「明日、俺は外してもらおうと思う」
「へ?」
「……」
今季の最終戦を控えた三連戦となるバトルシップスとの初戦を終えた海は、前回食べそびれた清兵衛の準備してくれた店で食事にしながらそうつぶやいた。
「いやいやいやいや……だって、今日もホームラン打ったじゃないですか。なんでまた」
「ジェネル」
「清兵衛さんはなんですんなり受け入れようとしてるんですか。おかしいじゃないですか。調子がいいのに明日明後日の試合外してくれなんて言ったら、野球の神様に嫌われちゃいますよ。いーや、野球の神様以外にも他のありとあらゆる神様なんかにも嫌われますよ」
麻婆豆腐を食べかけていたジェネルが海に食ってかかるが、清兵衛がそれを止める。ジェネルは納得行かないような表情を浮かべながら、海を睨んだ。
ふざけたことを言ってるんじゃない――そんな、攻撃的な目線をジェネルは海にずっと向けていたが、海は伏しがちな目のまま、ついにはため息をついてテーブルに肘をついてしまった。
「……どうしても、意識するんだよ。特にここの試合は」
「でもそれを海さんは乗り越えてきたじゃないですか、いつだって。広島でのほら、復帰戦だって……エグかったじゃないですか」
「乗り越えたように見えてるだけだよ。あの日、やっぱり何かが俺の中で狂ってしまったんだと思う。……おまけにあの時と同じ、デーゲームだ。変に力んでしまって、どうにもよくないんだよ。今季はもうBクラスは確定してるから……来年、もう一回リセットした状態でここに立つ必要があると思ってね」
「来年も今年もそんな変わらないですよ。海さん、分かってるんですか?今横浜から逃げたって、来年も、再来年も――海さんが戦い続ける限り、ずっと横浜での試合も、横浜でのデーゲームはあり続けるんですよ」
「ジェネル」
二度目の清兵衛の制止に、ジェネルは一旦口を止めた。ぴくりとも笑わず、それ以上言うなというような清兵衛の表情に一度は言葉を飲み込み、海を見つめ――それでもやはり納得がいかず、ジェネルは首を横に振り、ツインテールを振り乱した。
「だって、なんだか――もう戻って来なさそうな言い方じゃないですか。今年駄目だったものが、来年突然よくなるんですか?心の不調って、そんな簡単なものじゃないんでしょう?だったら、なおさらじゃないですか。まさかこれから横浜戦だけは外してくれとか言うわけにもいかないでしょう?だったら……戦い続けることでしか、海さん、やっぱりどうにも変わらないと思うんです、私。……なんか間違ってること言ってますか、私?」
「……それは、俺にも分からないよ。分からないけど……やっぱり、横浜はまだ怖いんだよ。」
「怖いって……」
「どこも怪我なんかしてないはずなのに、指先は痛いし、腕や足だって強張る。身体すら俺がここで戦うのを恐怖で拒んでるんだよ。……違うんだよ、こんなもん甘えだ、って、俺だって分かってるんだよ。馬鹿な話だと思うだろ。俺だってそう思ってる」
ジェネルは納得いかない表情を浮かべながら、海の吐いた想像以上に弱気な言葉に思わず言葉を失った。そんな次元の低い言葉が出るなんて思っていなかったから、どんな言葉をかけるべきか、戸惑ってしまった。
「別に、横浜に限ったことじゃない。どんな試合だって怖いんだよ。打席も、守備機会も、どんな試合だろうが平等にやってくるからね。でも――あの試合の後おかしくなった、っていう経験が頭の中にしっかりこびりついてるから……今年は一旦、もうそのことを忘れたいんだよ。お前が言ったように、今逃げたところで、来年だってやってくる。今後俺が野球選手で居続ける以上、どうにもならない。でも……一度、俺の意思で、試合を回避したい。他より数日早くオフシーズンになったところでどうしようもないんだけど、今日ホームランを打ったところで、いいイメージのまま今年を終えたい」
「……戻ってきてくれるんですよね?」
「俺だって……戻ってきたいよ。薬でなんとかなるなら、そうしたい。薬を使わずにいられるなら、もっとそれがいい。でも……今後、薬に頼らないで試合に臨むことを考えたとき……やっぱり今の横浜とは少し距離と取りたいと思った。開幕までは半年ある。半年の間に……今日のイメージを保ったまま、戻ってきたいんだよ。残り2試合でまた悪いイメージのまま横浜を去ったら、今度こそ俺はダメになってしまいそうな気がしてしまってるんだよ。」
どうしても思い出すのか、海は額から汗を滴らせた。
清兵衛も、この店以外にしたほうがいいのではと止めたのだが、料理に罪はないからと、海たっての希望でこの店に予約を取ってもらった。
海自身、克服できるものなら克服したいものだと思っていたし、自分の中では克服できたものだと思っていたものだから――悔しく思った。
「……」
納得したいが、しきれないジェネル。
自分に出来ることなら何でもしてやりたいが、何なら出来るのかという感情もあったし、何よりも、こんな海の顔だって、見たくはなかった。
失望したとか、そういったことではなく、海という人間がここまで苦しんでいるという状況を直視するのが辛かった。
「分かってやれよ、ジェネル。お前に見えてるこいつの姿よりも、こいつは今一番苦しい時期なんだよ」
「分かってますけど――」
「それともアレか。お前、それでも自分になら何かこいつのために出来るとでも思ってるのか。つけあがるなよ」
「……!!」
「清兵衛、やめてやれ」
清兵衛の容赦ない言葉に核心を突かれたジェネルは、海と清兵衛の間をきょろきょろと見つめながら――反論材料も思いつかず、表情を沈ませた。
「……悪ィな。ちと、言い過ぎた」
「……とりあえず、料理が冷めないうちに食べてしまおう。俺のことは、その後でもいいだろ。できれば、俺が居ない間にやってほしいけど」
自分の間の前で自分を巡っての諍いなんてものを海は見たくなかったし、ジェネルも清兵衛もそんなことを争いたくてこの場に居るわけでもなければ、これ以上何か議論、あるいは――議論という名を借りた潰しあいをしたいわけではない。
二人ともなんとなくよそよそしい感じで――どうした表情をすればいいのか分からないような、そんなあいまいな動きをしながら料理を食べ始めた。
「とにかく」
海はこの空気を何とかしたいと思い、早めにこの話を終わらせようとした。
「来シーズンから、もう一回改めていいスタートを切りたいんだよ。たった2試合かもしれないけど……この2試合を全力で挑んで、あの時のことをなんとかなかったことにしようとして――それでもうまくいかなくてまたシーズン最後まで沈んだままなんかより、自分で一旦今季はここまで、って区切りをつけたいんだ。……一応さ、思い出の場所なんだよ。ここの球場は。それなりに思い出がある場所だから、悪いイメージばかりこれ以上詰め合わせたくないんだ」
「思い出?……ああ、神奈川代表はここで試合するんだっけか、高校野球」
ベイスタジアム横浜――通称、ベイスタ。
確かに、清兵衛が言ったように啓皇野球部に所属していたときは何度もここで試合をした。だが、そんなことは海にとっては正直どうだってよかった。
初めて野球の試合観戦をしたのはここ、ベイスタだった。まだ華耶と付き合って間もなく――付き合った、というよりは、それより先に華耶を抱いたのだから、あの時は今よりもある意味、まだずっと華耶との付き合いは今思えば不健全だったかもしれない――そう思い返すと、海はそれが面白くて、少し笑いそうになった。
ペアシートで試合を眺めながら、その試合のことなんかより、華耶は海に野球のことを聞いて回った。
まだ自分が野球をやっているということを華耶に打ち明けたか、どうだったかの頃の話だ。
『プロになるかどうかはまた別だよ』
『なれるよ多分。見てないから何も言えないけど。なろうよ』
『なろうよって言われても』
『プロになってお父さん見返してやればいいじゃん』
『見返すも何も、立つ土俵が違うじゃないか』
『そりゃあ、そうだけどさ。なんかこう……別に嫌いなままでもいいからさ、野球、続けようよ。きっと、絶対いいことあるよ。あたしが野球好きだからそう言いたいだけに見えてるかもしれないけど』
『そう見えてるね』
『だったら、それでいいからさ。きっと……いいことあるよ。あたしは――』
あの頃はまだ、華耶が野球を諦めた過去があるなんても知らなかったし、自分だって野球に今ほど打ち込んでもいなかったし、『前に飛ばすことだけ考えていたらいい』とコーチから言われてただけの、"ただの2番の強打者"という楽な立場でしか打席に立っていなかった。
今だって、前に飛ばすことだけ考えたらいいという基本的なことは変わってはいないはずなのだが、あの時と違って、ただのヒットだけでは許されない立場にある。
そういう立場にこそあるが、華耶が居なかったら、きっと自分は野球なんてきっとプロにも行ってなかっただろうし、仮に、周りがプロへと勝手に駆り立てたとしても――今ほどの選手にはなっていなかっただろう。
絶対いいことあるよ、という言葉は、華耶なりの必死のプロポーズのつもりだったのかもしれない。海自身がそう勝手に思い込む方法が楽だからそう思うようにした、という側面もあるのだが――そんな大事な思い出の場所だからこそ、この地で情けない打撃やプレーをする自分が許せないのだ。
医者が、華耶が、清兵衛が、ジェネルが――あるいは小室や生駒や田中や木村や薫や四宮や、あるいはそれ以外の者たちが自分に対して思い込みすぎるなとどれほど言おうとも、思い出の地というものがそこにある限り、思い出は原動力にもなれば、閉塞感の原因ともなる。
だからこそ、海は一度――この思い出の地から逃げたかった。ジェネルの言うように、来年どうせまたここで試合は行われるし、どれだけ来年を拒もうと、日付というものは足音を立てずに駆け足でやってくる。来年何も変われずにいる自分がそこに立っている可能性だってある――。
たった数日先に休んだだけで何が変わるのだ、変わるわけなどないだろうが――という自虐もそこにはあったが――今だけは華耶が言うように、『みっともない男』に甘んじていたい気分だった。きっと来年からはこんなつまらないことでの欠場は、客も、フロントも――誰も許してくれないだろうから。
「デートだよ。デート。華耶と……まだ数えるくらいしかデートしてないときのこと……俺の苗字がまだ佳井じゃなかった頃のことだ。俺、初めてだったんだよ。野球観戦したの。それまで、野球なんてのはわざわざ現地で見るようなものだと思っていなかったからね。華耶に連れられて初めて見たプロ野球の試合が、ここだった」
「ンだよ、ノロケかよ。そいつぁご大層な思い出なこって」
「でも、その頃は俺は……プロに行くつもりなんてまだなかった」
「野球、あんまり好きじゃなかったんでしたっけ」
「……今もだよ」
海は水を飲み干し、エビチリに手を伸ばした。
「それからも色々紆余曲折はあったけど――野球続けろ、ってその頃からずっと華耶は俺に言っていた。俺は……あの頃はまだ、こんなに長いことプレーするもんだとも思ってなかったし……自分が父親になるとも思っていなかった。ベイスタが直接俺の人生を変えたわけじゃあないんだけど……月日が浅い頃の思い出って、忘れたくても忘れられないもんだろ」
海は力なく笑った。
「酒くれ。他人のノロケ話聞きながら食う飯ほどまずいもんはねえ」
清兵衛はわざとらしく店員を呼びつけ、ビールを要求した。
その日の夜、海は一人で21時台発の新幹線に乗り、一足先に戦列を離れ大阪へと向かった。
『今夜のうちに戻る』というBINEを見た華耶は少し驚いた素振りで海に返事をし、海はそうしてしばらくの間、夜遅くの閑散としたグリーン席で帽子を深被りし、到着をひたすら待った。
「ただいま」
「……おかえり」
24時を回ってしばらく経った自宅の玄関で、事情を察した華耶が海にきつく抱きつく。海もまた、華耶の腰へと手を伸ばし、しばらくの間玄関で二人の時間は静止した。
「……自分で決意して帰ってきたんだね」
「……あぁ」
ぽんぽん、と肩を抱きつきながら平手で優しくなでるように叩く華耶。海は華耶を引き寄せるようにして抱きついたまま、玄関からなかなか動こうとせず――言葉もないまま、一体何分過ぎただろうか――華耶が「とりあえずお風呂入ったらどうかな」とふと話題を切り替えるまで、ずっと抱きついたままでいた。
「今年も、お疲れ様。ちょっと気が早いけどね」
「いい加減、あと3週間くらいは遅くねぎらってもらえるようにならないといけないね。Bクラスのシーズンオフは早くて、情けないね」
「それは海くん一人の問題じゃないから」
広い浴室でも、海は華耶を逃そうとしなかったし、華耶も海から離れることはしなかった。
海の相変わらずそう太くはなく、むしろプロの中では細い部類に入る腕を華耶の小さい手で撫でながら――
「……疲れたよね。腕、辛そう」
「マッサージ師にでもなったつもりか」
海はそんな華耶のボディタッチを怪訝な表情で睨みつけた。
「通信講座とかでそういうの結構勉強してるんだよ、こう見えて。ほんとは子育てが落ち着いてからって思ってたんだけど、そんな時期なんて来ないから仕事と家事の合間を縫って、さ」
「……なんか、ごめん」
悪気があって触ったわけではない華耶に対し、つい自分が苛立ってしまっていることに海は情けなさを感じながら謝った。
「ううん。子供はあたしが望んだものでもあるしさ。……身体だけじゃなくて、ちゃんとこう……広い面で海くんをサポートしてあげなきゃってやっぱ思ってさ」
「十分すぎるくらいサポートしてくれてるじゃないか、華耶は」
「あたしはまだ足りないと思ってるの。海くんが4割で満足しないように、あたしもあたしに満足できないんだよ。海くんの妻としてふさわしい女でいなきゃいけないからね。あ、言っとくけど無理なんかしてないからね。海くんほど無理してるつもりはないから」
「……」
海はじろり、と華耶を睨みながら、無言で華耶の"触診"らしきものを受け続けた。
「あとでベッドでゆっくり身体ほぐしてあげるからね。……それとも添い寝なんかのほうがいい?」
「……俺に言わせるなよ」
「……」
華耶はくるり、と身体を反転させ、再び海に抱きついた。相変わらず、出会った頃の細さを維持しながら、さらに女らしさを蓄えた身体に海は少しばかり感情が動いたが、ジェネルたちに一体どんな言葉を吐いて逃げてきたかを考えると、とても華耶に対して何かアクションを起こせはしなかった。
そんなことも露知らず、ただただ少し惚気たままの華耶を、出来る限り平常心を取り繕ったままであしらうのが精一杯だった。
「なんなら、もういっそここで寝ちゃってもいいくらい」
「溺れるぞ」
「心はもうとっくに溺れてるもん」
「気の利いたシャレなんて言ってる場合かよ」
海は華耶が自分にじゃれつきながら首のあたりに頬ずりするのを止めはしなかったが――風呂なんかよりも、早く自室のやわらかいベッドに横になりたい気分だった。