『佳井、大爆発や! 2打席連続弾 5安打8打点』
『2夜連続満塁HR これぞ佳井』
薫の手紙の後、2戦続けてホームランを打った海。その後も極端に突出した打撃というものはないにしろ、年間通して4割前後を安定して打つことの出来るその安定感ある打撃を武器に、ひたすらヒットや長打を量産していた。
少しでもそれが勝利につながれば――と、状況に応じた打撃。今季もチーターズはなかなかAクラス入りが難しい状況ではあったが、それでも海は自分の役割を果たすために――一つでも多く華耶に勝利を持って帰るためにひたすら打ち続けた。
いつしか今年も桜前線は通り過ぎていき、各地からは甲子園出場校の報せが飛び交い始めるようになり、また今年も異常気象がどうだのとワイドショーを賑わす時期がやってきた。
この日チーターズは7回から振り出した小雨の中、12回まで及ぶバトルシップスとの壮絶な試合を繰り広げ――とうとうどちらも追加点を奪えず、引き分けに終わった。
9回、抑えへの負担を考え、守護神の登板をあえて控えた結果、同点に追いつかれる采配ミスを犯した今野は、試合後のミーティングで「今日は私の采配のせいで負けたんだから、気にしないように」と平謝りをしていた。
海としてはそんなことよりも、自分が2度も狙い球を絞っていながら一発を打てなかったことを悔やんでいた。一発さえ出れば試合を動かすことができたであろう場面で自分がうまく相手のウィニングショットを打ち崩せなかった――それも、二度もだ。こうした場面の積み重ねが、あと一歩で勝てない自分を生んでいるのだ――と海は激しく悔やんだ。
「いやァ、惜しかったな。お前さん、あの場面は長打を狙ってただろ。あんなの、誰にだって分かるぞ。惜しかったな」
「凡打に惜しいもクソもあるかよ。狙い球を一本に絞っていたのに打てなかった、それが事実だ」
12回まで及んだ試合の後、デーゲームということもあり、清兵衛と共に海は繁華街へと足を運び、食事にしていた。
誰もが目にした事のあるあの大きな看板を掲げた中華料理屋……ではないが、名の知れた中華料理屋で清兵衛は次から次へと料理を頼み、一緒についてきたジェネルと三人でかわるがわる料理を食べながら今日の試合を振り返っていた。
「そんなんじゃ心折れちゃいますよー、海さん。よくて3割の世界で4割を打ってる人はもうハードルがおかしくなっちゃってるんだと思いますけど、現に海さんが打てなかったように、後ろだってほとんど打てなかったじゃないですか、あのリリーフ。そんな風に言われたら、私が9回にもっといい当たり打ててたら試合に勝ててたなー、ってなりますし、その後だって、あとほんのちょっとだけライトからの送球がズレてたなら二塁ランナーがセーフになっててそれがきっかけでこの試合勝ててたかも、ってなりますし。よかったところだけ切り取りましょうよ。打ててて当たり前、みたいに思うの、ほんとよくないですよ。いつか4割前後打てなくなったときにどう乗り切るつもりなんですかー、そんなんで」
そう言いながら肉まんを大きく口を開けて頬張ったジェネルはにこにことしながら首を頷かせ、既に気持ちを切り替えている素振りを見せた。
「ジェネルもこう言ってるんだ。お前さんも、もうちょっとよかった当たりを振り返ったらどうだ。それともアレか。今日のタイムリーも、あんまり納得いってねェのか?」
「……あんまり、納得いってないね」
「ほらコレですよ。清兵衛さん、この人、理想主義にもほどがあるんですよ。皆があの場面で打ててかっこいーなー、って思ってる中、海さんだけが自分のヒットに納得いってないんですよ。きっとこの人、5割打ってもきっと納得しませんよ」
「ガハハ。5割打っても納得しない、か。確かに、こいつは5割打っても同じ顔して授賞式に行ってそうだな」
「……」
ジェネルの軽口と、それに便乗した清兵衛に海は言葉を返さず、黙っていた。
「清兵衛さん。ここの麻婆豆腐とっても辛いけどなかなかイケますね」
「そらァそうよ、辛くて旨いのが有名な店だからな、ここは」
「辛いの食べた後にこういう辛くない……なんでしたっけ、点心って言うんでしたっけ?これなんか食べるとまたおいしさが引き立つっていうか……。ほら、海さん。あーんしてあげますから、機嫌直してください」
「……」
海はジェネルの言葉にもなかなか反応せず、無言で水を飲み干した。
「お前さん、女を待たせるのはあまりいい趣味じゃねェぞ――」
「……海さん?」
滝のような汗を流しながら、顔を真っ青にして海は手元にあった茶を再び飲み干し――ハンカチで汗を拭うが、その汗は止まらず、徐々にその右手は震えだす。拭っていたハンカチは時折顔を空振るし、何かに憑り依かれたかのようにして同じような場所をひたすら拭っている。
「料理が辛かったから……ってわけじゃなさそうですね。……海さん?大丈夫ですか?具合、悪いんですか?」
目線がなかなか定まらずに、返事もどこかあやふやな海を見てジェネルはスプーンをテーブルに置き、額に手をやって熱を測る。
「11回から結構雨強かったからな。風邪か?」
「……少しだけ熱っぽいです。……いや、でも……風邪っていう感じじゃあなさそうな……海さん?私の言ってる事、聞こえてますよね?聞こえてたら、手だけでもちょっと動かしてもらえますか?」
手の甲にまで汗が滴っているその海の右手と左手は交互に動き、両手は健全だということをアピールする。
「……よかった。手を動かせてるってことは脳とかのほうではないっぽい……です。たぶん……たぶん、ですけど」
「……早く帰って休ませたほうがよさそうだな、こいつァ」
「私、タクシー呼んでおきます」
「じゃあ俺はメディカルスタッフにすぐ準備するように連絡入れる。お前さん、一応病院のことも調べといてくれ」
「分かりました。……海さん、大丈夫ですからね。すぐタクシー来ますから――」
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体調不良――。そう報道された海は、納得がいかなかった。
納得がいかなかった、と思うこと自体がよくないのだから、何も考えないようにしたかったが、何も考えるなと言われてしまうとあとは寝るくらいしか何もできないのだから、しょうがない。
部屋に入ってきて布団を取り替える華耶に、海は声をかけた。
「……ごめん、柊理の面倒だって見なきゃいけないのに」
「ううん。子供が一人増えただけだって思えばなんてことないよ。ゆっくり休んで。絶対安静って言われたんでしょ?」
「そりゃ、そうだけど」
「そりゃ、そうだけど。じゃなくて。お薬はちゃんと飲んだんだよね?」
「早く戻りたいからね」
「めまいは?」
「まだちょっとする」
「じゃあなおさら寝てないと」
上半身を起こしていた海は、華耶に寝かしつけられる形で再びベッドに倒された。
パニック発作――。
長く緊張と責任感と重圧とが続いていた海にとって、遂にそのツケが回ってきた――という言い方が正しいだろう。
幸い、長期間戦列を離れなければならないほどひどい症状に見舞われたわけでもなければ、長期にわたって投薬をしなければならない、というわけでもなく、10日ほど安静にして経過がよければ再び合流する――という判断がなされた。
素直にそうならそうと公表すればいいものを、重圧に押されて倒れたなどということを報道するのはファンを失望させるだのなんだの――自分のあずかり知らぬところで勝手にそう報道されてしまった。再び合流さえしてしまえば、また何事もなかったかのように皆体調不良で休んでいた事実ごと忘れる――そんな扱いをされたらしい。
一体誰のおかげでこんなことになったと思ってるんだ――という怒りも沸いてきたし、戦列を離れることの申し訳なさもあったし――などとあれこれ考えると、再び海に動悸が襲い、汗が流れ落ちてきた。
『そんなんじゃ心折れちゃいますよー、海さん』
皮肉にも、ジェネルが言った言葉が本当に現実になってしまったことになる。結局、自分の心が長い年月をかけて折れたことがきっかけでこんなことになったのだ。
考えを改められるきっかけになればそれに越したことはないが、こんな生活を送っていては考え方だって変わるわけがない。
引退――その言葉が軽く海の頭をよぎった。
だが、こんなことで引退なんかしてしまうのもそれはそれで馬鹿馬鹿しい。こうした心因性の病気をなめてはいけないということを海自身、分かってはいたが――それでも、とにかく一日でも早く自分はあの場に戻らなければならないと思っていたし、自分を表現できるのはもはや野球しか残っていない――めぐる思い一つ一つが海を奮い立たせたが、同時に焦らせもして、海は考え事をするたびに嫌な汗をかいた。
思考を停止させるために飲んだ効きの早い薬が海の思考を徐々に奪い、そして、再び海を眠りの沼に引きずり込もうとしていた。きょうが何月何日で、チーターズの試合はどうなったか――そんなこともどうでもよくなるような眠気が襲ってくる。
何も考えずに生きて、自分のことばかり考える人間というものがどれほど楽なものか――海は薄れていく意識の中でそんなことを一瞬考えたりもした。
辞めてしまえば、そのうちこんなことも考えずに済むのだ――。
「……あ、ごめん。起こしちゃった?」
「……柊理は?」
「叔母さんに来てもらって、今1階で面倒見てもらってるとこ」
いつの間にか隣に華耶が添い寝していて、自分の目の前には華耶の大きなふくらみが存在感をアピールしていた。うっすらとした食器用洗剤のシトラスの香りが、少しだけ鬱陶しかった。
「動かないで。そのままでいいから」
引き寄せるようにして華耶は海の頭を自分の身体に押し付け、頭をぽんぽんと撫で回した。
「……今はこういうことくらいしかしてあげられないけど、ちょっとは落ち着く?」
「今そんなやさしくされたら、今度こそダメになるよ、俺は」
「ダメでいいじゃん。あたしの前くらいではさ。一応、あたしのほうが年上だし」
「そういう問題なのかな」
「こういうことくらいでしかもうお姉さんみたいなことできないじゃん。背だって、ぜんぜん違うし。稼ぎだって、あたしの倍の倍の……何倍か分からないしさ。あたし、結局、守られてばっかりだから」
「……」
そんなこと言うなよ、と海は思ったが、言葉を飲み込んだ。華耶を責め立てたってどうしようもないことも分かっているし、きっとそう言ったところで華耶だって聞かないだろうから、華耶の言葉を聞いてやることにした。
「……あたしの言葉のせいで海くんがこんなことになっちゃったなら、それは申し訳ないことだと思うしさ。長いこと身体で受け止めてきたつもりだったけど、ごめんね。やっぱ……辛かったよね」
「華耶のせいじゃないよ」
「でも、最終的にはあたしの約束が根底にあるからじゃん。だから……申し訳なくてさ」
「そんな言葉は、俺が本当にダメになったときにとっておいてくれよ。俺はまだ……やれるはずだから」
それは、海なりの抵抗だった。
今これ以上華耶に甘やかされたら自分はグラウンドに戻ることを本当に辞めてしまうかもしれないし、そんな風に自分のこれまでの日々を総括するような優しさなんて受けてしまったら、華耶から見たらもう自分が戦える状態ではないように見えていると思ってしまうから、海は言葉を突っぱねた。
「……まだ頑張れそう?」
「……このまま華耶がこの距離感の華耶で居てくれたらね」
「ぎゅってするくらいでエネルギーが回復するなら、いくらでも差し出すよ。あたしは」
「……なんか、この構図……ほんとみっともないよね」
「ううん。戦士の休息、ってやつだよ。みっともなくないよ」
「だといいけど」
そこから先の記憶は、薬が効いたのか海もよく覚えていない。
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「……佳井さんの居ないうちらの応援団って、随分変わるもんですね」
田中が観客席を眺めながらキャッチボールをする。
『佳井俺たちは待ってるぞ』
『佳井 早く来て』
急ぎで作った応援ボードが早くも甲子園の観客席に掲げられ、まるで海が復帰時期未定の大怪我でもしたような扱いだ。
「アイツがスタメンに返り咲いてから、8年連続フル出場だ。それまでもアイツは確か怪我なんかで欠場したことがねェ」
「……いえ、一度だけ……1年目のシーズン最後に、寮でインフルを感染【うつ】されて特例措置で3試合だけ欠場してますよ」
「あぁ、あったな、そんなことも」
一瞬田中の話に清兵衛は首を傾げたが、言われてみればそんなことも会った気がする――と記憶をたどり、二度ほど頷いた。あれほど前野にきつく当たられていて起用されていた一年目、規定打席にも到達していたし毎試合のようにいたものだから、海がいないグラウンドというものを清兵衛は一瞬忘れていた。
「……僕は佳井さんが休んでる時にシーズン最後の先発登板をしたんですけど、翌日に熱が出て大変なことになって。佳井さんあの時、実は7.3度までしか熱が上がらなくて、僕が登板する日にはもう熱も下がっちゃってたんですよ」
「へェ、そんなことが」
「……同じ寮生活してましたからね、佳井さんが他の選手と絡まなくても、多少の噂は入ってきます。僕は次の日から9.8度出て、二日くらい熱が下がりませんでしたからね、代わって欲しいくらいでしたよ。……思えば、あの試合中に既に発症してたから、滅多打ちにされたのかもしれません」
「あの頃のお前さんはいつどう投げても打たれてたじゃねェか」
「……人がせっかく冗談言ってるときくらい、茶化さないでくださいよ」
清兵衛のきつめの冗談に田中は露骨に機嫌を悪くし、眉間にしわを寄せてダンダンとつま先でグラウンドを蹴った。
「まァ、そんな佳井海が突然ここから居なくなったってんだから、客の一人や二人どよめいてもおかしかねェよ」
「……死せる孔明、生ける仲達を走らす、って奴ですかね」
ひゅん、と投げたボールを清兵衛はつい、ぽとり、とつかみかねて落球した。
ボールを拾ってから、うーん、と首をひねり――不思議に思っている田中とボールとを二度、三度見返しながら――
「……いや……なァんか……違うくねェか……?」
と、微妙な顔つきで再びボールを田中に向かって投げ返した。
「……そうですか……?」
「……間違っちゃいねェのかもしれねぇが、正しくもねェようななァんかこう……モヤっとするんだよなァ。こう……決まった!って顔して、決まってねェときのバラエティ番組見てるような……」
「……なんか……こう……すみません……」
「いや、なんか俺も『それは間違ってるだろ!』って言い切れないような、なんかこう……絶妙なラインを突いてきたような……いや、確かにそこに居ない海のヤツに影響されてあんなもん作ってきてる観客はいるわけだからよ……」
「あぁあぁ、もういいです。ごめんなさい。俺が変なこと言ったから……」
田中は冷や汗をかきながら、この微妙な空気感をどうにかするためにも早く海には戻ってきてもらわないと――と思いながらキャッチボールを続けた。