「……」
「まぁ、ゆっくり慣らしていきましょう。ブランクがあるのはしょうがないことです」
小室が海の三塁手としての立ち回りに対して指導を行っていく。
初めて三塁を守らされたのがルーキーイヤーだった15年前、という月日の流れが海にとって少しだけ足取りを重くさせた。
いきなり経験したことのない三塁にコンバートされたかと思ったら翌年からは再び一塁での起用、そしてその後はいきなり二塁に回されたかと思うと続けざまに遊撃、そして再び二塁と守備位置をたらいまわしにされてきた――。
ボールに触れる機会というものが減れば減るに越したことはない、という海の思いこそあったが、フロントは自分に『チームの顔』という一種のプロパガンダ的な役割を押し付ける割には、自分の起用法に関しては随分と自分たちの都合で気ままに振り回してくれるものだ――という気持ちもやはり海の中にはあった。
これまで散々自分の野球人生をもてあそんでくれたのだ、どこを守らされても最低限の仕事はできる自信はあった。
人に向かっての送球が苦手なだけであって、捕球にさほど難があるわけでもなければ、体が柔らかいから動き回りにだって多少の無理もきく。
ただ、もしもずっと自分を一塁で使い続けてくれたならば、これほど必死に守備というものに向き合わずにもっと打撃のことばかり専念して野球ができただろうに――という気持ちはやはりこびりついていたし、自分を取り巻く環境が特別だったということを抜きにしても、プロの球と木製バットの感触に適応できずにいて、そのうち『一塁手として使うは打撃力が』と長い間思われてしまった自分の不甲斐なさも同時に襲い掛かってきた。
足取りを重くしたのは、結局自分自身の実力不足と、それを長い間払拭できなかった自分の気持ちの弱さなのだ――自分がプロとして一人前になるまでの10年、15年という期間が、海をさらに追い込んだ。
「佳井くん」
グラブを見つめ、久々に立つ三塁の景色と自分の感覚とのギャップになかなかなじめずに居る海。
それを見かねた小室が後ろから両肩をぽん、と叩いた。
「難しいことを考えるのは後にしなさい。君があれこれ考えている間にも、試合中は打球が飛んできます。それは君にだって分かってるはずです。練習だから考え事をしていいということではありませんよ」
「……すみません」
「君にしてみれば、久方ぶりの三塁手ですからね。色々考えてしまうのは分かりますが、まずは肩の力を抜いてください。長い間二塁や遊撃を守ってきた君なら、新人の頃よりも打球はしっかり見えているはずです」
「……はい」
キャンプ初日から、海の守備練習は小室の命でみっちり行われた。スローイングを安定させるだとか、そういう技術的な部分ではなく、もう一度一年通して三塁を守るのだ、という気持ちの切り替えのほうがコーチ陣の中では命題として挙がっていた。
海自体はきっとどこを守っても大体同じように守れるはず、という実力はコーチの中でも理解はあったものの、いかにして15年ぶりというブランクを埋め合わせるか――二塁や遊撃を守ってきたことが無駄ではなかったという意識をしっかりとつけさせるかということが重要視されていた。
守ろうと思えばどこでも守れる身体能力があったからこそ、これまで海を便利屋扱いしてきてしまった以上――コーチたちは海を『4割打てる便利屋』から『4割打てる絶対的内野手』としてしっかり昇華させなければいけない、というテーマをかかげていた。
年齢を考えると、今後いつ壊れるか分からないどころか、既に壊れ始めていてもおかしくない海をしっかりそこまで高めなければ――そういった危機感がそこにはあった。
それは海のためにという側面だけでなく、ファンたちから向けられている『海を扱いきれなかったのは球団のせい』だとか『こんなチームに入りさえしなければ本来海は今頃首位打者くらいは取っていただろう』だとかいう視線を払拭するためという部分のほうが強く、生駒からは『三塁に専念するんだから、もっと打ってもらわないとな』なんて直接言われたほどだ。
海も内心『どうせそういうことだろう』と思ってコーチたちを見ていたし、だからこそ少しくらいはコーチ陣に悪態の一つでもつかないと気がすまなかった。
守備の負担が軽減されるということは海にとっては確かにいいことのはずなのだが、それでも15年のブランクを埋めることはなかなか難しく、守備に意識がいきすぎると今度は打撃がおろそかになる――長年、年単位でポジションをたらいまわしにされる選手ならではの難しさがそこにはあった。
それを自分の実力不足だと思ってはいけない、ということも海だって分かってはいるのだが――結局、うまくできないのは自分のせいだと分かっているから海はキャンプ中、なかなか振るわなかった。
それでも、振るわないからといってチームの広報らが海へカメラを回さないわけにもいかない。海はそうして、キャンプ中のモヤモヤを抱えながらも、今年もデザインを新たにした『正直言って』シャツの宣伝をすることになった。
チームの顔である以上、キャンプ中もチーム内外のカメラが回ってくる機会は多いし、そういった面々に悪態をつくわけにも行かない。どれほど振るわなくても、宣伝や広報のための映像は撮らないといけないし、メディアが自分に紙面を飾るためにとハンドサインを求めてきたら、それに応えないといけない――この大事なキャンプ中、海は休まる機会がなかった。
「チームの顔ってのァ、大変だね」
「嫌味かよ」
「俺ァもうチームの顔ってほど顔じゃあねェしな、ガハハ」
「何言ってるんだよ。お前だってヌンチャクバットの売れ行きがずっといいんだから、もっと宣伝しろよ。お前が広報に掛け合わないで誰がやるんだよ」
海はわざとらしく商品ページの画面を清兵衛に見せ付けてやった。
球団の商品紹介ページで動画つきでヌンチャクバットを振り回す清兵衛の映像は生き生きとしていたままだ。
「俺とお前さんが並んでたら、そりゃアお前に譲るさね。ファンはお前を見たがってるんだからよ」
「バカ言え、お前を見に試合に来てる奴だっているんだぞ。そのくらい分かってるだろ。何でもかんでも、歳のせいにするなよ。お前がまだまだチームの主力選手だっていう現実から逃げるんじゃない」
「ガハハ。お前に説教されるようなときが来るたァな」
「真面目な話をしてるんだ。茶化すなよ」
角煮を頬張ろうとしていた清兵衛がふと箸を止め、そしてついには箸を置いてしまった。
「何度も言ってるがね、俺だって悔しいんだよ。悔しいんだがな、どうにもならねぇ。それが老いたベテランってもんだ。お前さんが分かってるように、それでも選手ってもんは、ただただ老いただけの姿を見せたくないから、ベテランとしての意地を見せようと思うし、客だってそれを見に来ている。そのたびに『やっぱまだまだいけるじゃねェか』って声が聞こえてくる。その声が聞こえてくるから俺ァまだやれるんだ」
「だったら――」
「でもな、分かるんだよ。『やっぱまだまだいけるじゃねェか』って言われてるってこたァ――その声で俺がまだまだ戦おうと思ってるってこたァ、俺自身も、周りも、もう全盛期なんてのはとっくに過ぎちまってるってことをよ」
「それこそ、お前が俺に言ったように『気持ちの持ちよう』だろうが」
海の言葉を跳ね除けるようにして清兵衛はうつむいたまま首を振った。
「最近は何でもかんでもデータだろ。俺が一塁に到達するまでの速度なんてもんももうバレちまってる。動画で分析するやつなんかがいるし、そんなデータで飯を食ってる奴がいる。データで野球を知りたがる奴だっている。そうなるとな、俺の脚が鈍ってきていることが客たちにもバレてるんだよ。脇腹の痛みだけがここんところの俺の弱点だって思ってたんだがね、脚はよ、思ってる以上に生ものだ。俺が違和感感じてることよりもずっと、データってもんが俺の老いを隠してくれねェ。俺みたいな脚や身体能力で動き回るタイプがその辺やっちまうとな、もうどうしようもねェんだよ。それでちょっと無理して脚を踏ん張ると今度は肉離れだとかアキレス腱だとかをヤっちまうだろ。今このチーム状況で俺がそんなつまらねぇ事で穴を開けるわけにはいかねぇから、なんとか小細工でどうにかするしかねェ。それでもどうにもならなかったら、あとはもう、強がることしかできねェ」
そうして、不満げに角煮を頬張った清兵衛はホップの香りが混ぜられてある炭酸水を飲み干し、カァーと表向きは豪快に唸って見せたが、その表情は重かった。
「……あんたは風俗に行ってそんなことを女に話しているのか?」
「言うわけねェだろ。これから抱く女にそんなつまらねェ話なんかをよ。お前さんにだから言うんだよ。俺が、お前さんと一緒に走りきってやれなかった懺悔みたいなもんだ、これは」
清兵衛を睨んでいた海が、ハァーと深いため息をついてから、鋭い目つきのままつぶやき始めた。
「下らないな。何をもう自分は野球人生を走り終えたような気でいるんだよ。あんた、競馬だってよく行くんだろ。レースに混じってる年老いた馬にもそんな風な感情でいるのか?最後まで走りきろうとしてる馬に、もう走らなくていいみたいなこと思いながら競馬見てるのかよ、あんたは?あんた、俺と一緒に優勝するだとかなんだとか、長い間俺に言ってきたよな。それ以上、自分がもう終わった人間だ、みたいな顔してみろ。二度とお前を頼ったスイングなんてしないぞ、俺は」
「海よ、佳井海よォ――」
「俺をその気にさせたなら、最後まで自分のキャラを貫けよ。俺はあんたに酒を奢られ続ける身でいたいんだよ。あんたが年老いたことを認めた瞬間、俺も自分が年老いたことを認めないといけなくなる。俺はまだ……まだ、この戦いを終わらせたくないんだよ。そこにあんたがいない戦いなんて――俺は認めない」
海の真剣な眼差しに、清兵衛もまたじっと目線を合わせたまましばらく無言の時間が流れ――そうして清兵衛は豪快に高笑いをした。何度か手を叩き――そんな様子に周囲のテーブルがあまり反応することもなく、ただただ各々が談笑している中、清兵衛の豪快な声と手の音が、いつも以上に浮いていた。
「ガハハ。お前さん、俺に死ぬまで働け、ってことか」
「優勝したいんだろ」
「当たり前ぇだ」
「これから優勝目指す人間が自分の老いのことをダラダラ話してたら、一生勝てないだろ。きっとあんたが俺と歳が逆だったなら――あんたは俺にそう言うだろうね」
「ガハハ。なるほど、それもそうだな」
それもそうだな、と言いながらも、清兵衛は笑いながらジョッキに注いだウーロン茶を飲み干し――きれずに4分の1ほど残し、テーブルに置いた。
「まぁ、確かにお前さんが言いたいことも分かる。きっと、俺がお前さんと逆の立場だったなら、俺ァお前さんを張っ倒してるだろうな。人間ってのは、勝手なもんだな。自分のことは棚に上げたがるし、他人のことにならいくらでも強気になれる」
「それを具現化したような物体があんただろ」
「ガハハ。……お前、言っていいことと悪いことがあるぞ」
ジョッキで海の額を小突いた清兵衛は、少しだけ残したウーロン茶を再び飲み干した。
それからしばらく、海の三塁手としての守備練習は続いた。
とにかく、自信をつける――自信をつける一方で、怪我だけはしないよう、コーチ陣は海に不用意なダイビングキャッチやジャンピングキャッチをしばらく禁止させた。捕れないと思ったボールは無理して捕ろうとせず、打球が放たれた瞬間の打球判断能力をとにかく鍛え上げる作戦に出た。
いざ三塁を問題なく守れるようになってもシーズン開始前に怪我などをしてはそれこそチームは失速してしまう――それを分かっているからこそ、コーチたちは海を慎重に扱った。分かっているだろうけれどヘッドスライディングなんかはご法度だ――なんてこともわざわざ監督から言われたほどだ。
海はそんなもどかしさの中、日々練習を続けていた。もっと捕れたはず――そんな爆発しそうな感情が、常に海の中でうずうずして、どうにかなってしまいそうだった。
全力でプレーできない人間がチームに居て、果たしてどうやって試合に勝つというのだ――それをカバーできる人間が一体このチームのどこにいるのだ――そんな感情が、海の胸の中で爆発しそうだった。
キャンプ中はどこにいっても人の目があるから、大声だって出すわけに行かない。だからこそ、海の中の鬱屈した感情の行き先はなく、ただただ苛立ちと脈の速さだけがそこにあって、あとはどうにもならなかった。
初めて二塁や遊撃を任されたときも、どうにかなりそうなもどかしさはあった。だが、あの時とは違い、今は『絶対に怪我できない』という状況が海の気持ちを縮こまらせた。怪我をしてはいけないということくらい、海だって分かっているのだ。わざわざコーチに言われなくても怪我だけは気をつけているつもりなのだから、プレーにまで口を出して欲しくなかったのだ。
鬱憤を晴らすように海はキャンプ恒例のフルスイングをし、何本も何本もバットをへし折った。地面に叩きつけてバットをへし折ってしまいたい気持ちを抑え、ひたすら白球を海は叩き続けた。
十分すぎる飛距離に、どんなコースに投げてもしっかりと捉えてくるスイング――ただのシート打撃であれば海のスイングは十分なのだが、これが紅白戦などとなると話は別で、力んだスイングはボールの下を叩きがちだった。守備と打席の行き来の間に海は余計なことを考えてしまうから、海の三塁手としての定着はまだ時間がかかりそうだった。
海自身も、守備位置が変わっただけでこんなに自分のプレー全体に違和感があるものか、と自分でも不思議に思っていたのだが、守備位置が変わったことや、自分が少し苛立って怒りっぽくなっていることなんかよりも、守備の負担が減った分これまで以上に打たなければならないというプレッシャーや、必要以上に自分を追い込んでしまっている精神状況が原因のほとんどを占めている、ということには自分では気づいていないようだった。
「海さん。入れてくださいー。私です。ジェネルです」
「……無用心だぞ」
そうしてこの日も練習を終え――夕飯をすませた後、部屋にジェネルがたずねてきた。少しピチっとした状態の『正直言って』シャツの文字が窮屈そうに横に伸びており、ハーフパンツに身を包んだ姿はまるで中学生が近くに外出するときのような風貌だった。
変に周囲がザワつくのも嫌だったので海は渋々ジェネルを部屋に入れ、ベッドに座らせた。
「なんか自分で言うのもアレですけど、イメージビデオかなんかみたいですね」
「帰れ」
「あー。冗談です。冗談ですってばー」
ジェネルを引きずって部屋の外に出そうとした海をジェネルが必死で腕にしがみついて拒否する。
「……で?何?俺をからかいにきたのか」
「まぁ、半分くらいは」
「帰れ」
「あー。別に私このループがしたくて部屋に来たわけじゃないんですってばー。やめてくださいよー」
ひょこひょこと跳ねながらジェネルは再びベッドに座り、持ってきた袋からノンアルコールのビールを取り出す。
「大丈夫です。アルコール、入ってませんから」
「そういう問題じゃないだろ。なんでこんなもの」
「食堂じゃほら、いろんな人がいますし、カメラなんかもたまに回りますし」
「周りに聞かれたくない話か」
「っていうかまあ……海さん、最近ちょっとしんどそうで」
「いつもだよ」
「いつもですけど。なんか、また色々考えてそうで。三塁、そんなに苦手ですか?」
「苦手っていうか、なんだろうな……気持ちの切り替えがまだつかないんだよ。今更俺に三塁としてのアレコレを求めるなら、ずっと三塁のまま使ってくれてたらよかったのに、とか、やっぱ色々考えちゃうんだよ。ショートを守ってた経験は確かに生きてるよ。鋭い打球の処理とかね。でも……そのショートだって2年?3年だったかな……その後はまた二塁に回されてるし。俺はここで戦い抜きたいとは思ってるんだけどさ、なんだろうね……この無駄な時間はなんだったんだろうとか色々思っちゃうんだよ。無駄なことなんてないはずなんだけどさ、チーム事情を盾にあと何度俺を振り回すつもりなんだよ、ここは、って思っちゃってるんだよ」
「思ってたより深刻なやつですね」
「そう。お前が思ってるより深刻なやつ。あとは――」
「やっぱ清兵衛さんのこと、ですよね」
「まぁ、うん」
ジェネルは『やはりそうですよね』と言わんばかりのドヤ顔を鼻を鳴らしながら決めてきたが、海はあまり乗り気になれずにジェネルの態度を軽く受け流した。
「あんまり練習中笑ってませんでしたもんね、清兵衛さん。あんだけ私たちには空元気でも笑え、とか言ってたのに」
「らしくないよ、アイツ。歳ってもんがそうさせるのかどうか分からないけどさ、あんなの見てたら俺だってなんだか歳取ったような気持ちがしてさ。現に歳は食ってるんだけどさ」
「まだ若々しいじゃないですか」
「どこ見て言ってるんだよ」
ジェネルの顎をつかんでぐい、と自分の顔を見るように角度を変える海。ジェネルはニヤニヤしながら海を見つめ、ぐっとノンアルコールビールを飲み干した。
「えへへ」
「何がえへへだよ。お前、俺のこと恋人みたいな感じで見るのやめろよな」
「私は永遠の片思いなんで。でも――」
キッ、とまじめな表情に切り替えたジェネルは海をじっと見つめ――
「海さん。清兵衛さんがいなくなったとしても――私がいますからね。……駄目ですよ、清兵衛さん一人がいなくなったからって何もかもが終わったような顔しちゃうの。私も、海さんの戦いに乗ってるんですから。私だって――レギュラーから落とされようが、何されようが――海さんと一緒に日本一になりたいと思ってますから」
「10年早いよ、お前には」
「だから言ってるじゃないですか。10年、15年の差を埋めてみせる、って。……私、本気で言ってますからね。清兵衛さんが今しんどい状況なら――私に当り散らしてくれて構いませんから」
「俺は……そんなしょうもないことことしないよ」
「でも華耶さんには海さんのこのバットで夜な夜な――」
「いちいち人の下半身を見るな」
再びジェネルの顎をつかんでまっすぐを見つめさせる海。
「でも、よかったです。なんか、こうやってツッコミ入れてくれる海さんのままで。それもなかったらどうしようと思ってましたから」
「女の前で自我をなくすほど俺は落ちぶれちゃいないよ」
「私の前ではなくしてもいいんですよ」
「堂々と浮気しろっていう趣旨の言葉を発するの、やめてくれる?」
海は再びジェネルを引きずり出してとうとう部屋から追い出してしまった。