8回表、7対4、一死ランナーなし――。
仮に自分が凡退しても、一発を常に狙う打者が三人並んでいる。当たるかどうかは別としても、これ以上被弾はしたくない――と慎重な投球をしてくるだろう。
3点のリードなんて、今までの経験上セーフティリードとはまだ言えないと思っていた海は、こういった場面こそ自分が塁に出て、投手にプレッシャーをかけ、後ろの打者が追加点をもぎ取ってこの試合を決定付ける――海はそんなヒットをイメージして打席に立った。
前の打席、同じようなことを考えて打席に立ったときは、イメージよりも打球がぐんと伸びていき、バックスクリーンへ鋭い弾道がグラウンドを横切る流星のように突き刺さっていった。
一昨日の試合もそうだった。
自分の中では外野の奥へと飛ぶ、二塁打のような当たりをイメージした打球がぐんと伸びていき、スタンドへと吸い込まれていく――。
高校時代のときのような、自分の力みに関係なく、しっかりと芯でさえ捉えたならば、意思を持ってバットから巣飛び立っていくようにして打球が観客席へと向かっていく――そんな打球が開幕からの三連戦の間、続いていた。
もちろん、全ての打席をホームランに出来るほどの怪力は自分にはそもそも持ち合わせていないと海は自分では思っているし、自分に与えられた役目はとにかく塁に出たランナーを安全に、確実にヒットで進めること――そして、自分もそのヒットで二塁まで進むことだと思っている。
自分が自分で思っているよりも力んでいるのか、たまたまいい調子が続いているだけだろう――海はそのくらいにしか思わず、自分の力を過信しないようにしていた。
――唯一の高みを目指し
羽ばたけ佳井
海の彼方へ――♪
唯一の高み。それが、海にとっての理想だとするならば、その理想は、ありとあらゆるボールを、いっそ弾道などはどうでもいいから、出来る限り鋭い当たりで守備の間を抜き、長打にするというものだ。単にヒットを打つだけではいけない。自分がしっかりと二塁へと進み、ランナーが居たならば安全に、怪我のリスクなくホームへと戻ってくる――あくまでホームランを狙うのではなく、守備が間に合わないところを狙うのだ。
結果的に自分のイメージよりもボールがしっかりとミートされ、ホームランになったならばそれはそれでいいけれど、ホームランの感覚だけに囚われてヒットが欲しい場面でヒットを狙って打てないような打者になることを、相変わらず海は嫌がっていた。
きっと、打率が3割少しでいいならば、40本後半か50本くらいは打てるかもしれない。しかし、4割打っていてなお、自分が打てなかった残りの6割に落としてはならない打席が山ほどあったのだから、それが7割ともなると、試合の勝負どころを一体何打席自分のエゴのために犠牲にすることだろう――。
そう考えると、やはり自分の本懐というものは、出来るだけヒットを量産し、4割前後を打ちながら結果的に30本ほどのホームランを打つほうを選ぶだろうと海は思っていた。これほど開幕からホームランが続いていたにもかかわらず、海のその打撃スタンスに変わりはなかった。
落として悔しいと思った試合が増えれば増えるほど、仮に自分に3割70本打てる能力がもらえたとしても――そんなものはいいからと、5割40本打つ能力を欲するだろうと海は思うようになった。
4割打って届かない試合がこれほど多くあるのだから、5割ですらきっとまだ足りない――海はそう考えてやまなかった。
初球、ゆらり、のらり、ふわり――と不規則に揺れるナックルを海は見送った。左右のコースはど真ん中だが、よく落ち――見極めるのが難しい球だった。今のはストライクではないかと捕手が思わず振り返るが、審判は判定を覆さない。
少し厳しめの判定に対し投手も少し不服そうにしながらマウンドをならしはじめた。
審判によってはストライクをとられてもおかしくないようないいボールだった。仮に今のボールをストライクととられるならば、あれを続けて同じように放り込まれてしまえばだいぶ不利な打席になるだろう。
海は今の判定で投手がムキになってナックルを続けるか――制球には定評のある投手だし、フルタイムナックルボーラーと言われるほどナックルしか投げないような短絡的なピッチングをする投手などではないから、内角低めなんかの際どいコースに直球を投げ、打ち取らせることを選ぶか――どちらで攻めてくるかを少し考えていた。
自分が投手だったならば――縦の変化球の判定の厳しさを嫌がってナックルを続けて投げないだろう。海はそう考えて、再びバットを構えた。
二球目――さすがにナックルと同じフォームでは普通のボールを投げられない。
外角高めに投げられた直球に対して海はワンテンポずらし、レフトの深いところへ打つイメージで振ったが――ゆっくりと山を描くようなナックルのあとの直球という緩急は海の目をもってしてもコンマ単位の世界のテンポを崩されてしまった。
自分でも若干振り遅れてしまった――と思った大きな大きなフライは角度こそ高々と舞い上がったが、レフトのファールゾーンへとあっさりと逸れていき、応援団の構えるビジター席のほうへと吸い込まれていった。
まんまとしてやられたものだ――と海は思った。ナックルを続けて投げてはこないと分かっていたのに、高めの直球にまんまと目を惑わされてしまった――そんな自分が情けなかった。
三球目――高い。海の背が高いこともあり、普通の打者くらいならボール球になってもおかしくないような球に見えるが――低めのボールの判定が少しズレているのだから、こうした高めいっぱいからやや外れたボールを突然ストライクと取られても全くおかしくない。
ホームベースの中央を通過するような、まさにど真ん中。きっと投手としても、振ってくれればラッキー程度に思っていただろうし、この球のあとにナックルを投げるつもりでいたのだろう。一旦、普段よりも速めに見える高めの速球で目を慣らしてからのナックルで空振りをとりたい――そんな意図が見えた。
向こうが賭けに出てきたのであれば、こちらも賭けざるを得ないだろう。
海は高めの球を思い切りかち上げるようなスイングで、そのバットを繰り出した。
外野は定位置。風は――ややライトへ向かって吹いて、追い風でも向かい風でもない。しっかり打ち上がってくれれば、二塁打は堅いだろう――海は確信を持ってバットにボールを乗せ――ぐっと両手首をひねり、バットからボールを押し出した。
パキン!と、しっかりボールを捉えたときの機嫌のいい音がバットから鳴った。ギュン!と勢いよく飛び出した白球は、相変わらずイメージよりも少し高い弾道で、少し太陽が落ち始めた広島の空へ飛び立っていく。
「……マジか?」
一昨日の試合のホームランも、前の打席で打ったバックスクリーン直撃弾もそうだった。外野の頭を越え、よくてもフェンス際くらいのような二塁打をイメージして放った打球が、まるでリプレイでも見ているようにして――再びバックスクリーンへと飛び込んでいった。
球場のフェンスはそれほど高くないから、仮に自分がイメージしていた弾道で放ったとしてもひょっとしたら入っていただろうか――。
1試合2本塁打など、これまでのプロ野球人生において一度もなかった記憶がある。開幕カードから――それも、高校時代のときのように、決して一発を強く狙ったわけでもなかった打球が、そのまま勢いを殺されることなく飛び込んでいく――。
「……お前、帰ってきたのか……?今更……?」
これがプロとアマの世界の違いなのだろうから、きっと、取り戻すことはないだろうと思っていた感覚がそこにはあった。思わず海は自分の両手を見つめ――まるで他人の手のようにして海は語りかけた。
きっと、今だけだ――今だけだ――とも思いながらも、同時に、自分のバッティングというものを遂に取り戻したような――そんな感覚がようやく確信をもって海の胸の中に吸い込まれていったのもまた事実だった。
自分が自分を取り戻すには少し遅すぎた気もするが――と海は自嘲しながら、ゆっくりとホームベースを踏み、やはりきょうもまた抱きついてきたジェネルを軽くいなしてベンチへと戻っていった。
「……」
試合を終え、その日のうちに新幹線で大阪へと戻った海は、この春から海と同じく江坂地区の貸家に引っ越してきたジェネルと共に、田中らを何度も連れてきた洋食屋で夕食にしていた。
デイゲームの後ということもあってなんとか21時前に店に着いたくらいだというのに、ラストオーダー間近だし客も大体出払ってしまったということで、貸切で店を空けてくれていた。
「……正直言ってさ、怖いくらい手ごたえがある」
「いいことじゃないですか」
「良すぎるんだよ。良すぎるってことは、またいつかこの感覚を欲してダメになってしまいそうで」
大阪に戻る頃には少し冷静さを取り戻した海は、また普段どおりひどく現実主義な状態に戻っていた。
「贅沢ですねー、海さんは。私はまだそんな境地にも至ったことないのに」
「でも、俺が今日みたいな打撃を欲して安定性を取ったら――」
「安定性がなくなったら、なくなったときですよ。今から自分がダメになったときのこと考えてたって、仕方ないです。そんなんじゃ、また倒れちゃいますよ、海さん」
田中はその話はしてはいけないのでは――とジェネルを見つめるが、意に介さない様子で、海もまたあまり気にしてない様子だったから田中は口を挟まずにいた。
「そりゃあ、もっともなんだけど。開幕からたった3試合――たった3試合とはいえね、あれだけ調子がよかったんだ。不気味だよ。高校時代みたいなバッティングが帰ってきたんだから、夢でも見てるのかって気になるよ。長い、悪い夢を見てたんだろうね、俺は。高校時代、どんな気持ちでバットを振ってたかなんか、分からなくなってしまったんだよ。ひょっとしたら、高校の頃の俺は、打席で何も考えてなかったのかもしれないけど」
「違いますよ。これまで悪い夢を見てたんじゃなくて、今はいい夢に変わったんですよ。昔のことなんか思い出せなくたって、夢って内容がメチャクチャだから、おかしくありません」
「だからこそね、その夢が終わる時が怖いんだよ、俺は」
海はそう言ってコーヒーを口につけ、腕を組んで黙り込んだ。
きっとこれがあと5年早かったなら、海はなんとも思わなかっただろう。
今、海は清兵衛の衰えというものを間近に見ている。
清兵衛とはせいぜい歳が5つほどしか違わないからこそ、こうして自分の打撃を取り戻した自分というものがかえって、夢の終わりに近づいてしまっていることのあらわれのように感じられて仕方がなかった。
「いい夢見てるときくらい、夢のことだけ考えましょうよ。そんなんだから倒れたんでしょ、海さんは」
「そりゃあ、そうだけどさ」
「本当にかっこよかったんですよ、この開幕3連戦。正直、海さん見ててちょっとムラムラきましたもん」
「お前、そういうのは食事の場ではよせよ」
「しばらく口きくのだってちょっと躊躇いましたもん。もう私、試合どころじゃないくらいムラムラして、もはや厄介オタクみたいな感じになっちゃってましたよ」
「なってましたよ、じゃなくて、今まさになってるんだよ。現在進行形で」
どうせ放っておいても一緒に食事をしたがるだろうと思ったジェネルに自分の口から食事に誘ったのを海は少しばかり後悔した。
「でも――」
「?」
ハンバーグを頬張りながら、ジェネルは海の小言に再び耳を傾け始めた。
「せっかく爆発するなら、甲子園で爆発したかったね」
「ここ数日の活躍をしかも開幕カードからしちゃったら、観客が海さんのフェロモンで失禁しかねないですね」
「お前、飯食いながら使う言葉はもうちょっと選べよ。モテないぞ、そんなんじゃ」
「私は目の前に居る男性にモテさえすればそれでいいですから」
「じゃあその機会は一生訪れないね」
「私は別にそれで十分ですもん」
「俺以外の男には抱かれたいとか思ったりしないのか」
「はいコンプラ違反いただきましたー。海さん、そーゆーの、今あんまりよくないんですよー」
「自分でそういう言葉を使うのはよくて、俺が言うのは駄目なのかよ」
「私は別に海さんが居ればそれでいいですから。厄介オタクっていうのは、そういうものです」
「……お前も早いところ、俺という夢から覚めたほうがいいと思うけどね」
「言いましたよね。夢を見てる間は夢のことだけ考えていたい、って」
「あぁ、そう」
海は興味なさそうに、同じく頼んだハンバーグを頬張りながら、恐らく開幕3連戦で打ったホームランの数に合わせてだろう――おまけでついてきた3つのクリームコロッケを見つめた後店主に軽く会釈をし、大きなクリームコロッケにかじりついた。
「でも、やっぱり物足りないですよね。ベンチからめっちゃ声は出してくれてるんですけど……清兵衛さんがずっとベンチに居るの、やっぱ物足りないです」
「……確かに、俺の前に清兵衛が立ってない、っていうのは……物足りないね。ここ最近の清兵衛よりも犬塚は塁に出てくれてるから、チームにとっては間違いなく今のメンバーがベストなんだろうけどさ。……だからこそ、自分の力不足が今になって辛いんだよ。この感覚を取り戻すのがあと5年、10年早ければ、清兵衛ときっと優勝できたかもしれない、って。だから余計に、今のこの調子が崩れるのが俺は怖い。……次に俺のこの調子が崩れたときは、俺も清兵衛みたいになる時だとなんとなく年齢がそう言ってる気がしてるからね」
「一応、聞きますけど」
「うん?」
ジェネルが箸を止め、海をじっと見つめる。海もまた、箸を止めてジェネルのほうを向く。
「もし……もしですよ。仮に、5年早く海さんが今の感覚を取り戻したとして……清兵衛さんと一緒に日本一なんかになれたとして」
「うん」
「そのとき、海さんは引退しよう、ってなってましたか」
「……」
考えたこともなかった。
5年前、10年前――。それこそ、チーターズに入団してたった一度だけ2位を取ったのが、今から7年前のことだ。
あのシーズンは、自分はまだ2番を打っていた。3番には年間通して珍しく清兵衛が座っていた。
もしあの年、自分が今のような打撃が出来ていて、清兵衛と自分とで得点を稼げていて――万が一、日本一にでもなっていたら――。
「……少なくとも、清兵衛はその後移籍してたかもしれないね」
「海さんのことを聞いてるんですよ」
「俺は……」
思い出そうにも、7年も前のことを思い出そうとすると日々の重さが回想に時間をかける。海は少し考えながら――
「多分さ、琉美と諒斗は、遅かれ早かれ、生まれてたかもしれない。あるいは、そのどっちか。あれは、双子だったから。ただ――柊理はひょっとしたら、生まれてなかったかもしれない。どうだろう――分からない。あの頃は――俺が思うようにいかない日々の数だけ、華耶を抱いたことになるから。もちろん、華耶から求められたことだってあるけどさ。……悪いね、こんな生々しい話で」
ジェネルも田中も海の話に口を挟まず、黙って海を見つめていた。続けていいということだろう。
海は一旦水を口に含み、続けた。
「もし、あの頃俺がうまくいっていたなら――どうだろう、それでも華耶を毎晩のように抱いたかもしれない。でも……子供の数のことを考えるなら、仮に日本一を機に、俺は本当に野球をやめてたかもしれない。華耶はもっと続けるように絶対説得すると思うし、自分が交わした約束はそんなもんじゃない、って言って聞かないと思うけど――俺は、父親としての時間を選んだかもしれない。たぶん、清兵衛だって移籍してただろうから、俺だってそのタイミングでもう一回関東のチームに移籍することを選んでただろうと思うよ。でも、一回優勝しちゃったもんな……ってなった俺が、今みたいな気持ちで野球を続けてる姿が想像できないんだよ。日本一になったってことは、俺の中で、一つの戦いが終わっちゃってるわけだからね」
「……」
海は一瞬田中を見つめた。田中にとってはあまり面白くない話だろうから、申し訳なく思った。それでも、海は思いを吐露することをやめなかった。
「今こうして、野球でしか子供たちに自分の背中を語れなくなってしまったことを考えると――もし全てがうまくいっていたなら、辞めてたかもしれない。長男なんかは、俺が家にいない時間のことを気にして、最近反抗期気味だからね。それが分かってるからなおさら、日本一になったなら、関東のチームに移籍して、それで……どうだろうね。契約期間の間にもし、自分がもう一回戦う理由を見出せなかったら、あっさり引退を選んでたと思う。もし、関東のチームに移籍できなかったなら、なおさら早く辞めてしまって、子供の進学だとか、華耶の実家のことだとか考えて、東京に引っ越すなりしてたかもしれない。でも――分からないよ。俺の人生、もしあそこでうまくいっていたならなんて場面――うまくいったときのIfなんて、全然想像つかない。俺の人生、うまくいったのはせいぜい、華耶と付き合って、結婚して、苗字を捨てたことくらいだよ」
「だとしたら――」
ジェネルは少しだけ申し訳なさそうに、それでも笑顔を浮かべながら――
「私はきっとこれでよかったと思います。仮に全てがうまくいってたら、私は最初から追いかける姿が既に幻になってしまってたわけですから」
「それは、お前側の視点の話だろ。でもさ――あんまりこういうこと言いたくないけど」
「?」
「……俺が今ほど打てるようになったのが5年、10年早かったとしても、多分日本一どころか、優勝だって出来なかったと思うよ、このチームは。俺が黙っても打つなら、きっとフロントは今以上にすすんで補強をしなかっただろうし。お前もちょっとは知ってると思うけど――あの頃の俺たちには……きっと出来ない」
そう言って再び腕を組んだ海に、ジェネルはニッと笑顔を作り――
「リアリストですねー、海さんは」
と茶化してみせた。嫌味なことを嫌味のない笑顔で言うのだから、怒る気にもなれなかった。
「想像したってしょうがないことを想像しても、どうにもならない」
「でも、いいイメージも続けようとしないじゃないですか。そういうカタいところが海さんを苦しめてるんですよ」
「……分かってるよ」
海は唇を噛みながら、テーブルに置かれた水を飲み干した。
きっとこういう自分の性格が今までも――これからも自分を苦しめ続けることくらい、自分でも理解している。
だからこそ、海は先の見えない――それでいて、今だけ、ほんのわずかだけ光明が差し始めたこの状況含めて鬱陶しく思った。