「……アイツ、なんかあったんですかね」
「まあ、日々生活してるんだから、何もないわけがないでしょう」
「そりゃー、そうですけど。スイングに自然さが戻ってきています。どこか、力んでる感じじゃなく、憑き物が取れたような、そんなスイングしてます」
「しかし、遠征先でそんな何か劇的に変わるようなことなんてあるのかしらねえ。女でも呼ぶような男には見えないし、彼のそういう心変わりの早さ、良くも悪くも、らしいよね。ジェネルが奥さんの代わりになってるとでも?まさかね。そんな節操のない男じゃあないでしょう、彼は。ま……でも、アイツの私生活をずっと追ってるわけじゃあないからね、僕たちも」
生駒と今野が、海本来のしなやかでゆったりとしたスイングをしながら神宮のバックスクリーンへと次々ボールを飛ばしていくその姿に思わず見とれる。
必要最低限の力みと、バットにボールを乗せて送り出すような柔らかさとしなやかさ――それでも、ボールとバットのどこをどう叩けば飛ぶかをよく分かっているような、鋭いライナー性の当たりはぐんぐんとその勢いを失うことなく、スタンドを越えて着弾していく。
「アレを見るためだけに球場見に来る客が居てもおかしくありません」
「ホームランは技術で打つもの、っていうタイプの打撃のお手本みたいな打撃だけど、あれで本人が納得してないから、分からないものだねえ」
「世の野球やってる人間皆に手本にして欲しいスイングですが、手本にするには敷居が高いスイングですよ、ありゃあ」
「絵にしておくに留めるのが吉でしょう。あんなの、アイツにしか出来ないだろうからねえ。素直に筋肉つけたほうが、楽に決まってるから」
練習を終えた海がジェネルとなにやら絡まれて小突きあっている様子がコーチの目にも届く。
「アイツが佳井を動かす鍵なんでしょうかね」
「彼女一人でアイツがどうにかなるなら、あの二人には手錠でもつけて四六時中一緒に居てもらわないといけないよ。彼だってそんな単純な生き物じゃあないでしょう。奥さんに悪いですよ、大体そんな言い方したら」
「大鈴がスタメン外れてるから、なおさらなんですかね、あの二人」
「大鈴がスタメン外れるだけであの二人がどうにかなるなら、大鈴に引退勧告を出しますよ、俺は」
「悪い冗談ですね」
「そうかしら。悪い案では、ないと思うんだけどねえ、君」
今野はぴくりとも笑いもせず、椅子にどっと構えながら静かに海の姿を眺めていた。生駒はそんな今野を流し目で見つめながら、半ば本気で清兵衛を引退させようとしているような気がして背筋が冷たく感じられた。
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〈――都知事選に立候補していた竹下葉介前鳥取県知事が公職選挙法に違反した問題で――〉
〈――ドリブルで切り込む!!鳥居、そのままシュート!決まったあああああああ!!――〉
〈――あの問題作が帰ってくる!『魔法少女やめて違法少女になってみた!シーズン2』、木曜25時から放送中――〉
〈――今回はしご酒をするのは東京、三軒茶屋――〉
「……なんだよ、こんな時間に」
スタメンを外れて休養している清兵衛からBINEの通知が来ていることを今更ながら気づき、渋々返事を打っていた海。
環境音代わりにホテルのテレビで他愛もないBS番組をザッピングしていたところ、突然華耶からの着信が画面に表示されると少しだけ不機嫌そうな声を挙げ、テレビの音量を少しだけ下げた。
〈ごめんごめん。ちょっとすぐに連絡したくて〉
むすっとした声に華耶は申し訳なさそうな声をスピーカー越しに出した。
「きょうの俺の不甲斐なさを指摘しに来たのか?」
〈そんなんじゃないよー。そこまであたしが性格悪い女に見える?〉
「じゃあなんだ?一人の夜が寂しくなったとかか?」
〈それは…………そういうのはあとで写真送るし、わざわざ電話はしないよ。声なんか聞いたら、余計切なくなっちゃうもんだし〉
「……じゃあ何だよ。そんな暇じゃないことくらい、華耶だって分かってるだろ」
〈手紙が届いててさ〉
「手紙?」
支払いが滞ってるだとか、そういった類の手紙だろうか――海は額に手を当て、記憶をたどったが思い当たる節がなかった。
〈薫ちゃんから〉
「薫?…………」
〈浅井薫ちゃんから〉
「ああ」
『3年D組、野球部、浅井薫【あさい・かおる】です。左投手で今はサイドスローで投げています。高校でも野球部を続けたいと思っています――』
薫という名前だったな、そういえば――という気持ちのほうが強かった海は、そっけない返事になってしまった。
〈ああ、ってひどいなー!ファンからの手紙だよ!?海くんみたいなぶっきらぼうな野球選手にわざわざ手紙送ってきたんだよ!?前にも手紙送ってきた子の名前忘れるなんてひどいなー!〉
よほど急ぎの電話だと思っていたこともあり海は腑抜けた声で返事をした。
華耶はそんな海の声を心外そうな態度で責め立て、海は辟易した。
「あぁあぁ、分かった。分かったよ。で?その手紙がどうかしたのかよ。よくないもんでも入ってたのか」
〈いや、手紙着てたからさ。帰ってきてから読むよりもさ、今読んだほうがいいかな、って思って〉
「別に俺は――」
〈すぐに写真にして送るから、見てね。あたしの写真なんかよりよっぽど元気になると思うからさ。同じ野球人としてのファンレターって〉
「別に俺はそんなこと――」
言いたいことを言い切った華耶はプツン!と電話を切ってしまい、すぐさまBINEでファンレターを撮影したものを添付して送りつけてきた。
見るとも言っていないし、そこまで急ぎの用件とも思えなかった海は再びテレビに目をやり、よく知りもしない芸人が一人で酒を飲んでいる光景をしばらく眺めていたがそれもなんだか飽きが来て、華耶からのBINEを素直に読むことにした。
きれいな字が並んだ手紙には、薫の近況が書かれていた。
啓皇大の経済学部に無事進学し、春からは一人暮らしを始めるようになったこと。
再びプロ入りを目指すために大学でも野球を続けるということ、そして――
「『4年後にはプロのユニフォーム姿で佳井選手の前に現れて、佳井選手と真っ向勝負を挑んでみたいです』、ね……」
2軍でバックアップメンバーとして控えている選手のごく一部に大学出身だとか社会人出身や独立リーグ経由の選手がいる以外は、基本的に一軍でその名を馳せるのはそのほとんどが高卒選手という現在のプロ野球界。
仮に大学や社会人から指名されたとしても、その名前が定着する前にまた似たような即戦力を雇われていつの間にかいなくなる――ということが最近多かった。
薫だって高卒で指名されなかった時点で自分がどれほど今プロ入りが厳しい状況かはよく分かっているはずだ。それでも、薫は自分が4年後絶対に指名されるはずだと信じている――。
それは、華耶にはできなかったことだ。華耶が唯一、薫やジェネルと違って――自分で自分を諦めたポイントだ。
ひょっとしたら、海が知らないところで華耶は自分の人生に諦めをつけて生活しているのかもしれない。そしてそこには自分が絡んでいる可能性だってある。
子供の数だってそうだ。本人は沢山子供が欲しい、なんて言っていたが、時々二人で散歩してると『たまにはゆっくりまた二人でデートなんかしたいよね』なんて言う事もある。ひょっとしたら華耶は子供の数なんてのは夜の時間のつながりを遠まわしに言いたかっただけで、本来はもっと二人の時間を求めていたのかもしれない。
華耶はまっすぐで、キラキラしている。
でもそれは、海から見た華耶へのイメージでしかない。華耶からしてみたらジェネルや薫はもっと――自分にないまっすぐさを持って、キラキラしているように見えているのかもしれない。
自分は、華耶の分まで野球をしなければならない――そういう気持ちで海はここまで野球を続けてきた。そして最近、その思いだけでは野球をし続けられないほどの重圧や無力感を感じ始めている――それは事実だ。
だが、野球をしたくてもできなかった女を妻に持ち、そして、その妻のもとには、野球をそれでも続けたいというまっすぐさを持った手紙が届いている。
その少女は自分といつか対戦するためにと――行く宛だってない4年間を棒に振るう覚悟を持って野球に打ち込もうとしている。
華耶だけではない。薫も、自分の姿を見て野球を――人生を全うしようとしているのだ。
薫だけではない。今日もきっとどこかで客をいそいそと運んでいる四宮だって、自分の活躍を聞いてタクシーを運転し、一喜一憂している。
自分に身近なものほど、身近だからこそ、大きな周りを見すぎて忘れてしまう。
海は、一人でも戦争を――などと自分で言っていたが、きっと、自分を見て生活している人間たちにとっても、この戦争を共にしているのだ。
そこに居るかどうかなどどうでもよくて、自分を信じる者は華耶だけではない――そうしたことを海は少しだけ思い出した。
それでも、きっとこの気持ちだってまたそのうち――それも、きっと近いうち、自分の些細な不調やトラブルなんかで忘れてしまうのだろうけれど――と自分の心の弱さにふと唇をひん曲げながら――ぱたり、と携帯電話をテーブルに置き、ふう、とため息をついた。
そうして冷蔵庫からお茶を取り出して一杯飲んだ後、再び震えだした携帯に、ああそうか清兵衛に返事をしなければ――と、自分がしていたことを思い出したのだが――電話で話していた華耶のとても子供たちには見せられないようなひどく過激で扇情的な写真が5枚ほど送られてきて、清兵衛に連絡をしていることなど完全に忘れてしまった。
いったいいつそんな下着を買ったんだ――と海は思ったのだが、できればその写真はあんなまじめな手紙を写した写真のあとには送ってきてほしくなかった――と、ぶち壊されたセンチメンタルの余韻と、男としての感情との狭間で海は少しだけ揺れた。
< 暇だから家に酒でも送ってやろうと思うんだが、酒の好みはあるかい
既読 21:18
< ないなら勝手に俺好みのものを贈ってやるがね
< お楽しみはほどほどにしておけよ
既読 23:14
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「昨日は惜しい試合だったけど、昨日あれだけ打てていれば今日だって打てるはずだ。今日も油断せずに――勝機を逃さずに一球一球大事にしよう」
「はい!」
清兵衛の居ない円陣というものは、ひときわジェネルの声ばかりが目立つ。海は一旦ジェネルを見て――ジェネルはニッ、と笑顔で返すのだが――
「気持ちで負けてどうするんだ!今日は勝つぞ!」
海は少し苛立った様子で声を張ってもう一度円陣をやり直させた。
驚いた様子で周囲――というよりも、これもやはりジェネルくらいしか目立った声を出していないのだが――ジェネルももう一度さらに声を張ってこれに呼応した。FAでやってきた騒ぎ好きのリリーフ投手もこれに呼応し、大きな声を出した。
「珍しく円陣に怒りましたね、アイツ」
「佳井だって前に出て喋るタイプじゃないのにねえ。これじゃあ、先の10年もアイツがキャプテンやってそうだよね。みっともない」
「後続を育てられないことに不甲斐なさをいい加減覚えますよ」
「でもそれは、佳井が結局全体をまとめられていない、ということの裏返しでもあるよねえ」
「一度監督もカツを入れたらどうですか」
「そしたら、僕まで意外とアツいタイプだと思われてしまうでしょう。監督というものは、あくまで冷静に選手を評価し、起用するのが仕事ですから。そういうのは、選手同士が本来どうにかしないといけないものなんじゃあないの」
なんでそういう言い方をするんだ――生駒は今野にそう思いながらも、一旦ベンチへ下がっていく選手たちを見送りながら、今野と一緒に遠めにその様子を眺めていた。
「……それをどうにかできない僕たちにも責任が大いにあると思うのですがねえ……」
小室は他人事のようにしている二人に侮蔑の表情を浮かべながらも、自分もまた、そうして現状をどうにかできずにいないことを自嘲するように、大きくため息をついた。
初回、あとほんの数センチ打球が高かったらバックスクリーンへと飛び込んでいたであろう鋭い弾丸ライナーを放った海。
これが先制弾になっていたならば、どれほど楽な試合展開だっただろうか――と海は後悔した。結果的にその後タイムリーにつながり1点を先制したのだが、その裏にあっさり3点を奪われてしまい――チーターズも一度は追いつくのだがすぐさま3点引き離されてしまった。
6回表、そうして4対7で迎えた3打席目。
一死満塁という大チャンスが回ってきたことによって観客席は海へのコールをいっそう強めた。ビジター応援席だということを忘れそうなほど、レフトスタンドから大きな声が鳴り響き、球団旗はいっそう激しく波打った。チャンス専用の応援歌が大きく、大きく鳴り響き、それはどこか、観客席からの必死の訴えやすがり付きのように海には感じられた。
打席に立った海は一瞬、ベンチからのサインを確認した。
コンパクトに振ってプレッシャーを与えろと言われればそうするし、大きく振れと言われれば大きく振れる場面でもあるが――ベンチからは『任せる』のサインが出ていた。
前の打席でも当たりは鋭かったのだが、弾道が低く、セカンドが飛びついてアウトにされてしまった。
アウトはアウトなのだが、セカンドが飛びついてさえいなければきっと二塁までは進めただろう。
第一打席もそうだったが、今日は自分でもはっきりと分かるくらい調子のよさを実感していた。
ここ最近、日に日に強まっていた感情――今ならば、バットにボールを乗せさえすれば思い通りのバッティングが出来る――そんな気持ちが海の全身を包んでいた。
「……」
バットを構え、リードを浅めに取った走者を確認する。ゴロだけはやめてくれという意思表示でもあるだろうし、最悪でも打ち上げてさえくれればタッチアップする準備はできているという表われにも感じた。
恐らく、自分にサインを任せた時点でコーチ陣はランナーに『佳井はこの場面、打ち上げる準備が出来ている』という旨をサインで伝えたのだろう。
初球、甘いコースへのフォークが投げられたがこれを海は見送った。振ってもよかったのだが、フォークの精度があいまいで、落ちたり落ちなかったりするような投手だ。フォークのつもりで振った球がそれほど落ちずに内野フライに終わるなどしては、それこそ赤っ恥だ。海はこの場面、フォークはよほど追い込まれない限りは考えないようにした。
続けて投げられた球も同じくフォークだが、外に大きく外れ――キャッチャーが慌ててボールを止める。三塁ランナーも思わず一瞬動き出そうとするのだが、三塁コーチに止められて慌てて戻る。
いかにしてこの場面抑えるか――投手と捕手とが、しばらくサインの確認をしあう。なかなか首を縦には振ってくれない投手は、10度ほど首を横に振り――やっとセットポジションからそのボールを放った。
内角高めの――スライダーだ。これにのけぞって次からのボールで内角を封じようとしたのだろう。海が内角も苦にしないことを分かっていてこんなボールを放ったのは、一度高めに投げることによって間合いを取りたかったのかもしれないが――内角を突くにしても、少しコースもその曲がりもキレも今の海にはあまりにも甘かった。
すっ、と柔らかな手首の返しで、打ち上げるようにしたアッパースイングは白球をしっかりと捉え、パキン!と球場中に響き渡るような乾いた破裂音が響き渡る。
一瞬聞いただけでも確実にジャストミートしたことが分かる音だが、それを確かに証明付けるように、打ち返された白球がぐんぐんと勢いよくライトスタンド場外へ向かっていく。
東京の空へと吸い込まれていくほどの弾道と打球速度に観客が気づくと、まるで優勝でも決まったかのような、裂けるような歓声が一気に球場を包んだ。
海もまた、バットを放り投げ――ライトスタンドへ向かって右手の人差し指を向けた。
そして、その白球が場外へと消えたのを見送ると、その右手をぐっ、と握りこぶしに変え、無表情のままゆっくりとベースを走り始めた。