「調子はどうでぇ、色男」
春季キャンプ初日から打撃練習で快調に打球を飛ばしていく海。毎年のようにキャンプではいい打球を上げるのは、打撃投手がそれほど打ちやすい球を投げてくれているということの裏返しでもあるのだが――。
「見てのとおりだよ。普段どおりだ。最悪じゃない」
「ガハハ。最悪じゃないだけ、いいか」
「キャンプ初日から調子が最悪じゃいられないからな」
「最悪でもいいじゃねえか。最悪ってことは、そこから上がり目しかねェんだからよ」
「最悪からずっと上がり目のないものだって世の中にはたくさんあるだろ」
「まぁ、そうつまらねェこと言うなよ」
普段どおりのひどく現実的な言葉を並べる海を見て、清兵衛は笑みを浮かべながら、組んでいた腕を解いた。
「待てよ」
そうして、海の肩をポン、と叩いてその場から通り過ぎようとしていく清兵衛を振り返って呼びかけた海。
「なんだァ?」
振り返らずに清兵衛は背中で話す。今年もまた一段と清兵衛の背中は小さく見えた。覇気がないわけでもなければ、別に弱弱しく見えているわけではない。
これが清兵衛の言っていた老いというものか――海は少しばかり次の言葉をなかなか出せずにいた。
「……髭、似合ってねぇぞ」
「そうか?三国志みてェでかっこいいだろ。俺の親父も長いこと髭がトレードマークでな。俺もそろそろ、生やしてみようと思ったんだ」
そう言って振り返った清兵衛の笑顔は、普段どおりだったものだから、なおさら海には時の流れを感じずにはいられなかった。顔や出で立ちにその老いが出ないよう、清兵衛はきっと戦っているのだ。
それが余計に海にとっては胸を締め付けた。
「今までそんな老けてる感じじゃなかったのに、まるでおっさんのそれじゃないか。均整な顔が台無しだ。10歳は老けて見えるぞ」
「おっさんでいいだろうが、俺ァもう、おっさんだからな。世が世なら初老だ」
「まだ39だろ。39で自分がおっさんだと認めてしまったら、50代なんかはジジイじゃないか」
「お前さんは39になろうが、50になろうが、きっと今みたいなままだって思うね。だが、俺ァ酒の飲みすぎかなんかだろうね、自分でも最近自分がおっさんだということを認めざるを得ないようになってきた。ほれ、小ジワやほうれい線なんかも最近な――」
「清兵衛」
海は何事もないような素振りで豪快に笑う清兵衛をじっと見つめながら――
「お前、スタメン争いが面倒くさくなっただとか、何か余計なこと考えてるんじゃないだろうな」
「ガハハ。何言ってるんだ。FAだろうが若手だろうが、俺の居場所を奪えるもんなら、奪ってみろ。うちじゃ、センターを安定して守れるのは俺しかいねェと思ってるからな。俺を下げるってことは、このチームはセンターラインの守備を捨てるってことだ。俺ァ、自分の守備に自惚れてるわけじゃあねェが――俺も黙って後ろに席を譲るつもりはねェよ。どいつもこいつも、まだまだ俺の足元にも及ばねェ奴ばっかりだからな」
清兵衛はバットをぶんぶんと振り回しながら上機嫌で海のもとから離れていった。
不安定な守備を理由になかなかスタメンで起用してもらえなかった長距離砲が出場機会を求めてチーターズにFAで入団してきた今年のチーターズは、打線の厚みが何年か前の重量級打線ほどではないにしろ、海頼りだった打線からは一気に怖さが増していた。
相変わらず厳しいチーム事情ではあるにしろ、海の後ろに3割40本は堅いと言われている選手が一人居るだけでも海は気がだいぶ楽になったし、打席に立つ際に何をどう打つべきかの選択肢だって増えることは海にとってもプラスになるように感じられていた。
今までは二死ランナーなしから無理に長打を狙うくらいしかできなかったことが、後ろに手堅い大砲がいるならば、普段と変わらぬスイングで出塁し、後ろに託すことが出来るのだから、これほど楽なものもない。
ただ、『これほど楽なものはない』状況というものは、同時に、誰かがその割を食っているということになる。かつて自分が『単打しか打てないから』という理由でずっとスタメンで使ってもらえなかったように――結局、なんだかんだ言って野球というものは一発を重んじるのだ。
年齢による衰えというものを理由に、清兵衛はスタメンを事実上の白紙にされようとしている。
虚勢こそ張っていた清兵衛だが、実際、もう清兵衛は年間を通して試合に出続けることが厳しいほどに身体を痛めているということは海にだって分かってはいた。
一方で、清兵衛が言うように、外野の守備をしっかり安定させるリーダー性と、その俊足を生かした全力プレーや意表をつくようなトリックプレーはチームにとっては間違いなく必要なものだった。
その足に不安要素がある以上、今、清兵衛は自分のアピールポイントを主張しづらい状況にあった。そこにジェネルやその他若手と言った強打の外野手――それも、清兵衛ほどの安定感ではないが、センターを守ってもギリギリなんとかなりそうな守備のできる者が一応居るには居るのだから、清兵衛の開幕スタメンの座はよほどコーチらが守備を重んじない限りは厳しいことは誰の目にも明らかだった。
清兵衛だってもうそれを分かっているはずだ。
昨シーズン、清兵衛は遂に盗塁数が10を割った。その前の年は21個の盗塁を成功させていたし、別に極端に打率や出塁率が落ちたわけでもないのだから、清兵衛の足はよほど思わしくない状態なのだろう。
今までは積極的に仕掛けていけた場面で、その一歩を踏み出せない清兵衛。
いかにしてバッテリーの隙を突いて最初の一歩の踏み切っていくかが大事な世界で、一瞬の世界の速度が落ちているのだろう。今までは清兵衛ならば捕れるだろうと思っていた外野フライも、あと少しのところで捕れないという状況だって何度かあった。
最も衰えたのは反応速度なのか、脚そのものなのか、それとも、勘なのか――あるいは、全てなのか。
捕れなくても仕方がない打球というものは確かにあるし、清兵衛が捕れなかった打球というものはどちらかというと単純な凡ミスというよりは、もとがヒット性の当たりなのだから捕れたらラッキーという打球のほうが多かった。だからこそ、誰も清兵衛のそうした守備の衰えについて咎めることはしなかったが――自分が清兵衛の立場だったら、悔しいだろうと海は思った。
清兵衛が素直にそれを悔しいと思っているかどうかは別だが、それでも、今まで酒の場で清兵衛が言ってきた言葉が本当なら――今この瞬間も悔しいと思っていなくても、捕れなかった瞬間なんかはきっと、少しくらいは悔しいと思っていたはずだ。
そして今、センターではジェネルが海の打球をひたすら追いかけている。
フェンスを越えるような打球だけではなく、外野の深いところへのライナーを打ち続けている海。
ボールのクッション処理だとか、フェンスからの跳ね返りの予測だとか、レフトやライトとの連携をするにあたって、どこまでボールを追いかけるべきなのかだとか――ジェネルは海の鋭い打球を受け続けながら、そういった基礎的な部分を再度洗いなおしていた。
誰がセンターを守ることになってもおかしくない状況なのだろう。高校の頃はセンターも何度も経験してきたというジェネルは、下手をすると打撃練習のときよりも声を出し、そして一生懸命ダッシュして海の放つボールを追いかけ続けていたし、必死で守備の積極性や判断力をアピールしていた。
清兵衛も時折近くに寄って、ジェネルに何か話している様子が見えたし、そのたびにジェネルは深くうなずき、その度にグラブを叩きながら気合を入れて守備姿勢についていた。
かつて清兵衛は、まだ海がスタメンを奪えるかどうか――メディアに好き勝手将来のトリプルスリー候補などと持て囃されていた頃、その盗塁技術に対して『その気なら教えてやってもいいが』と言いながらも、結局最後までその技術は教えてはくれなかった。
どちらかというと見て盗め、というタイプの人間だから、清兵衛は自分に対して打撃がどうだの、走塁がどうだの、今まで一言も具体的な面を指摘してきたことはなかった。
その清兵衛が自分からジェネルや若手に守備を教えている。
「……なんだよ、アイツ、今から兼任コーチにでもなるつもりかよ」
海は舌打ちしながら、少し力んでバットを繰り出し、その白球を叩きつけ――スコアボードまで文字通りぶっ飛ばした。
「かーいーさんっ」
「……なんだよ」
「隣、いいですよね?」
「……勝手にしなよ」
食堂で今年もホテルの豪勢なバイキングの初日を――海は相変わらず一人で食べようとしていた。わざわざ隅の二人がけのテーブルに座って、取材班でも来たら適当にあしらってやるつもりで居たのに――海は少しだけ不機嫌そうにして自分のトレーを少し寄せた。
「どうせ、つけてたんだろ」
「つけてました」
「取材班が来たらどうするつもりだったんだよ」
「おいしいじゃないですか。私たち、危険な二人って結構ネットじゃ評判なんですよ」
「それは俺の貞操概念が危険っていう意味だろうが」
「大丈夫ですよ。皆海さんが今更浮気するなんて思ってませんから」
「それをどうにかこうにかしようとしてるのがお前だろ」
「でも、嫌とは言わないじゃないですか」
「嫌って言ってもお前は聞かないだろうが。いい加減にしろよな」
「そりゃ、そうですね。えへへ」
舌を出しながらわざとらしく笑うジェネルを見て、華耶の言動にところどころ似ていることに、それは意識してやっているのか、わざとやっているのか、本当にたまたま似ているのか――海は少しだけ疑問に思ったが、自分の食事に手をつけ始めた。
「清兵衛、一緒じゃないのか」
「なんか田中さんと話があるから、って」
「田中と?珍しいな。そういう時って大体アイツ、俺たちを連れてくるか田中をこっちに連れてくるなりするのにな」
「私が海さんが一人なのを見て追いかけてきたように、清兵衛さんも田中さんが一人だったのを追いかけていったんですよ、きっと」
「じゃあ四人がけテーブルにでも移動するか」
「私はこのままでいいですよ。清兵衛さんには聞かれたくない話もありますし」
「……」
少しだけ真面目な表情をしたジェネルは、爪楊枝でシュウマイを突き刺し――
「はい、あーん」
と、海に向かってそれを突き付けた。
「……清兵衛に聞かれたくない話っていうのは、下らない恋人ごっこをすることなのか?」
「ちーがーいーまーすーよー。ただ、ちょっと真面目な話なんで、先にちょっと場の空気を和らげておきたかったんです」
眉間にしわを寄せた海はジェネルを睨みつけるが、ジェネルは動じることなく、とにかくシュウマイは食べて欲しいとせがむので仕方なく海は頬張ってやった。
「ふふっ。カメラが回ってきたら今みたいにやってくださいね。私たちがイチャイチャしてるの、結構人気らしいんで。皆海さんの性格分かってるから、私がやってるのはあくまでもキャラであって、海さんだってそれに付き合ってやってるプロレスみたいなもんだ、って分かってくれてるみたいで。たまーに、アイツ本当に寝取ろうとしてないか、みたいな声いただきますけど」
「それはいいから早く本題に入ってくれるか」
「……」
テーブルを指でとんとんと叩きながら、海はステーキを頬張り始めた。
ジェネルは周囲を一旦確認しながら――テーブルに肘を突いて、海をじっと見つめた。
「清兵衛さん、らしくないですよね」
「髭のことか」
「髭は……あれはまあ、ファッションなので私がどうこう言うもんじゃないです。でも、秋から突然髭を伸ばし始めたのもそうですけど」
「なんだ、アイツ、秋のキャンプの時点で伸ばしてたのかよ」
「そうですよ。……なーんか、らしくないじゃないですか」
「ああ」
「海さんもそう思いますか」
「髭がね。あれじゃ弥生時代の生活を漫画にしたやつに出てくるやつだ」
「ひ……髭のことはどうだっていいじゃないですか。本人が伸ばしたくてやってるんですから、あんまりいじっちゃ駄目ですよ、個人のファッションに文句つけるの。そういうのじゃなくて……なんか……」
「なんか?」
ジェネルは少しばかりもじもじしながら、しおらしい表情をしてうつむき――そしてちらりと海を上目遣いで見つめながら、言葉を選んでいるような言い方で話し始めた。
「私に守備のポイント教えてる間、なんか妙に優しい顔なんかしちゃって……なんか、もうまるで自分がスタメンに名前連ねるの、無理だって分かってるような顔してて……」
「……」
「私、ちょっと怒ったんですよ。皆必死でレギュラー獲れるかどうか練習してるんだから、清兵衛さん一人が自分だけはレギュラーはもう無理だみたいな顔するの、やめてくれますか、って。そんな顔した清兵衛さんにレギュラーなんか奪われたら、私、どんな顔してベンチで座ってたらいいんですか、って」
「そしたら」
「一発平手くれや、って」
「平手」
「ビンタしてくれってことです」
「したのか」
「しました」
マジかよ――と海は思わず目を開いてジェネルを見つめて突っ込みそうになったが、なんとか気持ちを抑えて平常心を心がけ、水を口に含んだ。冷たい、クリアな味が思考を冷静にしてくれる。便利なものだ、と思いながら海は少し大きめのコップに注いであったコップの水を結局飲み干してしまった。
「……で?叩かれて嬉しそうな顔でもしたのか、アイツ」
「目が覚めたわ、って笑ってました」
「それは、よかったんじゃないか」
「でも……やっぱり清兵衛さん、それこそ……海さんが去年ちょっと休養もらったように、清兵衛さんにも、一年が駄目なら何ヶ月か休んでもらって、身体の悪いところがあるならそれをしっかり治してから戻ってきて欲しいです。私、海さんには『戻ってこない気がして』なんて言いましたけど……そんなにボロボロになって、身体の痛みや怪我を押してまで試合に出続けるくらいなら、それはそれでやっぱり治療したほうがいいとは思うんです。海さんが今のキャンプでちゃんと戻ってきてくれたから、なおさら。……こんなこと、海さんの前で言うのもアレですけど、清兵衛さんのは海さんと違って、身体の問題じゃないですか」
「それで契約を続けてくれるほど優しい世界じゃないんだよ」
「それは……そうですけど……」
ジェネルだって分かっているのだ。清兵衛の身体が元には戻らないことも、清兵衛の復帰を気長に待っていてくれるような世界でないことも。
海から優しい言葉が返ってくることだって期待はしていなかったけれど、それでも、海に少しくらいは意見を肯定してもらいたかったのだ。共に清兵衛と一緒に優勝旗を掲げたいからこそ――。
「お前、俺を見守ってくれただろ。俺が休んでる間、秋季キャンプの間だって連絡も入れなかった。クリスマスにうちに来たのは驚いたけど、その時だって野球の話はしなかった。お前、俺に出来たことがアイツには出来ないのか」
海はそう言いながら、テーブルに置かれた茶をぐっと飲み干した。
「……」
「去年、アイツに言われただろ。つけあがるな、って。俺だって、アイツが万全になる方法があるなら、1億でも2億でも払いたいよ。でも、アイツは今、自分と戦っている。……分からない。ひょっとしたら、アイツ自身がもう自分と戦うことを辞めちゃってるのかもしれないけど……それでも、俺たちには見守ることしかできない。俺だって、できることならどうにかしたいんだよ」
「だったら――」
「でも、俺たちがアイツのことをなんとかしたいと思ってアイツの膝や足や脇腹が万全になるわけじゃない。……大体お前、他人のこと心配してられる状況でもないだろ、正直言って」
「それは……分かってますよ。私だって清兵衛さんがあんな調子だったら、私にも今年はスタメンのチャンスがあるはずって思ってはいるんです。でも……今の清兵衛さんに勝っても、ぜんぜん嬉しくないっていうか……」
「……甘いよ、お前は。スタメンって、一回決まったらずっと年間通して使ってもらえるわけでもないんだよ。実力が均衡してるときは特に。お前だってそのくらい分かってるだろ」
「分かってますけど……」
かつて監督の好みでレギュラー争いに長い間出遅れていた海からしてみたら、ジェネルの言葉はあまりに甘かった。
男からこんなことを言われようものなら殴ってしまおうかとでも海は思ったが、気持ちを抑えながらジェネルに真剣な眼差しを向け、諌めた。プロという場は――少なくとも、チーターズにおいてはそんな学生の部活じみた優しい世界なんてないのだから――と海はジェネルに釘を刺すように、額を人差し指で小突いた。
「……お前さ、俺に追いつきたいんだよな。15年の差を、埋めてくれるんだよな。だったら……そんなこと悩んでる暇があったら、俺にもっと楽させてくれよ。俺だって、今年こうして戻ってきたけれど、いつまたおかしくなるか分からないんだ。清兵衛のことを心配するのは分かるけどさ……早く、スタメン確約でももらって、俺に楽させてくれよ。正直言って、俺はあれだけ4割が通過点みたいなことを周り言われて、たまに打席に立つのが怖くなることがある。30本なんか打てないうちに、そのうち3割少ししか打てなくなったらどうしようだとか、考えてしまう。俺がお前の憧れの対象でいるうちに、早く上がってきてくれよ。俺だってもう30後半になる。普通に考えたら、お前に憧れられていられるのだって、あと何年あるかどうかなんだぞ」
「そりゃあ、頑張ります。頑張りますよ。でも、そのとき清兵衛さんはきっと……」
「……お前が思っている以上に15年の月日は長くて重いんだよ」
「……」
海はジェネルのトレーから、空になった皿を数枚取って、何か代わりに持ってきてやることにした。
ジェネルは口をひん曲げながら――どうにもならない感情を、そのまま耐え忍ぶようにしてうつむいていた。15年という月日の重さが、ジェネルの頭をなかなか上げてはくれなかった。