何曲分踊っていたのか、よくは覚えていない。ただこの時間はここねにとって、まるで夢の中にいるような、ふわふわした気持ちにさせてくれるものだった。
掌から伝わる拓海の優しくて力強い感触。肩に添えた方の手からはタキシードの感触と共に彼の熱を感じる。腰に回された腕は優しく、それでいて放さないようにしっかりと自分を捕らえていて、曲に合わせてステップする足は心地のいい音を奏でる。そして何より、自分を見つめるその深い海のような瞳から、視線を外すことができなかったし、外したくなかった。
いくつ目かの曲が終わったところで、2人は足を止めた。周りの人たちからの視線も、自然と沸き起こっていた拍手もどこか遠いことのように感じながら、ようやく周囲を見る余裕ができる。拍手が自分たちに向けてのものであると認識した拓海がここねへと視線を向ける。
「なんか、大事になってるな」
「そう、ですね」
若干戸惑いながらも一応拍手への反応をした方がいいと思った2人はそれぞれ礼をする形で応えた。再度沸いた拍手に対して一度周りを見た拓海が小さく息を吐く。
「結構踊ったな。ここね、休憩しないか?」
「あ、そうですね」
休憩を提案されて初めて体が思ったよりも疲れていることを自覚する。果たしてどのくらい踊り続けていたのだろうか。疲れとともに感じたのは温まっている身体から感じる熱と、喉の渇きだった。
「うしっ。じゃ、飲み物取って窓側に行こうぜ。開けたら流石に寒いけど、近くにいるだけならちょっとは涼しいだろうし」
拓海が腰に回していた腕を放し、最初に入ってきた時のように構える。ここねがさも当然のようにその腕に自身の手を絡めるのを見てから、拓海はダンスフロアから離れるために歩き出した。また道を開けるように参加者が動き、その真ん中を2人が通り抜ける。しばらくはその背中を見送るように視線を向ける人が多い中、音楽団が今度は少し早い、ノリやすい曲を奏ではじめる。楽しい音楽は人々を自然と動かし、気づけば拓海とここねの方を振り返る人はもういなかった。
途中ウェイターがトレイに乗せていたグラスをそれぞれ受け取りながら歩くことしばし。大きめの窓の近くが空いていたため、そちらに向かう2人。窓の外を見ると丁度学校の庭の様子が見える。中央のメイン通路沿いの木々は小さなライトで彩られ、その奥に見えるひときわ大きい気はてっぺんに星形の明かりがつけられており、ひときわクリスマス色が強い。
「綺麗…」
「ああ。去年も遅くなる時はたまに見られたけど、ここから見るのもいいな」
「そうなんですね。私は結局部活に入らなかったので、放課後残ることも少なくて」
「入りたい部活とかないのか?」
「わかりません。でも、みんなと過ごせる時間が楽しいから、それと重なるかもって思うとなかなか」
「それもそうか」
いつも通っている学校だけれども、暗い時だとまた違って見える。煌びやかなプロムの会場とはまた違った美しさがあり、機会があったら近くで見てみたいとここねは思いながらグラスを傾ける。中身はやっぱりシャンメリー。しゅわっとした感覚とふわっとした甘さが渇いた口の中に広がる。
「プロム、実際に来てみてどうだった?」
「私は、すごく楽しかったです。なんだかちょっと大人になれたような気持ちにもなって、みんなとてもキラキラしてて。連れてきてくれて、ありがとうございます」
「そっか。ここねが楽しかったんなら、俺も来てよかったよ。それに貴重な経験もいろいろできたしな」
感想を語り合いながら笑顔を交わす。優しく細められた拓海のその表情は、彼が本当にうれしいと思っているときのものだと今はわかる。
例えば3人がそれぞれの志望校に合格できたと報告した時。
例えば彼が作った料理を美味しそうに食べる人を見ているとき。
例えばかわいい幼馴染が嬉しそうにしているとき。
そんな時に彼が見せる笑顔と同じ、優しくて温かいそれは、踊っているときのようにふわふわした気持ちにここねをさせる。
「あ、そうだ」
「?どうかしましたか?」
拓海は手に持っていたグラスを窓際のふちに置くと、タキシードの内側に手を差し入れる。ごそごそと少し動かした後、彼が抜き出した手の中には水色のラッピングが施された細長い小さな包みがあった。
「ちょっと早いけどな。クリスマスプレゼント」
「え?でも」
「もちろんゆい達のもちゃんと用意してるし、今度のパーティーで渡すぞ。けど、折角クリスマスパーティーっぽい会場に来てるわけだし、いいタイミングかなって。だからみんなよりちょっとだけ早いプレゼントってやつだ。当日まで内緒だぞ」
しーっという動作といたずらっ子のような笑み。それらをしながら拓海はここねへとそのプレゼントを差し出した。ここねも万が一汚すことがないようにグラスを窓際に置き、両手でその包みを受け取った。
「ありがとうございます、拓海先輩。あの、開けてもいいですか?」
「渡した時点でそれはもうここねのだろ。好きなタイミングで開けていいんだよ」
拓海の返しを受けてここねはそっと包み紙を止めるシールをはがし、ゆっくりと、破かないように包み紙を開いた。中に入っていた箱のふたを開けて中身を確認する。
「これ…」
中に入っていたのはシルバーカラーのネックレス。アクセサリーとして青緑色の石が付いている羽の形のチャーム。どこかここねを連想させるそのアクセサリーにそっと彼女が触れる。
「さすがに本物の宝石ってわけにはいかなかったけどな。ここねたちも高校生になったわけだし、こういうのもありかなって。その石、ティールブルーアクアマリンなんだってさ」
「ティールブルー…」
「お店の人にいろいろ聞いてな。ここねって3月生まれだろ?だからその誕生石のアクアマリンにしてもらって。ティールブルーにしたのは鴨の羽色って言われてるって聞いてさ。この青緑の色がここねの瞳の色に似てるし、羽ってついてたから、なんとなく連想してさ」
ポリポリと人差し指で頬をかきながら照れるように視線を逸らす拓海。そんな彼の様子を可愛いと思いつつも、ここねは確かに感じた高揚感と優越感─自分が4人の中で最初にプレゼントをもらったという事実に対する喜び─を受け止めていた。
ダンスパーティーを盛り上げる最高のシーズニング。
物語で欠かしてはいけないスパイス。
きっとこの感情は─
「ありがとうございます、拓海先輩。すごく、嬉しいです」
拓海を見上げて告げられたお礼の言葉は、ここねの心からの嬉しいという気持ちが込められた笑顔とともに彼へと送られた。ゆい達親友に向けるもの、マリちゃん達仲間に向けるもの、両親や家族に向けるもの。そのどれとも違う独特の甘さを含んだその笑顔は、向けられたたった一人の相手を思わず赤面させるほどだった。
─────────────
「そ…そういや、この窓の縁とかも凄い飾りつけだよな…なんの植物だこれ?」
照れ隠しのためか、それとも熱の篭った視線から逃げるためか、真上に視線を向けた拓海の言葉にここねも顔を上げる。窓の縁からぶら下がるように吊るされている細い枝のような植物。小さな白い球状の実のようなものが沢山付いているそれは、ここねには見覚えがあった。
「あ…ヤドリギですね」
「ヤドリギ?…確か他の植物に根を下ろすってやつか?クリスマスとあんまり結びつかないけど…」
「日本だとあまりかもですね。西洋の風習として飾ることが多いみたいです。飾りにも色んな意味があって…」
と、はたとそこでここねの言葉が止まる。何か考え込むようなここねの様子に拓海は首を傾げる。
「ここね?」
「いえ…拓海先輩はヤドリギが飾られている意味は知らないんですよね?」
「ああ、まぁ。そういうのは調べたこと無かったし…」
それはつまり、彼がここまで自分の手を引いてきたのは単なる偶然であることを裏付ける。もちろんここねとしても拓海に指摘されるまでそれに気づいていなかったので意図的では無いことは分かる。
ただそれでも今日この日─
─2人だけの特別な時間、2人だけの特別な服装─
─そんな時にここに、ヤドリギの下にまで来ているなんて、幸運なのかもしれない…
心の中でぽつりと小さく呟く。1つは背中を押してくれた親友への感謝。やっぱりやめることはできないと気付いたこと。もう1つは目の前の人への謝罪。きっと過去最大級の我儘を通すことを。小さく深呼吸をしてから、彼女は意を決して口を開いた。
「拓海先輩…クリスマスにヤドリギを飾る理由、教えましょうか?」
「ん?ここねは知ってるのか…流石に博識だな」
「ええ。でも、ちょっと秘密っぽい理由があるんです。なので、少し屈んで貰えますか?」
そう言いながらここねは内緒話をするかのように手を自身の口元の横に添える。その様子にヤドリギにそんな特別な理由があるのだろうかと疑問符を浮かべながらも、断る理由もなかった拓海は少しだけ身体をかがめて目線がここねと合うようにする。
「これでいいか?」
「ありがとうございます…じゃあ、失礼しますね」
1歩だけ拓海に近づくここね。片方の手は自分に寄せられている耳のそばに添え、顔を少し近づける…もう片方の手を上げてメガホンを作るように一度反対側に添える。こきゅっと小さく喉の音を鳴らしたここねはそっと彩られていた口を開き─
「…ごめんなさい」
「え?」
─拓海の両頬へと滑らすように手をあて、その向きを変える。戸惑う拓海が次に声を発する前に、ふわりとした甘い香りが鼻腔をつき、僅かに開いていた唇に、ここねは自らのものを重ねた。
「んっ…」
「んんっ!?…ふっ」
何が起きているのかを処理しきれない様子の拓海が再起動する前に、当てた唇を少し離してからまた合わせるを繰り返し、時折啄むように、時折軽く吸うように、そして時折そっと唇の表面を舌でなぞるように、彼を味わい尽くす。
彼の口からほのかに感じたのは先程まで飲んでいたシャンメリーの風味、しゅわっとしたサイダーの香り。近づいたために分かる拓海の香り、触れている指先から感じる体温。口付けの合間に聞こえる呼吸音。瞳を閉じながらその感覚を自分に刻み込むように、ここねは口付けを繰り返す。
(この味…思い出した…まるであの時の味…)
拓海が告白されたのを目撃したあの日。それは品田拓海という人物を少し知ることができた時で、初めてブラックペッパーが彼女たちを助けてくれた時でもあった。そしてともえを励ますのを兼ねてみんなで一緒に食べたスイートクリスタル。恋する気持ちは十人十色…あの時感じたしゅわっとした味わい…
(…それが、私の…)
──────────
目の前には瞳を閉じ、長い睫毛まではっきり見える芙羽ここねの美貌。頬にはその白魚のような手が強すぎず、でも放さないように添えられている。鼻をくすぐるのは彼女の香水だろうか、まるでスパイスのように意識を彼女だけに惹きつける香り。どこか甘いように錯覚する柔らかくふわふわとした口への感触が、最後に小さな、でもはっきりと耳に残るリップ音と共にゆっくりと離される。
「こ…こね?」
あまりのことに呆然となってしまったはこの際許されるだろうか、などとしょうもないことを考えても現実逃避にしかならないだろう。
心臓はいつもより多く血液を身体中に巡らせているというのに、頭には回し忘れてしまっているのだろうか。
まるで狐につままれたのか、夢だったのかそんな気さえしてくるものの、これはそのどちらでもない。強いてゆうなら夢のような瞬間としか形容のしようがない。
唇が離れ、三歩ほど下がってからようやくここねが瞳を開く。触れ合っていた唇をそっと指でなぞった彼女の瞳は僅かに潤んでいる。その奥底に普段の彼女からは想像もできない熱が込められている瞳に見つめられ、拓海の奥底にも微かな炎が灯るような感覚が生じる。
熱い─熱い…──熱いっ…
「…ヤドリギ」
「…は?」
小さくここねが呟いた言葉に対して何か返そうにも思考が回らない。口をついたのはたった一文字。
「西洋の風習です…ヤドリギの下にいる男女は…キスすることが許されるんです…」
「は、あ…そういう…ことか」
果たしてその説明のためだけに今の行為は必要だったのか、そんなことを聞くのはきっと野暮というものだ。先程のここねの瞳と、震えるここねの声と、祈るように握られているここねの両手が、それを言外に告げてくれている。
けれどもそれに対して心がまるで2つあるかのようだ。ここで終わらせるように脳が告げているけれども、胸の奥にある炎がまるで推進力となっているかのように前へ踏み出すように告げてくる。心の中の大切な場所にいつもいる少女の笑顔を思い出してみるも…
『拓海~』
『拓海先輩』
今その隣にはもう一つ笑顔が並んでいるのが彼には見えた─見えてしまった。
「拓海先輩…キスすることが…許されちゃうんですよ?」
「っ…そうか…許される、のか…」
「はい…」
ここねのその言葉にどんな意図があるのか、そんなことは聞かずともわかる…わかってしまう。そしてその言葉はとても…とてつもなく甘い密のよう。誘われるかのように拓海の足が一歩踏み出す。
コツンと、決して大きくないはずのその足音はしかし、拓海には周りの声や音楽よりも大きく響く。脳裏に一瞬あの5人での時間がよぎる…それでも…
二歩目。ここねは祈るように手を握り合わせたまま一度伏せた目を拓海と合わせる。綺麗な青緑の瞳の奥には、自分と同じ熱が確かに見えた。頭の中に居続けているあの子からはまだ一度も向けられたことの無いその熱は、確実な焔となって脳裏をも焼き尽くす…
三歩目。すっと伸ばした両の手が、それぞれここねの腰と肩に添えられる。それを受けたここねもまたその手を伸ばし一方は拓海の肩に、もう一方は胸…心臓の位置に添えた。
「…先輩も、同じですか?」
視線を拓海の胸元に向けながらそこに軽く添えた手で、服をそっと握りながらされたここねの問い。同じ…それが指しているものは、その胸の奥に宿ったものだと、確信できる。そして同じ─それはつまりやはりここねの中にもそれが宿っているということ。
「…そうだな…同じだ」
「そうですか…お揃い、ですね」
「お揃い、だな」
ここねの整った顔を改めて正面からまじまじと見る。今日のために化粧をしているここねは、それでもチーク越しに分かるくらいに頬が紅潮している。瞳とお揃いの色のドレスが共に照明を浴びて水面のように揺らめく。
「…ここね…俺は─」
何かを言おうとした拓海の口をここねの人差し指が塞ぐ。止まった拓海を見上げながら、ここねはもう片方の手で自分の口元にも人差し指を合わせ小さく「しーっ」と伝える。
「大丈夫ですよ…許されること、ですから」
そう言って微笑みを見せるここねの指が口から離れ、拓海は小さく息を吐く。
「そうだな…だったらしょうがない、よな」
「はい…しょうがないんです」
くすりと笑うここねに誘われるように、拓海は彼女の肩と腰に回していた腕に軽く力を込めて、ここねを抱き寄せる。抵抗もなく、かといって自分から動くことはしないここねとの距離を自ら縮める。そして2人の距離がゼロになる直前に、拓海は小さく囁いた。
「…メリークリスマス、ここね」
その言葉にティールブルーの瞳が僅かに驚いたように開かれ、瞬きをひとつ。嬉しそうに細められた瞳が潤むのは、光の反射か、それとも彼女の涙か。
考える間もなく、問う間もなく、ここねはその瞳を閉じて、彼へと囁き返す。
「メリークリスマス…拓海先輩」
その囁きを最後に、2人が声を発することはしばらく叶わなかった…