「……揃いも揃ってよ……」
オープン戦、そのほとんどを途中出場や代打で過ごした海。
シーズン開始前から調子を崩してもらっては困るし、かといって、オープン戦とはいって海を目当てに試合を見に来る者もいるという興行的な部分も見逃すわけにはいかない――そうした球団側の思惑に、海は渋々応じた。
試合に出すなら出すで、頭から出して欲しいし、調子を気にするのであれば何試合かビシっと出した上であとは欠場させて欲しいというのが本音だった。
代打や途中出場というものは、いつ、どのように自分の出番が回ってくるか分からないが、それでも試合に挑む身体作りや気持ちを整えないといけない。世間だって簡単に『1打席立つだけで給料をもらえて……』だとか、『準レギュラーのくせに給料だけはねだって……』だとかと好き勝手言ってくれるが、出番を待つ者には待つ者なりの難しさや辛さがあるのだ。
もし自分がいつかまた代打落ちなどしたら、黙ってそれを受け入れられる自信はなかったし、周囲がどれほど望んだとしても、プロを続けられるかどうか――きっと迷うだろう。清兵衛がスタメン確約を剥奪され、自分の身のなりふりを考えたように、きっとそのときは自分も身のなりふりを考えるタイミングなのかもしれない。
だが、そんなことを今考えるべきではないことだって海は分かっている。自分にとっては、今が一番大事なのだ。きっと、優勝を目指すには今年……ここ数年が一番のチャンスで、きっと、ここを逃すと自分は一生優勝のチャンスなどないのではないか――海はそんなことも考え始めていた。
まだ若く、打撃に安定感のある4番。
ここ数年、一気にFAで加入してきた円熟期の投手――。
きっとフロントも、ここが勝負どころだと思って財力を投げ打ったのだろう。ここで優勝を逃すということは、フロントからも愛想を尽かされてしまってもおかしくない。
決してフロントのために野球をやっているわけではないが、ここで勝てるかどうかということは、今後10年、20年のチーターズの今後を左右するほどの時期が来ているように海は思った。
そんな大事な年に、清兵衛もジェネルも、オープン戦では不調に陥り、開幕スタメンが遠ざかりそうな日々が続いていた。
清兵衛の不調はなかなか深刻なようで、守備のちょっとしたミスが珍しく続いた。
打つほうは普段どおりといえば、普段どおりだし、足だって一塁に到達する速度そのものはそんなに変わっているように思えない。オープン戦から積極的に足を絡めに行くほどリスキーな戦術をする歳でもないから、別に盗塁だって誰も気にしていなかったが、それゆえに、長い間安定して守っていたその守備のちょっとした乱れ――クッションボールの処理ミス、ライナー性の当たりの着地点の見誤り――。去年はまだそれでも見過ごせた守備のちょっとしたミスが、オープン戦から随分と目立つようになっていた。
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「海さんは休んでたから知らないと思うんですけど、清兵衛さん、秋季キャンプでもマラソン、だいぶきつそうにしたんですよ。走ってる間は元気そうにしてましたけどね。走り終わってから、裏で随分苦しそうにしながら水飲んでたんです」
この日、同じくスタメンを外れてベンチから清兵衛のちょっとしたミスを見ていたジェネルがぽつりとつぶやいた。
「ペースは」
「海さんが居ない分、私がなるべく前で走ろうとしてたんですが、それをさらに追い抜いていってました」
「そりゃあ、苦しくてもおかしくないよ。お前、若いし、体力だけはあるからね。それを追い抜いて先頭走り続けるなんて、足に不安を抱えたベテランがやることじゃあない」
「そうなんですよ。身体中……膝なんかも痛そうにしてて……でも、歳のせいだ、ってしか言わなくて」
「だから、出来るなら一年休んでてほしい、か……」
「清兵衛さんのパフォーマンスが発揮できないなら、なおさらですよ」
不安げに見つめるジェネルだが、海の表情は硬いままだった。
それほどに清兵衛が深刻な状況でプレーしているとは思ってもいなかったというだけではなく、ここまできてしまったら休養どうこうで身体が元通りになるわけがない――そんな思いとが海の中で交錯した。
自分にはまだ、老いというものが分からない。全くそれを感じさせないままスポーツ界を去るものだって居ないわけではないが、その裏にはとてつもない努力が隠れていることだって海にも分かっている。
自分だっていつどうなることか――そう思うと、他人の心配なんて押し付けないでくれよ――と海はジェネルに怒りたい気分だった。
「……アイツなりに今、自分のベストがどこなのか見極めようとしている最中なんだ。あんまり口挟まないでやれよ。お前、ここまでのオープン戦の打率は?」
「…….181です」
話題を逸らすようにして現実を突きつけた海。その海の問いに対し、気まずそうにジェネルはそうつぶやき、うなだれた。
「他人の心配なんてしてないで、自分の心配しなよ。お前、自分で自分の不調の原因分かってるか?」
「海さんみたいに、どんなコースでも打ってやろうっていう積極性が仇になってます。オープン戦なんで、四球なんか選びに行っても誰のためにもならないので。それに、苦手なコースなんてないほうがいいに決まってるじゃないですか。苦手なコースがあるっていうことは、そこばかり突かれて来るって可能性があるわけですから。いつかはどんなボールでも打てるようにしなきゃって私だって考えてるんです」
「で、その結果?」
「……得意だったコースも打ち損じるようになりました」
元も子もない――海はそんな言葉がでかかったが、自信をなくしたようなジェネルの表情にそんな言葉では刺してやらなかった。別に死体蹴りをしたいわけではないのだから、わざわざそんなことを言って煽るような悪趣味なことはしたくなかった。
「そう焦るなよ。焦る気持ちは分かるけど、そうしてるうちに自分を見失ったら自分の打撃が分からなくなって、一生後悔するぞ」
「何年か前、海さん、言いましたよね。4割打てる奴が4割30本打とうとするのと、3割40本打てる奴が4割40本打とうとするのとではわけが違う、って」
「そんな大きい数字で言ったかどうか、忘れたけどね。まぁ、そんな感じのことは言った気がする」
「私は、きっと3割40本側の人間なんだろうな、って思ってます。自分では4割だって打てるタイプだと思ってたんですけど、ついつい打てそうなボールはフルスイングしちゃうんですよ、どうしても。海さんほど器用に、冷静に、ありとあらゆるボールを臨機応変にスイングなんてできないです。3割40本は私にとってはひとつの通過点にはなるかもしれないけど、4割40本なんて、私にはできないかもしれません」
「お前、そんなこと言ってそのうち4割40本くらいやっちゃいそうだけどね。俺なんかと違って、背負わされてるものがないから」
「買いかぶりすぎですよ」
「俺もそんな勝手な期待を言われ続けてここまできたんだよ。でも、お前は俺とは違う。ああしろ、こうしろ、なんて言ってくる監督や外野やメディアだっていない。あとは、お前の気持ちの問題だと思うよ」
「気持ちでヒットなんて打てたら、野球なんて成立しませんよ。海さんはそれをよく分かってるはずだと思ってますけど」
「……お前、俺と同じようなこと言うんだね」
「海さんの大ファンですから」
ニヤニヤとしながら口角を上げたジェネルの笑顔は、やはり華耶によく似たずるっぽいものだった。
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結局、ジェネルも清兵衛もオープン戦で結果を残すことが出来ず、開幕一軍こそ確約されたものの、スタメンは事実上白紙――という結果に終わっていた。
かつて田中は自分に対して、「自分は投手だから、一年間24試合しか一緒に居られない」「野手の皆が羨ましい」などと言っていたが、確かに、田中が野手だったならばどれほど心強かったものだろうか――と海は思った。
知り合いがスタメンに居る居ないで露骨にやる気を変えるほど自分は人間的に終わっては居ないつもりだったが、いざ、スタメンに並ぶ名前に交友のないものが並ぶと、自分の交友の幅の少なさについて考えることもあるし、結局自分一人でどうにかしなければいけないんじゃないか――という気持ちや、メンバーが円陣すらまともにやってくれなかった中で、あと何をしてきたらよかったんだよ――という気持ちがわいてきた。
犬塚だって別に仲が悪いわけでもなければ、ぼちぼちと言葉を交わすことはあるのだけれど、海と同じように生真面目なタイプだから変にふざけてみせることはしなかったし、田中がいるときは大体田中とつるんでいるものだから、海からしてみれば別に友人と言えるほどの関係ではなかった。
清兵衛の言う「5年遅ければ」という言葉――
ジェネルの言う「15年早ければ」という言葉――
この二人が自分と足並みを揃えていたチーターズというものがどれほど強力な打線だったことだろう、と海は考えずにはいられなかった。
手に入らないものほど、考えてもどうしようもないことほど、人間は考えてしまうものである。
田中は、自分がもし技巧派に変えていなかったら――と前に話したことがあったが、田中も、ひょっとしたら本当は速球派の頃のように戻れたら――だとか、今の技術で速球派の頃の投げ方をしたらきっともっと抑えられるのではないか――などと考えることだろう。苦肉の策でストレートの握りを微妙に変えて変化させる球を投げているくらいなのだから、本人なりにストレートにはこだわっているはずだ――。
数日早くオープン戦を切り上げ、家で療養していた海は、試合中だって考え事をしてしまうが、結局家にいたら家にいたで、こうして考え事ばかりしてしまうことに頭を悩ませた。
「華耶。いるか」
海は華耶の部屋の呼び鈴を鳴らした。在宅勤務用のしっかりとした防音室で、外の音は聞こえづらいから、専用にインターホンとカメラが備え付けてある。
本当は地下室に在宅勤務用の部屋を作ることも考えたのだが、それでは荷物の受け取りなんかもすぐにできないから、1階に華耶の作業部屋はあった。
「うんー?どうしたの、海くん」
「仕事、抜けられないか」
「抜けられないかって……どうしたの?まだ夜には早いよ?」
「……俺が華耶に頼むこと、全部が全部そっちだと思われるのちょっと心外なんだけど」
「ごめんごめん。え?じゃあなんでまた」
「どっか、出かけないか」
華耶は海なりにまだ真昼間であることを考えて、出かけないかという誘いに留めたことを察した。
きっと、夜だったなら、問答無用で押し倒されたりもしただろうけれど、海は何かしら理由があって自分を求めている――華耶は海のどことなく沈んだような、はっきりしない表情を見ながら――
「じゃあ、お昼で仕事抜けるよ。子供たちのこともあるから、5時までには家に戻ってこないとだけどね」
「分かってるよ」
海はそう言うと自室に戻り、軽く身支度を始めた。身支度をした後、部屋のソファで軽く寝転がり、華耶がやってくるのを待った。
お昼、と言ったものの、華耶は11時半には海のもとにやってきた。
「ちょっと早かったんじゃないの」
「デートの誘いでしょ?仕事になんないよ。いつまでたっても、誘われたらときめいちゃう乙女心があるのだよ、あたしには」
日差しは暖かいが、まだ風が強く、時折寒さを感じる3月末の大阪。
華耶はロングスカートをひらひらさせながらも、春物の少し薄手のセットアップに身を包み、海の手を引いた。
「梅田の観覧車あたりにでも行こっか」
「なんで観覧車なんか」
「あそこの観覧車、確かぐるっと一回まわるだけでも15分くらいあるんだよ。観覧車って、この辺じゃ珍しく閉鎖空間じゃん。人目をはばからずイチャイチャできる最高の場所なんだよ、観覧車」
「お前が盛ってるだけじゃないか、そんなの」
「本当は海くんだって盛りたいくせにさ」
「……まぁ、まだこんな真昼間だからね」
「何度も真昼間からあたしを抱いたくせに」
近場へのちょっとした買い物や、デートのときに使う小型のスポーツカー。海が不在の間は時折華耶も海の車を使うらしく、この日は華耶がハンドルを握った。
デートに誘ったのは自分なのだから、自分に運転させて欲しい――と海は言ったのだが、シーズン始まる前に神経を使うようなことなんかしてほしくないから、などと言って、華耶は聞かなかった。
「観覧車見て、食事して、あと何するつもりでいるの」
「あそこはほら、結構攻めたかんじの下着売り場があるからさ」
「……通販なんかで買えばいいだろ、そんなもん」
「そりゃ、通販のほうがたくさんあるのは分かるんだけどさ。海くんにもたまには直接選んで欲しいんだよー。海くんのそういう路線の好みって、分からないからさ。たまには海くんが自分の意思で選んだやつを履きたいんだよー」
「だったら、なおさら通販でいいだろ。人目だってあるのに」
「平日に野球選手が下着売り場に居たことくらい、なんてことないよ。あたしは、海くんに選んで欲しいの。そろそろ買い換えたいなとも思ってたしさ。最近また大きくなった気がして。……あ、別に太ったわけじゃないからね?分かってるよね?何人も子供がいたし、大きい子供も居たから余計にさ。成長期のままなんだよ、あたし。背はちっとも大きくならないくせにさ」
「お前、ハンドル握ってるときにそんな片手であちこち自分の身体指差すなよ。……サイズについてはよく分かったからさ」
「ハリだって全然失ってないし、なんなら全然垂れてきてもないし――」
「青だぞ、信号。なんだよ、やっぱり盛ってるのは華耶のほうじゃないか」
海は早く話題を変えろという意味でも信号を急かした。
「まあ、でもさ。下着だけじゃないよ。服とかもたまにはゆっくり選びたいなって。水着なんかも……。……水着、か」
「どうしたの」
「二人で海なんか、行ったことなかったなって。いろんな水着姿は海くんの前に見せたけどさ。海くんの職業柄、夏に水着で海になんか行くことなんかできないしさ」
「そうだね」
「だから、気持ちだけでも、ってつもりで水着姿は海くんの前でよく見せるようにしてたんだけどさ。引退してからじゃないときっと、二人でゆっくり海なんか見たり、浜辺なんかで追いかけっこしたり、水着でどっか出かけたり、なんかできないんだよなあ、って。……別に早く引退して欲しい、って言ってるわけじゃないからね。海くんが引退するまであたし、水着姿でも恥ずかしくない身体でいようって思ってるだけだから」
「晴留や新とかを海に連れてったりはしたの?」
「何度かね。お母さんたちと一緒に淡路に連れてったこととかもあるし。淡路くらいまで行ったら、そんなにガラの悪い人も居ないから、あたしも子供たちと一緒に泳いだりなんかしたけど」
「そっか」
そっか、と言ってしばらく――海はぽつりと
「……欧州サッカーみたいに、春夏なんかを割けてシーズンやれたら、いいのにな」
なんて呟いた。
「そんなことしたら、北海道や宮城のチームがえらいことになるよ」
「そりゃ、そうだね」
それからしばらく、華耶は次の言葉を言い出せずにいた。海に行ったことがない、という言葉に対して、海なりにいろいろ考えている様子が見て取れたし、少し不用意に自分のことばかり言いすぎてしまったなと思うと、どうにも気まずくて次の話題を切り出せずにいた。
海もまた、なかなか話を切り出さないものだから、痺れを切らした華耶は思い切って息を吸い込んだ。
「……あのさ、海くん」
「ん?」
「有休さ、かなり余ってるんだ。今日みたいに海くん、いつでも声かけてくれていいからね。オフの日でもいいし……オフシーズンの間でもいいからさ。あたしの仕事、別にそんなあたしがいないと回らないくらい忙しいってわけじゃあないからさ、いつでも声かけてよ。やっぱあたし、海くんともっとデートしたい」
「そりゃあ、俺だってそうだよ。夜しか時間がないのは、やっぱりね」
「じゃあなおさらだよ。二人の時間、もっと増やしていこうよ。海くんの気が向いたときでいいからさ。きっと、それどころじゃない時だってあるだろうから」
「……華耶からも声かけてくれよ。俺のこと、もっと振り回していいから」
華耶も、海が今大事な時期だということは分かっている。
海へ託した思いの重さや無責任さに後ろめたさを感じる華耶と、そんな思いに応えきれずに居続けている海――。
華耶の口から海に声をかけるのがはばかられる時だってあるし、それは海にとっても同じことだから、ついつい二人の間には固い絆があるからこその距離感が生まれることもあった。
二人とも、互いにオープンな感情で接しているつもりではいたし、先日の旅行の間だって二人とも気持ちを包み隠すことなく過ごしたつもりだったのだが、それでもいざ日常が始まってみると、どうしてもそれぞれを気遣ってしまい、なかなか素直な感情は吐露しづらくなってしまう。
二人とも、人を愛するには優しすぎるのだ。