静まり返った路地裏の奥、そこから1人の少女がある大人をただじっと見つめていた。
目深に被ったキャップに口元を隠すマスク、僅かに見える隙間からその双眸だけが真っ直ぐに対象を捉えている。
彼女の視線の先にいるのはゲヘナの風紀委員長を見送り、やがて1人で歩き出そうとしている『先生』と呼ばれた大人の姿。
決して姿は見せずに観察を続け、やがてその大人がどこかへと駆けていく姿を最後まで見送ったサオリはひび割れた携帯を取り出し耳元に当てた。
「....対象の確認を終えた、すぐに合流する」
『わかった、リーダーも気をつけて』
若干ノイズが混じりながらもミサキとの短い通話を終えるとサオリは迷うことなくその場から立ち去っていく。
その足はまるで周りの華やかなトリニティの街並みから離れたがるように早かった。
やがてサオリは人気のない裏道を抜け少し離れた廃墟の影に待機していた3人の少女──ミサキ、ヒヨリ、アツコ達と合流を果たすと、すぐさまカタコンベを目指して歩き始める。
「こっちは特に問題無し...一瞬、ヒヨリがアイツらの持ってた魚....に反応しかけたくらい」
「うっ、す、すみません....!あんなに大きくて美味しそうな食べ物だったのでつい...」
歩きながらミサキが呆れたような声でサオリに報告し、それにヒヨリが顔を青ざめさせながら謝罪する。
「いや、特に目立った問題は無かったならそれでいい...姫は大丈夫だったか?」
サオリの問いかけにガスマスクを被ったアツコは声を発することなく、スッスッと滑らかなハンドサインで『大丈夫』と示した。
3人の無事を確認したサオリは自身でも気づかないほどほんの少しだけ目元を和らげるが、すぐに表情を引き締めた。
「それで、マダムが言ってた例のあの人はどうだった?」
ひとしきりお互いの報告と確認をし終えた後、ミサキが核心を突くようにサオリに尋ねた。
今回の彼女たちの行動目的はマダムであるベアトリーチェから観察対象として指定されていた噂の大人、“先生”の監視と情報収集だった。
だが今回のこの偵察任務はマダムから直接指示された訳ではなく、サオリ達が自ら自発的に行動したものだった。
当然許可は取っていない...しかしあのマダムであれば自分達の小手先の動きなどとっくに把握している筈、それで何の咎めもないのであれば黙認されているということであり問題はないと踏んでの行動だった。
サオリは先程までの監視で得た印象を思い返す様に答えていく。
「....正直に言えば普通だ。確かにあれだけの生徒をまとめて戦況をコントロールする指揮能力はある、だがそれだけだ。大した戦闘力もなければ脅威となるような特別な力も見受けられない、警戒する必要すら無い」
「じゃ、じゃあどうしてすぐに捕まえないんでしょうか...私たちで奇襲すれば簡単に...」
「さあ、彼女が"まだだ"って言ってるなら私達はそれに従うだけでしょ」
ミサキは吐き捨てるように言いながらひび割れたアスファルトを軽く蹴った。
Vanitas vanitatum, et omnia vanitas── 全ては虚しい。どこまで行こうとも、全てはただ虚しいものだ。
命令に疑問を持つことすら今の彼女達にとっては意味のないことだった。
「...ミサキの言う通りだ、私達は従うだけでいい。今は与えられた使命を果たす、それだけだ」
サオリはそう言うとまるで自分自身に言い聞かせるようにカタコンベへと続く下り坂への足を早めた。
その時だった
トン、と不意に、サオリの肩が軽く叩かれた。
「どうした姫、何か...」
立ち止まり振り返ったサオリに向けて、アツコは両手を使って静かにハンドサインを紡ぎ出す。
暗がりの中でもその指先の動きが示す意味をサオリは正確に読み取った。
『あの子はどうだった?』
「....」
その意味にサオリは思わず口をつぐんだ。
──あの子。
脳裏に浮かび上がったのは同じアリウスの同胞にして、今はトリニティの生徒として過ごしている白髪の少女アズサの姿。
あの大人の指揮の下、戦車に掴まり躊躇なく敵の荷台へと飛び込んでいったアズサ。
かつては自分達と同じ、暗く地獄のような訓練に耐えただ虚しさだけを教え込まれてきたはずの彼女が...先程は光の溢れる世界で他の生徒達と背中を預け合って戦っていた。
その顔つきは確かに見覚えのあるものだったが、同時にアリウスにいた頃のような絶望の色の他にも必死さやどこか生きるための意志のようなものが宿っているように見えた....見えてしまった。
自分達と同じ何も持たない空っぽだったはずの彼女を思い浮かべ....サオリは胸の奥で、正体のわからないどす黒い感情とほんのわずかな痛みが渦巻いたのを感じた。
だがそれを表情に出すことなど許されるはずもない。
「...どうもしない、与えられた場所で問題無く任務をこなしているだけだ」
サオリは無機質な声でそう言い切ると、再び3人に背を向けて歩き出した。
語るべきことはもう何もない、不思議と先程よりも足早となっていることに気づかないままサオリは進んでいく。
残されたミサキ、ヒヨリ、アツコもサオリの背中から何かを感じ取ったのか、誰もそれ以上は何も言わず無言のまま彼女についていく。
光の届かない場所へ、冷たい憎悪と使命だけが支配する場所へ。
そうして4人の影はトリニティの眩しさに背を向け、深い闇の中へと音もなく消えていったのだった。