「……本当に今季残りずっと休むとかじゃなくていいんだよね?」
「……俺が居ないとどうしようもないんだろ、あのチームは」
「だーかーらー。そういう考えはしないように、って、お医者さんからも言われてたでしょ。海くんが周りをどう思ってるかなんてどーでもいいの。海くんが戻りたいかどうかの問題」
心配そうに見つめる華耶に、無愛想に返事をした海。華耶はぺし、とその腕を軽くひっぱたき、じっと海を睨んだが海もまた、半ば諦めたような表情で華耶を睨んだ。
「前にも言ったけど……俺を表現できるのは、もう、あの場しか残ってないんだよ。俺が次にいつまた倒れるかどうかなんてことを考えて動かずにいるより、一秒でもあの場に立っていないと、かえっておかしくなりそうだ」
「……海くんがそれでいいなら、いいけどさ。じゃあ、これだけは確認させて。大丈夫なんだよね?」
海の言葉に華耶は言い返すことも出来ず、大丈夫なのかどうかを問うくらいのことしかできなかった。本人が行かせてくれと言っている以上、止めるわけにはいかないからだ。
「大丈夫じゃなくても大丈夫って言わないと、華耶がダメって言うだろ」
「むー」
華耶が必死で背伸びをして、海の頬を両側に引っ張る。
「それは海くんが現場で思うことであって、あたしが今聞きたいのは、海くんが今あたしの前から離れても大丈夫そうか、っていう安否確認なのー。残り一ヶ月、あたしが残り試合の半分、近くにいなくても戦い抜けるんだよね?チーム的な都合で大丈夫かどうか聞いてるんじゃなくて、あたしにぎゅーってされなくても大丈夫かどうかで言ったらどうなの?頑張れそう?」
「……大丈夫だよ。そこまで子供じゃない」
「ほんと?」
「……え、何、大丈夫じゃないって言って欲しいの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ……」
海の少しばかり不機嫌な表情を見て、華耶も思わず海の言葉にたじろいだ。
「大丈夫じゃなくても大丈夫って言わないと、華耶だって安心してくれないだろ。少なくとも、倒れた直後よりはいいよ」
強がった海に対して、「そうじゃなくちゃ困るんだけど」とは華耶は言わないでおいた。
「それに、あと1ヶ月走りきれば今シーズンも終わって、またしばらく休めるって頭が理解できている」
「なら、いいけどさ。……変に気負わないでよね。……どうせ気負っちゃうんだろうけど」
「気負うだろうね」
「じゃあもう、いっそ、気負っちゃえ。気負って広島のホテルで泣きついて、あたしの写真でも見て落ち着いて」
「……一応、言っておくけど」
「ん?」
「……子供たちにはバレるなよ。親が夜あんな格好してるって知ったら、まあまあショック受けるだろうから」
「当たり前じゃない!バッチリだから、その辺は。え?そんなこと心配する?」
「新なんかに見せて新が変な気を起こしたら大変だからね」
海は軽く冗談を言いながら――
「それじゃあ、行ってくるから」
と、最後に軽く手を振って、タクシーに乗りこみ家を離れた。
「うん。……行ってらっしゃい」
離れていくその車をしばらく見つめた後、華耶は目元にたまった水分を拭った。
2週間ほどの自宅療養を終えた海は、2軍戦で一切調整することなく、復帰戦をいきなり1軍戦で行うという強攻策に出ていた。
あくまでも体調不良で休んでいたという体でいる海が2軍から一切上がってこられないようであればそれこそファンに見放されてしまうだろうし、放っておいても海は調子を戻して戻ってくるだろうと球団側が思っていたことから採られた策だ。
どうせ調子が悪いままだったとしても、良くも悪くもあと1ヶ月でレギュラーシーズンだって終わるのだから――という事情もあるのだが、こうしたところに現在の海の立場がよく現れていた。
球場で軽く打撃練習とノックを軽く行って調整を行った海。その海の調整に関しては完全非公開で行われ、いかなるメディアも海の調子を知ることはなかった。ただ、『体調不良からのコンディション調整のため』とだけ報道された事実だけがそこにあって、海がこの2週間ほどの間、どれほど苦しんだかを知っている者はこの世に華耶以外にはいなかった。
少し眠ったかと思ったらうなされ、寝ている間も滝のような汗を流し続けた海。起きていても、少し考え事をするだけで汗がにじんできたり呼吸が乱れる海――。華耶はそれを見ているからこそ、一軍への合流を遅らせたかった。
休んだところでどうにもならない――これは自分の問題なのだ――海はそう割り切って、球団から言い渡された1軍への合流に文句を言わず受け入れた。
チームだって待ってはくれない。
今季は既にAクラス入りを逃すことが確定していたチーターズだったが、興行という点で、ただでさえ負けが込んでいる状況で海が居ない試合が続いていることはやはり客の入りに関わる。
これまで欠場したことのない男が15試合以上続けて欠場していることにファンも動揺を隠せず――現場に早く戻りたい海、早く戻ってきて欲しい上層部――互いに意見は合致していたのだが、華耶は妻として、彼女として、そして――"母親"として、海を急がせたくはなかった。
そうして打撃練習をすれば海は軽くボールを飛ばしてしまうのだから、海だって現場に一秒でも早く戻りたいと、口には出さないがやはり態度に出るし、球団だって『それ見ろ、やっぱり海は大したダメージを受けていないじゃないか』と思ってしまう。
海を野球マシンにさせてしまったのは自分のせいだ――華耶はそう思いながらも、もはや海を止められる要素がないことに、ただただ優しい言葉をかけることしかできなかった。
きっと、海は近い将来、こうして壊れていくのだろう――。
今まで壊れそうで壊れなかった男が――肌を重ねている間はそれでもなんとか立ち直ってきた海が、自分の力だけでは立ち直れなくなりつつある時が来てしまった。
強がりと、海への配慮から言い出せなかったこと。
『自分が見たかった景色』――。
それは確かに、海が言っていたように『頂点に立つ』ということはその重要なピースとして確かにあった。だが、海の硬い性格を分かっていた華耶は、その言葉の真意をついぼかしてしまった。きっとこれからも、ぼかし続けるだろう。
海が頂点にこだわる限り、自分が見たかった景色としてイメージしたものに、『頂点に立つ』ことがあったことは、絶対に言えない。『そんなことじゃない』と言い続けることでしか、海にブレーキをかけることはできない。
自分はかつて、海を幸せに出来るのは自分だけだ、と言っていた。一生の愛を誓う代わりに、野球に打ち込んで欲しい、と自分は海に言った。
海もまた自分を求めるし、自分も海を求め続ける。海の望んだことは全てかなえてやろうとこれまで行動してきたし、自分は海とは相思相愛で、愛という次元を超えた絆で結ばれているものだと思い続けていた。
その自分が長い年月をかけて、海を殺そうとしている――。
これからの海の戦いの渦中に、海にとっての本当の幸せはあるのだろうか――。
途端に、自分が今までしてきたことはあくまでも自分自身のわがままであって、海を不幸にしている本当の原因は自分にあって、自分は彼女としても妻としても母親代わりとしても失格なのではないか――そんな不安が華耶を襲った。
今更『もうやめて』なんて海に言い出せる歳でもなく、海の原動力に自分の言葉があるからこそ、自分は『海の求める華耶』というものを演じ続けなければならない。
それが申し訳なくて――でも謝るには年月というものは経ちすぎていて――華耶はひたすらその場で涙を流し続けた。
海が次の休みに戻ってきたときには、きっと、朝まで抱かれてやろうと――きっと、痣ができるほど強く抱かれてやろうと――華耶の中で、自分との戦いが始まった気がした。
1軍に帯同する形で広島入りしてから、一日だけ様子見で練習にだけ加わった海。ジェネルは嬉しさのあまり球場に現れた海に抱きつくなどして、スポーツ誌にその瞬間をデカデカと載せられてしまった。
自分が人を相手にボールを投げると突然送球がおかしくなっていたように、練習ではいくらでも平常心で居られても、試合となるとまたおかしくなってしまうことだって考えられる――海は念のためと処方されていた、しばらく分の精神安定剤を2種、それぞれ1錠ずつ、試合前に服用し――最初のイニングに確実に回ってくる打席を待った。
〈3番――サード――佳井――背番号――25――〉
ホーム側のレッドフィッシュ応援団からも大きな拍手で迎えられた海は、その歓迎っぷりを意外に思った。
自分の帰りを待つ者というものが自球団のファン以外に居るという事実に驚いたし、それがこうした拍手や歓声によって迎えられるとは思っていなかったからだ。スタメン発表の際も観客席からは確かに歓声が沸いていたが、まさか、復帰後初めての打席、こうして打席に向かう間も両軍側から手拍子が起きるとは――と、海は思わず拍子抜けしそうになった。
「練習ではアイツ、普通に打ってましたけど」
「まぁ、信じるしかないでしょう。私たちに出来ることは、彼の復調を信じてやることだけです。それでダメなら、彼もそこまでだった、と思うしかないね」
「自分の無力さを呪いたくなりますね」
生駒と今野の会話を、小室は少し距離を置いて黙って聞いていた。
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〈――17試合ぶりの出場となりました、佳井。どうでしょう、コンディション不良ということでしばらく欠場をしていたわけですが〉
〈ん~~調子が悪かったようには見えませんでしたけどね。チームにしか分からない事情があるんでしょう〉
〈復帰した直後の試合、それも、最初の打席というものはやはりどうでしょう、力みますかね〉
〈今までここまで長く2軍なんかで調整をしたことのない選手ですからね。そりゃあ、するでしょう――〉
久々のユニフォーム姿の父親というものにウキウキした様子の晴留と、とにかく、無事に試合を終えて欲しいという思いの華耶がリビングで海の一挙一動を見つめる。
額に汗は流れている様子はなく、極端に緊張している様子は――今のところは見受けられない。
〈――投げました、スライダー。これは少し低めに外れました、ボールです。おっと犬塚が飛び出している!二塁に送球しますが――アウト!〉
〈多分外れたのを見てチャンスを広げようと思ったんでしょうけど、ちょっとリードが浅かったですよね――〉
「あー」
思わず晴留と華耶が同じようにため息を漏らし、そのリプレーを見つめる。
真結と広乃は黙って、じーっとテレビを見つめ――一言も言わずにぴたりとも動かない。
〈――さあ、一塁ランナーいなくなりました。2球目――空振り!外角、少し高めのストレートでしたがタイミングが合いません〉
〈力んでますね。彼の悪い癖なんですよね。得意不得意なく全部のコースを、状況によってバッティングを使い分けられるのは彼の持ち味なんですけど、ツーアウトランナーなしの状況なんかは特にああして力んで大きいのを最近は打とうとしますから、投手からしてみたら佳井選手っていうのは、怖い打者である反面、こういう場面って適当に投げればあっさり抑えられちゃうわけですよね〉
〈そうなんですか〉
〈ええ。しかも復帰して最初の試合、それも最初の打席ですから、本来はもう少し慎重に振らなければいけない場面ですよ。ファンはまずは元気にヒット打ってる姿見に球場に来てるんですから、そこはもうちょっと意識してもらいたいですよね〉
本当に海のことを理解しているのかどうかも怪しい解説に言いたい放題言われることに華耶も晴留も眉間にしわを寄せながら、いいから早く次の球を投げろ――と思いながらなかなかサインが定まらないバッテリーに苛立ちつつも、祈るような気持ちでじっとテレビを見つめる。
〈3球目――投げました――〉
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正直なところ、海は犬塚が盗塁を失敗してくれてよかったと思っていた。あの場面で二塁に進まれていたら、それこそ、確実に犬塚を返せる打球を打つためにはどこに打球を打つべきか――点を取るためにはどうするべきか――とあれこれ考えてしまうところだった。
バットを持つ手は少しだけ震えているし、ボールも試合になると、想像していたよりもずいぶんと見えない。マウンドまでの距離はものすごく近く感じるし、そのボールは反比例する形でものすごく小さく見えた。
きっと、自分はこれからも4割前後の数字を残しても満足することはないだろう。仮に5割打てる日が来たとしても、残りの5割を悔いるだろう。
打った4割なんかより、打てなかった6割をずっと周囲からは言われているのだから、5割になったところで、きっと変わらないだろう。
自分が打ち続けている4割の中で試合を動かした打席というものがどれほどあって、打てなかった6割の中に、どれほど多くの試合を落とした原因となる打席があるだろう。
馬鹿馬鹿しくなる。
そうして、打てなかった打席を延々引きずってグチグチと言ってくる客や解説者どもがどれほど居ることだろうか。シーズン144ある試合のうち、自分が決めた試合が半分あったとしても、きっと、残りの半分と、その他落とした打席の事を言われ続けるのだ。
どれほどシーズン100打点以上を記録しようが、得点圏打率を打率以上の水準で打ち続けようが、チームの負けが続いているから、落とした試合のことばかり言われ続けてしまうのだ。これでは、これまで自分がやってきたことは、打ち損ではないか。
そして、今回の欠場がきっかけでこれから自分の打撃が仮に下降線に入ろうものなら、きっと言われるのだ。
アイツは期待はずれのままだった――と。
アイツは未完のままだった――と。
アイツはとうとう最後まで勝利に導かない打撃しかしなかった――と。
では、黙って下降線に入っていられるか――答えはNoだ。
華耶との約束を果たせないうちは、自分の足が千切れたならば、腕だけでヒットを打つし、片腕が千切れようものなら、もう片腕でヒットを打つ方法を見出すだろう。
それでも自分が年老いて、もう動けなくなってしまったならば――そのときは、泣いて華耶に詫びよう――。
『自分は勝利に繋がる打撃を最後までできませんでした』と――。
普段よりも随分と速く、それでいて、ピンポン球のように小さく見えるボール。
三塁側のビジター応援席で、けたたましく自分の名を激しくコールする応援団を決して意識したわけではないが――ボールを見極めようとしたがゆえにバットはわずかに振り遅れた。
それでもしっかりと――やや外に逸れたボールは、バットにひっついていた。芯で捉えたバットからは、木が奏でる嬌声のような甲高い音が響いていた。
白球は自分のイメージしている打球よりもやや角度がついたが、その勢いは衰えるどころかぐんぐんと伸びていき――ライトに比べてこじんまりとしているレフトスタンドを飛び越え、場外へと消えていった。
白球の行方が確実にフェンスを越えるということはバット越しに伝わる手への衝撃から確信していた海だったが、今の自分が放つことの出来る打球というものがどれほどのものか、海は普段よりもしっかりと打席のあたりから見定め――自分の視界からはその打球が完全に見えなくなってから、一塁へ向かってゆっくりと走り始めた。
打たれたはずのレッドフィッシュ応援団からも歓声が上がり続けていることに、海はホームベースを踏んだ後――静かに脱帽して一度、球場全体へ軽く会釈をした。