海の彼方で   作:錫樹トシアキ

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97・清兵衛の覚悟

「なァ、佳井海よ。俺ァもう、お払い箱だとよ」

「あぁ?」

試合後、ホテルで夕食をしていたところ、清兵衛はゲラゲラと笑いながら寿司を食べ始めた。

 

「うん。さすがちゃんとしたホテルだ。美味い事ァ美味いんだが、寿司はやっぱ寿司屋だな。そんなこと言ったら、ステーキもステーキ屋で食うもんだがよ。逆になんでこう、ホテルで食うステーキやローストビーフってのは、美味くて粋を感じるものなのかねぇ」

「何なかったことにしようとしてるんだよ。おい。今のはどういうことだ」

「明日、休んでたレギュラーがスタメンに復帰するらしい」

「だったら何なんだよ」

「センターの守備、俺にはもう負担がでかくて任せられねぇらしい。今年は優勝がかかってるから、今の俺の足腰なんかより、攻撃力を取るんだとよ」

「お払い箱も何も、代打に落ちるだけだろ。役目があるだけでもいいじゃないか。直接クビだって言われたわけじゃあるまいし」

声がでかいぞ、と清兵衛が海に向かって人差し指を立てる。声がでかいのはどこのどいつだよ――と海は清兵衛を睨んだが、清兵衛は意に介さない様子でケラケラと笑ってみせた。誰もが二人の会話に興味を示そうとせず、各々が距離を置いて食事をしている様子が、チームの上昇気流とは反比例的で、滑稽だった。

 

「お前さんがまだ干されてて代打だった頃、俺にこう言ったよな。『1打席で結果を残すっていうのは難しいもんだ』って。この歳になってな、よく分かったよ。俺にかかる期待の重さと、もう後がないっていう窮地。そして、それにたった1打席で応えなければいけない難しさ。お前さん、若いうちからあんなプレッシャーの中打席に立ってたんだな。俺ァ、正直代打の1枚目っていうモンをなめていた。お前さんの言うように、3打席に1安打打てばいいもんだと思ってた。そしたら、打率は.333になるからな。だが、代打ってェのは、単に投手交代だけに使われるだけじゃあねェ。1打席で試合の流れを変えるために立つもんだ。俺ァ今年、最初の打席、完全に勝ちパターンに入った状態で打席に立った。いつもこうなら楽だなと思ったよ。同時に、こんな楽な場面でどうしてお前さんは毎打席のようにガチガチなのか、俺ァそのときはまだ、分からなかった」

「……」

「今年最初の、バトシを相手にしたときの試合だったかな。6点差で代打を送られた。8回で6点差なんて本気でひっくり返せると思ってるのかたァ正直、ほんの少しは思ったよ。お前さんが、代打に全部の責任を押し付けすぎだってよく愚痴ってた気持ちが分かった。俺が打とうが打つまいが、6点差ってのは、簡単なもんじゃあねェ。俺だってそのくらいは分かる」

 

他人から見たら現実的ではないことが清兵衛にとってはまだ現実的に思えているから底なしの楽天家に見えているだけで、そんな清兵衛だって、無理なものは無理だと言う。だからこそ、清兵衛が思わず海の前で吐いた言葉は、嘘偽りない言葉に海には聞こえていた。

 

「もちろん、お前さんだってきっと、そんなことは顔に出さないだろう。俺だってそうだ。ただ黙って指をくわえて博打もせずに負けるだけの試合が、世の中一番つまらねェ。何もしないよりは何か策を打ったほういい。少しだけでも勝機がそこにあるなら、その勝機に賭けた方がいい。だがね、俺ァほんの少しだけ、思っちまったんだ。ここで俺が凡退しても、あとアウト4つの間に6点なんてひっくり返せるもんかね、って。3点差だったなら、俺が出塁して、お前さんまで打順を回せば、勝てたかもしれねェ。6点差ってのは、俺とお前さんだけじゃあ、覆せねえことを俺だって理解してるから、俺ァ一瞬、怯んじまった。この試合仮に落としたとしても、そいつァ俺のせいじゃねェだろうが――代打に何を期待してるんだ――なんてな、少しだけ思った。お前さんが代打で苦労してたときはこんな気持ちでベンチに戻ってきたんだな、と思ったよ。そして――俺ァど真ん中の球を俺ァ打ち損じた」

ぐっ、と茶を一気飲みしてグラスを置いた清兵衛。

よほど悔しかったのだろう。ど真ん中だぞ、ど真ん中――と乾いた笑いを独り言と共に繰り返したま、しばらくうつむき、海の顔を見ようとはせず――次に出す言葉をなかなか出せないような様子でいた。

 

「俺ァな、監督があんな顔で俺をベンチで迎えるのをはじめて見た。あの監督、声に出すようなやり方じゃあんまり怒らねェだろ。その監督がな、失望したような顔で俺を見てた。普段の凡退とは、わけが違う。普段、試合を落とすきっかけになりそうなゲッツーなんか打ったときだって、あんな顔をしなかった。その監督がよ、ひどく白けたツラで俺を睨んでるのが、俺の目ン玉に飛び込んできた。どうして俺一人でこの現状をどうにかできると思ったんだお前、って俺ァ思ったね。お前さんが代打だったときの前の監督は、ヒットを打ったとしてもお前さんに怒鳴って文句をつけてたやつだったよな。あの頃お前さんが凡退するたび、どんな気持ちで戻ってきてたのか、俺ァ想像して身震いした。俺ァお前さんにどうしてもっと気楽にプレーできねェのか、シケたツラしてんじゃねェ、と言ってきたが、この歳になって分かった。俺ァずいぶん、お前さんに無茶を言ってきたんだなとよ」

「別に、俺はそんなこと思っちゃいないよ」

海の言葉に清兵衛はフッと鼻で笑い声を鳴らし、寂れた笑みを浮かべた。

 

こんな清兵衛など、海は見たくなかった。老いが人をこうさせるならば、やはり自分と清兵衛はもっと早くに日本一の座にたどり着いて、いい気分で球界を去るべきだったのだ――と海は思った。

清兵衛をこんな気持ちでプレーさせてしまっている――それはきっと、自分の不甲斐なさのせいだ、と海は思って止まなかった。

果てのない戦いの日々が人をこうさせるならば、出会わなければよかったのだ――知らなければよかったのだ――海は自責の念にとらわれながら、清兵衛の言葉を待った。

 

「しばらく、スタメンで使ってもらえてる間はね、楽だったよ。あァ、楽だったね。凡退しても、明日があるからな。飲んで、メシ食って忘れたら、明日が待っている。他に替えが居ねェって分かってるから、今日できなかったことは、明日の糧にすりゃいいんだ、と思える。だが、代打には、明日が必ず来るわけじゃあねェ。そしていつまた、どうしようもねェ場面で――それでも、0.1ミリだけでもあるかもしれねェ勝機のために打席に呼ばれ、そして、お前さんが言うように、4割打てても、落とした6割のことを延々言われる日々と向き合わないといけねェ。こいつァね、俺の身体の痛みなんかより、よっぽど痛いね。俺自身の痛みだけじゃあねェ。これまで心のどこかにあった、お前さんを下に見てた時期の跳ねっ返りと――お前さんがここに至るまでどんな思いで這い上がってきたか、よ~く分かっていたつもりだが、こんな日々をお前さんが、それでも折れずに5年以上も続けてきたことへの畏怖……畏怖ってのはお前さんにはちと難しいか。畏れ多さや恐怖があンだよ」

「別に、俺はそんな……」

海は思わず清兵衛から言われた言葉に戸惑い、謙遜したが、そんな海の言葉を清兵衛は勝手に遮って続けた。

 

「お前さんはお前さんに理解のねェ監督のもとで、明日だって保障されてたわけでもねェ日々の中、自分の意思を貫き続けながら、逃げずに、折れずにやり続けてきた。俺ァその事実と向き合わなければならねぇ。俺ァチーターズに入団してすぐ……プロ1年目の18、19でスタメンに定着もできたし、24の頃には3割半ばを打てるようになってたし、安定して打てるようになるまでも、守備と足でメシを食い続けてきた。誰だって俺を責めたりしなかったし、俺も俺なりに俺のベストを尽くしてきたつもりだったから、挫折というような挫折は俺には無縁の日々だった。お前さんを見てきてからは、俺ァお前さんのことを俺の想像に及ばねェほどのデカい器の男だとは思っていたけどよ、それでも、俺にも俺のプレーには誇りと自信があるし、球界で俺の代わりになる奴なんて、誰もいねェと思ってきた。……お前さんと会ってからは、より一層、俺ァ俺なりにできることはやってきたつもりだった。本当に俺とお前さんとで、このイカれた球団をなんとかしてやると思ってたからな。でもよ、こうして、ちょっとした身体の違和感が続いて、思うようなプレーができなくなってきて、今になって俺ァ突きつけられた気がすンだよ。俺ァ本当はもっとやれたんじゃねぇか、とな。これほど、打席に立って自信が湧き上がらねぇこたァ今までなかった。レギュラーで使ってもらえないなら、俺なんかに期待しねェでとっとと2軍にでも送ってくれとでも思った。……それもこれも、レギュラーを奪い返せねェ俺が悪ィんだがな。お前さんが戦ってきたもののデカさに、俺はビビリ散らかしている。俺ァ一体、何を知ったような口でお前さんにクドクドと説教垂れてきたのかと、ツケを払わされてる気分だ」

 

「……あんたがそんなことを考えて打席に今立ってるなんて思わなかったし、知りたくもなかったね」

弱音が続く清兵衛に、思わず海も嫌味ったらしく――普段の調子に戻れと言わんばかりの言葉を投げつけてしまう。そうでもして少しでも強がっていないと、自分までこの気持ちに飲み込まれてしまいそうだった。

 

「あぁ。俺もそんな日が来るたァ思ってなかった。お前さんが入団してきてからは、お前さんと野球ができてりゃ、それでよかった。お前さんの翼が日本中に広がっていくまで、俺ァ俺で居続けるつもりだった」

「代打になったからって俺と野球ができなくなったわけじゃあないだろ。お前、レギュラー落ちがなんだよ。率を残せないことがなんだよ。そんなひ弱な奴だとは思わなかった。この期に及んであまり失望させるなよ」

「あぁ。お前さんの言うことはもっともだ。違ぇねえ。だが、俺ァ今年がお前さんと一緒に優勝できる最後のチャンスになるだろうと俺ァ思ってる。仮に、優勝できなかったとしても、ポストシーズンがある。今年はもうよほどのことがない限り、ポストシーズンくらいには出られるだろう。なんだっていい。お前さんと日本一の旗を持って――俺ァ俺の野球人生にケリをつけてぇんだよ。いいや――こう言った方がいいか」

「?」

腕を組んでうなった清兵衛を海はじっと見つめた。相変わらず伸ばしっぱなしの髭には未だに慣れないし、ジェネルが言うように、似合ってるとも思えない『三国志で見たことある奴』的な風貌の清兵衛に今になっておかしさを感じていたのだが――

 

「俺ァお前さんにな、野球を続けてきてよかったと思わせてやりたい。お前さんほどの器の人間が、ずっと辛気臭ェ顔で打席に立たれるとな――こいつぁ何のために野球をやってんだ、って思っちまうんだよ。きっとお前さんの中でも、実はよく分かってないんだろ?野球を続ける理由ってモンが」

「……そりゃあ、全くないわけじゃないけど……」

「自信を持って言いづらい何かがあるんだろ」

海は突如攻守が逆転した会話に戸惑いながら、いざ野球を続ける理由というものが華耶の言葉に依存しきっていることに少し言いづらさを覚えていた。

 

「じゃあ、それはそれでいい。お前さんなりの事情があって野球を続けてるってことでいい。どうせ大方、お前さんの奥さんがらみだろ。そりゃあ、あんまり公言したくねぇよな」

「……」

「どいつもこいつも、日本一だ、優勝だ、個人タイトルだ――ンなもんばかりが原動力になってる奴ばっかりだ。お前さんだってその部類だ。それだけならいい。そこに、都合がいいときだけとってつけたようにちょっと都合のいいことを言ってのけたりする奴ばっかりだ。そういう奴ァな、顔や言葉に出るんだよ、そいつの薄っぺらさが。でも、どんな奴にだってきっと一瞬くらいは、野球をやっててよかったと思ってた日々が、あるいは、野球が楽しくて仕方が無かった日々があったはずなんだよ。野球ってのは、最低でも1チーム9人でやるスポーツだからな。きっといつか絶対、どこかを切り取れば、損得関係なしに楽しかった日々ってのがあるはずなんだよ」

「……」

そんな日々なんてあっただろうか――海はふと、自分と野球との日々を振り返ったが、そんな光輝かしいエピソードなんか、何一つ出てこない。

そんなことを先回りしたように、清兵衛は続けた。

 

「でも、お前さんにはびっくりするほどそれが感じられねぇ」

「……」

「おまけに、野球が嫌いだったとも言っていたよな」

「今もだよ」とは海は言わないでおいた。

別に、野球が好きで現役を続けているわけではない。華耶の約束を果たすために固執しているところもあるが、いまさら自分から野球を取り上げたら何も残らない自分というものが嫌で続けているところだってあるからだ。自分の意思で戦っているのは数割くらいで、そもそも自分が日本に来たのだって、野球をするようになった経緯だって、そこに自分の意思が何一つなかったからこそ、海は野球のことを好きだとはやはり思えずにいた。

 

「俺も、親父も――いとこも、皆、うちの家系は野球が好きだ。俺も今はしんどいしんどいとばかり言っているが、だからっ言【つ】ッて、野球が楽しくなくなったわけじゃあねェ。俺が俺で居られるのは、やっぱりこの青い芝の上だけだ。だからこそ俺ァ、その紫色の――ずっと真夜中みてぇな色してやがるお前の目ン玉。その目ン玉を、いっぺんくらい笑わせてやりてぇんだわ。野球やってきてよかったと、"都合よく"勝利をもってしてな。野球やっててよかったとお前さんが思えるためには、もうそれしか無ェだろうからな」

「あんた、酔ってんのか?」

「酔ってるわけねェだろ。本気で言ってンだ。だからこそ――俺ァお前さんの前だから言う――」

 

~~~

 

〈選手の交代をお知らせします――バッターは――大鈴――バッターは――大鈴――背番号――20――〉

 

スタメンだろうが、代打だろうが、清兵衛の名前が呼ばれるとそれが敵地でのビジター応援席からでも大きな声援が鳴り響く。

 

清兵衛はもう限界だ、などとどれほどメディアが騒ぎ立てようとも、清兵衛そのものがどれほど自分に限界を感じていようとも、ファンの信頼は揺るがなかった。

長年培ってきたいやらしいバッティングの技術、そして、今でもひょっとしたらその快足がよみがえって、次の塁を狙ってくれるのではないかという淡い期待――半分が幻想や淡い期待であっても、ファンは清兵衛の出番をひたすらに喜び、期待せずにはいられなかった。

 

 ――闘志をたぎらせて

    ここで決めろ 大博打

     メーター振り切って

      揺らせ長い辮髪――♪

 

 

6回表、無死ランナーなし。前の打者がホームランを打ち、スコアは5対1を刻んでいる。

ここまで5回1失点と好投を続けていた先発を切ってまでここで清兵衛を出したということは、監督はこの点差をセーフティリードだとは思っていないということだし、この回で追加点をもぎとって完全に勝負をつけてしまいたいという思惑があったのだろう。

 

「もっと先発引っ張ると思ったんですけどね」

「こういう試合を落としたくないんだろ。多分、シリーズ戦とかそういう重要な試合をイメージしてるんだと思う」

「シリーズ戦って。まだ6月ですよ」

「でも、ここからよほど調子を落とさない限り、俺たちは今年はAクラスは間違いないだろう。なんなら、優勝だって狙えないわけじゃない。監督、1試合でも落としたくないんだよ、きっと」

口では先発投手を降ろした話をしながらも、ジェネルは清兵衛の独特なルーティンからなる構えをじっと見つめていた。

 

初球。ベンチからではよく分からないが、高さはあまり低くないボールがすっとキャッチャーミットへ吸い込まれそうになる。

振り遅れたか――と誰もが思った瞬間、清兵衛のバットはすばやい動きで三塁手のはるかに頭上を越えていく打球を描いていた。

 

ラインギリギリのところから更に転々と転がっていくボールをレフトがなかなか処理できていない間に清兵衛は悠々自適に二塁へとゆったり進み、わざとらしく大げさなスライディングをしてみせてレフトのビジター席へ向かって大きくポーズをとり、そしてゆっくりとベンチのほうを向いて再びポーズをとってみせた。

 

打率を3割半ばにのせることはもう難しくなったかもしれない。

 

2桁盗塁を安定して記録することだってもう難しいかもしれない。

 

それでも清兵衛にはこうした打撃があるし、塁に出ただけで球場を沸かせるほどのエネルギーがまだ残っている。

そこに清兵衛がこの20年あまりをチーターズ一筋で暮らし続けた、清兵衛なりのスター性というものがあると海は思ったし、こうした『勢いを呼び込む』ということは自分にはできないものだから、やはり清兵衛の存在感というものは、球界――そして球場にとって必要なものであることには変わりは無い、と海は考えていた。

 

「なんだかんだ、まだ39歳ですからね。やっぱ膝とか腰とか素直に治せば、清兵衛さんはまだ5年はやれるはずですよ。なんなら別に肩壊したわけでもないんですから、外野としてはまだまだいけるはずなんですよ。1年くらいゆっくり休めばまたレギュラー堅いですよ。ねぇ、海さん」

「……あぁ」

 

海の肩を揺さぶりながら二塁を指差すジェネル。二塁からそれに気づいた清兵衛がジェネルに向かって格闘ゲームのようなポーズをとっている。

ジェネルは嬉々としながら清兵衛の未だ衰えきらないその打撃技術に素直に感心しながら、自分ならどう打つか――今の捌き方はどうだったのか――とバットを握り締めて確認し始めた。

 

海にはそんなジェネルの言葉は、半分くらい聞こえていなかったし、打順が先頭に戻ったから、このあと次の打者がゲッツーでも打たない限りはこの後自分に打順が回ってくるということすら忘れかけていた。

 

その脳内にはまだ、昨晩の清兵衛の声がこびりついていたからだ。

 

 ――佳井ィ、佳井海よ。いいか、よーく聞け。俺ァ、今年で最後にしようと思ってる――

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