第2次特別学力試験の翌日の昼下がり。
トリニティの合宿所の一室で、その日ヒフミは落ち着かない様子で何度も窓の外へと視線を向けていた。
「ヒフミ、ハナコは?」
静まり返った部屋の中でアズサが彼女にぽつりと尋ねるとヒフミは振り返りながら口を開いた。
「はい、まだ連絡がつかなくて....」
ヒフミは眉を八の字に下げ、不安そうな面持ちで手の中の端末を見つめる。
そこに表示されているのはハナコへと送ったモモトークのメッセージ履歴....
『ハナコちゃん、今どこにいるんですか?』
数時間前から送った文にはまだ既読の文字すらついていない。
ハナコがいなくなった──それにヒフミ達が気づいたのは今朝のことだった。
朝、目が覚めた時には既にハナコの姿は無かった。
彼女のベッドは綺麗に整頓されたままで、私物などもほとんど残されたままで放置されていた。
胸騒ぎを覚えたヒフミ達は慌てて合宿所の外へと探しに出たが、周囲はおろか学園の敷地をどれほど歩き回っても彼女の手がかりは一切見つからない。
結局それから昼過ぎの今に至るまで彼女からの連絡は完全に途絶えたままだったのだ。
「全く何やってるのよハナコは!こんなんじゃ勉強に全然集中できないじゃない....」
耐えかねたようにコハルが机を叩いて声を上げる、だがその瞳は不安そうに揺れており、強がりきれない動揺がその表情の端々から滲み出ていた。
「先生もどうしてか連絡が取れませんし...何か、大変なことでもあったんじゃ」
当然先生へ連絡も送ってはいたが、何故かその連絡にも返信はなく不安だけが大きく募っていく。
ヒフミはせめて無事でいて欲しいと両手で携帯を強く握りしめぎゅっと目を瞑る。
──その時だった。
ポロン♪
静まり返った教室に突然電子通知音が不意に鳴り響く、音の発生源はヒフミが握りしめていた携帯からだった。
「ヒフミ、誰から!?」
「は、はい!今確認して...!」
ヒフミは震える指先で慌ててモモトークを開く、
しかし画面に表示されたメッセージの送信者とそこに並んでいた文字列を目にした瞬間、ヒフミの両目はこれ以上ないほど大きく見開かれた。
「えっ....ええええええっ!?」
「ちょ、ちょっといきなり大声出してどうしたのよ!」
「ヒフミ、誰からの連絡だったんだ?」
「えっと、その...先生からの連絡だったんですけど...」
ヒフミは何とも言えない表情を浮かべながらおずおずと2人の前に画面を差し出した──
───トリニティ学園の敷地から遠く離れた郊外の一角。
人通りのまばらな場所の片隅に置かれたベンチに、ハナコはぽつんと一人で座っていた。
「....」
そんな彼女の顔は暗く、いつもヒフミ達の前で見せていた笑みは完全に消え去り冷ややかな“無”が張り付いている。
だがそんな平穏を装う外見とは裏腹に、彼女の胸の内には濁流のような感情が渦巻いていた。
自分の勝手な都合で真剣に合格を目指していたヒフミ達を巻き込んでしまったことへの深い後悔。
これでようやく周囲の息苦しさと打算に満ちた空間から解放されるのだという安堵と期待。
本当にこんなやり方で終わらせてしまっていいのだろうかという拭いきれない疑念。
そしてこれしか道がなかったのだと必死に自分を納得させようとする自己正当化。
...ハナコは周囲の人間が抱く感情や思考の機微を察知する力があまりにも高すぎた。
相手が自分に何を求めているのか、どんな打算を抱いて近づいてきているのか、どう言葉を返せばその場を最も無難に切り抜けられるのか──それらを意識せずとも自然と“見えて”しまう。
見たくないと目を背けようとしても、その鋭敏すぎる感性を鈍らせることなどできなかった。
だからこそ彼女は他の生徒なら見落として過ごせるような、人の心の暗がりや醜い部分まで否応なく直視し続けてきた。
トリニティの中で渦巻く派閥争い、清廉な仮面の裏に隠された私利私欲、時には笑顔の影に潜む冷酷な悪意。
それらを把握してしまうたびに彼女の心は削られていった。
毎日を過ごせば過ごすほど、期待という名の見えない重圧は膨れ上がり彼女の退路を塞いでいく。
誰にも本音を吐き出せず、理解もされず、その無形の圧力によって彼女の心はとっくに摩耗しきっていた。
そんな日々の果てに放り込まれた補習授業部での時間は、彼女にとって奇跡のように穏やかなものだった。
誰も自分を特別な目で値踏みしてこない、裏の意図を汲み取ろうと探ってくることもない。
不器用ながらも真っ直ぐに自分を受け止めてくれる仲間と静かに見守ってくれる大人...それはハナコがずっと渇望していた居場所に違いなかった。
──しかし彼女はあまりにも長く、疑心暗鬼の冷たい世界に浸かりすぎていた。
仲間達と他愛もない話で笑い合っている最中でさえ、ふとした拍子に相手の心の裏を読もうとしてしまう。
ヒフミの優しい気遣いやコハルの素直な感情、アズサの真意を疑ってしまう。
やめようと強く自分を戒めても、染み付いた思考の癖は無意識の領域で勝手に進んでしまうのだ。
そんな自分に気づくたび、ハナコは耐えがたいほどの自己嫌悪に苛まれた。
こんな自分があの純粋な彼女達の輪の中に居続けていいはずがない....だからこそ、最終的に彼女は自らその居場所を壊す道を選んだ。
テストで不合格になり、自分という存在が学園から排除されればもう誰も自分に過度な期待を寄せることはなくなる。
誰とも深く関わることも、誰の心を読む必要もなくなる。
きっと今頃合宿所に残された3人は自分に対して怒り、失望しているだろう。
裏切り者として蔑まれ罵倒されても文句は言えない、それだけのことを自分はしたのだから。
(....でも、これでもうすぐ全部...)
その時だった。
「ハナコ」
聞き覚えのある声が遠くから耳に届く。
ハナコは小さく息を呑み弾かれたように顔を上げると、そこに立っていたのは柔らかな笑みを浮かべた1人の大人だった。
「...先生」
先生はそれ以上何も言わずにゆっくりとした足取りで近づいてくると、ハナコの隣のスペースへと静かに腰を下ろした。
特に咎める言葉も...なぜ逃げ出したのかという問いかけもなくただ並んで座る無言の時間が流れていく。
その沈黙に耐えかねたのはハナコの方だった。
「...どうしたんですか?先生がこの時間にこんな所にいるなんて♪もしかしてサボっている最中でしょうか?」
ハナコは瞬時に仮面を張り直し、いつものからかうような笑顔を作って見せた。
「サボりか...確かにそうかもしれないね、最近はずっと働きっぱなしだったから」
そんな問いかけに先生はのんびりと空を見上げながら呟いた。
「先生の場合、最近どころではない気もしますけれど」
「あはは、それもそっか」
屈託のない笑い声を漏らす先生の横顔をハナコは密かに観察する。
彼女の内心の困惑は深まるばかりだった、先生はおそらく自分を探し出し無理矢理にでも合宿所へ連れ戻しに来たはずだ。
それなのに怒ることも理由を問いただすこともしてこない、目の前の大人が何を考えているのかがまるで読み解くことができなかった。
「...もしかして、私に会いに来ようと思ってわざわざこちらまで探しに来てくださったんですか♪」
ハナコはさらに一歩踏み込み、試すように甘い声音で問いかける。
「うん、ハナコに会いたかったんだ」
「それは嬉しいですね♡でも良いんですか先生?こんな白昼堂々、サボって生徒と大人が二人きりだなんて....見る人が見ればいかがわしい関係だと誤解されてしまいますよ♡」
ハナコは動揺を押し殺しさらに際どい言葉を重ねて距離を取ろうとした。
これ以上踏み込ませてはならないと警鐘を鳴らしている、そんな彼女の言葉を受け先生はゆっくりと視線を空から下ろすとハナコの瞳を真正面から見つめ返した。
数秒にわたる静かな視線の交差。
その瞳の奥にある何かに耐えきれず、ハナコが視線を逸らそうとした──まさにその瞬間だった。
「ハナコ」
「...はい?何でしょうか♪」
「今からデートしようか」
「.........え?」
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「は?な、何よこれぇ!?」
コハルがヒフミの差し出す携帯の画面を指差しながら、顔を真っ赤にして叫んでいる。
「ハナコは見つかったのか、良かった」
アズサは特に気にすることなくハナコの無事が確認できたことに小さく安堵の息を吐いていた。
「見つかったのは本当に良かったんですけど...これは、私達はどう受け止めれば良いんでしょうか...?」
『今からハナコとデートをしてくるね、心配しないで』