海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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94・神をも震わせる流星

3月。移動中の景色からも桜がところどころで咲いていて、自分の中ではまだ春になってほしくないという気持ちすらも薙ぎ切るように、春の浮かれきった世間が次々と車窓から飛び込んできていた。

 

「たまには、野球なんか忘れてお花見でも行きたいですね」

「だったら、野球を辞めたらいい」

「もーう。嫌われますよ、そういうの」

海の隣に座って、やや前のめりになってその景色を覗き込むジェネルを海は鬱陶しそうに跳ね除けた。

 

「野球がサッカーくらい試合の数が少なかったら、海くらいには行けるのかな、って最近思うんだよ」

「珍しいですね、どっか行きたいみたいな話するなんて」

「こないだ、そういえば家族を連れて海に行った事なんてないな、って、華耶と話してて気づいちゃってね」

「華耶さんの実家、長野なんですよね?スキーとか行ったらいいじゃないですか」

「怪我したらどうするんだよ」

「ウィンタースポーツ得意そうな国の出身じゃないですか」

「万が一の話をしてるんだよ」

「万が一、万が一、なんて言ってたら私たちに出来ることなんて本当に野球くらいしかなくなっちゃうじゃないですか。そのうち、呼吸だって、せきこむかも知れないから止めよう、とか言い始めそうですよ、海さんは」

ジェネルの突拍子もない言葉に思わず海はフッと苦笑を浮かべ、言葉に詰まった。

冗談で言っているのかもしれないが、ジェネルのことだ。半分くらいは本当に自分がそう言う姿が見えているのかもしれない。

 

「そこまでは言わないよ、いくら俺でも」

「そうでしょうかねえ」

「でも――とっとと日本一にでもなって、キリのいいところで野球なんか辞めてしまって、後の時間を家族のためにつぎ込むのもありなのかな、って最近思い始めたりするんだよ。……そうは野球の神様とやらが許してくれないんだろうけど」

「だったら、なおさら私が一人前になるまで待ってくださいよ。日本一になるときは、海さんがタイムリー打って、私がホームラン打つか――逆に私がヒットで出塁して、海さんがタイムリー打って決めるとかじゃなきゃ。ファンはそれを望んでるんですよ」

「そんな都合のいい筋書きを野球の神様が許してくれるとは思わないね。望むだけならタダだけど、俺は基本的に神様っていうものを信じてないからね。今まで散々運命というものに振り回されてきたんだ、最後まで俺はその運命とやらに翻弄されるビジョンしか持てない」

「弱気じゃ駄目ですよ。チャンス専用の応援歌でもほら、言ってるじゃないですかー。『神をも震わせる流星を打ち込め、歴史を動かせ佳井海いざ往け』ー、って。海さんは神を越える存在になって、歴史を動かすんですよ」

「応援歌なんて大体どこもそんなもんじゃないか。核弾頭だの、焼き尽くせだの、物騒な応援歌ばかりだ。……虚勢を張れるほどの材料がないんだよ、今の俺には」

「じゃあ、空元気でもいいじゃないですか」

「根拠のない空元気は、あとで虚しくなるものだ」

「えー。私が一緒に居るだけでも十分空元気になれる材料があるじゃないですかー」

「お前が一人前じゃないから空元気にすらなれないんだよ」

「分っかりました。そこまで言うならやって見せましょう。3年です、3年待ってくださいよ」

「……何お前、ロボットアニメの名台詞みたいなこと突然言い出してるの?」

「いや、マジで言ってます。3年もあれば――私、絶対レギュラーなってみせますから」

「そのとき俺がまだ3番打ててると思ってるのかお前?3年後って俺……38……9になるぞ。39って言ったら、今年の清兵衛と同じ歳になるんだぞ」

「大丈夫ですって。3年後もきっと海さんは4割打ってますよ。ってか、打っててください。そのときは私、ろくでもないボール球しか振れなくて対して守備もうまくないうちのチームにいがちなフリースインガーよりかはよっぽど役に立ってみへまふほわふぁひ」

「やめなよ」

海は放っておくとまだ何か煙が立ちそうなことを言いそうなジェネルの頬を横に引っ張り、言葉をさえぎった。

 

「誰のことかは言ってないじゃないですかー」

「そういう問題じゃない」

「海さんだって他に頼れる人が居ないみたいな顔、よくするじゃないですか。それと何が違うんですか」

「声に出すとね、自分でその感情を認めたことになるんだよ。そういう言葉に限って後で自分を苦しめることになるから、俺は言いたくない」

「私は海さんさえ居れば、あとはどうにだってなりますもん」

「お前、自分が30のときまで俺が試合に出続けろとでも言うのか?その頃俺がいくつだと思ってるんだ?」

「40中盤じゃないですか、たった。海さん、35歳でそんだけ動けてるっていうか、これまでになく絶好調を迎えてるなら、10年後だって大して変わってませんよ」

「自分が40になった頃まだプロやってたら、自分でその言葉に呪われても知らないぞ。俺が40のときの成績に、お前が食いついて来れるかどうか含めて」

「……夢くらい見させてくださいよ。誰もが清兵衛さんみたいに突然ガタっと調子崩すなんて、思いたくないんです」

海のひどく現実的な言葉にジェネルは表情を暗くし、うつむいた。清兵衛以外にもある日突然こうして調子を落とし、そして駆け上がった階段から突き飛ばされていくようにして球界を去る者は少なくない。

だからこそ、海も、自分も、そうはならないような日々を送りたい――そんな思いがジェネルにはあったが、海の言葉を全く理解できないわけではない。

 

「じゃあもうちょっと現実を見るべきだね。皆、ある日突然夢から覚めたように調子を崩すもんだ。清兵衛は……清兵衛だけはそうであってほしくないと俺も思っていたけど」

「じゃあ、海さんだって同じです。現実を見てるからこそ、夢、見たいんじゃないですか」

誰だって、いつ自分がどうなるか分からずにプレーしているのだ。降りたくて階段を下りているわけではない。それが分かっているからこそ、ジェネルはなるべく明るく振舞おうとしていた。

それが少しでも自分のために――海のためになるらば――と。

 

「……だから余計に現実の重さをまた思い知るんだよ。だったら人間、夢なんて見ないほうがいい」

海はそう言って、車窓から見える空を睨んだ。無駄に青々と広がった雲ひとつない空が、どこか浮世離れした感じがして憎たらしかった。

 

「でも、それじゃああんまりです」

「そうだね。きっと華耶も、お前と同じことを言う。でも、人の人生なんて所詮そんなもんだよ」

「ですよ。夢ってのは、叶わないかもしれないけど……途方だからこそ尊いんですよ」

「俺もお前みたいにそういう神経で生きられたら、こんな薬に頼らなくてもよかったんだろうけどね」

ポケットから取り出した精神安定剤をちらつかせながら、海は不機嫌そうに再びポケットに薬を突っ込んだ。

発作的に起きる症状ということもあり、海は薬の常備が欠かせなかった。海だってそんなものには頼りたくなかったが、またあんな風に倒れるならば――と、半ばお守りのように持ち続けているものだった。

 

「……そこは、ごめんなさい。少しでも気が紛れたらと思ったんですけど」

「気持ちだけ取っておくよ」

海はジェネルの頭をポンと叩きながら、再び車窓の外をじっと眺め――るのをやめ、帽子を深かぶりした。

 

スタメン、ベンチ入り問わず、開幕戦という地にプロ初年度から立ち続け、今年で18回目の開幕戦を現地で迎えることになった。

 

今年は広島でのビジター戦が開幕戦となるが、敵味方問わずその開幕を楽しみにしている様子が球場を包み、ビジター応援席以上の大きさを感じるほどの応援が試合前から鳴り響いている。

 

「……今年は勝ちをつけたいですね」

去年は0対3で負け投手になってしまった田中が、帽子からはみ出た、伸ばした襟足のパーマをいじりながら、不安そうな表情でグラウンドを見つめた。

帽子を脱ぎ、日に当たるとよりいっそう、オープン戦のメンバーから外れて後に染めたというやや赤みがかったブラウンカラーの髪が照らされて派手だった。

 

正直言ってパーマもカラーも似合ってるかどうかと言われたら微妙なところなのだが、本人なりに意識を変えるためにしたことなのだろうから、海は黙っておいた。

 

「俺がショート守ってるときなんかより、よっぽど守りやすいだろ」

「……シノが……犬塚が居るから勝てる、なんて簡単な思考してませんよ。でも、今年のメンバーなら勝てるかもしれない……そんな気持ちがしています。……投手なんて、そんなもんです。援護を期待できるメンバーかどうか、後ろを任せていいメンバーかどうかをついつい気にしてしまう。……俺なんて、周りのすごい先発と違って、せいぜい2点台中盤がいいくらいの投手のくせに、一丁前にそんなこと考えて投げちゃうことだってあるんですよ。……俺が全部の打者を三振に取れるタイプの投手じゃないから、なおさらです」

田中は力なく笑いながら――

「……期待してますよ。援護」

そう言ってトレーナーと遠投をはじめた田中。

 

その田中は初回からバットの芯を外す投球を次々と続けていた。

田中が言っていた言葉は海にも通じるものがあり、初回、二死走者なしの打席で回ってきた打席、海は無理に一発を狙うのではなく、リラックスしたバッティングでライトオーバーの大きい当たりを放ち、二塁まで足を進めた。

後ろに3割40本は堅いといわれている打者がいるという事実は、海が想像していた以上に精神的な負担が軽くなるものがあった。

後ろに任せるバッティングが出来る自由さ――何も考えずに好きに振っていい、という自由さは海にとって本来のバッティングを取り戻させた。

 

続く打席も、外角の球を無理に引っ張ったり、あるいは流しながら痛打を決める――などという普段の必死さが前のめりになりすぎているようなことを考えず、ボールに逆らわないバッティングを見せ、レフトの手前に鮮やかなヒットを海は放った。

結果的にこの出塁が2点タイムリーを生み、試合は3回表の時点で3対0と田中に随分と楽をさせる展開になった。

 

「帰ってきたな、佳井海はよ」

「帰ってきた?」

7回、ネクストバッターサークルへと向かう準備をするためにベンチの入り口近くでバットをじっと眺めている海を遠くから見つめながら、清兵衛がつぶやいた。

 

「アイツが高校時代、2番を打たされてたのは、前に飛ばすことだけ考えてりゃいい、と言われてたからだ。3番や4番、1番でもそうもいかねェ。1番が打てなかったなら、自分だって打てなくても仕方がない。後ろを任されてる3番、4番に任せりゃいい。1番が塁に出ていたなら、あとは自分が前に飛ばしさえすれば後ろがつないでくれる。それがたまたま大きい当たりになったならそれでいい。アレコレと余計なことを考えず、バットを振ることだけ考えてりゃいい、って思われてたからアイツは2番を任されてたんだと俺ァ思うね」

「でも今、海さんは3番です」

「ああ。この20年近く、アイツはなんとしても塁に出ないといけねェ、ランナーを返さねェといけねェ、という使命感のもと野球をし続けてきた。この何年かの間に随分、勝負強くもなったと思う。アイツなりにいろんな打撃を考えて、考え抜いた先が今のアイツの打撃だ。今のアイツはやっと、高校時代のように、前に飛ばすことだけ考えていればいいバッティングが出来る状況が整ったんだ。それも、アイツなりに成長を遂げてきた経験を上乗せさせてな」

「……」

「お前さん、よく見ておくんだな。アイツの背中を追ってるつもりなら、今のアイツほど追いかけなければいけない背中はねェ。アイツ、今年は多分――世界がアイツに望んだものなんかよりも、ずっと大きなモノになる可能性を秘めてやがる気がする。今日の二つのヒットを見てそう俺ァ思ってる」

「余裕がありますもんね、随分と。今までよりも随分リラックスした表情で打席に立ってますし」

「あぁ。次にアイツを遮るモノがあるとしたら、アイツが経験したことのないようなプレッシャーや責任感くらいだろうな」

 

ジェネルはそれ以上何も言わなかった。

海が今年を境に急降下するとは考えたくなかったし、『キリのいいところで野球なんか辞めてしまいたい』と言っていたその言葉がポっと出てきた言葉なんかではなかったのであれば、きっと優勝しようが、できまいが、この後日本一のチャンスがあろうが、なかろうが――海に残されたあといくらかの時間のうちに――そのとき、自分が海の支えにでもなってやらなければいけないとジェネルは思った。

 

もちろん、海がそんなプレッシャーに負けずにあっさり優勝と日本一を成し遂げてしまうシナリオがそこにあったならば、それに越したことはないだろう。

仮にそんなプレッシャーがあったとしても、そのプレッシャーに打ち勝ち続けてきたのが海なのだから、きっとこれからも海の身体が万全に動く限りは絶対に日本一になるチャンスだってあるだろう。

 

今この瞬間が仮に海の絶対的全盛期になったとしても――ジェネルは絶対に、今の海の背中を追い続け、今の海の打撃を意識し続け、支えてやろうと誓った。

片思いでしかなく、自分が一方的に崇めている天才打者の背中が、ジェネルの胸を焦がす。今までテレビで見ていた海なんかよりも――テレビで見たことのある高校時代の海なんかよりも――もっと、頼りがいのある、そして――絶対的な存在感を放っているそのフォーム。

ネクストバッターサークルに座っていたはずの海は、いつの間にか送りバントによってその打席に足を進めていた。

ジェネルは目を充血させながら、黙って打席でバットを構えた海の姿をじっと見つめていた。

 

二死、ランナー二塁。

俊足のランナーだから、別に一発を狙わずとも、外野の頭さえ越えられればきっとランナーは安全に帰ってくることが出来るはずだ。なんとしてもそれを阻止するかのように、外野も内野も後ろに下がっている。

狙うとするならば、右中間か左中間、ちょうどその大きく幅を取っている守備の間だろう。あるいは、センター返しという手もあるか――。

 

海はその初球、縦のスライダーを見送った。続けて縦のスライダーが内角低めに決まる。今日は続けて同じ変化球を投げる癖があるバッテリーだから、そこは読んでいたのだが――想像以上の落ち方をしたそのボールはバットにかすりもしなかった。

 

少し間合いを取るバッテリー。海もまた、打席から離れてバットを一度素振りし、打席に戻る。

ここで海を打ち取ればチェンジになるとはいえ、後ろには4番打者が控えている。今日はまだ当たってはいないが、自分を歩かせてまで4番と勝負してしっぺ返しを食らうなんてことは、絶対に嫌だろう――。

 

そうなると、変化球がややボール先行になりやすい今日の投球内容を考えると――次は多少甘いコースに入れてでも、ストレートでカウントを取りに来てもおかしくない。

仮にストレートを張っていたとしても、変化球は両方、よく落ちる球だ。よく落ちる球ということは逆に、しっかり見極めて流して打つことだってできないわけではない。

今本当に恐れているのは、ランナーを貯めて4番と勝負しなければいけないことなのだから――。

3球目、投手が放ったボールは、縫い目がしっかりと見えた綺麗なストレートだった。

 

やはりな――。

 

真ん中やや外角寄りの少し低めを狙ったストレート。3球続けて落とすつもりの配球と見せかけ、振らせたかったのかもしれない。実際、このコースにスライダーが投げられていたなら、ボール球を振らせて投手有利のカウントにすることもできただろう。

スライダーだったなら、素直にバットを引っ込めてハーフスイングを取られないように粘っただろうが――あまりに軌道の綺麗過ぎるストレートは、そのまっすぐさが仇となった。

 

すっ、と普段どおりのスイングのつもりで振ったバットは、右中間のややセンター寄りを目指すようにして、白球を叩いていた。

パキン!と痛烈な音を立てて飛んでいく白球。普段どおりに振ったスイングだったはずだったが、その両手にはグリップを通じて、確かな手ごたえがあった。

 

「あっ――」

思わずベンチから立ち上がるジェネル。ライナー性の打球だが、その鋭く、光のような速さで跳ね返っていく流星がどこへ向かっているかジェネルには理解できた。

腕を組んだまま目を閉じ、うなずいている清兵衛とは対照的に、打球の行方を確信したジェネルはベンチの中でただ一人立ち上がり、前に出て行く準備をしていた。

 

同じくして、何かを確信したようにバットを投げ、一塁めがけて走り出す海。

イメージしたのはもう少し弾道の低い、よくてフェンス直撃くらいのライナーだったのだが――その白球はぐんぐんと伸びていき、真っ赤に染まったスコアボード付近の観客席めがけて飛び込んでいった。

 

「……アレが入るのか?今の俺には……?」

 

前に飛びさえすれば――。

それが平凡なフライなんかではなく、弾丸のようなライナーでさえあれば――。

そう思っていた海は、自分でもその打球の勢いと、確かに両手にビリビリと伝わっている感触の大きさに驚きながら、ビジター応援席に向かって人差し指を立ててグラウンドを回った。

 

「ほら見ろ。今のアイツは、アレが入っちまうんだよ」

「それくらいリラックスしてるってことですか」

「アイツが自分ですら気づいてねェほどにな」

「それはそれで問題なんじゃあ」

「考えすぎな奴には、そのくらいがちょうどいい」

立ち尽くしたまま、あんぐりと驚いた表情でその白球の行方をしっかりと追い続けていたジェネルに向かって清兵衛はつぶやいた。

 

ジェネルは間もなくホームへと帰ってくるその憧れ続けている男の不器用な笑みが近づいてくることに、ずっと胸の鼓動を抑えようとしていた。

 

球の流れをいなすような、自然なフォーム。自分が憧れ、理想とし続けたあの打撃が、さらにスケールアップして戻ってきた――。

絶対に自分もすぐに追いついてみせる――そう思いながらジェネルはやや前のめりになりながら海の帰りを待っていたのだが、清兵衛は

 

「出て迎えてやれよ。そういうパフォーマンスくらいしてやれ」

と、ベンチに向かってきた海に対して抱きつくよう指示し――勢いよく飛び出てきたジェネルに対し、海はやはり不機嫌そうにジェネルの頬を引っ張ったのち、頭を小突き、カメラに向かってI love youのハンドサインを決めてみせた。

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