

「……まぁ、違うよ、なんて言ったら……嘘になるかな」

「ほら見ろ」

気まずそうな表情を浮かべたまま、それでも笑顔を崩さずに華耶は海を見つめ続けていた。相変わらず、海の表情は冷たいが、華耶はなんとかして海のそうした感情を解かそうとしていた。

 

「あたしもさ……野球に未練タラタラだったからさ。海くんにはあたしの分まで野球してほしかったっていうのはあるし、その終着点が日本一だったらいいな、なんては思ったよ。思ってはいたけどさ……海くんがそこまであの言葉だけを胸に野球してきたなら、ちょっと悪いことしちゃったな、って思ってる。重すぎたよね」

「別にいいよ。俺は……できない約束はしないけど……男として果たしたい約束だって――時にはあるだろ。ここで俺が突然よそに移籍してあっさり優勝なんかしてもきっと華耶は喜ばないだろうし、多分華耶からしてみたら、ここで俺が野球をし続けることに意義があると思ってる。だからこそなんだよ――このままじゃ終われない、って」

「……そっか。……出て行くつもりも、ないってことだよね?」

「今のところはね。華耶がどっちを取るかだけど」

別に海が華耶に対して愛想が尽きているわけではなく、あくまでも海が自分自身の問題だという言葉に華耶は安心してしまった。

いざ何を言われてもいいくらいのつもりでいたものだが、海の力強い言葉を聞くとこうして安心してしまう自分がいる――そんな事実に、華耶は自分もずいぶんと都合のいい女だ――と思ってしまったが、海にはそれは悟られないよう顔色は崩さずに居た。

 

「あたしは……今のままの海くんでいいよ。きっと、あたしが移籍してもいいよ、なんて言っても……子供たちのこと考えて、移籍なんてしないだろうからさ」

「……それは、そうだね」

「……でもさ、最近の海くんは……なんかちょっと変わったと思う」

「そうかな」

「そうだよ。他人のことに興味ないとか言いながらさ……ううん、最近、っていう言い方もちょっと違うね。多分、出会った頃から少しずつずっと変わってきたんだと思う。大陸なんかが常にビミョーに動いてるようにさ。海くん、なんだかんだでいろんな人と関わってるし、なんとかしようって思ってる。一人でいるように見えて、必ず回りに誰かがいるもん」

「お節介が多いんだよ」

「でもそれはたぶん、海くんが本当は優しいからだと思うんだ。それに、やっぱ、海くん、なんだかんだいって心が強いからだと思う。あたしが海くんのことを心が強いって言っちゃうと、なんかそう振舞わせてしまってるのはあたしのせいだろ、とか思われそうだけど」

「分かってるじゃん」

海の悪態に華耶は再び残念そうな顔をしながら、海の膝をゆすってみせた。

 

「あんまりからかわないでよ。……それにさ、海くん、身近に居る人の否定はしないじゃん。あたしと出会った頃みたいに、世界の全てを否定はしないようになった。それはさ……海くんが成長した証だと思ってる。あたし以外にも頼れる人ができたんだな、って。なんか昔の海くん……一人で野球してるっていうか、世界には自分ひとりしか見えてないような感じだったから」

「俺は今だってそうだよ」

「口ではそう言ってるかもしれないけど、それでも常に頭の中ではランナーをどう返すかとか色々考えてるじゃん。海くんが気づいてないだけでさ、海くんはそういうとこ……少しずつ成長してきてるんだよ。そこはさ、もっと誇っていいと思う」

「でも、誇りでメシは食えないだろ」

「……そういうところ、ほんとに変わらないね」

華耶の言葉ひとつひとつにぶっきらぼうに、毒づくように一言二言で答え続ける海を見て、ふふっ、と笑ってみせる華耶。

本当に海の成長というものは些細なもので、軸そのものが変わったわけではない――それがある意味、華耶にとって安心感を抱かせた。本当に自分なしで生きられるような人間になっていたり、自分の全く知らない顔ばかり覗かせるようになってしまったらそれはそれで寂しかったからだ。

 

「笑うところじゃないだろ」

「ううん。なんかさ……人って良くも悪くも変わるものだからさ、そういうところまで変わっちゃってたらどうしようとかちょっと考えたんだ。別にさ、これからも海くんは海くんだし、どうなったってあたしは海くんを愛し続ける自信はあるし――そのつもりであたしはここにいる。でも、海くんがさ、あたしがいなくても生きられるような状態になったらなんかそれはそれで寂しいなーとかやっぱ思っちゃうんだよね、女として。これ別に妻としてとかじゃなくて、一人の女としてなんだ。妻としてもあたしは海くんを見てるけど、やっぱ、最終的に女としてあたしは海くんを見ちゃうんだよねー」

「俺がずっと俺だったように、華耶だって今までもずっと華耶だったじゃないか」

「そりゃ、そうだけどさ」

「華耶が華耶だから俺は俺でいられるようなもんだろ。俺が俺のままってことは、華耶が華耶のままってことだろ」

「……海くん、時々とんでもねえ攻撃しかけてくるよね。こんな朝からもうあたし、めっちゃこう……たぎるんだけど。やっば。ねえ、あたしこのあと子守とかだってしないといけないんだけどこんな朝からキュンキュンさせてくれちゃってもうどーしてくれるわけ?」

つんつん、と肘で海をつつきながら華耶は顔を真っ赤にさせながら海を見つめ、物欲しそうな表情をした。

 

「……そういうところも相変わらずだね、お前は」

海は頬を両側に引っ張りながら華耶をじっと見つめた。相当火がついたのか、頬のほてりが指先に伝わるほど熱を感じた。

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