キャンプの間、なかなか思うように調子の上がらなかった海。時代の流れというものが肩にのしかかっては、ただでさえ人に向かって投げるボールが不安定な海の送球を余計におかしくさせた。
練習量が問題なのではなく、気持ちの問題だ――海も、コーチも、その不調の原因が何かを分かってはいたが、キャンプというものも興行という点では決して軽視できないからこそ、じゃあしばらく休ませよう、というわけにもいかず、海はメディア対応だけでなく、自分を求めて遠くへやってくるファンや地元の野球ファンへの対応も余儀なくされた。
仮に開幕直後も海の調子が上がらなかったとしても、使い続けるしか道はない――コーチ陣の誰もがそう思っていた。
思い切った作戦として、オープン戦を『体調不良』の名目で全て欠場させて早めに大阪へと送り返し、開幕ぶっつけで起用する――という案が小室から提示されると、今野は『オープン戦無理して怪我なんかされるくらいなら』とこの案をあっさりと受け入れた。
そうしてその案が小室本人から提示されると、海は少し落ち着いた表情を見せて素直にこれを受け入れた。
『俺なんかのために』と海は小室に申し訳なさを見せたが、小室は
『勘違いしてはいけませんよ。君が居ないチームというのがどういうものか分かっていると思っているでしょうから、あえて深くは言わないでおきますけどね、休みをくれてやったのですから、開幕したら万全の状態で戻ってきてもらわないと困る、ということは忘れないでいただきたいですね』
と言葉では厳しく言いつつも、海の肩を叩いて空港行きまでのタクシーへと送り出してやった。
〈――さて、今年の夏いよいよオランダで開催されるワールドカップですがやはり注目はこの人、鳥居選手。先日行われた試合でもハットトリックを――〉
〈――若者の間で最近流行しているソフトクリームチャレンジですが、一方で販売店からは――〉
〈――事故現場です。ここのカーブで電車はゆっくりと脱線し――〉
〈――それでは改めまして本日のゲスト、F1レーサーの天野桐矢選手にお越しいただきました――〉
「……父さんから野球を取ったら、何が残るのかってくらいの姿だよな」
朝から既に三杯目のコーヒーを飲み、ソファに寝転がって呆然と天井を見つめている海を新は廊下から遠めで見ながらつぶやいた。
「あー。そういう言い方駄目だと思うな。お父さん、色んなもの背負ってるんだから。あと何週間かしたら半年ずっと戦い続けなきゃいけないんだよ」
歯を磨きながら新を諌める晴留。新はそれでも納得がいかないような様子で、四杯目のコーヒーを差し出したエプロン姿の華耶をじーっと横目で流し――再び晴留のほうを向いた。
「サラリーマンは365日戦わなきゃいけないじゃないか。じゃあ、サラリーマンのほうがよっぽど偉いだろ。母さんはサラリーマンやりながら母親だってやってる。父さんは野球選手だけやって、父親をやってくれないじゃないか。一年のうち半分くらいしか戦わなくてすむくせにさ」
「それは新がお父さんと距離とってるからでしょー。よくないよ、そういう考えで親を見るの」
「姉さんが父さんに甘いだけだよ。俺はそうはいかないね」
同じく歯を磨いていた真結と広乃がじーっと新を見つめ――何かを言いたさげにしながら、それでもただただ見つめ続けている。
「……なんだよ」
「お母さんも頑張ってるかもしれないけど」「お父さんだって頑張ってるの」
「どっちかが頑張っててどっちかが頑張ってないとか」「そういう問題じゃないと思うの」
「……真結も広乃も父さんの味方かよ」
「違うよ」「私たちは」「どっちも味方だよ」
「別にお兄ちゃんの敵でもないし」「そういう見方で家族を見てないの」
「……はいはい」
呆れた様子で新は部屋へと戻っていった。
キャンプから早めに離脱する形で戻ってきた海は自宅での"療養"を告げられていた。早いところが、オープン戦の間は極力外には出ないよう――ということだった。
一応、体調不良という名目で帰宅したのだから、仮に心療内科やカウンセリングなどを受診するつもりがあるのであれば行けばいいし、そういう問題ではないのであれば自宅でゆっくりとまずは休むように、という命令を海は素直に受け入れていた。
では、家にいる間自分は何をするかと言われると、結局トレーニングかギターくらいしか自分を満たせるようなものはなく、トレーニングなんかをして結局また自分自身を追い詰めるようなことがあってはいけないから海はトレーニング室にこもることを控えていた。
控えていた、と言いつつも、まったく入らないわけではなかったものの、一時間こもるかどうかくらいにとどめていた。ここで無理して練習したところで何かが改善するようなものではないと海も分かっていたからだ。
ではギターはどうだろうかと言われると、こんな沈んでいるような、心ここにあらずといったような、形容しがたい欝っぽさの中でモッキンバードなんかを構えてもいい音なんかは出るわけもなく、結局防音室にこもることだってやめてしまった。
海は、自分から野球以外を取ったら何も残らないような――そんな気がしてならなかった。それこそ、新のぼやいていた言葉が聞こえでもしたら、発狂してしまうほどには海は思いつめていた。
「なぁ、華耶」
「ん?なーに?」
「家のローンも急いで返済し終えたわけじゃないか」
「そうだね」
「後はこのまま現役を続けていさえすれば、手元にいくらでも金が入ってくるわけだろ」
「うん」
「現役が終わった後――俺、こんな感じでずっと家でニートみたいな生活しててもいいものか?」
海の問いに華耶は思わずケラケラと笑い、「ニートって……」なんてことを言いながら海へとゆっくりと距離をつめてきた。
「真剣な話をしてるんだぞ」
「ごめんごめん。でもさ、あたしは別にいいよ。稼ぐだけ稼いでくれてるし、いつ現役を終えるかは分からないけど――今までが大変だったんだもん。やりたいこと、見つかるまでずっと……仮に、何十年かけて結局全然見つからなかったとしても、あたしは別にいいよ。こんな言い方しちゃアレだけどさ……むしろ、現役を終えた後、ずっと家にいてくれたほうがあたしとしては……今まで海くんがいなかった分、嬉しいかな。行きたい時にどこにでも行けるしさ。海外で豪遊するとかしない限りは、日本に住み続けてる分にはもう、最後まで遊んで暮らせるだけのお金だって海くんは今のままだと手に入るわけでしょ。じゃあ、あたしは別にそれでいいよ。コーチだとか、監督だとかも、そんな無理してしなくていい。やりたいように……好きなように生きて欲しいな」
「そっか。ありがとう」
そうして海は再び白い天井を見上げて、ただただ呆然と何もせずに黙っていた。
華耶はそんな海を見ながら、調子はどうかと聞くのもそれはそれで悪いような気がしたので、柊理を抱きかかえながら海の隣に座り、ソファで寝転んでいる海に膝を貸してやった。
「別に、そんなことしなくていいのに」
「今あたしができることなんて、こういうことくらいだから」
「子供に分け与えてやる愛情まで俺に分配なんかしなくてもいいよ」
「今この瞬間は海くんもあたしにとっては子供だもん。あたしは海くんの彼女であり妻であり……母親の代わりをしてるから」
「相変わらず欲張りセットだよな」
「そうさせたのは海くんだもん」
「……」
海は黙って華耶のエプロンのほうへと顔をやった。
「まぁ、それで素直に甘えてくれるのは海くんらしいけどね」
「シーズン始まったらこうはいかないからね」
そうして、オープン戦の間、海は家で休みを取った。休みを取れば取るほど、戦士としての自分がどこか薄れていく恐怖感は常に隣り合わせていたのだが、今あっさり野球をやめてしまってこのまま華耶の愛情に溺れきってしまうのもそれも悪くない選択肢なのではないか――海はそう思ったりもした。
戦い続けてなければ緊張の糸が切れてしまいそうで、自分には野球しかない――と海は思い続けていた一方、走るのをやめてしまった人間が再び走り出すには大きなエネルギーが必要になる。
ちょっとした休暇をもらったものの、本当に自分はもう一度シーズン開始と共に走り出すことができるのだろうか――そういう思いもある中で、では完全にこのまま戦うことをやめてしまった自分というものはどれほど自堕落な生活を続けるものだろう――。
結局、休んでいる間は休んでいる間なりに海は余計なことをついつい考えてしまう癖が抜けなかった。
そんな海の思考パターンを分かっているからこそ、華耶は必要以上に海には声をかけず、ただただ寝ている海に体を預けさせてやったり、コーヒーを淹れるなどといったことくらいしかしないようにした。
デリケートな状態の海は、些細な言葉ひとつでどうにでもなってしまうことを長い間見ているし、そこで今自分が体を委ねさせるには、柊理の面倒だって見なければならない以上、女としての自分では海に接してやれない。だからこそ、今、自分は妻として、母親代わりとして――別のアプローチで海に寄り添わなければならない――そう華耶は思った。
「いーい?お父さんに今野球の話とか、スポーツの話とかしないようにね。スポーツ番組とかも、気になったら自分の携帯で調べるとか、部屋のテレビで確認とかしてね。分かった?今お父さん、すごく大事な時期だから」
夜、海が地下室へと席を離れている間、華耶は子供たちの前でそう言いつけた。
ニュースで飛び交うオープン戦の話だとか、そういった情報を華耶は極力遮断したかった。海も意識的に新聞だとかそういったものは見ないようにしていたし、面白くなくてもバラエティ番組だとか、日中のドラマの再放送だとかをずっと見ていたし、そういったものが何もやっていないときは部屋に戻ってただただ呆然と寝転がったり、積んでおくだけ積んでおいてやらずにいたゲームをするといった生活を続けていた。
外からの音も映像も何も流れてこない――いったんの社会からの断絶を海ははかろうとした。どうしてもスポーツの話なんかを聞いてしまうと体が意識的に動いてしまうし、とにかく、野球のことは今一旦忘れたい気分だった。
「部活の話もやめたほうがいい?」
「そうだね。ちょっと……よしたほうがいいかな。お父さんの前では」
「俺、今日ゴール決めたんだけど」
「そういうのはお母さんに教えて。お父さんには……今は黙っててあげて」
「なんだよ。結局父さん、自分のことばっかりじゃないか」
不満そうにしている新をよそに、晴留をはじめ皆が華耶の話を理解し、それぞれなりに考えているようなそぶりを見せた。
「新も、お父さんがチームに合流するまではちょっと待ってあげてね。それからなら、多分大丈夫だから」
「多分、って」
「先のことはお母さんにもなかなか分からないからさ……」
「……別に、いいけどさ。母さんは、聞いてくれるんだろ」
「うん。お母さんはちゃんと聞くから」
新は上目遣いで華耶をじっと見つめながら――
「じゃあ、いいけど」
と少しだけ嬉しそうな表情をして部屋に戻っていった。
理解を示してくれてよかった――と華耶は思いながら、泣き出した柊理に母乳を与え始めた。
「お父さん、スランプってやつなの?」
晴留は心配そうに華耶に尋ねた。
「スランプっていうよりはさ……今が一番頑張りどころなんだ。晴留も多分、先生に言われたでしょ?これからは中学生になるんだから、とか。人のお手本になりなさい、だとか」
「うん」
「今のお父さんは、そういう役割を求められてるんだ。でも、晴留も分かると思うけど、学校って毎年先生がいなくなるでしょ?仲のよかった先生だってもちろん、いなくなるでしょ」
「うん」
「大人ってね、6年じゃおさまらないんだ。何年も居続けるとね、重みが増すんだよ。あの時はこうだった、とか、あの人はもう居ない、とか。お父さんは今、そういう……周りからの目もそう、チームの中でもそう……頑張らなきゃ、って思いすぎてちょっとヘタっちゃってるんだ。移籍っていう手段を使ってこれをどうにかできるかもしれないのに、お父さん、責任なんか感じがちだからなかなか移籍も切り出せなかったりもしてさ」
「ふーん。……分かるような、分からないような」
「まあ、まだ12歳だもんね。きっと……いつか分かるかもしれないし、特にそういうこともなく生きられるかもしれないし……お父さんみたいな仕事してるからこそのアレだと思うけどさ」
「お母さんはさ――」
「ん?」
晴留は心配をかけまいと思って話し続ける華耶に向かって、真剣な眼差しを向けた。
子供の真剣な眼差しというものは、時に大人のその場を納めようとした言葉をえぐってくるものだ。じっと見つめた晴留の表情は、そうした華耶の心をしっかりと補足していた。
「お父さん、乗り越えられると思う?」
「乗り越えられないと思ってたら、あんなこと晴留とかに言わないよ。これまでもお父さんはずっと押し潰されそうになったところを、何度も何度も頑張ってきたからね」
「でもさ――」
「ん?」
「そのお父さんの頑張りってさ、いつまで続くの?お父さん、そのたびに押し潰されそうになるの?夜中に吐いたりしたりっていう生活、あと何年続けたらお父さんは楽になるの?」
晴留なりに父親の背中を見てきたからなのだろう。不安と心配と、そして、華耶に助けを求めるような――そんな表情で華耶をじっと見つめる晴留。
華耶はそんな晴留にどう返事をしていいか迷った。
自分だってすぐにでも現役を辞めたらと言えるなら言いたいし、海がこれ以上傷つくところだって見たくないのだ。でも、子供たちを養うという目的もあって海は働いているし、自分だって内心、そうして戦い続ける海に対して女の目線を捨てきれずに居る――
「それは……生きるって、そういうものだから。普通に働いててもこういうことって、あることだからさ」
少し迷って、華耶はなんとか言葉を絞り出した。親としての言葉をなんとか用意するのが、精一杯だった。
「でもなんか……勝つまでずっとあのままって、私……なんかお父さん、かわいそうだなって思う」
「それは、晴留の感性かな。きっと晴留がやさしいからそう思うんだよ。だから……晴留なりに、お父さんのこと応援してあげてほしいな」
「……うん」
晴留も納得したような、どこか納得いかないような――大人の世界というものが、自分ではまあまあ大人になったつもりではいたが、まだそれでも分からないことがあるものだ――というような表情でソファに座り、他愛もない芸人のネタ番組を眺め始めた。
華耶もまた、どうしても海を妻として、海が臨んだように母親として――そして、一人の女として見てしまう自分の都合のよさに、晴留への後ろめたさを感じずにはいられなかった。