球児たちの暑く短い夏が始まった――なんて表現をよく使うけれど、海はそれを不思議に思っていた。
日本の夏はフィンランドよりは長いし、その甲子園のシーズンだって終わってしまえば今度は『暦の上では秋』だと言う。
だから、短い夏だ、なんていう表現を新聞やテレビは使うのを見るたびに、随分と大人たちは『夏』という定義や夏そのものを自分たちの都合でワガママに使っているように海は感じていた。
そんな『暑く短い夏』を、甲子園というものに全て賭ける――というのも、時折アニメや漫画、ドラマなんかで見かけたりしてきたが、それも海にはあまり理解のできるものではなかった。
最初からプロになりたいつもりでいる人間だけが部活をやっているわけではない。
だとしたら、その他は一体、就職活動のつもりでいるから全てを賭けているのか、テレビに映りたいから全てを賭けているのか。
進学するつもりが無くて次の夏は社会人になっているものだから、今後は自分の時間が取れないことを理解しているから、全てを賭けているのか。
それとも、アニメだとかでよくある『今この瞬間を仲間たちと』なんて薄ら寒いファンタジーが本当にあるものだと思っていて、全力を尽くしているのか――。
別に、海にとって理解が及ばないから『全てを賭けている』というバカにするというわけではなかったけれど、高校を卒業したからといって人生が突然終わったり、高校卒業と同時に強制的に死ぬ、なんてわけでもないというのに、どうして一生の最後のような顔までして試合に臨んだり、試合後そうした表情を浮かべるのか、海には分からなかった。
かけがえのない仲間なんて言葉を使う者なんかに対しても、ひょっとしたら、自分が知らない世界には本当にそういうものがあるのかもしれないけれど、基本的にこうした団体競技なんてものは、ギブアンドテイクが一致してるだけのメンバーが集まってるだけなんだから、かけがえもクソもないだろう――。
海は直接言葉にこそ出さないようにしていたけれど、心の奥底では思っていた。
「えー。いいじゃん。泥臭くて。あたしは好きだよ」
「好きかどうかの話をしているわけじゃないんだよ」
不謹慎な考えだということの自覚はあったから、コーチにすら言ってこなかった言葉を、華耶ならばそれほど怒られないだろうと思って海はついその思いをなるべく柔らかめに口にした。
華耶は一通り海の言葉を聞いた後、ケラケラと笑いながら海の考えをやんわりと否定した。否定こそしたものの、拒絶をするわけでもない、海にとってはほどよい答えだった。
「海くんが今言った他にも……まぁ、例えばさ、先輩とか監督を胴上げしたかったー、とかもさ、色々あると思うよ。皆が皆、海くんみたいに日々を自分の人生なんて所詮そんなもんだ、って割り切って生きてるわけじゃないんだよ。本当に自己表現が野球でしか……野球以外のことだってそうだけどね、自己表現がそういうものでしかできない人たちだっているだろうし」
華耶の『そうした人もいる』という言葉に対して「それもどうかと思うけどね」とは海は言わないでおいた。自分だって、自分自身の自己表現や感情の代弁はついつい相棒のSGに任せがちだったからだ。
「そういう人たちが、大会の終わりをもって、高校生活っていう一つの区切りを迎えちゃったから感極まってるんだと思うよ。そこに至るまでの思い出とかもあるだろうし。ほら、卒業式とかだって泣いたりする人いるでしょ?ああいうのと同じようなものじゃないかな。だから、海くんがそういうのを信じられないのは否定はしないけど……もうちょっと信じてあげていいと思うよ、人ってものをさ」
華耶の言っていることは理解はできたが、自分にそれを代入することはできなかった。
卒業式で泣くなんてことも自分はきっとしないだろうし、きっと、自分はこの夏の大会が終わったときも、自分のままだろう。
こうした区切り区切りでいちいち泣くほどの感受性を持っている人間は、そんな繊細な精神力でこれからの日々をどうやって生きるつもりなんだろうという思いも海にはあったが、口にしないでおいた。
「分かるけど、分からないな」
「きっと海くんもいつかそういう日が……そういうのが分かる日がくるんじゃないかな。今はまだなくてもさ、遠い遠い未来とか。今はほら、自分のことで精一杯じゃない、海くんは」
「そりゃあ、まぁ…………」
歯切れ悪く答える海。
ふと最近こんなことを考えるのは、理由があった。華耶の言葉から少しでも自分に代入できるものがあればと思ったが、どうしても自分の中に取り入れづらいものばかり入ってくるから、海は少し大きめに鼻でため息をついた。
「あー、わかった。そういうとこカメラに抜かれたり、大会にかける思いがどうとかそういうのを取材されたらどうしようって考えてるんでしょー」
「……まぁ、うん、そうだね。正直言って、よそのチームがどうとか聞かれてもあんまり興味がないし、俺は周りほどちゃんとした理由で野球やってないからさ。嘘でも何か取り繕っておかないとって思ったんだよ。なんかそういうの、正直に言ったら言ったであんまりよくないらしいんだろ、この国は」
「面白おかしく取り上げる人が多いからね」
「ほっといて欲しいよな……相手が誰だろうがボール打つだけなんだから、俺は。野球やってる人間には、野球だけやらせててほしいんだよ。自分以外の誰かのことなんか考えられるほど、俺に余裕なんてないよ」
「でも、そうも行かない立場だからねえ、海くんは」
海は華耶のからかうような笑顔を横にしながら、時折エアコンの風に揺れるカレンダーを見つめた。
もう間もなく都大会予選が始まる。
同じ地区のエースが怪我をしたらしいだのなんだの、チームメイトは度々話題にしていたが、海にはそんなことなんかどうでもよく、大会が終わったら自分がどうしたいのかをもう一度ちゃんと考えれなければ――と思った。
それでも、今は隣に華耶がいるものだから、せめて華耶にだけは少しくらいはいいところを見せてやれればという気持ちはうっすらとは芽生えていた。
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都大会予選を啓皇は順調に勝ち上がり、特に大きな苦戦をすることなく甲子園大会出場を決めた。
決勝戦では、プロも注目しているという投手相手に3打席連続ホームランを決め、いよいよ『怪物現る』だの、好き勝手メディアに注目されるようになった。
海からしてみれば、ある程度狙いを絞っていた球がちょうど打ちやすいゾーンに来ただけであって、運がよかっただけだったのだが――。
まして、海としては2本目のホームランは若干詰まったような感触だってあった。
勝手にプロ注目なんて言うのはいいが、金属バットと木製バットとでは感触だって全然違うはずなのだから、こんなホームランは参考記録程度にとどめておいて欲しいと海は思った。
しばらくして、甲子園大会へ向けての遠征がはじまった。
さすがに二度目の出場ともなると、海も目に付くものすべてが物珍しいような観光気分はあまり沸かず、『あぁ、またここに来たな』くらいの感覚にしかならなかった。
記者からの『ホームランを狙いますか』という質問には『自分の役目はホームランを狙うことではなく、来た球をうまくはじき返して塁に出るのが役割なので、あまり意識していないです』とぎこちない笑みで答えた。
いきなり『狙いますか』なんか言われると、なんだかホームランを狙って打つことを強制されるような感じもしたし、『こう聞いてるんだからお前だって狙いますと言え』という圧を感じて嫌だった。
打てと他人から言われたから打つのではない。あくまでも自分は、自分の意思で打つのだ――撤退した記者らを見ながら心の指でFサインを出し、海は練習に挑んだ。
メディアの力というものはまた便利な側面もあるもので、初戦、足早に猛打賞を記録した海は、次の打席からは勝負してもらえなくなった。
夏の大会以来、3番打者が少し調子を崩していることも多少データとして残っているせいか、2打席続けて敬遠をされた。5打席目にいたっては押し出しを選んでまでの敬遠だった。
一塁に足早に向かってから、遠めで3番打者の顔を見ていたが、押し出しのフォアボールを選んでまで自分と勝負するという作戦を取られたことにプライドを刺激されたのか、鬼のような形相だった。
それだけなめられているのだから仕方ない、という感情もあった反面、ここで無理に長打を狙ってはいけないから冷静になれ――という感情も海にはあった。
結局、その後3番打者は凡退したが、九回に相手のエラーがきっかけで守備の連携が一気に崩壊し、最後はピッチャーの暴投でランナーが生還するという試合結果になり啓皇は5対6でサヨナラ勝ちを決めた。
確かに投手のミスで試合の決着がついたのだから、これは確かに投手がショックを受けて泣き崩れても仕方ないだろう。
海はふと、この間の華耶との会話を思い返していたのだが、その投手が大してショックを受けているような顔を見せなかったのを見て、人間というものは分からないものだ――と海は思った。
突然のことだから気が動転してまだ自分のしたミスを理解できていない可能性だってあるのかもしれないが、あまりこうして自分がよく知らない他人のことを考えないほうが今の自分にとってはプラスになるだろうと海は考え、その視界を切り替えた。
この夏、甲子園に来てからも海のバットはよく当たり、快音を響かせ続けていた。
よほどの棒球でなければ必要以上に力まず、素直にはじき返すことを心がけた作戦がよかったのだろう。二回戦も決勝打となるタイムリーを含む四打席四安打を放った。
インタビューでは『決勝打を放った打席では何を考えていたんですか』などと海にとってはどうでもいい質問をされたので『いつも通り打席に立っていつもどおり打つことを考えました』と答えた。
『これで四球を除けば今のところ全打席ヒット、打率10割ですが』なんて質問には『あまり意識せずまた次の試合も同じ気持ちで打とうと思います』と答えた。
たった二試合安打が続いただけで10割なんて言われても、誇りにもならなかったし、プレッシャーを意図的にかけようとしているのではないかと海は思い、メディア対応は少し雑になった。
こうした高校生離れした受け答えやその外見に、海の気持ちとは裏腹に甲子園は沸いた。
野球をしているのは自分だけでないのだから、自分にばかり注目するのではなくちゃんと他の選手のことも見て欲しいと海は思ったし、なんなら海には華耶という女が居る以上、他の女からの黄色い声を受けても何も嬉しいとは思わなかったし、はっきり言って耳障りだった。
仮に華耶が今後居なくなったとして、今こうして声を上げている女というのは今までの自分に対する『外国人』というフィルターだけでなく、『甲子園のスター』というフィルターがかかってるから声を出しているだけで、『荒屋海』という人間そのものにはどうせ興味がないのだから、きっと今後現れるありとあらゆる女に、華耶の代わりは誰一人としてできないだろう――海はそう思った。
三回戦、そうした海への対抗心というものがあるのかどうかは分からないし、もともとそういう制球力なのかどうかは分からないが、一打席目から海は執拗な内角攻めや体スレスレのボールが相次いだ。
どうせストライクゾーンにボールを入れるつもりもないのだろうから、と海はほとんどそのボールを避けることに意識をし、1打席目から四球で塁に出た。
2打席目はすっぽぬけた棒球が頭部にぶつかり、死球となった。特に謝るでもしない様子に海は一瞬にらみを効かせたが、一塁に向かいながらぼそぼそとフィンランド語で罵詈雑言を呟くことで冷静さを取り戻した。こうしたとき、あまり日本ではなじみのない言葉は便利だと思った。
3打席目はそうしてまた執拗に内角を狙ってくるので、強引に引っ張ってライト前へとボールを飛ばした。よほど面白くなかったのか、あまり盗塁を仕掛けるつもりはなかったしリードだって取っていなかったのだが、執拗に牽制球を乱発し、結局悪送球で三塁まで進むことができた。
直後に初球からしっかりとスクイズが決まり、これが先制点となった。ボールの処理が遅かったことに不満があったのか、サードに向かってなにやら投手が吼えていて、見るに耐えない姿だった。
幼稚なメンタルの選手もいるものだ、と海は内心驚いた。よほど普段投げるボールがよくてここまでたどり着けたのかもしれないが、こんなプレーを続けられたら、監督やコーチからしてみたらたまったものではないだろう、と海は思った。
4打席目は力んだボールが全く変化をせず、真ん中から少し高めに浮いたボールが放り込まれた。
長打は意識して狙わない――。
そう言っていた海だったが、この球はしっかりと高く打ち上げ、追い風気味だったその浜風もあって、バックスクリーンへ向かってその白球は姿を消した。
九回裏。いつも通り事が進めば、試合はそうして3対0で幕を下ろすものだと海は思っていた。
「ごめん、足が攣っちゃって」
「大丈夫?」
「ちょっとダメかも」
「あとアウト2つだぞ、いけるって」
「でもあんま無理できないよ」
猛暑は人間の体力を奪っていく。普段起きないようなことだって突然起きる。
先発投手が突然足を攣り降板。あとアウト2つ、というところでランナー一人背負って代わった投手が、その初球をスタンドに運ばれた。
動揺を隠せなかった投手は四死球を二つ続けて出した。
一回戦、九回に相手がエラーを乱発してサヨナラ勝利したことを海は思い出した。
あの試合、決して自分たちは押されていたわけではない。自分たちも、バッテリーエラーや守備のエラー、サインミスなど、普段出来ていることが突然出来なくなるということを互いに繰り返した結果だった。
功を焦る者、動揺をする者、背負い込みすぎる者――。甲子園という存在にあまりに入れ込みすぎる者が多く、様々な感情が入り乱れているからこそ、この場は何かが起きるのだ。
守備のタイムを取り、にこやかな空気が漂う中、海は珍しく意見をした。
「いつも通りのことをしよう。いつも通りさえやれば、勝てる」
滅多にこうした時喋らない海を見て周りは思わず海のほうをぽかんと見つめながら、各々『そうだな』と笑顔で言って散らばった。
余計なことを考えるから、必要以上に力むのだ――。
いつも通りのことをやれば、なんてことないはずなのだ――。
そう海は思いながら、守備に備えた。
リードを少し大きめに取りすぎた一塁ランナー。投手は刺せると思ったのだろう、振り返って牽制球を投げたが――
「おい――!」
無理にランナーを刺そうとしたボールは、海から向かって右上にあまりにも大きく逸れた。緊急登板から打ち込まれているから、少しでも挽回しようと思ったのだろう。
指が必要以上にひっかかったと思われるボールは、無常にも一塁とライトのちょうど中間目指してころころと転がっていく。
海が猛ダッシュで転がったボールの処理をしている間に、ランナーが一人帰ってくる。
「悪い」
割れんばかりの完成や応援にかき消され聞こえはしなかったが、そう呟き、バツの悪い顔を浮かべた投手。
ただ、打者も焦っているようで、続けてのボールは明らかに外れていたが――力んだバットは空を切り、膝から崩れ落ちるようにして姿勢を崩した。三振だ。
同点にはされてしまったものの、この回さえ乗り切れば次は先頭打者から攻撃が回ってくる。相手だって正気ではいられないだろうし、ここさえ乗り切ればチャンスはある――誰もがそう思っていた。海だってその一人だった。
得意としていたスプリットがうまくバットの芯を外し、ショートめがけて転がっていく。
打球は少し勢いを殺され、一塁のタイミングは少しきわどいだろうが、安全策を取った三塁ランナーは止まっている。
俊足を生かして前へと突っ込みながらランニングスローを放り込むショート。
「ああっ――」
思わず海は声を漏らした。きっと、ショートも同じことを言ったのだろう。口をあんぐりさせたまま、絶望の表情をやや上へと向けていた。
『うちのショート、もともと投手だったからか球は速いんだけど送球が雑なんだよ。力むと球が上ずるみたいで――』
上から放たれたボールは、高い軌道のまま上ずりながら海の遥か頭上を越えようとしている。
海の高身長をもってしても、ジャンプして届くような高さではないことは明らかだった。
もし、ひょっとして、万が一――このボールが捕れさえすれば、ギリギリ一塁はアウトになるだろうか――と海もなんとかジャンプをする。これまでの人生でこれほど自分が高くジャンプしようと思ったのは、体育の授業でバスケットをしたとき以来だろうか。
内野フェンスへと吸い込まれるようにして、そのボールは無情にもファーストミットのはるか上をすり抜けていく。
いつも通りでいる、という事の難しさが、具現化した一球だったように海には感じられた。
海がそのボールを捕れないことを確信した三塁ランナーは両手を突き上げてホームへと突っ込んでいく。観客も思わずワァッっと大きな歓声を上げる。ボールが帰ってくるまでは試合は終わってないというのに、中立的な立場で見ていた観客、相手応援団全てが勝利を確信したような唸りをあげていた。
ショートは既にしゃがみこんでいるし、キャッチャーは返ることのない返球を待つべきかどうか、どうしていいか分からない様子でホームベース付近で立ち尽くしていた。
海がボールをつかんだときには、ホームには相手チームが大量になだれ込んでいた。
帰る場所をなくしたボールを握ったまま、あまりに呆気なく終わってしまったその夏の着地点をどうするべきか、海は考えていた。