先生と空崎ヒナの結婚生活 作:シャーレの先生
先生は既婚者だと思えば既婚者、既婚者でないと思えば既婚者ではない。
ロマンがある方を選んで読んでください。
スランピアに顕現したミメシス、ゴズを偶然そこに居合わせたイズナ、カヨコ、ユウカ、ワカモ、ヒマリ、フウカの混成チームでなんとか討伐し、キヴォトスに平和な日常が戻って来た。協力してくれた皆が水着だったり和服だったり体操服だったりそれぞれがおのおのにめいめいの格好をしていたのは不思議だったが、何故か揃ってイケイケなグラサンを掛けて登場したのは更に謎だった。思わず花京院が帰ってきたときのポルナレフみたいなリアクションをしてしまった。伝わる? このフィーリング。一番不思議だったのは戦いが終わると皆でトマトを食べ出したところで、私も一袋貰った。試しに齧ってみると甘くて美味しかったので、子ウサギ公園に駐屯しているRabbitチームにも差し入れをした。
いつもの大騒ぎが一段落したところで帰路に着く。思い出すのはシャーレにある私のオフィスに山程積み上がった書類仕事。自然と私は、これは気分のリフレッシュに必要なことだと自分に嘘を吐きながら、大きな森林公園沿いの遊歩道をゆっくりと歩いていた。
普段静かな公園は人通りが多く、広場の方から音楽が聞こえてくる。なにかお祭りか、イベントのようなものをやっているようだ。そこで。
目が合ってしまった。
細かなレースがふんだんにあしらわれた純白のドレス。そこから覗く白い肌は輝くようで、その肌の上を黒髪が夜の川のように流れ落ちていた。
目を離さなければならない。わかってはいるのだが、その命令は脳から神経に到達する前にどこかで迷子になっているようだった。
輝く君は辺りを見渡し、ああ、こちらへ近づいてくる!
目の前に来たかと思えばそのまま腕を掴み、私をどこかへ連れて行く。
公園の林になっているエリア、人気のない場所に辿り着くと、掴まれた腕が離される。
「全く。仕事を邪魔をしよって。シャーレの先生ともあろう者にあのように熱烈に見つめられては目立ってかなわぬ」
目の前に立つウェディングドレスを着た彼女は
、雄大壮麗かつ千古不朽の栄華を誇る歴史深き学園、山海經高級中学校の門主。聡明叡智にして花容月貌を併せ持つ黒君、竜華キサキである。
こんな格好をして向かい合うと妙な気分になってくるので、身体を斜めに構えてキサキの方を見る。キサキは僅かに身体を動かし正面から向き合うように立ち位置を変える。先程彼女から投げかけられた言葉には怒気が含まれていた。だが、これ遊ばれていないか?
「邪魔をしたなら悪かったけど、その、普段とは装いの色味が違うから、そのなんというかね。この人なにをなされておりますのかなーって。あとたぶん私がいなくても目立ってた」
「浮いておったかの?」
「空中楼閣かと思ったよね」
「妾も実はそう思っておった」
キサキは口をへの字にして黙る。少し気まずいが、拗ねているキサキは珍しい。格好も相まって、この世界がソシャゲだとしたらSSRで実装される期間限定の最高レアキャラクターだ。キヴォトス運営さん実装してください。次回のユーザーアンケートに書かなければ。
「あの、お仕事が上手くいっておられないようでしたら、私めでよろしければお話だけでも聞かせていただければ僅かながらでもお力になれることもあるかもしれん。もちろん邪魔をするなというのであればすぐさま退散致しますが……」
キサキは溜息を吐き、「嫌味か?」という視線でこちらを睨め付ける。嫌味じゃないけど今の門主様はあまりにも見るに忍びないと本音を言う訳にもいかない。
「シャーレの先生よ。妾の質問に答えよ。このような格好で違法薬物の取引をする者がいるという情報は得ておるかの?」
違法薬物とは物騒な言葉が出てきた。だがキサキが違法薬物について調べているとすると、目的はすぐに察せられる。
「カイを追った結果、この格好に行き着いたと」
「……。結果ではなく末路、と表現すべきなようじゃな」
いえいえ滅相もございません。正直グッと来たというか、ガツンと殴られたようなというか、こう、沸き立つ想いが抑えられなさそうになるというか、非常にお似合いで素晴らしい。いや、未婚の女性にウェディングドレスを似合ってるとかいうのは失礼かもしれない。口に出していなくて助かった。
「あいわかった。不用意に口を開かぬのは賢者の証じゃが、顔に出ていては意味がない。その正直な気持ちには悪い気はせんがな」
私は素知らぬ顔で先程の違法薬物についての質問に答える。
「えー、取引があったかどうかを正式に答えるならヴァルキューレに調査してもらってからじゃないと出来ないけど、私が知る限りそんな話は聞いたことがないし、そんな子がいたら目立つからすぐにわかる、と思うよ」
赤髪連盟みたいな突飛な陰謀でもない限りそんな不自然なことは起きないと思うが、ときたまそれが起きるのがこのキヴォトスという地だ。
だがキサキは自らそれを否定した。
「そうか。なれば気にせずともよい。この仕事は終いじゃ。だが次の仕事が出来た。着替えてくる故暫し待っておれ」
「待っててもいいけど歩きで来てるから、車出すよ」
「そうか。ではそのように頼む」
そうして去っていくその姿は足元が舗装されていないにも関わらず堂々としたもので、ドレスの裾が土で汚れていることもない。その絵画になりそうな優美な立ち振る舞いを前に私は間抜け面をしていた。キサキが振り返らなかったことと鏡を持っていなかったことに私は感謝をした。
オフィスに帰り、万山磅礴と表現出来そうな書類の束を無視しキーを取ると車で公園へ向かう。しばらく待つとキサキはお馴染みの学生服で、普段よりも多い荷物で現れた。車に乗り込む彼女は普段より少し疲れている気がする。
「どこへ向かいましょうか」
「フラペチーノが飲みたい」
「フラペチーノ」
「最近流行っておると聴いたが?」
「なるほど。それなら考えがあるから一本電話してもいい?」
その流行が果たして最近と言えるかどうかは議論の余地があると思うが、敬愛する門主様、いや少し疲れて糖分とカフェインと脂肪分満載の嗜好飲料を求めている生徒のためなら、フラペチーノの一杯や二杯、喜んで提供しよう。たぶん山海經に行ったときに出してもらっているお茶の方が高価だろうしね。
「お待たせ。問題ないみたい」
電話は一本では済まず、少しキサキを待たせてしまったが、無事段取りを終える。車を転がし、フラペチーノの海に人々を引きずり込む魔物が目印の店舗へ向かうと、知った顔が待っていた。以前スイーツ部のみんなと斯々然々な理由でここでバイトをしなければならなくなったときにお世話になったバイトリーダー、通称コーチだ。
「先生、お久しぶりッス! 店長から鍵を預かって来たッス!」
「コーチ! あのときはお世話になりました! ごめんね急に呼び出されたでしょ? 今度なにか埋め合わせはするから。店長にもそう言っといて」
「先生が賓客を招くためにウチの店舗を借りたいと言ってくださったのは名誉なことである、と店長も言っていました。自分もそう思っています。あと今はもうコーチじゃないですから、普通に呼んでください」
「いや、コーチの熱い指導は私の心でまだ燃えてるからね。店長やコーチたちの店は誰を呼んでも恥ずかしくない立派な店だし、コーチは永遠にコーチだ」
「えへへ。先生にそう言われるのは悪い気はしないッスね。じゃあ19時に片付けと施錠をしにもう一度来るので、先生が帰るときは鍵は例のアレでお願いします」
「片付けまでごめんね。なるべく綺麗にして帰るから」
「糖分とカフェインと脂肪分を求めるお客様がある限り、美味しいコーヒー、くつろぎの空間、特別なひとときを提供するのが自分たちの仕事ッス! いつでも誰でも何人でも、必要な仕事を遂行するッス! それは先生も自分たちも同じはずッス!! ただ適当な仕事すると、片付けのときにわかりますからね先生!!」
「押忍! コーチの熱いお言葉ありがとうございます!! お客様に精一杯ご奉仕させてるいただきます!!」
「よろしい!! 努々その気持ちを忘れるな。では解散!!」
「押忍!!」
試合に臨む高校球児のように深くお辞儀をしてコーチを見送る。
頭を上げると、原付きに乗ったコーチは「なんでいつも最終的にこうなるんだ?」というように首を傾げながら去っていくところだった。私にも何故かわからない。
「随分盛り上がっていたのう」
店舗を貸し切る程の賓客の顔は無闇に知られない方がいいだろうとの判断で、車内で待たされていたキサキに小言を言われた。まぁこれは私が悪い。確かに盛り上がり過ぎだ。
「ごめんごめん。前にちょっと色々あってここでバイトしないといけなかったときにお世話になった人だったから」
「ふむ。よくわからぬが先生が奇想天外な目に遭うのは山海經の外でも同じということじゃな」
「意外と大変なんですシャーレのお仕事って」
キサキを店の中に案内すると、休業日でも微かにコーヒーのいい香りがする。
「でもそのお陰でたまたまお休みだった店舗を借りれました。じゃーん! 貸し切りです。貸し切りなんてキサキにとってはあまり珍しくはないかもだけどね」
「急な頼みだったからの。ここまで気を使わずとも良かったのじゃぞ」
「いやー、こういうカフェって個室とかないんだよね。山海經のこととか、誰が聞いてるかわからないところで聞くわけにはいかないし、キサキがフラペチーノ飲みたいって言ったのは、D.U.の文化を体験してみたいってことだと思ったから。だから人はいないけど店舗で話せればなって。前にバイトしてたから、ちゃんと普通の店員さんと同じように接客出来るよ」
「そうだったか。予想よりも手間取らせてしまったようじゃな」
キサキを席に座らせると、コーヒーを淹れる準備を始める。この作業が余りにも懐かしい。案内した席からこちらを眺めていたキサキだったが、椅子を持ちレジ前まで近づいて来る。
「では席はここで。よいじゃろう?」
「いいよ。本当はここは座るところじゃないけどね」
びっくりするほど身体が手順を覚えており、すぐにフラペチーノが出来上がった。自分用のキャラメルマキアートも作り、温めたスコーンと一緒に提供する。
「先生のお手製が飲めるとは。望外の僥倖じゃな」
キサキはおっかなびっくりカップを持ち、ストローでフラペチーノを吸う。貴重な山海經の門主様のストローでフラペチーノを吸ってるシーン!! これは静かで環境の整ったカフェでした見られない映像だ。何故かちょっと感動。
フラペチーノ初体験を終えたキサキがポツリと呟く。
「フラペチーノは、冷たいのじゃな」
「うん。フラッペ、かき氷みたいなものとカプチーノのかばん語なので、コーヒー、ミルク、クリームなどを氷とともにミキサーにかけて作られています」
「……。……山海經では、お茶は暖かくして飲むのが一般的じゃ」
「うーん、言われてみればそうだったね」
「其方のそれは、湯気が立っておるではないか。名はなんと言うのじゃ」
「はじめまして。キャラメルマキアートって言います。エスプレッソコーヒーと泡立てたミルク、バニラシロップを混ぜ、キャラメルソースを掛けてあります。アツアツです」
「やはり暖かい者は礼儀が正しいのう」
キサキは羨ましそうに他人のキャラメルマキアートを見つめる。
「ところで先生、123でここを見よ、という遊びは知っているかの?」
「知らないなぁ」
キサキが説明を始めると、すぐにピンときた。なるほど。それはあっち向いてホイだ。山海經の中と外で似たような遊びが違う名前で存在している。興味深い。
「ここを見よ」
じゃんけんで負けたので顔を背ける。掛け声が慣れないためタイミングが難しい。それにしても女の子とやるあっち向いてホイ、なんでこんなに気恥ずかしいんだろう。ニヤニヤしてしまいそうにまる。
顔を正面に戻すとドリンクが入れ替わっていた。1回目で仕掛けやがった! 恐ろしく速い交換。完全に見逃しちゃったね。
キサキは身体をテーブルの方へ向け、何事もなかったかのようにキャラメルマキアートを飲む。甘い。が、悪くない、とキサキは口の中で小さく呟いていた。こちらは口に合ったようだ。私もトレードによってやってきたフラペチーノを手に取る。
ストローにはクリームが付着していた。キサキが何も気にしていないことを自分が気にするのもなんだか負けた気になるので、気付いていないフリをする。
いざ口を付けようとすると、なんだか少し緊張する。心拍数が上がっている。これはカフェインのせいだと言い聞かせる。キサキは黙って手元のカップを啜っている。沈黙がちょっと気まずい。
甘さと香りが口いっぱいに広がった。
しばらくして、ポツリとキサキは呟く。
「これはどのように注文すればよいのかの?」
「どう、とは?」
「玄龍門の中でも妾に考えが近く、学園外に興味がある者に命じて学園外の情勢や文化を調査させておる。今回妾がD.U.に赴くにあたり、その結果の報告をさせたのじゃが、この飲み物が流行っておるが注文方法が複雑だと報告されてのう。実際に店に行ったことのある者に説明させたが、その本人もよく理解しておらぬようで、妾を含め説明を受けた誰にも理解が出来なかった」
「なるほど」
キサキ主導の山海經外との交流政策は順調に進んでいるとは言い難いらしい。フラペチーノの注文方法が難しいと大騒ぎしている辺り、逆にここらへんの普通の学生でもたまに見られる光景と同じになっている気もするが、それに気付ける程理解は進んでいないのだろう。
「これはキャラメルマキアートって商品名だからそれを頼んで、サイズを選べば大丈夫だよ。サイズの呼び方がちょっと難しいけどメニューに書いてあるからそれを見ながら言えばいいし。あと好みに合わせてカスタマイズが出来るけど、よくわからなければ何も言わなければ普通に作ってくれるからそれで終わり。
意外と難しくないでしょ?」
メニューを指差しながら説明する。独自の用語が多いだけで複雑なことをしてるわけじゃないんだよね。キサキも納得してくれたようだが、顔色は明るくない。
「そうか。それだけの話だったのだな。だがたったそれだけが、山海經には遠い」
どこか宙を眺めながら、キサキは続けた。
「花嫁衣裳を着て違法薬物を売っておる者がいるという報告も受けた」
「それはどこが出どころの話なんだろう」
「証拠としてこのような写真があった」
キサキは指ハートをしてこちらへ向けてくる。可愛すぎる。ハートがめちゃくちゃ飛んで見える。ウェディングドレス着て指ハートしてた写真があったのか。不味い。中身をキサキで想像してしまった。想像上でも可愛すぎる。いやそうじゃなくて、違法薬物の話だ。指ハートとそれがなんの関係が? キサキの指ハートは人の脳を混乱させるためもうすぐ法規制されるということか? それなら今のうちに脳内に焼き付けて置かなければならない。それとも強烈に焼き付いて離れないから違法なのか。そんな訳はないよな。脳内のコハルがエ駄死警報を発令。いや別にコスプレJKの至近距離からの指ハートは可愛いのジャンルだから。エじゃない。指ハートは健全可愛い! あーわかった。金を出せばクスリ売るぜのジェスチャーだ。親指と人差し指を擦るやつ!
唐突に閃き、指ハートとクスリ売るぜのジェスチャーの類似性を説明する。山海經でもこのジェスチャーは同じなのか。
「……。なんだ。そんな勘違いをしておったのか」
キサキの頭がゆらゆらと揺れる。キサキの様子がおかしい気がする。余りにも彼女らしくない。普段のキサキなら指ハートに悶えてまっした私の隙を逃さず揶揄って来るはずだ。
「惨めなものじゃ。妾の姿は其方の目にはさぞ滑稽に映ったであろう? 笑って良いのじゃぞ」
言葉に棘がある。しかもその棘は、自らの方を向いている。
「妾も、山海經も、外の世界のことを知らなすぎる。先生に連れられて、これまで色々な学校を見た。そして山海經の文化や歴史、国土の豊かさや美しさは比類がないことを知れた。だが他校の人口、経済、軍事力を前にして、我らが山海經の在り方を守るためには、山海經だけを見ていれば良いというわけではないこともわかった。だが、妾は何をすればよいのかわからぬ。妾たちは余りにも何も知らない。いや、玄武商会は知っておったのかもしれぬな。やはり山海經はルミに……」
「キサキ、それは」
キサキの肩に手を伸ばし、触れる寸前。キサキがさっと顔を上げ、暗い瞳で私を見つめる。そのままキサキの身体が傾いていき、崩れ落ちる。伸ばしていた腕でそのまま掬い上げるようにキサキを支える。気を失ったキサキの身体は、恐ろしいほど冷たかった。
キサキの身体を診れるのは山海經のサヤくらいしかいない。幸いシャーレには当番の時にキサキが滞在するための設備が整っている。汗ばむ手でハンドルを握りながら、アロナに現在のキサキの様子とシャーレに連れて行くことを記した内容でサヤ宛のモモトークの送信を頼む。
「先生。注意力が散漫になっています。アイトラッキングのデータから、先生の意識は後方へ向いていることがわかります。竜華キサキさんが心配なのはわかりますが、事故を起こさないように落ち着いてください。もちろん事故が起きないように、私が運転をサポートしていますが」
プラナがいつもの落ち着いた声で、注意をしてくれる。常に一歩引いた目線で、冷静でいてくれるのはプラナのありがたいところだ。私がハンドルを握る手の力を少し抜くと、ハンドルが勝手に少し動く。プラナの運転ならばこのまま手を離していても無事シャーレに到着することが出来るだろう。
心に少し余裕を持てたところで、一方普段とは違う真剣な声色のアロナが報告をしてくれる。
「サヤさんへの連絡を完了しました。これはサヤさんへ送ったキサキさんのバイタルデータから見た私の予想となりますが、現在キサキさんはご病気の症状が強く出ている状態ではありますが、これまでに先生達が遭遇した症状の範囲内であり、緊急の処置が必要な状態ではないと予想されます。もちろん対処は必要ですが、シャーレで備えた香薬で症状の緩和が見込まれると思われます」
「報告ありがとう。色々頼んで悪いけど、キサキの体調のことは山海經でも機密事項だから、人の用意はなしで、医務室から血液検査の簡易キットと着替えとタオル、給湯室から白湯と暖かい麦茶を手配しておいて貰える?」
「わかりました。このスーパーOSアロナちゃんになんでもお任せください!」
普段は少し抜けているようなアロナも、こういうときは頼もしい。アロナとプラナの声を聞いていると、大抵のことは何とかなりそうな元気が出てくる。
指示を出しているうちに車はシャーレに到着する。地下の駐車場に入るとエレベーター付近で車を停めると、運転が完全に自動運転へ切り替わる。駐車をプラナに任せ、私はキサキを背負いエレベーターへ向かう。
エレベーターが来るのを待つ。エレベーターが自室の階まで上がるのを待つ。エレベーターが開くのを待つ。待っている時間がいちいち鬱陶しい。
オフィスに着くと、部屋の前に頼んだ血液検査キットなどがワゴンに乗せられて準備してある。頼んだもの以外にも看病用の諸々が揃えてあった。助かります。だがそれを一旦無視し、ドアノブを撫で生体認証の鍵を開ける。オフィスを突っ切り更に奥の私室の鍵穴に鍵を差し、開ける。
私室のベッドにキサキを寝かせようとすると、いつの間にか意識を取り戻したのかキサキがしがみついてくる。
「キサキ、シャーレに着いたから。ベッドで少し休もう?」
「いやじゃ」
キサキは背負われたまま私の首を舐めてくる。それはなんの気持ちなんだ。まだ意識が朦朧としているのかも知れない。
仕方がないので背負ったまま香薬を準備する。灰を敷いておいた常香盤に線状に抹香を敷き、火を点ける。やり方は前にキサキから教わっているが、慣れないと難しい。サヤに線香にしてもらえないか頼んだ方がいいかもしれない。
そんなことをしているうちに私の首筋をしゃぶっていたキサキが再び眠りについている。キサキを起こさないようにそっとベッドへ降ろし、寝かせる。
一度目を覚ましたということは小康状態であると考えてもいいだろう。とりあえず一安心だが、一応の検査の為とサヤに送るデータは多ければ多いほど良いだろうと考え、簡易キットで血液を採取する。もちろん勝手に血を採ったことは後で謝るつもりだ。
一段落したので、ベッド脇の椅子に腰を掛け、キサキを見守りながらタブレットでモモトークを確認する。サヤがシャーレに向かった方が良いかと言ってきていたが、小康状態に保ち直した為こちらへ来る必要はないと返事を送る。血液を採取したので検査の結果が出たらデータを送るとも。それが終わると、コーチに店舗の片付けが出来ていないことへの謝辞と、店長へ御礼の連絡。先程スランピアでゴズと戦った生徒への御礼の連絡。連邦生徒会に提出するミメシスの顕現とその対処についての報告書も作成しないといけない。
手元のタブレットでは手に負えなくなって来たので、作業を始めるため物音を立てないようにオフィスに戻る。まずは部屋の外に用意してもらったワゴンを部屋の中に入れる。麦茶の入ったポットに触れ、まだ暖かいことを確認する。書類作成はほとんど毎月以上のペースでデカグラマトンやミネシスと戦っている為、慣れたものだ。そうだ。これが終わったら一応D.U.での違法薬物の取引についても調べてみた方がいいかもしれない。
突如絶叫が聞こえた。
「キサキ!」
私は椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、私室の扉を開ける。
「毒が! 溢れて!」
キサキはベッドの上で自らの喉と胸を掻き毟りながら、溺れているかのように手足を振り回している。自傷を止めるために腕を掴むが、振り払われる。仕方がないので馬乗りになり、覆いかぶさるようにしてキサキの身体を守る。キサキの指は私の背中に突き立てられるが、それを無視してキサキの頬に手を当てる。
「ほら。深呼吸して。ゆっくり。大丈夫。大丈夫だから。私の手が暖かいのがわかるでしょ? 暖かいのに集中して、息を吸って」
キサキの瞳の焦点が徐々に合っていき、暴れていたのも収まってくる。私はキサキの意識がこちら側に戻って来るように、額に手を当てたり、首元を手で暖めたり、優しく刺激を与える。
「大丈夫だよ。ほら。ゆっくり息を吸って。……ゆっくり吐いて。よし、上手だね」
キサキの荒い呼吸が段々ゆっくりになっていく。
「よしよし。大丈夫。大丈夫だよ。もう落ち着いた?」
私はゆっくりと身を起こし、離れようとするが、再びキサキの腕に力が籠もる。
「嫌じゃ。離れないで欲しい」
「わかった。でもずっとこのまま覆い被さってる訳にもいかないから、横に行っていい?」
「それなら良い」
私はキサキの横で、添い寝する形に移動する。キサキは私の腕の中に潜り込むように近付いてくる。
「済まぬ」
「大丈夫だよ」
「其方は妾が何に対して謝ったのかわかっているのか?」
「わかんないけど全部大丈夫だから答えは変わんないよ」
「そうか」
キサキは私の胸に顔を埋めてしばらく黙る。
「先生の唇には毒が塗ってある」
うーん、アサシンだと思われてるってこと?
「甘い毒じゃ。妾の経験上、大抵の毒は甘い。其方の言葉。孤独。嘘。恋。それにコーヒー」
「やっぱりコーヒーが原因だったんだ」
「おそらく。山海經にはない飲み物じゃからな」
コーヒーがキサキの体質に合わなかったか、服用していた吸引薬との相性が良くなかったか、具体的にはわからないが、興奮作用などで自律神経に影響があるコーヒーを飲ませるのはもっと慎重になった方が良かった。
「だがそれは其方のせいではない。妾が願って飲んだのじゃ」
キサキは再びしばらく黙り、私の胸に強く顔を擦り付ける。
「最近は悪夢に魘されることも少なくなったが、カイに毒を盛られてしばらくは、その時の夢を見ることが多かった」
カイの毒はキサキの肉体だけではなく心も蝕んだ。これまでの後遺症を残す毒。当たり前の話だ。
「カイに、若返り現象が続けば妾のこの身体も元の状態に戻ったままとなる、と言われたとき、妾は揺らぎはせんかった。あのときの答えに後悔はない。今も同じ答えを返す。
だが、カイの毒は再び妾を蝕んだ。
あれは、余りにも甘い毒だった」
キサキは顔を上げ、私を見つめる。
「若返りの薬、いや刻を逆行する薬。あれなら妾の身体が元の状態だった頃に。いや、妾が門主などではなかった頃に。そんな願いが、妾の心を蝕んでおる」
キサキの瞳に悲痛な色が美しく輝いている。
「先生、一時で良い。ただ一時、妾に全てを忘れさせて欲しい」
キサキは私に顔を近づけてくる。
「そっか」
私はキサキの頬を撫でる。
私はキサキの頭を抱き、胸へ押し当てる。
「私の唇には毒が塗ってある。キサキの言う通りみたいだ。だから、それは駄目だよ。キサキに毒は呑ませられない。
でも、キサキの願いは毒なんかじゃない。自分が苦しくない自分に戻りたいだなんて願いが毒な訳がない。誰もが生きていれば持っている、素朴で純粋な気持ちだよ」
チクリと痛む、心の傷を切開し、言葉を紡ぐ。
「キサキが門主じゃなかった頃があるように、私も、キヴォトスに来る前は、シャーレの先生でもなんでもない、ただの普通の人だったんだよ。
私も、戻りたいという気持ちがないと言えば嘘になる。キサキと一緒だよ。もし戻れると言われても、このキヴォトスを放って帰るわけにはいかないと即答出来る。でも、帰りたいと思わなかったことも一度ない」
声が震えそうになる。深呼吸をして、開いた傷を心の奥へと押し込み、閉じさせる。
「だから、私はキサキが、少なくともここにいる間だけは、門主ではないただのキサキでいられるようにするよ。身体のことも、出来るだけ私も協力する」
私は、タブレットでシャーレのオフィスのセキュリティ設定を弄り、ソリチュードモードにする。
「これで、誰にも邪魔されないモードになった。外で何があっても朝までは誰もここに入れないし、外から連絡も取れない。内部のセンサー類もほとんど停止するから、何をしてるかも外からはわからない。私はたまにこれを使って、昔を懐かしみながら酒を飲んでる」
タブレットもベッドに付けられた棚に立て掛けてしまう。
「外の世界は関係ない。ただの私とただのキサキだ。
立場とか建前とか忘れて、自分の気持ちに素直になっていいんだ。
どうする? 一人になりたければ私はオフィスで酒を掻っ喰らってるけど」
そう聞いてみたが、キサキは私の服をしっかりと握りしめている。
「先生は、先生でなかったとき、どんな人間だったんじゃ?」
キサキはポツリと呟く。
「うーん? 気になる? 何から話せばいいかな?」
話をするなら長くなりそうだからと、ワゴンをベッドの脇に持ってくると、2人分の麦茶を注ぎ、片方をキサキに渡す。麦茶はカフェインレスなため、今のキサキにも悪影響はないはず。キサキはそれをすぐに飲み干すと、おかわりを要求してくる。その様子が無邪気で少し子供っぽい。キサキも、ただのキサキでいる努力をしてくれているのかもしれない。
色々な話を脈絡もなくした。キヴォトスに来るちょっと前のこと。学生の頃のこと。小さな子供だった頃のこと。楽しかったこと。辛かったこと。それに合わせて、キサキも自分のことを話してくれた。似たような経験もあった。私の想像もつかない話もあった。思わず強く抱き締めたくなるほど悲しい話もあった。キサキが私よりも強く怒ってくれた話もした。二人して涙が出るまで笑い転げるバカウケエピソードもあった。
話はいつまでも尽きなかったが、キサキが先にウトウトし始めた。
「先生は暖かい。ずっとずっとこうしていてくれ。不安も恐怖もない、暖かな安寧の中で……」
キサキはそう言って眠りについた。
私はキサキを抱き締めたまま、目を閉じる。私の熱量がキサキへと移り、キサキの身体を内側から癒していくことを願いながら。
PC版:黒き毒杯(R18仕様)(初回封入特典なし)[アダルト]
をハーメルン内に別作品として投稿しています。
約5000文字で翌朝の出来事が書かれています。
だいぶエロな描写の内容です。
興味があれば、周りの人目に付かないように以下URLへ行ってみてください。
https://syosetu.org/novel/357861/