海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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96・横浜の魔物

「……」

「隣、座るぞ」

「……あぁ」

フォークをステーキに突き刺した後で、そのまましばらくずっと黙って口に運ぶのを躊躇っている海。

一体何枚ステーキを食べるつもりか分からないが、清兵衛は皿に何枚もステーキを載せてテーブルを挟んで向かいに座った。

 

「落ち着かねェか」

「落ち着かないね」

「落ち着けそうか」

「落ち着けないね」

「落ち着けと言われたら」

「無理だと思う」

「あー、やっぱりここに居ましたね」

トレーを持って、四人がけのテーブルにジェネルがやってきて、海の隣に座る。

 

「ほっといて欲しそうな顔してるな」

「ほっといて欲しいからね」

「でもほっとくわけにいかないんですよ」

「お節介にもほどがある」

「何と言われようが今日は海さんをほっとくわけにいきませんからね」

「それをお節介だと言ってるんだよ」

海は渋そうな顔をしながら、しばらく食べるのを躊躇っていたステーキを頬張った。

清兵衛は自分の皿に乗った、5枚ほどのステーキのうち2枚をさらに海の皿に取り分けて、食べるよう促した。

「別に大食いしたいわけじゃない」

「肉に失礼な食い方するんじゃねェよ、お前さん。お前の分はどう食っても構わねぇが、俺からの肉は少しくらい丁寧に食えよ。牛だってお前さんに雑に食われるために生きてきたわけじゃねェんだからよ」

「……」

 

海が渋い顔をしているのは、今日の試合で逆転負けを許したからではない。

100点の打撃ではなかったものの、今日は2つの四球を選び、2本のレフト前へのヒットを打ちチャンスを作った。いくら神宮が他と比べて狭い球場とはいえ、狭い割には外野の広い神宮のことだ。一発を無理に狙いに行くより、うまく抜けてくれればチャンスは広がると思ったし、自分の役目はベストではなかったにしろ最低限果たしたつもりだ。

 

自分さえ打てていれば、という気持ちが完全に無かったわけではなかったが、去年までの敗北とは違い――自分の仕事は果たしたし、後ろがそこに続けなかった。相手が一枚上だったから追加点を奪えなかったのだ――そう思えるような試合だった。

もちろん、自分だってこういう試合でこそ一発を狙ってもよかったのかもしれないが、無理に一発を狙ったところで果たして今日の試合をひっくり返すことができたかどうかと言われると、確信が持てない。

 

今年の春先は少し調子を崩しているスカイクロウズだが、そう簡単にチーターズに首位を譲ってくれるとは思えないし、だからこそ、紅潮の続いている自分も一発を狙うべきタイミングはもう少し見定めないといけないのだが――今日に限っては、そのタイミングは自分には無かったと海は素直に思っている。

 

負けて仕方が無かった試合など無いし、取れるものなら全ての試合を取りたいものだが――言い方を変えれば、後ろが打たなかったのだからしょうがない。こういう日もある――。決してその考えもベストだとは思わないのだが、去年までと違ってそうした『ベストは尽くしたが負ける試合だってある』という考えができる精神的な余裕が今年の自分にはある。

だからこそ、今の調子を大事にしたいと海は思っていたし、今までは思わなかった『自分以外の選手にももっと反省すべき部分があるのではないか』という感情が湧き出はじめていた。

 

21試合を終わったところで、打率.438、5本塁打、22打点。

例年、春先よりは夏場に向けて調子を上げてくるタイプの海だったが、今年はいよいよ30本塁打も夢ではないペースに乗せてきていたことに、メディアも黙っていなかった。

なるべくメディアに対して必要以上のコメントはしないように海も心がけていたし、実際、メディアがどれほど自分を期待しようが、打つ打たないを決めるのはメディアではなく自分と相手なのだから、『明日も頑張って打ちます』くらいのコメントしかしようがなかった。

 

しかし、そんなメディアのことよりも海の調子を崩しかねないものが目の前に迫っていた。

神宮でのスカイクロウズとのカードのあと、本拠地の兵庫に戻ることなく明日から続けて行われる横浜でのバトルシップスとの3連戦――。

144試合の中で、いつかは必ず対峙しなければならない横浜でのバトルシップス戦なのだが、海なりに好調を実感している中での横浜入りというものは、それでもやはり躊躇われるものがあった。できることなら、レギュラーの体調不良を原因に清兵衛が臨時でここのところしばらくスタメン入りをしているように、自分も体調不良を原因にこの試合から外れてしまいたい――そう冗談でも口にしたくなるほど、横浜入りという現実から目を背けたかった。

 

「よりによって、バトシが1ゲーム差ですぐ後ろにつけてきてるからなァ」

「ああ。最悪だ」

「だが、俺たちが首位という事実もそこにある」

「負けなければね。……だからこそ嫌なんだよ。俺のせいで状況が動きかねない事態が」

「お前が打てなくたって、今年の俺たちは勝てる勢いがあるだろ。お前が今年、ここまで無安打だった試合で勝った試合くらいあっただろ?確か、何試合か前にほら、スカイクロウズとやったときにあっただろ」

「あれは押し出しのフォアボールがあっただろ」

「なんだっていいんだよ。そんなこたァよ。お前が打つ打たない関係なく、勝つんだよ、俺たちは。今の勢いは、決して偽りのモンなんかじゃねェ。今年の俺たちはイケると――少なくとも俺ァ思ってる。お前さんが遂に目覚めたから、というのもあるがね」

「……」

清兵衛はそう言って豪快にステーキを口いっぱいに頬張り――

「仮にお前さんが打てなくても、俺がタイムリーの一本くらい、打ってやらァな。ガハハ」

と豪快に笑ってみせた。

 

「だといいがね」

と海は悪態をついた。たまたま好調が続いているのは自分だけじゃなくて周囲もであって、そのうち結局自分がまた周囲の倍くらい頑張らないといけない状況がやってくるのではないか――海にはそう思えてならなかった。

 

~~~

 

「……ほらな。結局、こうなるんじゃないか」

4回の守備を終えてスコアボードを一瞬振り返る海。

 

2対5――。たかだか試合の中盤が終わった程度で3点差など、取るに足らないと言ってしまえば、取るに足らないのが今の打線の厚みにはある――というのは確かに事実なのだが、決してバトルシップスが春の陽気に誘われてたまたま好調をキープしているわけではないこともまた、事実だった。

 

球界屈指の俊足とそれを生かした打撃を見せる1番打者、そして、ボールをギリギリまで見極めるいやらしさを持ちながらも積極的に長打を狙ってくる2番打者――。そして、かつて自分とレギュラー争いをしていた同年代の選手は6番に座っており、こちらもいやらしい打撃を積極的に仕掛けてくる。正直なところ、総合的な攻撃力やその攻撃のバリエーションはチーターズの比ではない。

3回、4回の攻撃のように、四球や連打を浴びた途端、その打線のつながりは容赦なく投手を捕まえにくるのだから、次に同じような攻撃を浴びたら今日の試合は間違いなく落とすだろう。

 

そして、そんな試合に限って自分はここまで無安打だ――その事実が海をよりいっそう追い詰めた。

普段どおりを意識しようとしても、力みがどうしても前のめりにやってきてしまう。大きい当たりなんかよりも細かくつないで後ろに託そうとしても、普段できている繊細なバットコントロールにわずかに乱れが生じる――。

凡退し、バットを持ってベンチに戻ってくる海の手は――震えていた。これで普段どおりなど、できているわけが無いのだ。

 

これで自分が守っている三塁を集中的に向こうが狙ってくるわけではないことに海は正直なところ安心したし、パニック障害だ、なんて報道されていたらきっと集中的に相手打者が自分をめがけてヒットを打つことも想像できた以上、情報操作も悪いものではないものだ――などと少しばかり思った。

 

「やっぱ、舞台ってェのは、役者を呼び寄せるね。役者が舞台を呼び寄せるんじゃねェ。舞台が役者を呼び寄せるんだ」

「嫌味か」

先頭打者が塁に出たのでネクストバッターサークルへ向かおうとした海に、清兵衛はニヤニヤしながら声をかけた。

海は清兵衛にしか見えないようにして中指を立て、ベンチから出て行く。

 

打席に立っているのは犬塚だ。長くハリのある黒髪を佇ませながら、落ち着いた様子でバントの姿勢に入っていた。基本的にチームバッティングに徹する犬塚のことだから、ここは素直に送ってくるだろう。

まずは1点――あわよくば、この回同点に追いついておきたい――そういう意図がベンチの中で共有されつつあった。海もそれを分かっているからこそ――まして、ベイスタの高くそそり立った外野フェンスを考えると、無理に大きい当たりを狙うべきではないことはよく分かっていた。

 

制球がなかなか定まらない相手投手。ボールカウントを追い込まれて、甘く入った変化球を犬塚はバントの構えから持ち替え、二塁と遊撃の間をちょうど抜けるような鋭いヒットを放った。一塁で走塁用グローブに交換しながら、海に対して一本、人差し指を立て――手首をひねってその指を空へと向けてみせた。

 

「……おいおい」

無死、ランナー一・二塁――。一発出れば同点、という状況が海の鼓動を不必要に早くさせた。犬塚もまさか自分がこうした感情を抱え込んでいるとは知らないだろうから、海は平常心を保ちながら打席へと向かったが、嫌な冷たい汗が海の首筋を何度も伝ってきた。

 

分かっているのだ。ここで自分が一発、ホームランを打ちさえすればこの試合の流れを変えられる、と。

自分の意思や状況に関わらず、周りがそれを強く望んでいることも。

 

ベンチ――

 

観客――

 

フロント――

 

メディア――

 

まだ試合は5回で、この後どうとでも試合展開なんてものは簡単に動くかもしれないというのに、周りがこの試合――ひいてはこのシーズン、自分と心中しようとしていることが、海の鼓動をまたさらに加速させた。

 

初球のフォークは内側に大きく逸れ、ボールを取られた。海は慌てて足を引っ込めて避けた。これが挨拶代わりの一球なのだとしたら、随分悪い趣味をしているな――思いながら投手を少しだけ睨んだ。

 

正直なところ、足を引っ込めずにぶつかってやって塁に出てしまってもいいのではないかとも思った。4、5、6番と続くチーターズのスラッガーの群れに、今日の試合の見所を全て託して逃げてしまおうかとも思った。

続けて投げてきた球もまた、内側いっぱいに決まったスライダーだった。

 

初球のフォークへの腰の引け方、避け具合を見て、今日はもう内側のボールを打てないとバッテリーは考えているのだろう。2球続けて内側の際どいところを狙ってくるとは思っていなかったから、海は少し虚を突かれた感じになったのだが、こんな挑発的なボールに対して素直にバットを振れない自分が悔しかった。

 

すぐさま続けて同じコースに再びスライダーが投げ込まれる。もうこのコースに投げさえすれば今日の自分は抑えられる――そう確信したのだろう。先ほどの球よりは内側としては少し甘いコースだったが、それを分かっていてなおバットに当てられなかった自分がそこに居た。

 

コースは分かっているのだが、鼓動がタイミングの邪魔をする。

投手の息遣い、ちょっとした肩の動きからの、リリースまでの間の取り方、自分の中の打席でのリズムのとり方――あらゆる全てが、普段よりはるかに早い脈によってずらされる。

 

胸の中で酒に酔った清兵衛がわめいているような、鬱陶しいほどの脈と共に、滝のような汗が海の頬を伝い始める。

今年は後ろに託しても負けない打線だ――頭ではそう理解していても、心が『自分が打たなければ勝てない』と、その理解を拒む。

そして事実、自分が打たなければいけない場面が今こうして目の前にやってきている。

一瞬、ベンチを見てサインを確認する。ベンチも海の症状を分かっているはずなのだが、生駒とヘッドコーチは首を振りながら――海を睨みつけた。

 

『振れ』

 

『三振でもいい、振れ』

 

追い込んだバッテリーは、そんな落ち着かない海を嘲笑うようにしてわざとらしく間をしばらく置き、そして、海が足をとんとんと打席をならすようにしたタイミングで、ようやく4球目を投げてきた。

また内角だ。ぶつけるつもりでいるのか――とも思ったそのボールだが、スライダーを投げるにしては向かってくるコースがあまりに内側すぎる。

 

「三振でいいって言ったな、あんた――」

 

自分が投手だったら、きっとここはボールを落としにかかるだろう。もはや、この男は内側の球に対して逃げ腰になっているのだから――。

 

頭では分かっているそのボールを果たして今の自分が本当に捉えられるかどうか――

ドッ、ドッ……ドッドッドッドッ……!と更に高鳴る鼓動。どうにでもなれ――とガチガチに力んだバットはボールを捉え、乗せた瞬間――

 

「しまっ――」

 

カコン!とバットが身をよじるようにして快音こそ奏でたが、そのバットは両手を離れ、するりとバックネット側へと文字通りぶん投げられていた。

バットの行方を気にして一瞬振り返った海は、キャッチャーがはるか上空を、マスクを外しながら唖然とした表情で見つめていることと、スタジアム中が湧き上がったような歓声を上げたことに自らの打球の行方を察した。

 

一塁コーチが『いいから早く回れ』と言うような表情を浮かべているのを見て現実に引き戻されたような気がした海は、確かに周囲が望んだ同点弾を放ったことには違いはないのだが――こんな打撃をしているようではまだまだいけない――そう思いながら、海は手汗をユニフォームに拭い、首をひねりながらホームへと戻ってこようとしていた。

 

必要以上に力んでいる。

それはまだ今の自分が、この球場でバトルシップスを相手にすることに対して苦手意識を克服できていない何よりの証だ。

 

ホームベースを踏んだ後半ば儀礼気味にやらせられているI love youのハンドサインをカメラに向かって決める海。

行方を失ったバットがベンチや観客席などに飛び込まなくてよかったと思いながら、振り抜いたバットを両手から放してしまうような自分のプロ意識の欠如に海は自己嫌悪に陥った。

 

苦手意識の克服は容易ではないと思いながらも――清兵衛とジェネル、そして、FAで加入してきた騒ぎたがりの今日の先発投手から手厚い祝福を受けながら、海は自らの放った同点弾を素直に喜べないまま、すぐにでも帰って、自らの不甲斐なさや、こんな程度で自分が好調だと持てはやされていることへの申し訳なさに、不貞腐れてしまいたい気分になっていた。

 

「さすが、役者は違うね」

そんな清兵衛の声も、海には届いていなかった。

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