深緑の魔女   作:紅椿_

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第2話:魔眼の少年

 9と4分の3番線_それは、ハリポタファンにとってとても馴染み深く、ホグワーツに並んで死ぬまでに1度は訪れてみたい場所である。

 そんな聖域と言っても過言ではない場所に、カトレアは家族と共に立っていた。

 マクゴナガルの説明の通り、キングスクロス駅の9番線と10番線の間の柱を駆け抜け、魔法の世界に足を踏み入れる。

 カトレア達を迎え入れるのは、黒と赤が基調のホグワーツ特急。

 カートにトランクとアンバーと名付けたシロフクロウの入った鳥籠を乗せてゆったりと進む。

 カトレアはひとまず汽車の一部屋に荷物を置いて再び駅のホームへ戻る。

 先程9と3分の4番線を駆け抜ける時はあれほど怖がっていたリリーはホグワーツ特急に夢中でキョロキョロと辺りを見渡しているが、それに対してペチュニアは不安そうにカトレアの手を握っている。

 

「お姉ちゃん、絶対にお手紙書いてね。待ってるから」

「もちろんよ、チュニー。アンバーを向かわせるから返事は持たせてちょうだい」

 

 鳥籠の中のアンバーが心得たとでも言うようにホーと鳴く。

 泣いたばかりでまだ少し赤い目の下を指の背でそっと撫でる。

 抱きついてきたペチュニアを受け止めると、顔を押し当てられた肩の当たりがじんわりと濡れていくのが分かる。

 

「私もギュッてするわ!」

 

 いつの間にか戻ってきていたリリーがペチュニアの背中に飛びつき、腕をめいいっぱい伸ばしてカトレアに抱きつく。

 無理やり抱きしめられたペチュニアが苦しいと文句を言おうとするが、リリーの目に光るものを見つけ何も言わず再び肩に顔を埋める。

 リリーもペチュニアに倣い、両肩が湿る。

 ぎゅうぎゅうとおしくらまんじゅうでもしているのかと思うほど抱きしめ合う姉妹を両親は笑って写真に収めた。

 

「うわぁ──ん!! 寂しいよぉ!!」

 

 とうとうリリーが声を上げて泣き出し、ペチュニアはうるさいとばかりにポカリと妹の頭を叩いた。

 

「泣かないで、私の可愛い妹たち」

 

 時間は発車時刻にだんだんのと近づき、駅のホームには人が集まり始めていた。

 混雑している駅のホームで抱き合って泣いている集団はそれはもう目立っていた。

 カトレアとしては自慢の妹達を恥ずかしく思うことこそないが、妹_特にペチュニア_はきっと羞恥で死んでしまうだろう。

 

「ほら、もうすぐ時間よ」

「カトレアを離してやりなさい」

 

 もう一度強く抱き締めて離してやれば、母が右手でリリーと、左手でペチュニアと手を繋ぐ。

 

「ホリデーには帰って来てね、お姉ちゃん」

「お手紙待ってるわ。約束よ」

「リリー、チュニー、2人とも仲良くね。愛してるわ」

「行ってらっしゃい、カトレア」

「お前は僕たちの自慢の娘だよ。自信をもって頑張りなさい」

「お父さん、お母さん、愛してるわ」

 

「それじゃあ、行ってきます」

 

 一人一人にハグをして、カトレアは列車に向かって歩き出す。

 その姿が人混みに紛れて家族の視界から消えた頃、前を歩いていた黒色のオシャレなコートを着た男性の頭に乗っていた帽子がまるで風に乗ったように浮き上がり、カトレアに向かって飛んでくる。

 咄嗟に胸の前で帽子を捕まえたカトレアは、振り返った男性とバッチリ目が合った。

 海のような青に、黄色、オレンジが混ざったアースアイと呼ばれる瞳に、自身の顔が映っているのが見えた。

 男性は穏やかな紳士といった風貌で、その美貌は多くの人が見惚れる程だった。

 

「おや、すまないね。綺麗なお嬢さん」

 

 緩やかな雰囲気でカトレアに礼を言った男性は帽子を受け取ると、「少し失礼」と言いながらカトレアの髪に手を伸ばす。

 まるで彼の手を避けるかのようにふんわりとした風が吹き、カトレアの髪が舞う。

 

「こら、シルフ」

「シルフ…」

 

 男性の言った言葉にカトレアはドキンと胸が鳴るのを感じた。

 シルフとは、四大精霊のうち、風を司る精霊である。

 前世でもこの手の話は多くあったが、『ハリー・ポッター』の中で精霊が登場することはなかった。

 しかし、カトレアがダイアゴン横丁のフローリシュ・アンド・ブロッツ書店で買った本では精霊について触れられている記述があった。

 その本によると、精霊は精霊ノ王によって産み出された四大精霊_サラマンダー、ウンディーネ、シルフ、ノーム_並びに数多くの小精霊が存在しているらしい。

 しかし精霊を見ることができる者は限られており、精霊ノ王に愛された“魔眼”もちにしか見ることができない。

 そして、魔眼を持つのは代々聖28一族の内、フォーリー家を継ぐことを精霊ノ王に認められた者だけである。

 先程も述べたように、本来の『ハリー・ポッター』では精霊については全く触れられていなかった。

 それがただ単に出す必要がないと判断されて書かれなかったのか、カトレアというイレギュラーがいることによって産み出された存在なのかは確かめようがない。

 ただ、わかっていることは、今カトレアの前に立つ初老の男性は聖28一族のひとつ、原作では全く、名前すら出ることがなかったフォーリー家の人間であるということだ。

 

「フォーリー家の方だったのですね」

「おや、お嬢さんは随分と博識なようだね。まさかこれだけの言葉だけで私が何者かがわかってしまうだなんて驚きだよ」

 

 男性が目を細めて柔らかくカトレアに笑いかける。

 彼はカトレアがマグル生まれだと言うことに気付いている。

 純血は世界が狭い。

 大抵の家は親戚同士であるし、そうでなくても純血という繋がりは彼らにとっては強く切ってはならないものだから。

 

「私、マグルの生まれでして、この世界のことはなんでも初めて触れることですの。それが楽しくて仕方ないのです。それにたまたま読んだ書物に書かれていた内容を覚えていただけですわ」

 

 軽く口角をあげて、余所行きの笑顔を浮かべるカトレア

 始まったかと思われた小さくて強烈な戦いは、当事者たちの上品な笑い声で幕を閉じた。

 

「ふふっ 私はルーカス・フォーリー。君の想像通り、聖28一族フォーリー家の当主さ」

「私はカトレア・エバンズと申します。以後お見知り置きを、Mr.フォーリー」

 

 とても穏やかに話しているように見えるが、実はカトレアは内心冷汗をかいている。

 純血というのは実に面倒極まりないもので、ハリーポッターをこよなく愛していたカトレア(椿)にとってヴォルデモートに繋がっていると言っても過言ではない死喰い人(デスイーター)と並んで関わりたくない人たちだった。

 だが、ここで関わってしまった以上仕方の無い事だ。

 少なくともこのルーカス・フォーリーという人は大勢の前でマグルを侮蔑するような人種でもないようだし、できるだけ自分の印象を良くしておくに越したことはない。

 何より世界にたった2人しかいない魔眼もちの人の話を聞いてみたいというのが本心である。

 

「君は随分と精霊に好かれているみたいだね。シルフが態々イタズラを仕掛けに行くなんて初めて見たよ」

「精霊に好かれている...ですか」

 

 精霊というのは、人の本質を見抜くことができると言われている。

 優しい人、頭がいい人、魔力が多い人など、精霊は傍にいて心地よい人の近くに集まる。

 

「そう、君のそばで気持ちよさそうにのんびりしている精霊が僕の魔眼に映っているんだ」

「それは...「父様」

 

 話の途中で割り込んできたのは、ルーカスとよく似た顔立ちの、驚くほどハンサムな少年。

 彼もルーカスと同じように見事なアースアイだった。

 肩につくほどの長さの白銀の髪がサラリと揺れる。

 その美貌はピクリとも動かない表情も相まってビスクドールのようだった。

 

「アシェル。どうかしたのかい?」

「どうかしたのかい、ではないでしょう。もう汽車に乗らないとそちらの方が席を取られて座れなくなってしまいますよ」

 

 カトレアの深緑の瞳とアシェルと呼ばれた少年の瞳が交わる。

 もう席を取っているから急いではいないことを告げようとしたが、その瞳に惹かれて言葉が出てくることはなかった。

 

「おお、そうかい。すまないね。では、また会えることを願っているよ、カトレア嬢。シルフ、行くぞ」

 

 サッとコートを翻して去っていくルーカスを残念に思いながら見送り、カトレアはアシェルに会釈して汽車に乗り込む。

 

 

 ⚡︎ ⚡︎ ⚡︎

 

 

 暫くして笛の音が鳴り、ホグワーツ特急がゆっくりと動き出す。

 最後尾に近いコパートメントだからなのか、それともトランクで席をとっていたからなのか、コパートメントにはカトレアしかいなかった。

 ハリー達のように素敵な出会いを期待していなかった訳では無いが、1人でゆっくり好きな本を読むのをいいだろうとカトレアは思っていた。

 本を開いたまま過ぎ去る外の景色を眺めていた時、ノックの音が響いた。

 扉の向こうにいるのは随分礼儀正しい人らしい。

「どうぞ」と告げればコパートメントの扉が開き、白銀の髪にアースアイの瞳をもつ少年が顔を覗かせた。

 先程、駅のホームで話していたルーカス・フォーリーにアシェルと呼ばれていた少年だった。

 

「あら、あなたさっきの」

「おや、君はさっきの」

 

 2人の声がピッタリと揃った。

 アシェルは既にローブに身を包んでいて、色の着いていない真っ黒のローブに白銀の髪が良く映えていた。

 カトレアはほんの僅かに顎を引いて不自然にならない程度にアシェルを見据えた。

 

「先程は父が失礼したね、僕はアシェル・フォーリー。以後お見知りおきを」

 

 アシェルは左手を胸に当ててお辞儀をした。

 その動作はブラックと並んで魔法界の王族と呼ばれるのに納得の優雅さで、その容姿も相まって真っ黒のローブを着ていなければ何処ぞの王族とでも間違えそうだ。

 

「カトレア・エバンズよ」

 

 カトレアも席を立ってベージュのスカートの裾をちょこんと摘んでカーテシーをする。

 ほんの少しだけ目を見開いたアシェルに、その能面のような顔をほんの少しでも崩せたことに少々気分を良くしながら、カトレアは微笑んだ。

 

「すまないが、少し匿ってくれないか。面倒な奴に追われているんだ」

 

 チラリと騒がしい廊下を見やったアシェルの表情は変わらないが、どうにも辟易したようにカトレアを見た。

 女子生徒か、それとも純血の方々だろうか。

 何方にしても面倒なことに変わりは無い。

 

「あら、もちろんオーケーよ。良かったらお喋りしましょう、Mr.フォーリー」

「ありがとう。助かるよ」

 

 コパートメントに足を踏み入れたアシェルはサッと扉を閉め、扉窓のカーテンを下げた。

 

「Mr.なんてつけなくていいよ。君がいいなら是非アシェルと気軽に呼んでくれ」

 

 その言葉はするりと何にもつっかえることなくアシェルの口から飛び出した。

 こんなこと、言うのは生まれて初めてだった。

 アシェルは生まれた時から純血という貴族に囲まれ、魔法界という政治に巻き込まれていた。

 それはフォーリーという血筋(ブランド)であり、歴代最高の魔眼の持ち主だという希少性(ブランド)があったから。

 純血(貴族)たちはこぞってアシェルの機嫌を伺った。

 ある者はその力の恩恵にあやかろうとし、ある者はその力を自分のために使わせようとし、そしてある者はその(遺伝子)を求めた。

 誰も彼もがアシェルをフォーリーの一員としてしか見ず、誰も彼もアシェルを魔眼の持ち主としてしか扱わなかった。

 でも、彼女は違うと思った。

 彼女は己がフォーリー(聖28一族)だと気付いている。

 彼女は己が魔眼の持ち主だと気付いている。

 マグルと純血の確執も知っていることだろう。

 それでも、彼女は己をフォーリーでも魔眼の持ち主とでも扱わず、純血でもなく、ただのアシェルとして接しようとしてくれている。

 彼女には純血主義たちや(遺伝子)を求める女どものような欲がなかった。

 彼女は賢く、清い人間だった。

 それは間違いなく彼女の周りを飛ぶ精霊と、己の眼が証明していた。

 その姿を駅のホームで見てから、擦り切れた心の穴が塞がるような心地だった。

 彼女こそが、己の求めていた人だと信じてしまったのだ。

 

「ならアシェルと呼ばせてもらうわ。私のこともカトレアと呼んでちょうだい」

 

 カトレアは内心酷く驚きながらも、外面には微塵も出さずゆったりと微笑んだ。

 アシェルはきっとルーカスと同じタイプだ。

 本心はその心の奥底に沈ませ、表情の変わることの無い顔は人に考えを悟らせない。

 彼がマグルを、純血を、どう思っているかは分からない。

 口ではなんとでも言える。

 それでも、彼を信じてみたいと思ってしまった。

 彼のほんのりと染まった耳を見てしまったから。

 

 カトレアは懐から取り出した杖を一振りし、改良した人避け呪文をかける。

 これで許可した人間以外はマグルだろうと魔法使いだろうとこのコンパートメントに気づくことは無い。

 カトレアの杖の動きを追っていたアシェルは、ハッとしたようにその瞳を見た。

 カトレアの深緑の瞳の奥底にはキラキラと火花が散っているかのような輝きがあった。

 それは、まるでアシェルの知る、この世で最も美しいもの(精霊の輝き)と酷似していた。

 

「今の魔法は…君が創ったのか」

「そうよ。マグル避けを改良したの」

 

 カトレア・エバンズは正真正銘の天才だった。

 元々頭が良く、己の魔力を制御する理性も持っていた。

 しかし、彼女は決してそれだけではなかった。

 マクゴナガルと共にホグズミードに行った彼女は買った教科書を読破し、何度も何度も読み込んだ。

 家族を傷つけないようにと魔力制御に力を入れていたカトレアにとって魔力を意のままに操るのは自分の体を動かすのと同じくらい簡単な事だった。

 魔法は想像力(イマジネーション)というが、想像力(イマジネーション)だけでは決して成り立たない。

 1度想像力(イマジネーション)で成功したとして、次に成功する保証は無い。

 何故ならばイメージが変わってしまえば魔法も変わり、イメージ出来なければ魔法は発動しないから。

 その点、理論は決して変わることがない。

 カトレアは魔法の理論を導き出し、そして新たな自分の望む魔法のための理論を創ることの出来る人間だった。

 

「…マグルだけではなくて魔法使いも避けるのか。それから少しだけ錯乱呪文も混じっているね」

 

 魔眼とは、精霊を見るために存在している訳では無い。

 その眼は精霊を映し、その世界への扉を開き、魔力を見る。

 魔力は見る者によって形を変える。

 アシェルは糸だった。

 魔力が弱ければ糸は細く、強ければ太くなる。

 魔力が澄んでいれば光沢があり、濁っていれば糸も濁る。

 魔法を練れば糸が織られて布になる。

 魔法によって布の織り方や模様が変わった。

 カトレアの太く澄んだ糸で練られた布は、小さなほつれも穴もなく、模様も美しかった。

 

「大正解よ。私の許可がある人以外はこのコンパートメントに気付くこともない」

「美しい魔法だ」

「ありがとう」

 

 自分たちは間違いなく良い友になれる。

 2人はそう確信していた。

 純血がなんだ、聖28一族がなんだ。

 マグルだから? エバンズなんて聞いたことがない? 

 だから何だと言うのだ。

 アシェルとカトレアはただのちょっと魔法が使えるだけの人間で、対等な友だった。

 

 

 ⚡︎ ⚡︎ ⚡︎

 

 

 コンパートメントの外では純血達が忙しなくアシェルを探しているようだった。

 列車内を走り回り、大声で名前を呼び、許可もなくコンパートメントを覗き込む。

 

「恥ずかしい奴らだな」

 

 アシェルは窓の外を見ることなく吐き捨てた。

 その瞳は凍えるほどに冷たく、侮蔑が浮かんでいた。

 

「あんな者たちと血が繋がっているだなんて考えたくもない」

 

 純血は、どれもこれも血が繋がっている。

 近親相姦を何百年も繰り返し、そうして純血を保っている。

 従兄弟同士での結婚ですら当たり前の世界なのだ。

 

「あそこは肩がこるんだ。純血純血って自分の血筋を自慢したり、マグルがどうとか他人を貶して何が楽しいのか。…だから逃げてきたんだ」

 

 アシェルだって初めは純血連中が集まる先頭のコンパートメントにいた。

 ブラックやマルフォイなどの聖28一族に囲まれ、自分たちが1番偉いとでも言うような会話に巻き込まれる。

 もう慣れてしまった。

 慣れてしまったけれど、こうはなりたくないと心の奥底で彼らの存在を嫌悪する。

 それでも、アシェルは純血(フォーリー)を捨てることはできない。

 我らは精霊との繋ぎ役であり、唯一の理解者でなければならない。

 

「…ごめん、君にとって気持ちいい話じゃないね」

「私はマグル生まれだから本で読んだことしかないけれど、マグル生まれと純血主義の人達の諍いは少しなら知っているわ。まだ貴方と貴方のお父様以外の方と会ってすらいないけれど、私は最初に会った純血の人が貴方たちで良かったと心から思うわ」

 

 それから2人は語り合った。

 魔法のこと、魔眼や精霊のこと、ホグワーツのこと、生まれや家族のことを。

 2人で教科書やアシェルの魔術書を覗き込んで鼻を突合せて討論し、アシェルは進んで魔眼や精霊のことについて話した。

 これからの7年間に思いを馳せ、両親や兄弟のことについて語った。

 

 到着まで残り10分のアナウンスが流れ、ハッとしたように2人は顔を上げた。

 信じられないほど集中して話し込んでいた。

 2人は顔を見合わせると、我慢できずに笑いだした。

 カトレアは顔を背けてクスクスと笑っていたが、その一方アシェルは口元に手を当てて俯いて肩を震わせていた。

 が、「ハ、ハハハッ」と声が聞こえたかと思えばゲホゲホゴホッと咳き込みだす。

 

「だ、大丈夫!?」

 

 慌ててカトレアが背を摩ると、アシェルは顔を上げてカトレアの顔をジッと見つめた。

 アシェルの口角は僅かに上がっていて、その目には涙が溜まっていた。

 

「はは、楽しいな」

 

 アースアイが細まると、その拍子に溜まっていた涙が頬に流れた。

 頬を伝った水滴は顎へと到達し、そうしてポタリと床に落ちた。

 カトレアは息をすることも忘れてその光景を呆然と見つめていた。

 

「_レア、カトレア!」

「、あ」

「一体どうしたんだい? 急にボーっとして…」

「いえ、少し驚いたのよ」

 

 既にアシェルの口角は横一線に戻り、瞳も濡れていなかった。

 その様子になんだか残念な気持ちになりながらも、どこか安心する。

 

「確かに僕が笑うことは滅多に無いけど_「学生の皆様にご連絡致します。当列車は残り5分、5分でホグワーツ魔法魔術学校最寄りの駅に到着致します。生徒の皆様はローブに着替えて到着をお待ちください。トランクなどの荷物はそのままコパートメントに置いたままでお願いします」

 

「君、まだローブに着替えていないじゃないか」

「そうね、急いで着替えるから後ろを向いていて頂戴」

「な、僕はコンパートメントを出るよ」

 

 サッと身を翻してコンパートメントを出ようとノブを掴んだアシェルの手をカトレアが上から押さえる。

 アシェルの手はほんのりと暖かく、反対にカトレアの手は陶器のように冷たかった。

 突然冷たい手が触れたからか、アシェルの肩が震える。

 

「君、何を」

「シッ、耳をすませて」

 

 そう大きくはない声だった。

 落ち着いたテノールの声と、慌てたようなアルトの声が近付いている。

 

「それで、アシェルはまだ見つからないのか」

「ええ、恐らく何処かのコンパートメントに魔法をかけているのでしょう」

「そうだろうな。まあ良いだろう、どうせホグワーツで会うことになるのだから」

 

 聞こえてきた声にグッと押し黙る。

 落ち着いたテノールの声はアシェルにとってよく知る人物のものだ。

 聖28一族のマルフォイ家、その次期当主_ルシウス・マルフォイ。

 スリザリンの5年生で、今年度から監督生にも選ばれている。

 彼は利己的な人間だ。

 表では純血主義を貫いているが、それが魔法界で強大な力を持つが故にそう振舞っているだけのこと。

 魔法界の根底が揺るがされるような事が起きたならば、彼は真っ先に家族を連れて新たな強者へと移動するだろう。

 しかし、そうだったとしても、彼が今純血主義であることに変わりはない。

 今出れば彼らに見つかってしまう。

 自分1人ならばいいが、今は1人ではない。

 くだらない思想にカトレアを巻き込みたくはなかった。

 

「…このまま後ろを向いているから、早く着替えてくれ」

「ええ、もちろんよ」

 

「急に手を掴んでごめんなさい」と囁いて手を離したカトレアに、アシェルはひとつ頷いた。

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