あなたは、あなたの意志でその使命を受け入れたのですか?
覚者…そう、あなたは覚者でしたね。
《VSサイクロプス》
トレボ鉱山の最盛期の時代には多くの牛車が往来していたが、今はろくな整備もされず山中では日夜問わず魔物が我が物顔で人間を襲っている。特にトレボに続く街道に出没するゴブリン族は人間の武器に対して執念深い性格の持ち主だった。ナワバリを巡回していたゴブリンたちが見たのは、普段襲う人間よりもずっとピカピカ輝いた剣や盾を提げた男だ。おまけにもう一人の年寄りは真新しい装備を抱えている。茂みに身を潜めた斥候のゴブリンが仲間へ合図する為に角笛を吹こうとした。
「マスター、やはりゴブリンでした」
そのゴブリンは眉間に矢を受けていた。角笛が転がっており、仲間に合図する役割の個体のようだった。アレクセイが足で死体を転がす。爪先で死体を漁ったがすぐに興味を無くしたように溜め息をついた。
「金目のものはねえか」
「このゴブリンは周囲の偵察に出されている個体でしょう」
「とりあえずここまで進んできたが、大した奴らはいねえな。ケチなこそ泥とゴブリンくらいだ」
「もう少し進むと大きな川があります。リザードマンの襲撃情報が多発している地点です」
リザードマンと聞いてアレクセイは「うへぇ」と思った。メルヴェを出た後に襲撃されたことがアレクセイにとって奇妙なトラウマになっていた。最早負ける気はしないが、気分の問題である。そしてよく思い返せばピロピロ動く鰓や鰭、ギョロッとした目玉やぬめりを帯びた鱗など、気味の悪い特徴が多い。アレクセイは今になって「爬虫類型」を好きになれなかった。
何でだ?似たような奴に心臓を取られたから?
ゴブリンの死体を見つめたまま、すっかり黙り込んで俯くアレクセイにハンは心配して覗き込む。
「マスター、大丈夫ですか?」
「あ?あ、ああ、なんとも無い…なんかよ、手応えがなさ過ぎて拍子抜けしてたんだ」
そう誤魔化す。ハンは返答に困ったような顔をした。
「あまり褒められたものではないですね。慢心は身を滅ぼしますよ、アリョーシャ様」
当たり前だが真面目に叱られる。ハンはポーンとはいえ、戦徒としての経験が豊富で長い以上、様々な人間の不本意な最期を看取ってきたのだろう。アレクセイはその場を誤魔化す為だったとはいえ居た堪れなくなり素直に謝った。
「そうだな、悪かった」
「いえ」
進んでいくと沢が現れ始める。山が近くなっているのだろう。所々無人の荒れ果てた家屋があった。壁も屋根も崩れて住むことは出来ないが、かつて鉱山労働者が都へ鉱石を運ぶ際の休憩などに使われていたのだろう。物色すれば様々な痕跡があった。
「ハン、見ろよこの採掘記録、とんでもねえ種類の鉱石が書かれてる」
「本当ですね」
「ロドリグおじさんも言ってたよな、昔は凄かったってよ」
「ええ」
「でもよ、こんなに沢山の鉄鉱石があんのにヴェルムントにはデケェ規模の製鉄炉もねえよな。こんなに沢山、どうしてたんだ?」
「確かに」
アレクセイは今にも風化して崩れてしまいそうな採掘記録の本をそっと元の場所に戻す。
「この国の歴史とかはマジどうだっていいんだけど、なんつーか…時々違和感がある」
「違和感ですか?」
「ああ、上手く言えないんだが…」
アレクセイの言葉を遮るように、何か巨大なもの吼え声が轟く。アレクセイとハンは直ぐ様戦闘体勢に入って家屋を出た。木々を薙ぎ倒す音が森中に木霊する。ハンはアレクセイの動向を確認しつつ高所へ登った。
「マスター!サイクロプスです!」
それは神話にも登場する神々の名前であり一つ目の巨体の姿だが、アレクセイが見たものは“神々”とは程遠い所謂“単眼の怪物”であった。大木が細い木にも感じる巨体からは想像を絶するパワーを誇るが、反面鈍重で知能はあまり無い。アレクセイはそのサイクロプスが何かを手にしているのを見た。人型らしきものが伺える。サイクロプスはまさにそれを食べようとしていた。
「ハン!奴の右手を射て!」
アレクセイの指示にハンはすぐに従った。高威力で引き絞った矢は真っ直ぐにサイクロプスの右手首の関節を射る。サイクロプスは痛みと驚きで手にしていたものを落とした。すぐ下で待機していたアレクセイは降ってきたものを受け止めた。
「なんだコイツ?」
獣人の娘だった。獣人は見た目だけでは年齢など分からない。着ている物と膨らんだ胸で辛うじてそれが“女性”であることが分かった。アレクセイは獣人の娘を抱えてサイクロプスから一度身を引く。その様子を見たハンが高所から降りてアレクセイと合流する。
「マスター、どうしましたか?」
「サイクロプスが昼飯にしようとしてたみたいでよ」
「とりあえずあの木の洞に隠しましょうか」
木の洞に獣人の娘を寝かせていると、サイクロプスがせっかくのごちそうが無くなった事に怒り狂って暴れていた。
「怒ってますね」
「そりゃな」
サイクロプスはアレクセイとハンを見ると姿勢を低くして吼えた。ナワバリへ侵入された事への威嚇のつもりなのか或いは食べ物への恨みなのか。とにかく攻撃対象にされたことは明確だった。パワーは桁外れだが鈍重な攻撃。パワーが乗り切る前にアレクセイは盾でカウンターを取る。ハンが最初に射った矢のダメージのお陰でサイクロプスは右手が殆ど機能しなくなっていた。しかし、元々痛みには鈍感のようで構わず攻撃してくる。アレクセイは驚いたがどうにか身を翻す。想定していなかった回避行動だった為にアレクセイは次の動作が遅れた。サイクロプスがその隙を捉えようと伸ばした手は再び矢に邪魔される。サイクロプスは不思議そうに手のひらに刺さった矢を見つめた。ハンが駆け寄ってアレクセイを助け起こす。
「常識に囚われてはいけませんよ」
「悪い、超絶ニブチンなんだなコイツ」
「アリョーシャ様、私を奴の頭の上に」
「マジで言ってンの?」
アレクセイは盾を水平に構えた。
「マスター、私にお任せを」
ハンは助走をつけてアレクセイの盾を踏み台にする。アレクセイは息を合わせてハンを打ち上げた。ハンはサイクロプスの肩に軽やかに着地する。サイクロプスの耳を足場に頭の上へ移動した。サイクロプスは全ての動作が何拍も遅れている。サイクロプスは「肩になにか感じるな」位に肩を揺らした。その頃にはもうハンが弦を絞っていた。目に直撃した矢はサイクロプスの脳幹まで貫いた。サイクロプスは直立したまま即死したが、膝をついてそのまま前方に倒れていく。ハンはバランスを取りつつ、倒れきる前に軽やかに地面に降り立つ。アレクセイは何か不満だった。ハンがあまりにも戦い慣れしている。巨大な怪物をほぼ一撃で倒したにも関わらず、高揚すらない。改めてポーンという種族の無慈悲な強さにアレクセイは圧倒された。
「我々の勝利です」
「あ、そう」
「お怪我は?」
「無い」
アレクセイは倒れたサイクロプスに近づく。牙の生えた口元からは舌がだらりと垂れている。非常に生臭い。腐った魚みたいな悪臭だ。
「死んだのか」
「ええ」
「何食ったらこんなデカくなるんだ?」
「サイクロプスは雑食ですね。空腹ならゴブリンでもなんでも食べますよ」
マジかよサイクロプス。俺は空腹で死にかけてもゴブリンだけは食いたくねえ…。あ、でももしかしてハンなら美味しく料理してくれたりするのか?
アレクセイはじっとりとハンを見つめる。
「おっと、いい機会です。マスター、サイクロプスの弱点は目です。眼球以外の部位は骨が非常に分厚く、致命傷に繋がるダメージが通りにくいのです。他にもいくつか特筆すべき所はありますが、やはり力には力で対抗してしまうのが一番効率が良いです」
「へえ、つかそれ程危険な怪物には思えねえが、ウスノロで知能も低そうだし」
「確かにそうでしょうが、サイクロプスは危険です。知能が低いとはつまり、我々の常識はまず及ばないということ。人間にとってみればこの怪物の出現は無慈悲な災害と大差ありません。私は無残にも食い殺された者達を幾度となく見てきましたから」
確かに、普通は激痛で動けなくなるような手の傷でもコイツは構わずに俺を握り潰そうとしたしな。
「かくゆう私もサイクロプスに食われたことがあります。あまり美味しくは無かったのか、下半身だけ残されましたね」
「その話し超詳しく聞きたい」
「それより先程助けた女性の安否を確認しましょう」
「話題をしれっと逸らすな」
ハンの話しも気にはなったが、彼の言う通り助けた獣人の安否が優先だった。獣人の娘を匿った木の洞へ行き、ハンが容態を確認する。アレクセイはハンの肩あたりから覗き込む。
「生きてるか」
「勿論、彼女はポーンですから」
「ポーン?」
「気を失っているだけのようです」
ハンはそっと彼女の肩を揺らす。
「大丈夫ですか?しっかりしなさい」
獣人の娘の瞼が動く。「うんにゃ…」と言いつつぼんやりと目を開けた。アーモンド色の目だ。
「マスター、水はありますか?」
「おう」
アレクセイから水筒を受け取って、彼女へ差し出す。
「さあこれを」
獣人の娘は水筒からゆっくりと水を飲んだ。漸く意識がはっきりしてきたらしく突然ハッとして起き上がった。
「食べられちゃう!!」
木の洞にいることも分からなかった為に額を洞の天井にぶつけて悶絶する。
「うぐう…」
「君はサイクロプスに襲われ、気を失っていたんですよ」
ハンがそう言うと涙で潤んだ目のままアレクセイの方を見る。
「ハッ!か、覚者様!?そうだ!私はッ!あ!杖、杖がない!」
「おいおい、とりあえず落ち着けよ」
「わた、わたしっ!そうだ、きゅ、急にサイクロプスが現れて!か、覚者様!私が守ります!」
獣人の娘はそう言うと二人の間を俊敏な動きで縫うようにすり抜ける。アレクセイが声をかけたが、獣人の娘は走り出す。倒れたサイクロプスを見て「はゎ」と溜め息混じりに声を出すとぺったり座り込んで項垂れる。
「ま、また倒せなかった…」
「大丈夫か?お前」
心配するアレクセイをよそに、ハンは獣人の娘の二の腕を掴んで立ち上がらせる。
「しっかりしなさい、あなたの失敗を嘆く前にまずは覚者様に挨拶をするのが先です」
ハンにそう言われると獣人の娘はハッとしてアレクセイの方を見た。
「すみません!か、覚者様!私はマリーニャと言います!み、三毛ネコの獣人です!ソーサラーです!」
「俺はアレクセイでこっちのがハンだ」
「アレクセイ様!すみません!覚者様に助けて頂くなんて!」
「それはまあいいんだが、つか倒したのコイツだし」
アレクセイはハンを指差す。
「マスターの協力があってこそです」
「急に謙遜されるとなんかムカッとくるが、とりあえずこの娘の杖を探してやろうぜ」
「わかりました」
マリーニャは嬉しさのあまり目を潤ませた。
「ありがとうございます!」
杖を探しつつアレクセイはハンの背中を見る。何となくだが、このマリーニャというポーンに当たりが冷たく感じるのは気の所為なのだろうか、と。
マリーニャの杖はサイクロプスの足跡のすぐ傍らに落ちていた。ハンは見つけた大杖を手にするとじっくりと観察する。見事な意匠の杖だった。装飾の細部にも青い魔石が散りばめられており術者に危険が及ばぬよう加護が施されている。手にするだけで恩寵を感じた。杖の芯に神木が使われている事から聖属性魔法との親和性が高いのだろう。
しかし、彼女にこの杖は少し荷が重いように感じる。
ハンは両手でその杖を手にしてマリーニャへ差し出す。
「これでは?」
マリーニャは恐る恐る受け取った。
「あ、ありがとうございます」
マリーニャは大杖を大切そうに抱き締める。アレクセイもホッとしたように声をかけた。
「見つかって良かったじゃねえかマリーニャちゃん」
「は、はい!」
アレクセイはサイクロプスとマリーニャとを見る。サイクロプスの行動学的に考えるとマリーニャが一方的に襲われた可能性は低い。とすると、マリーニャが敢えてサイクロプスを刺激した可能性があった。
「なあマリーニャちゃん、なんたってまたサイクロプスなんかと?」
マリーニャは俯いてぽつぽつと話しだした。
「わ、私、その…まだソーサラーになりたてで、前はファイターだったんですけど、全然役に立てなくて。それでマスターに言われたんです。立派な魔術師になって戻ってきなさいって」
アレクセイは華奢な彼女の体型や性格にはファイターは不向きだろう、と何となく感じた。
「だったらサイクロプスに喧嘩売ることなくねえか?もっとこう、ゴブリンとかでよ」
「そう思ったんですけど、ゴブリンもホブゴブリンもどういうわけか全然いなくて…この街道はよく人が襲われるからって思って来たんですけど」
アレクセイはハンと目を合わせる。道中、目に留まるゴブリンやホブゴブリンは全て倒してきた。ハンは「なんでしょうか?」と言いたげに首を傾げる。アレクセイは「お前も同罪だぞ」と言いたげに目で語った。
「あーそうか。でもサイクロプスはなぁ」
「サ、サイクロプスは、その、ほ、他の大型の魔物よりも頭の造りが単純なので魔法が効きやすいんです。だから、その…でも私、前にサイクロプスに食べられた事があって…それ思い出したら、詠唱魔法、みんな忘れちゃって…」
アレクセイはポーンにも“トラウマ”というものがあるのか、と思った。振り返ってハンを見れば、ハンは少し離れた場所で周囲の警戒をしている。アレクセイはハンがこのポーンに対して興味が無いのだな、とはっきり感じた。アレクセイは腕を組む。今このネコ娘ポーンを独りきりにするのは不安に思える。
「マリーニャちゃんはどこから来たんだ?」
「グランシス南部からです」
「へー。遠いとこから来たんだね」
なんて、グランシス南部なんて何処か知らねえんだけど。
「おいハン、ちょっと来い」
「はい、マスター」
「こうゆう徘徊してるポーンは敵にやられたらどうなるんだ?」
「異界へ送られます。覚者様の召喚次第で再び戻ることができますが」
あーなんか前も似たような事言ってたな。そうだった、こいつら不死身なんだっけ。
「とにかくよ、マリーニャちゃん」
アレクセイはハンをチラチラ見る。
「……一緒にメシでも食うか?」
「え?」
「………」
「いいよな、ハン」
「マスターがそうしたいならどうぞ」
アレクセイは目を細めた。
何なのお前さっきから…。
《純真のポーン・マリーニャ》
アレクセイはハン、マリーニャと共に魔物やケモノ道の風下にならぬよう注意を払いつつ小高い丘の方へ移動をする。
「考える事は一緒だな」
アレクセイは言いつつ屈み込んだ。そこには焦げた跡や天幕を張った跡が残っている。
「見ろハン、野営の跡がある」
「ええ」
「ここは安全のようだ」
マリーニャはキョロキョロしたり辺りのにおいを嗅いでいる。確かに魔物が通ったにおいがしない。
「覚者様は人間なのに、どうしてそんな事が分かるんですか?」
アレクセイはそう聞かれてポカンとする。
「あー経験?」
言いつつハンを見た。ハンは視線に気がついているが淡々と昼食の準備をしている。
「はにゃ、経験、ですか?わ、私にも分かりますか?」
「ああうん、たぶん、おいでマリーニャちゃん」
マリーニャは大杖を抱いたままアレクセイの傍らに寄る。
「ほら、ここら辺、焦げてるの分かるか?」
「は、はい」
「こんな緑が生い茂ってる場所じゃ、大抵の場合火は自然発生しない。という事はここで誰かが火を炊いたんだ。近くを見ると灰が落ちてる。ほらこれも、石が焦げてるだろ?」
「はゎ、すごい、ほんとだ」
「こっちも草が真っ直ぐ生えてるが、ここは寝ている。誰かがここに荷物を降ろしたんだろう。しかも暫くの間、ここを見ろ、茎が根本から折れてる。そして足跡だ。足跡がしっかりついて乱れてない。という事は此処で誰かがのんびりキャンプをしたって事」
「か、覚者様、すごいです!名探偵ですね!」
マリーニャは目をキラキラさせた。
「え?そ、そう?」
アレクセイはデレデレした。三毛ネコの獣人は他のネコ科の獣人と比べて穏やかで愛らしい顔つきをしていたせいもある。
「マリーニャちゃんは火を起こしたことはある?」
「はい!魔法で何度も!やりましょうか?」
アレクセイはちょっと不安だった。
「あー魔法はほら、詠唱だっけ?なんか唱えるんだろ?」
「はい!」
「それよりもこっちのが早いから、多分」
マリーニャはアレクセイが出した変わったナイフに興味津々だった。
「それはなんですか?」
「これは着火装置つきのナイフだ。こうして麻紐をこんな風にして、こうやってこれをこ削ぐようにすると火花が散る。本当はもっと着火向きの枯れ枝や松ヤニとかがあるといいんだけど」
金属音が擦れる音と共に火花が散る。線香花火のようだった。麻紐に引火するとアレクセイは空気を送りつつ枯れ葉や小枝を焚べていった。拳ほどの石で竈門を作り、そこへ五徳を乗せる。小さな鍋やポットならそこに乗せて湯を沸かせるだろう。マリーニャは「わあ!」と感嘆した。
「覚者様!凄いです!異界では普通に焚き火をしてただけなので!」
「マリーニャちゃんもここへ座りな、立ってると疲れるだろ?いまハンおじさんが何か作ってくれるから」
「え!わ、私にも!?」
アレクセイは自分の椅子をマリーニャに渡した。見兼ねたハンが自分の椅子をアレクセイへ差し出す。
「いいよお前も座ってろ」
「そうゆうわけにはいきませんから」
「あ、そう」
よそよそしい態度のハンをよそに、アレクセイは三人分のお茶の準備をする。アレクセイは初めての異性のポーンに興味津々だった。おまけにとても愛らしい。ホーロー製のマグにお茶を入れて差し出せばマリーニャは目を輝かせてお茶とアレクセイとを見る。
「ありがとうございます!覚者様!お茶大好きなんです!」
めっちゃ可愛いしええ子や…。やっぱりこうでなくちゃ。異界の覚者羨ましい…。
「マリーニャちゃんの覚者はどんな奴なんだ?強いのか?」
「とっても強いです!私のマスターは白い馬に乗った騎士様なんです!」
「騎士?」
アレクセイには想像が出来なかった。ハンが調理をしつつ補足する。
「グランシス地方南部には確かに遍歴の騎士がいます。中でも“覚者”は特別で、その地方を統治する王から騎士の称号を授かり、各地を巡る旅をすると聞きました」
遍歴の騎士と聞けばアレクセイは絵本に出てくるピカピカの鎧を纏った姿しか想像が出来なかった。
「ほーん、覚者も色々あんだな」
「ええ、さて、お待たせしました。サンドイッチとキャベツのシチーです」
「昼間っから豪華だな」
「そうですか?とても簡単なものですよ」
「俺にとってはパンとスープは最高のごちそうだ」
アレクセイはマリーニャの分を差し出す。
「これはお前の分、熱いから気をつけて食べな」
「ありがとうございます!覚者様!ハンおじ様!」
デレデレするアレクセイをよそに、ハンはもの静かだった。空腹だったアレクセイはサンドイッチを齧る。小鳥の囀る気持ちの良い青空の下、緑に囲まれてとる食事は格別だった。アレクセイはニヤけつつゆっくり味わう。
うっま。これ干し肉がスライスされて入ってんのか?強い塩気があるが、黒胡椒とか何か色んなハーブで旨味が凝縮されてる。タマネギかと思ったらこれザワークラウトか?酸味がいいバランスだ。パンに塗ってんのはクリームチーズ?それにしてはしつこくない。でも濃厚でほんのり甘みもある。
「ンン、うま…さっぱりしたキャベツのスープと抜群に合うぜ」
「ンニャンニャ!すごい!味がたくさんします!美味しい!こんなの食べたことないです!!」
可愛い。永遠と眺めてたい。
「ほんとに美味い。ハン、これ何をパンに塗った?」
「ケフィールですよ」
「お前天才。クリームチーズだったらしつこかったかもな」
ハンは少し嬉しそうだ。なにか語りたいのか髭がピクピク動いた。
「んニャんニャ、覚者様、ケフィールってなんですか?」
「あー牛乳を…その、えーっと、ハンおじさんに聞け」
「ハンおじ様、ケフィールって?」
ハンは自分の持ち物から小さな瓶に入った白っぽいそれを見せた。
「これですよ。牛乳が二種類ほどの菌によって発酵したものです。長期保存はそれほど期待出来ませんが栄養価が高くどんな料理にも使えますしこれだけで一日に必要な栄養を補う事もできます。牛乳やチーズのように消化器系に過度な刺激を与えません。とても優れた食べ物です。飲料としても使えますが、今回は予め濾したものを用意してます」
「ハンおじ様が作ったんですか?」
「ええ」
「見てもいいですか?」
「どうぞ」
マリーニャはケフィールに興味津々だった。アレクセイはお茶を音を立てて飲みつつ「ああ、そうか」と思う。マリーニャのいた世界では“ケフィール”は珍しい食べ物なのか、と。
「このお茶も美味しいです!なんの種類のキノコのお茶なんですか?」
「いや、お茶は植物だよ」
「ええ!光るキノコじゃないんですか!?」
アレクセイは頭の中で光るキノコのモンスターを思い浮かべた。
どんな世界だ!グランシス南部!
沢の水はサラサラと静かに流れている。霊峰からの雪解けが流れてきているのか、指先が痺れるほど冷たかった。食器を洗うことを躊躇う程の透き通った透明な水だ。苔むした岩から注ぐ清水を水筒に汲んで食器を洗う。
「こんな綺麗な水で皿を洗うのは気が引ける」
「この程度では問題ありません。食べ物の有機物が川へ流れ、再び巡る輪の一部になるでしょう」
「俺は分かりやすく弱肉強食のが好きだね」
アレクセイは洗った食器をマリーニャに手渡す。
「後はお願いね、マリーニャちゃん」
「はい!覚者様!」
健気な後ろ姿にアレクセイは頬が緩みっぱなしだったが、ハンの方を見て腕を組んで俯瞰する。
「ハン、お前なんでやたらあの娘に無関心なんだよ」
「あのポーンに事実を言うべきか迷っているのです」
「雑魚ちゃんだから元の世界へ帰れって?」
「そうではありません。アリョーシャ様、我々は生まれながらの戦徒です。そしてその真価は覚者様と共にいて初めて試されるのです。無論、経験や知識、各々の技量によって多少の差異はあれど“強くない”筈が無いのです」
「ネコを被ってると言いてえのか?」
ハンは首を振る。
「彼女の主人は既に死んでいるという事です」
「…は?いやお前さ、なんでそんな事がわかるんだよ」
「私はポーンですよ」
「答えになってなくねえか?」
アレクセイはハンが何を言いたいのか分からなかった。ハンは簡単な事に対して延々と講釈じみた事を述べるが、明確な真相を知りたい事に関しては「ある」か「ない」かとしか答えない。
「しかし、それ以外に答えようがないのです」
「クソポーン」
「申し訳ありません。彼女は“純真”ですのでポーンと言えど真実を受け入れないでしょう」
「なんだ“純真”って?」
「おや?気が付きませんでした?我々ポーンにも“性格”があるのですよ?最も貴方がた人間のように培ってきた個性とは違いますがね」
そういえば前に祭りの屋台でコイツは“純真”のナントカってモン持ってたな。“性格”を変えるってそうゆうことか。
「へえ、じゃあお前にも“性格”があるのか?」
「ええ、私は“才略”です。掻い摘んで言えば全体のサポートを優先します。そして窮地での生存戦略において私の右に出る者はいません。こう見えて極力戦闘は避けたいタイプです」
「嘘つけ」
「ポーンは嘘をつけませんよ。そもそも、我々が人間の生活圏に馴染めないのは人間が我々を忌避しているからではなく、我々の方が人間を理解できずにいるからです。自己憐憫や私腹の為に他者を貶めたり騙すという行為に何の意味があるのでしょう?少なくとも私たちポーンにとって何の意味もありません。人間が生み出した法律や戒律も存在意義が不明瞭で不明確です」
「人間社会に馴染む事がお前らの専売特許じゃねえだろ」
ハンは「フフッ」と笑った。
「それは確かに…」
「つーか、戦闘を避けたいとか宣っておきながら、街道のゴブリンを根絶やしにしたのはどこのどいつだよ」
「…アリョーシャ様が何も考えずに敵陣に突っ込んでいくので私はいつもヒヤヒヤしているんですよ」
なんかごめんなさい。
「さっきのお前の口振りからすると、俺みたいに血の気の多い性格のポーンもいるのか?」
「血の気が多いかはさておき、前線向きの性格・“奔放”のポーンもいます。危険を顧みない厄介な性格なので私は好きではありません。ただサイクロプスのような巨体の魔物や、鬱陶しく飛び回るハーピーといった魔物相手に有利に立ち回れますね」
アレクセイは顎に手を置く。
「じゃあお前が“奔放”になったら実質俺ら最強コンビってことじゃね?」
「…………」
ハンは露骨に嫌な顔をした。口には出さないが眉間を寄せてアレクセイに何か言いたげにしたが、俯いて黙ったまま洗った食器やギアを収納していく。
「え?めちゃくちゃ嫌なの?金髪巨乳娘になるのは賛成するけど“奔放”は嫌なのかお前?」
「そうゆう事ではありません。アリョーシャ様、僭越ながら我々ポーンにも“尊厳”があります。特に“才略”の私にとって“奔放”という性格が理解に苦しむだけなのです」
ハンはそう言うとアレクセイの手にしていた食器も収納する。アレクセイはというとポーンも怒るのだな、と新鮮に感じていた。
もしかすると俺って、ハンにしてみたらめちゃくちゃ手のかかる覚者なのでは…?
丘の野営場所で待っていたマリーニャが手を振って声を掛ける。
「お二人共!出発の準備できてますよー!」
《クソポーン》
「腹も膨れたしよ、マリーニャちゃん!川沿いのリザードマン相手に修行しようぜ?」
「ええ!?」
アレクセイは極力、楽にリザードマンを倒したかった。大きな川沿いの森林や草原には必ずリザードマンがいる。どれだけ威力が低くとも魔法は魔法だ。野生動物には物理的なパワーより、未知のパワーで対抗するのが一番だとアレクセイは考えていた。
「り、リザードマン…わ、私」
マリーニャは杖をぎゅっと抱えて俯くと歩みを止める。
「苦手なのですか?」
「そ、そうじゃありません…な、なんというか、その…リザードマンって」
マリーニャのそれにアレクセイはウンウン頷く。
わかるぜマリーニャちゃん。やっぱり気持ち悪ィよ。爬虫類系。ヌルヌルしてる感じ、トカゲなのに槍持ってるし、意味分かんねえもん。
マリーニャはパッと顔を上げる。ほんのり頬を赤らめて。
「日向ぼっこしてウトウトしてたり、よちよち二足歩行したり、不器用な手でサカナを干してたり、なんかすごく可愛くありませんッ?」
「え?」
「でも、でも、覚者様の為なら、た、戦います!私、ブリザードカイザーを習得してますから!」
「それは頼もしいですね。私もお手伝いしますよ」
ハンさんや、戦闘回避という才略はどこへ?
気乗りはしなかった。地図を見て迂回する術は無い。アレクセイは腹を括るしかなかった。しかし負ける気はしない。ハンやマリーニャがいるからというわけではなく、生理的に見た目が受けつけないだけで、健康的で文化的な生活をしてきたアレクセイにとって不足は無かった。無論、携えてる武器も前回敗北した時とは比べ物にならない程に洗練されたものだ。川に差し掛かり、三人の内一人がぎょっとした。リザードマンが大繁殖していた。橋という環境の程よい日当たりと日陰、隠れ家や巣造りにぴったりの森林の環境。ゴブリンのせいで街道の整備も満足にままならない今日、リザードマンにとってさぞ快適だったに違いない。
「これは、ちょ、ちょっと多いですね」
「うえ!キモ!」
「流石にその言葉を否定出来ません」
ハンは弦をピンと強く張ると軽やかに高所を陣取る。
「援護は任せて下さい」
「外すなよ」
「ご安心を」
「覚者様、詠唱中は集中をしますので何卒!」
アレクセイは剣を抜いて優雅に回しつつマリーニャの方を見る。ハンの言っていたように、覚者がいなかった時とは比べ物にならない自信を持っていた。今更もう「気持ち悪いので戦いたくありません」等と言えなかった。リザードマンが侵入者に警戒をして威嚇をする。
「環境整備と洒落込むか」
アレクセイは実感していた。例え見た目が苦手な相手だろうと戦闘の時に感じるアドレナリンや緊張感が何より好きなのだ、と。若いリザードマンは鉄砲玉のようにアレクセイに向かっては簡単に倒されたが、アレクセイの間合いから一定の距離を保つ数個体はそう簡単に攻撃を受けてはくれなかった。特に後ろへ回り込まれるのを極端に警戒している。
弱点は尻尾か。
血気盛んな若い個体に対処をしていれば、距離を取っていた成熟個体が間合いを詰めてくる。ヒン、という風を切る音と共に矢がリザードマンの鰓を射った。
「マスター、後ろは私にお任せを」
ハン!俺に遠慮しないでどんどん射って!
アレクセイの心の悲鳴は届かなかった。槍投げの攻撃を盾で弾き飛ばしつつ、前方に向かって地面を蹴る。一気に間合いを詰められたリザードマンは防御姿勢を取るしかなかった。しかしアレクセイは力と力で勝負する気など無い。リザードマンは目の前にいたアレクセイを一瞬で見失った。跳躍して背後に回り込んだアレクセイは自分の体重を利用して尾を切断する。硬い鱗や強靭な筋肉、その筋肉を支える骨も一撃で。尾を切られたリザードマンはパニックになってのたうち回る。アレクセイは足でそれを抑えて抉って何度も突き刺した。纏わりついた粘性のある血が剣に纏わりつく。勢いをつけて振り回して弾き飛ばすと、肩に携える。残りのリザードマンは全体の一割にまで減少した。
「一族郎等根絶やしにしてやる」
それを見たリザードマン達が空に向かって吼え始める。一際大きな巣穴の中から大きな個体が現れた。襲撃事件の時よりも体が大きくクレストも刃物のように鋭い。他のリザードマンが取り巻くように吠え立てる。
「ママ助けてってか?」
アレクセイは剣を構える。それから心で叫んだ。
ハンさん助けて!見た目で負けそう!
不意に足元に冷気が漂い始める。草木が霜に包まれ始めた。
「お?なんか寒…?」
辺り一面が真っ白に包まれたかと思えば猛烈な吹雪が吹き荒れた。
「寒!!と思ったら寒くない!!」
ああそうか!これマリーニャちゃんの魔法か!
目の前のリザードマン達がのたうってパニックになる。そのうち周囲にいた小さな個体達から凍り始め、遂にはリーダー個体も凍りついていく。吹雪が収まる頃には残りの群れ全てが凍っていた。
「すっげ…やっば」
なにコレ超カッコいい。俺も魔法習いたい!魔法とか超ショボくて地味かと思ってた!
「マリーニャちゃん凄い!」
アレクセイはマリーニャに手を振る。
「か、覚者様、とどめを…私の…これ、仮死状態が精一杯で」
そう言うとマリーニャは草地に倒れ込んだ。
「仮死状態?」
マリーニャの安否も不安だが今はまだ油断が出来ない。小さな幼体は死んでいるようだが、リーダー個体を含めたリザードマンたちは確かにまだ生気を感じる。しかし、凍って動かない以上、とどめを刺すのは容易かった。最後に残ったリーダー個体をどうとどめを刺そうか迷っていると、突然氷が散り始める。リーダー個体の氷づけが解かれたようだった。アレクセイの頭ごと食い千切ろうと口を開けた。
「嘘でしょ」
その大口に矢が刺さる。しかしただの矢ではなかった。シューという音と共に火花が散っている。アレクセイは嫌な予感がして咄嗟に盾を構えて身を屈めた。爆発音が響く。耳鳴りが酷かったが、時間と共に収まっていった。バラバラになったリザードマンの頭部がドチャドチャと辺り一面に散った。頭部を失った身体はフラフラ歩いてそのまま倒れる。アレクセイは後ろに駆け寄ってきたハンを睨む。
「お前、なんでいつも良いところを」
アレクセイの頭にベチョっとしたものが落ちる。なんだ?と手にすれば、リザードマンの目玉だった。
「やだチョーキモい!」
「マスター、大丈夫ですか?」
アレクセイは真っ赤になった。
「う、うるせえな!」
「ご安心を、我々の勝利ですよ」
「あーそうかい良かったね!」
アレクセイはハッとする。
「そうだ、マリーニャちゃんは?」
マリーニャの元へ駆け寄れば顔面蒼白で倒れている。アレクセイが抱き起こせば意識はあるようで目を虚ろにしたままアレクセイを見つめる。
「す、すみません…覚者様」
ハンはその症状を見て頷く。
「どうやらスタミナ切れを起こしているようですね」
「スタミナ?魔法なのにか?」
「詳しい話しは後にしましょう。マスター、彼女を頼みます」
「お前どこへ行く?」
「リザードマンの巣の後始末に、タマゴを複数見かけたので駆除を」
言い切る前にアレクセイが頷いて親指を立てた。
「是非頼むぜ、お前にしか出来ない」
「わかりました」
アレクセイはマリーニャを抱いて風通しのよさそうな場所へ移動する。アレクセイは自分の外套を外すとその上にマリーニャを寝かせた。
「魔法もリスクたけぇのな、大丈夫か?マリーニャちゃん」
「すみません…普段は、い、一発でこんなことには…」
アレクセイは何かあったかな、と鞄を漁ったが大したものは無かった。そもそも“スタミナ切れ”を想定しなかった為に用意することすら考えてない。
「ハンおじさんならなにか持ってるかも、戻るまでのんびりしてようぜ」
マリーニャは虚ろな目をアレクセイへ向ける。
「覚者様、本当にお強いんですね。あ、あんな戦い方、初めて見ました」
「俺は強いよ。でも魔法のお陰ですごく楽が出来た」
「覚者様の為ですから」
「マリーニャちゃんの覚者さんは、騎士なんだっけ」
「はい」
「暫く会ってないの?」
「……戻っちゃだめって言われたので」
「優しい覚者さん?」
「はい、とっても優しいマスターです。だからこの世界で魔物の事もっとたくさん調べて、それから魔法ももっと上手くなって、マスターの役に立ちたいんです」
アレクセイはマリーニャの頭をそっと撫でた。ネコと人間の中間くらいの感触がした。
「覚者様」
「ん?」
「私、本当はマリナって名前なんです。マスターが私に愛称をくれたんですよ」
「俺もマリナちゃんよりマリーニャちゃんのが良いと思う」
アレクセイはマリーニャが余りにも弱い為に彼女の覚者が異界から帰って来れぬようにしたのだと考えていた。しかし、マリーニャの話しからするに、その可能性は低い。ハンは「ポーンは嘘をつけません」と言っていた。出会った時は自己肯定感が低く引っ込み思案なだけと思っていたが、いざ戦いになれば戦徒らしく堂々としている。決して戦闘慣れしていないわけではないが、かといって得意な方でもない。アレクセイはハッとする。
そう。“得意”じゃないんだ。ハンも強いが好戦的というわけじゃねえ。どちらかと言えばハンは効率を重視する。自分の能力が最大限に発揮出来るように戦う印象だ。なら、今のマリーニャちゃんにももっと相応しい戦い方があって然るべきだろ。マリーニャちゃんの覚者はなにを考えてんだよ。まあ、俺が考えた所でしょうがねえんだけど。
アレクセイはくぁ、と欠伸をする。
「おっせえな、ハン」
待ちくたびれて草原に寝転ぶ。まだ数分しか経っていないのをアレクセイには感じなかった。適当な草を口に咥えつつ待っていると、何処からともなくハンが戻ってきた。
「お待たせしました」
「は?どっから来たお前」
「ポーンは覚者様の追跡が得意なので」
「だから答えになってねえよ」
ハンは横たわるマリーニャを見ると、そっと跪く。
「マリナ」
「ふぇ?」
アレクセイは、何故ハンが彼女の本名を知っているのだろうと不思議に感じた。
「君はリムへ還るべきです。もう君の肉体は限界を迎えています。これ以上は覚者様の意志を妨げるだけです」
マリーニャはふらつく体を奮い立たせて起き上がる。アレクセイはそれを見て、最早横たわる事ですら辛いのだろうと悉に感じた。
「で、でも、ハンおじ様…私は」
「マリナ」
マリーニャはビクリと肩を震わせる。ハンの指が優しく顎に添えられた。
「真実から目を背けてはいけません。覚者様の死を受け入れる事も我々ポーンの務めなのですよ」
マリーニャは何か言おうとした。反論をしようにも最早何も出来なかった。
これは、なんでしょうか…?
マスター。どこへいってしまったのですか?
私はここにいますよ。
思い出が還ってくる。目から綺麗な雫になって溢れて落ちていく。零したくなかった。ただのひとつも。
『マリーニャ、これを君に受け取ってほしい』
『君が立派な魔術師になる事を願って。だから別の世界で勉強をしておいで、それまで戻ってきては駄目だよ』
優しく大きな手に頭を撫でられるのが好きだった。
『僕の可愛いマリーニャ、暫くはお別れだね』
──マスター!マリーニャは立派な魔術師になって戻ってきますからね!
昨日のことのように憶えていますよ、マスター。私はあなたとの約束を守りたかったんです。もう半世紀以上も前の話しだったんですね。ポーンがそんなに長い間、覚者様の下を離れられない事を私は知っていたのに。マスターの熱さをもうずっと感じていなかったのに。ごめんなさい。マスター。あなたの下にもう戻ることは出来ないようです。本当にごめんなさい。
何も言わずに俯いたまま思い出に浸り続けて涙を流すマリーニャに、アレクセイは何も言えなかった。それから、ここで彼女に出会えた事は良かった事なのだろうか、とも思った。しかし、ハンが何も言わなければ、もっと言えばアレクセイと出会っていなければ彼女は永遠と異界を彷徨い続けただろうし、その身が崩れて再びリムへ帰還した時、彼女はそこで初めて仕えていた覚者の死を実感するのだろう。遅いか早いかの違いだけだ。
「覚者様を失ったのは初めてなのですね」
ハンの声色にはなんの浮き沈みもない。淡々としている。尋問官ならさぞ優秀だろう。アレクセイは少し離れた所で二人を見守る事にした。盗み聞いたわけでは無いが、マリーニャはポーンとして漂泊の世界に降り立ってから一年程だということ。大抵、人間同士であれば喪った者と寄り添い話しを聞いたり同情をするのだろうが、ポーンはやはりポーンだった。同情し、寄り添う事も無く叱咤することも無い。しかし年長者という気概は持っているようで“覚者様の幻影”を二度と追ってはいけないといった旨を話した。マリーニャは「これからどうすべきか分からない」と“性格”が変わったようにポツリと零す。
「リムへ還るべきでは?」
アレクセイは見てられずに立ち上がるとハンの襟を掴んだ。
「お前、もっと同情してやれよ!!マリーニャちゃんは初めて主人を失ったんだぞ!お前は、初めての覚者は俺の祖先なんだろ?そいつも死んだんだろうが!そん時、なんかお前、覚者が死んだら不安で得体が知れないとかなんとか、嫌な気持ちを感じたんだろ?だったら…その気持ちを少しでも汲んでやったらどうなんだ!?」
「申し訳ありません。アリョーシャ様が何を言っているのか理解しかねます。形だけの同情や言葉に何の意味があるのでしょう?」
アレクセイはハンを殴りたい衝動に駆られたがぐっと堪える。アレクセイと違い、ハンは感情を昂らせる事も無い。
「貴方が私を、或いは“私達”を理解出来ない事と同じように、我々にも貴方のような人間の慣習や法治、信仰を学習出来ても理解する事は出来ません。私は貴方より遥かに永く生きてきました。様々な人や生物、種族と関わりを持ちましたが、終ぞその意味を理解する事が出来ませんでした。どう取り繕っても、私はポーンなのです」
アレクセイはこれ以上は話しても埒が明かないとハンを突き飛ばすように放した。ハンは何もなかったかのように乱れた襟を直す。アレクセイはマリーニャの傍らに跪いて肩に手を置いた。
「マリーニャちゃん」
「はい、覚者様」
「とにかくリムに行けば元気になるんだろ?俺が連れて行く。そんな体じゃ無理だろ」
「私の事はどうかお気になさらず」
マリーニャは微笑み肩に添えられた手を離すと、その手を両手で握り締めて頬に添える。アレクセイの手に雫が落ちた。
「お優しい覚者様。私の身がここで役目を終えても、私という魂魄は漂泊に戻りそこでまた生まれます。ですから…心配はいりませんよ。またいつか」
マリーニャの中心に異界の空間が広がり始める。足元から輪郭が消えていく。
「覚者様といっしょに旅をして、美味しいごはんが食べれることを願ってます」
そう言うと、マリーニャの肉体は泡のように漂泊の世界へ消えていった。アレクセイは最後までマリーニャを見送ると、どこまでも清廉で純粋な彼女を何故覚者が「戻るな」と異界へ放り出したのかを理解出来た。
その覚者は、彼女を愛していたんだ。
「マスター」
「あ?」
「リムへ立ち寄れば再び彼女へ会う機会が訪れますよ。ポーンとの別れにそれほど悲しむ必要はありません」
アレクセイは振り返る。それから舌打ちした。確かにそうなのだろう。アレクセイを収容所からの逃亡の手助けをしたルークというポーンもそうであったように、ポーンは不死だ。彼らに対して憐れみを抱く必要は確かに無い。それでも。
「…ハン、俺は人間なんだ。喩え短い間でもマリーニャちゃんとは同じメシを食った。俺を手助けしてくれた。お前にとっては取るに足らないポーンのひとりだとしても、俺にとってはそうじゃない。お前らにとって理解出来ないのも当然だ。人間の原動力は感情だからな」
「ええ、人とポーンの決定的違いですね」
アレクセイは唐突に理解した。彼らに死という概念が無いのなら喪う事の恐怖も必要無いのだ。人間が怖がりなのも複雑な思考と感情の副産物に他ならない。感情が希薄であれば、人間は“互いを理解し合えない恐怖”から解放されるだろう。ポーンとは“完成された人類種”の姿なのだ、と。
自由意思と引き換えに?
「…なんつーかよ、俺はお前らに同情する」
「その必要はありません」
「クソポーン、マジでお前クソポーン、暫く黙ってろ」
「暫くとは具体的にどれくらいでしょう」
「今から俺が“ヨシ”って言うまで」
「わかりました」
《従者・ハンの憂鬱》
ポーンとの別れは今生の別れではない。頭で理解は出来てもアレクセイはやはり遣り切れない感情を制御出来ずにいた。恐らくマリーニャの覚者は逃れられない死の運命の末にマリーニャにそう告げたのだろう。アレクセイは自分の影がすっかり伸び切っているのを見る。もうすぐ日没だ。周辺は鬱蒼としていた木々が少なくなり、岩肌が増えて勾配もきつくなってきている。襲撃してくるゴブリンの数も街道の比では無い。逢魔が刻の行軍は避けたかったが、この周辺で野営をするなんて真似は出来ない。ここはもうゴブリン達の巣の中のようなものだ。鉱山入口ではゴブリン達が食事の為に火を焚く準備をしているところだった。虫の居所が悪いアレクセイにはうってつけだ。ゴブリン達にとっては突然目の前に現れた人間に理由もわからわず殺されるようなものだった。そしてこの人間は恐ろしく目がよかった。人間は暗闇では何も出来ないとゴブリン達はそう思っていたからだ。アレクセイは幼少期から篝火もランタンも焚かずに生活をしていた。草木も眠る夜はアレクセイにとって“盗み”の手助けになっていたからだ。鉱山の中へ逃げていくゴブリンを追い討ちをする。周辺の最後の一頭だったらしく、シンと静まり返った。
「おい!おい!誰か、誰かいるのか?」
材木と泥で組み立てられた小屋らしき所から人間の男の声が聞こえる。アレクセイは剣を収めて声のする方を覗き込んだ。流石に灯りが必要で、ランタンに火をつけると中を照らす。縄で拘束された全裸の男がいた。体格のいい小綺麗な男だった。
「頼む!これを解いてくれ!中に俺の小隊の仲間が!」
小隊?ってことは…
「城都の兵士か?」
「そうだ!頼むから早く!」
「すまんが俺は用心深いし、縄で縛られて嬉しそうな野郎を助ける趣味はねえ」
「ハァ!?」
「冗談だよ、あんまり喚くな、ゴブリンが寄ってきちまうだろ」
アレクセイはナイフで縄を切ると男を解放する。ランタンに照らされて分かったが、男の体には入れ墨が彫られていた。王国陸軍のシンボルである。アレクセイの体にも同じ入れ墨が彫られている。男は手首を擦りつつアレクセイを見た。
「ありがとう、助かった。危うく奴らの晩飯になるところだった」
「お前、北方部隊所属の奴か?」
「ああ、そうだが、お前は誰だ?階級は?俺の部隊にお前みたいなのはいないぞ」
「あー」
アレクセイは説明が面倒になった。何せベルントから聞いた話しだけで記憶自体は無く、おまけに覚者なのだ。初見の男に詳しく話す気も起きない。とりあえず曖昧に頷く。
「数年前に戦傷で退役したんだ」
「そうだったか、それなら心強い…猫の手も借りたい位だからな、俺はグレゴル、王国陸軍警備部隊の大尉だ」
ってことは、ベルントと同じ所属か。
「俺はアレクセイ。アリョーシャでいい、ネコちゃんじゃねえが人間の手でも今は我が儘は言わねえだろ?」
グレゴルは「面白い奴だ」と笑う。
「俺の装備は奴らに全て持っていかれてしまってな。こんな事を見ず知らずの男に頼むのも恥ずかしいが、俺の部隊の仲間を助けてくれないか?」
「分かったよ、もし生きてたらな」
「連れ去られてからそう経ってはいない」
「お前らの部隊は何しに?」
「無論、トレボ奪還の為だ。無茶な任務を押し付けられた。我々は精鋭だが、たかが一小隊を送った所でこのザマさ…」
「俺が聞きてえのは北方部隊がなんでこんな南にいるかって事なんだが?」
グレゴルは乾いた笑い声を出す。
「そんなの俺が聞きたい位だ。お偉いさんの考えてる事は一兵士の俺には理解出来んよ」
「まあとにかく」
アレクセイは自分の外套を外すとグレゴルへ差し出す。
「これでも着てろ」
「すまん、恩に着る」
グレゴルは外套を纏って外へ出て驚いた。篝火で分かる程度でも、ここにいたゴブリン達の死体の山に。
「これは…一体…アリョーシャ、お前がひとりでこれを?」
「俺とあそこにいる人」
アレクセイはハンを指差す。
「あの方は?お前の知り合いか?」
「あいつは」
思わずポーンと言おうとした。ポーンと言えばまた説明がややこしくなる。
「俺とおんなじ退役兵だ。腕の良い射手だが、そのー…戦場のトラウマで口下手になってる、おい!ハン!こっちへ来い」
ハンはすぐに駆け寄ってきた。
「な?犬みてえなジイさんだろ?ハン、見ろよコイツ、ハンサムだよな?お前はこのハンサムのグレゴルをここで守ってろ。俺がひとりでお山の大将をブッ殺してくるから」
ハンは勿論肯定的な表情をしなかった。眉間を寄せて何か言いたげに目をウロウロさせる。アレクセイはハンの襟を掴んで顔を近付ける。
「ヤー!パイドゥー!アヂン!(俺がひとりで行く)分かったか?分かったなら頷け」
アレクセイにそう言われればハンは頷くしかなかった。無論、アレクセイの故郷の古い言葉など何ひとつわからない。アレクセイは不満気なハンに人差し指を立てる。
「グレゴルの言う事を聞けよ」
「………」
「頷け」
ハンはこっくり頷く。
「なあグレゴル、鉱山の地形は頭に入ってるか?」
「いや、中には入れなかった。だが、鉱夫たちの証言で大体の見取り図なら描ける」
「おいハン!羊皮紙だ!黒鉛も寄越せ!」
グレゴルはハンと呼ばれる無口な初老の男から丁寧に包まれた羊皮紙と黒鉛を恭しく手渡される。グレゴルは変わった雰囲気の男だな、と感じつつも羊皮紙に描き込んでいく。アレクセイは「ウム」と唸った。
「かなり入り組んでるな」
「実際はゴブリンが掘った穴もある。本当にひとりで行く気か?ここのゴブリンは街道で出会う連中とは違うぞ」
アレクセイはグレゴルのその言葉に最早聞き飽きたかのような顔をした。
「お前、勘違いしてねえか?」
アレクセイのその言葉にグレゴルは首を傾げる。
「今此処にいる俺は街道で出会うような“普通の人間”じゃねえんだよ」
トレボ内部は丁寧に篝火が灯っていた。夜間は松明を利用して徘徊する習性のあるゴブリンは野生生物と違って視覚からの情報に依存している。アレクセイはずっと虫の居所が悪かった。ゴブリンを相手にしつつ沸々と感じる。肉体はかつて無い程に絶好調だが、内面だけは依然としてモヤモヤしている。感情的になってハンを黙らせてしまったが、そんな事では何も解決にならない。そもそもポーンに“ペナルティ”という概念は一切通用しないのだ。無論、暴力ですら解決しない。例えアレクセイが殴ろうが、ハンにとっては見ず知らずの人間に殴られた事と大差はない。寧ろ“攻撃された”と認識するだろう。だからといってやり返す事もしないのだが。
ハンは何を考えてんのかな。
アレクセイはゴブリン達の連携攻撃をいなしつつ、一頭ずつ冷静に対処していく。首か胴体の致命傷以外は狙わなかった。ゴブリン達は守りに徹するしかない。アレクセイのスタミナ切れの機会を辛抱強く狙ったが、結果として自分たちを追い詰める事になった。
いや、考えてすらねえか。意味もねえ事を考えるなんて、ポーンには不可能だ。
一頭がアレクセイに怯えて足を縺れさせながら逃げていく。アレクセイは足下に転がったゴブリンの頭部を拾い上げて、手近にあった発破剤を頭部の口に詰めた。篝火で火をつけて逃げたゴブリンに投げつける。
「手土産持ってけよ」
逃げたゴブリンの足下に落ちた。ゴブリンは何が落ちてきたのかを見てギョッとしたが、爆発音が木霊する。壁に様々な物が飛び散った。アレクセイは前進しつつ制圧していく。息切れひとつしなかった。かつて無いほど血が沸き立っている。メルヴェでレンナルトが言っていた事を思い出した。戦闘をしていればその内肉体から思い出すだろう、と。漠然としていたが、アレクセイはこの事なのだなと感じていた。
嘗ての俺は、人間よりも魔物やケモノと闘う事に奇妙な安心感があった。人間の方が致命傷が多い分、常識的には人間の方が楽な筈なのに。今漸くわかった。人間相手に全力を出せなかった。そこには倫理観だの騎士道だの信仰等という至極どうだっていい理由があったからだ。だが魔物にはそれが無い。何にも縛られず、全力を出せる。生きたまま皮を剥ごうが、引きずり出した腸で遊ぼうが、後ろ指を差される事はない。寧ろ称賛すらされる。
アレクセイの脳内にハンの言葉が蘇った。
『喩え慰み者にされようと、それは私達にとって街道で魔物に襲われる事と大差ありません』
『貴方が私を、或いは“私達”を理解出来ない事と同じように、我々にも人間の慣習を学習出来ても理解する事は出来ません』
悪かったよハン、お前が、お前たちポーンが人間を理解出来ないのも当然だ。俺が人間にしている事と魔物にしている事に大きな違いはない。道徳や倫理観は人間同士の価値観だなんて、確かに笑えてくるな。…ああ、クソ。頭がこんがらがってきた。何だか昔はもっと人生が単純だった気がする。昔の事なんて何一つ思い出せないんだが。腹減りゃ食って、寝たい時は寝て、いやもっと単純だ。ずっと腹が減ってた気がする。…なんだか今は複雑だ。ンア、クソが。めちゃくちゃ苛立つ。腹が減ってんのかな。
アレクセイはトレボの半分の地点を制圧した。振り返った先は死屍累々だった。グレゴルが描いた地図によれば、近くに鉱夫の詰所がある。耳を欹てて見つけたドアを蹴破った。勢いで錆びた錠前が弾き飛ぶ。
「お?」
詰所には大量の武器や防具が積み上げられていた。全て街道の牛車や往来するキャラバンから奪った物だろう。ゴブリンにも扱える剣や盾はそこには無く、両手剣や杖といったもの、複雑な防具は手つかずだ。キラキラ輝いている。
ハンが言ってたな。ゴブリンは光り物を集める習性があるって。
アレクセイはそれらをじっくり品定めする。そのどれもが、今自分が装備している物以上の品は無かった。とりあえずこれらの品を全て運び出す事は今は不可能だ。トレボを奪還した後の城都兵に対応を任せる外無い。
「ん?」
その部屋にはチェストがあった。錠前を破壊して中を開けばジュエルが敷き詰まっている。
「おお!」
とりあえずひと掴み…いや、さん掴み程してポーチへ収納する。まだまだたくさんある。これくらいならば許されるだろう、とアレクセイは自分を正当化した。様々なジュエルがある中で、一際青く輝く丸い石がある。
「なんだこれ?」
なんか珍しそうだから一応、拝借。拝借するだけ。
小さなポーチがパンパンになった。アレクセイは返り血で羊皮紙の地図に印をつけて行き先を確認する。坑道の中でも一際開けた場所だ。縦穴の鉱床である。アレクセイは詰所から先へ進んだ。そこから先は所々でゴブリンが掘り進んだ小さな穴がある。ひとつひとつ確認しつつ前進する。
ゴブリンがいねえ。妙だぞ?
「…ん?」
アレクセイは足下のワイヤーに気がついて屈み込む。
「トリップワイヤーかよ。ご丁寧なこって、反射しないようにタールまで塗られてらぁ」
なるほどなあ?ここらは罠スポットなのか。だからゴブリンはこの穴を使ってこの道を避けて通ってる。
アレクセイはワイヤーを辿る。瓶や小さな樽に油が詰められていた。ひとつひとつ解除して進んでいく。五つ目のワイヤーを見つけた。
「所詮はゴブリンってとこだな…」
やれやれと屈み込んだ。キィ!という小さな声がする。ネズミだった。アレクセイの腹がグゥと鳴る。
「…焼いて食おうかな」
ネズミがいるってことは、ガスの心配もねえな。
ネズミは穴へ入ろうとしたが、何を思ったのか足を止める。辺りのニオイを嗅いで、ワイヤートラップの方へ向かった。アレクセイはゾクリとする。
おいおいおい、そっち行くなって!
息も出来なくなった。ネズミを刺激出来ない。
戻れ!こっちへ戻れって!
頭の中でネズミに念ずる。それが届いたのか否か、ネズミはアレクセイの方へ戻ってきた。
「ヨシ!ヨシヨシ!」
良い子だ良い子だ!こっちへ来い!ブッ殺してやるから!
アレクセイは少しずつ後退していく。このネズミを早く処理せねば大惨事になる。ネズミは警戒せずに何らかの腐乱死体の肉を齧り始めた。アレクセイはこのネズミを殺しても食べないようにしようと誓いつつ音を立てずにナイフを抜く。不意に横穴からゴブリンが現れる。がめつい性格なのか知らないがネズミを捕まえて食べようとしたらしい。アレクセイはヒュッと息を呑む。ネズミは一心不乱にワイヤートラップの方に走っていったからだ。
「最悪」
逃げた所で間に合わない。アレクセイは盾を構えて爆発の防御姿勢を取り衝撃に備える。
「アリョーシャ様!」
「ハン?」
ハンはアレクセイの体を引いて自ら覆い被さる。坑道全体に響く爆発だった。何も考えずにゴブリンが辺りを掘り進めたせいで天井が崩れていく。耳鳴りが酷かった。咄嗟の機転で僅かな窪みに伏せなければ酷い目にあっていただろう。周囲は油樽のせいで火の海になった。ハンは意識が朦朧としていた。目の前のアレクセイの姿がぼんやりと幾重にも重なって見える。自分の呼吸や鼓動がやけに大きく聞こえた。アレクセイの背中にポタポタと何か落ちていく。自分の額から垂れる血だと理解した。片側の鼓膜が破れて激痛が走っている。道理で目眩がするわけだ。しかし、ハンはそんなことはどうでも良かった。アレクセイからの憎まれ口を待ったが、いつまで経っても何も反応を返さない。
「マスター…」
肩を揺らしても反応はない。
「マスター!マスターどうしたんですか!?」
ハンはアレクセイを抱き起こす。目は虚ろに開いたままで。反応が無い。すぐ真後ろに火が迫っていた。アレクセイを抱えて坑道を走り抜ける。幸いにもガス溜まりに当たらなかったらしく、それ以上の被害は無かった。ハンは平衡感覚を失っていて、真っ直ぐ走る事が出来なかったがどうにか比較的安全そうな場所に落ち着くと、アレクセイの背中を抱えて座り込む。
「アリョーシャ様?」
顔を覗き込むが先程と変わらず、ぽーっと目を開けたまま反応が無い。ハンは水筒から水を手で掬い取ると、祈る思いで泥や返り血で汚れたアレクセイの顔を拭った。
「お願いです。アリョーシャ様、しっかりしてください…」
水を手で掬っては拭っていく。祈る思いで。アレクセイの眼球が動く。ハァ!と大きく息を吸い込んでアレクセイは覚醒したと同時にハンの腕の中で咳き込んだ。
「イッデェ…ッ!ああ、クソネズミが!!」
ハンは安堵したかのように、ほぅ、と息を吐いた。
「アリョーシャ様、良かった…本当に良かった…」
アレクセイは咳き込んだ響きで全身が痛かった。この防具が無ければ重傷どころではない致命傷を負っていただろう。
「何も良くねえ…!ハン、お前…ッ、いつ喋っていいと言った?」
「貴方がヨシと仰ったので」
アレクセイはそんなことを言った覚えがないとでも言いたげに「ああ?」と振り返る。ハンの額がざっくりと切れていて、粉塵を被ったかのように泥や埃まみれだった。どうやら爆発から身を守ってくれたらしい。アレクセイはフッと笑い飛ばす。
「あれはネズミだ。ネズミに言ったんだ。お前じゃねえよ」
「貴方の言葉を借りると“知ったことじゃねえ”です」
アレクセイは再び振り返る。
「いつから追跡してた?」
「貴方が詰所で燥いでいた時から」
全く気が付かなかった。これだからポーンってのは。
とにかく今はハンの額の裂傷を処置しようとアレクセイは立ち上がろうとした。
「ハン…?」
肩を強く抱きしめられて身動きがとれない。アレクセイは溜め息をついた。
「おい離せ、ジイさんに引っ付かれてもトキメいたりしねえぞ俺は…」
「申し訳ありません。今しばらくは、このままで」
「ふざけんなよ、お前が失血死しちまうぜ?」
「その心配は不要です。私は、ポーンですから」
アレクセイは尚も身動ぐが、ハンの腕からは簡単に逃れられなかった。
「何がしてえんだ?」
「マスター」
「あ?」
「…私は…アリョーシャ様がいないと何も出来ないのです。どうか、貴方の傍にいさせて下さい。貴方の役に立ちたいのです。それだけが、私の望みです」
アレクセイは戸惑った表情のまま黙ってハンを見つめる。ハンは心細げな目でアレクセイを見つめた。
「すみません…人間の貴方には、理解が出来ないかもしれませんね」
アレクセイはそう言ったハンのその目をそれ以上見ることが出来なかった。
やめろよ。お前そんな、俺が恋しくて堪らねぇみてえなツラ向けんなよ。俺が恥ずかしくなっちまう…。見た目ジジイの癖に中身は子犬かよ。
「わ…分かったからハン、俺が悪かった。もう突き放したりしねえからよ、勘弁してくれ…」
アレクセイは恥ずかしくて額を抑えた。周囲は穴だらけだが穴があったら入りたかった。
お前は俺のカノジョかよ、ハン。
漸く腕の力が緩んでアレクセイは解放された。どれほど経過したかは分からないが、ポーンは覚者から一方的に引き離されると不安定になるようだった。ハンはいつもの精悍な表情に戻っている。アレクセイはハンのポーチから止血剤の粉末を取り出して額の応急処置をした。
「ありがとうございます。アリョーシャ様」
「んん、つか、お前はポーンの癖に大人しく俺の“待て”を聞けなかったのか?」
「おや?貴方がグレゴル様の言う事を聞けと言いましたが?」
「そうだお前、グレゴルは!?」
「安心して下さい。彼なら心配いりません。偶然にも腕に覚えのあるモンスタースレイヤーのチームに会いまして」
「へえ…じゃあ、ほっとくか」
一方、グレゴルは。
モンスタースレイヤーのアプロディーテー達に囲まれていた。
「ハンサムね、どうして裸なの?」
「私達もひと肌脱ぐべき?」
「あ、イヤ、私は…」
「ねえ色男さん、お名前は?なんていうの?」
「ワイルドなおヒゲ大好き」
「やめろ獣人の女!触るな失礼だぞ!」
「にゃぁん、ヤマネコの獣人のメスはお嫌いかしら?」
「ならヴェルムント人のメスはどお?」
「すみま、すまない、わ、私は既婚者で」
「へえ、ねえガールズ、一筋縄ではいかない男みたい」
「意志の強い男って惹かれちゃうワ」
「からかい甲斐があるじゃない。私達の誰を妻に勘違いしてるのかしら?」
屈強で美しい女傑たちは淑やかに大笑いしてグレゴルを囲っていた。
頼む、頼むアレクセイ!ハン殿!早く戻って来てくれぇ!
「ハン、お前どうした?真っ直ぐ歩けねえのか?」
アレクセイは相変わらず頑丈だった。元々の高いポテンシャルや強い悪運のせいもあるが、“覚者”という理由も少なからずある。ハンは未だ平衡感覚を失っていてフラフラ歩いたかと思えばその場に転倒した。
マジで爺さんじゃねえかよ。
「申し訳ありません。目眩が激しいのです」
ハンの左耳からは出血した痕がある。
「鼓膜やられてんのか」
「ええ、こちらは何も聞こえません」
アレクセイは徐ろにハンを抱きかかえた。
「マスター?」
「這ってでも俺を追うだろお前。固定砲台程度の役に立て、居ないよりかは遥かにマシだ」
「はい」
ハンを抱えて深部まで進んでいくと、縦穴の鉱床の開けた空間に出た。縦穴を挟んで向かいの対岸にゴブリンやホブゴブリンが群れている。侵入者を見つけて騒ぎ立てていた。街道で出会うゴブリン族よりも良い装備を身に着けている。生半可な攻撃は通用しないだろう。アレクセイは身を引き締めなければならないと感じた。
「マスター」
ハンは降ろしてほしそうな目を向ける。
「いいじゃねえかよ。暫く敵にケツ向けてろハン」
「申し訳ありません、私をあの岩場まで持ち上げてくれませんか?」
ハンの声色は淡々としている。どのポーンにも言える特徴だ。覚者を脅かす敵に相対すると、人当たりの良い愛想を振りまくことは無い。
「冗談の通じねえ野郎だな、お前の体の心配をしてんのによ」
「何も問題はありません」
ハンは動く度に目眩に苛まれたが、助走をつけてアレクセイの盾を踏み台に高台を陣取る。その間に鉄砲玉のようなゴブリンの群れが粗末な橋を渡って向かってきた。アレクセイは何の躊躇いも迷いもなく橋の綱を切り落とす。大きな音と悲鳴が鉱床に木霊した。アレクセイは崖下を覗き込む。落ちて潰れたゴブリンたちがピクピクしていた。鼻で笑って向こう岸を見つめると片手剣を弄ぶ。フオン、と金属音が鳴った。
「雑魚に一々付き合ってられっかよ」
対岸の崖にいたホブゴブリンは仲間と顔を見合わせ命令を出し合っている。奥から「やめろ!」「離せ!」という人間らしき声が複数聞こえた。グレゴルの部下達だろう。アレクセイは崖から突出した足場伝いに猛スピードで崖の対岸へ向かっていく。無防備になったアレクセイへゴブリン達は石や武器を投げようと振りかぶる。瞬間に防具の薄い脇腹を矢が命中した。四頭のゴブリンは矢に射たれて崖下へ落ちた。対岸へ降り立つアレクセイは盾を構えてホブゴブリンへ突進する。ホブゴブリンは同様に盾を構えて迎え撃つ。力と力の衝突はアレクセイに軍配が上がる。だが一筋縄ではいかなかった。どうやらこの一回り大きな体とケルティック調の装飾品を身に着けたホブゴブリンが、この一族の頭目なのだろう。長を守ろうと他のゴブリン達が一斉にアレクセイへ襲い掛かる。アレクセイからは仲間の血の臭いが漂っていた。アレクセイが盾で受けた瞬間を狙い体勢を崩すつもりだったが、アレクセイは盾で受け流す事すらしなかった。間合いを見切って躱すと大振りになったゴブリン達の首を切り落とす。それを見た他のゴブリン達は萎縮した。今まで戦った人間達と比べて、この人間は戦闘スキルに圧倒的差がある。何事にも怯まぬ胆力もそうだが、気配の感じ方からカンの鋭さに至るまで全てが人間離れしている。死角を狙った攻撃は正確無比の矢で無力化されていた。一族の長のホブゴブリンにとって当に厄災のような一日になった。アレクセイは剣についた血を拭い落とし肩に添えてホブゴブリンを俯瞰する。
「逃げねえのか?ゴブリンにしちゃぁ肝が据わってんじゃねえかよ。そうゆうの大好きだぜ、せめて忘れられない命日にしてやる」
瞬きの間だ。気づけばアレクセイに肉薄されていた。寸分違わぬタイミングと力で振り降ろされた剣はホブゴブリンの胴体を防具ごと袈裟斬りにした。傷はそれ程深くなかったが、そこからだった。アレクセイの手が傷目掛けて伸びたかと思えば腸間膜を突き抜けて腸を引き摺り出したのだ。引き千切られる自らの腸は目を疑う光景だった。ホブゴブリンは膝をついて絶命した。アレクセイは興味を無くしたように腸を崖下に捨てて剣を収める。スン、と見下すように俯瞰した後に、ハンの方を見た。
「ハン!降りれるか?」
「少し休めば」
「そこにいろ、そっちに行くから」
数十頭を相手にした後だが、アレクセイは息切れひとつしていなかった。再び崖伝いに対岸へ渡り、飛び降りるハンの体を受け止める。その衝撃すら満足に対処出来ずハンは後ろにフラついてぐったりアレクセイに凭れ掛かる。
「お疲れさん」
「私には構わず、囚われた人を優先して下さい」
「見上げた根性だぜお前、鼓膜ブッ壊れてたら普通なら一歩も動けねえよ」
「不甲斐ないです」
「俺のせいって喚いてもいいぜ、怒らねえから」
出血も手伝って、ハンの唇の色も良くなかった。ポーンと言えどこれ以上肉体を酷使させるわけにはいかなかった。
「マスター、問題ありません。私とはリムで再会できますから」
「迎えに行くのが面倒くせぇよ。傍にいさせろっつったのお前の方だろ」
アレクセイはハンを抱えると崖伝いに進んでいく。
「アリョーシャ様…お待ちを」
「有り難くこき使わせて貰うぜハンおじさん。敵見えたらスイッチ入って元気になるだろ?」
「アリョーシャ様…」
軽快に飛びつつ対岸の崖に着地する。
「アリョーシャ様!」
「なんだよ」
「…す…すみません、吐きそうです」
「ええ!?」
アレクセイは慌ててハンを降ろした。崖下に向かって苦悶にえづくハンの背中を擦る。強行軍でここまで辿り着いたせいか、水っぽいものしか吐くことが出来ない。縦に長い構造のせいでビチャビチャという音がよく木霊する。アレクセイはハンに申し訳なく思いつつもニヤニヤした。
「この下にゴブリン潰れて死んでんだぜ?ゲロの花向けとか最高に笑える」
ハンは不甲斐なさとポーン故の羞恥にアレクセイから離れたくてしょうがなかった。何故わかってくれないんだろう、と疑問ばかり頭に浮かんだ。それすらも全て吐いて落としたかった。暗い洞窟が苦手なせいもあるが、今日は余りにもポーンだとしても憂鬱だ。
「笑い事ではありませんよ…ゔッ」
「あーヨシヨシ」
様々な世界を漂泊としてきて凡そ五世紀以上、初めて自らリムへ還りたいと思いました。
《ホームスウィートホーム》
トレボ鉱山が殲滅作戦に展開したのはアレクセイ一行らが入山してから二日経った早朝だった。アレクセイはハンを抱えつつ、グレゴルの小隊の仲間と共に鉱山を漸く出た。
「アンタがアレクセイかい?」
グレゴルを護衛していたらしいモンスタースレイヤーの女性リーダーが声を掛ける。アレクセイは朝日で眩しいのか彼女のせいで眩しいのかが分からなかった。
「おう、独身だぜ」
「中々見所のあるコじゃないか。アタシ達はあそこのハンサムさんに雇われたのさ、殲滅作戦の始まりだよ。悪いけどここからはアタシ達に仕事を譲るんだね」
グレゴルは彼女らの仲間たちにチヤホヤされていた。羨ましくて堪らなかったし、納得がいかない。トレボを取り戻したのは自分なのに、何故全裸の男が可愛がられるのかを。
「ガールズ!仕事だよ!早くしな!」
「アレクセイ!」
恋の女神たちを振り切りグレゴルが向かってきた。
「よお、グレゴル。良い御身分だな」
「誂うな、部下が世話になった。本当にありがとう…我が国の問題を一般市民や傭兵に一任してしまう事は恥ずべき事だが、そんな綺麗事を言っている場合では無かったな」
「全くだぜ」
負傷したグレゴルの部下たちは再び朝日を拝めた事に涙していた。グレゴルは部下たちと抱擁する。アレクセイは今は彼らを少し放って置く事にした。抱えたハンを連れて開けた場所に降ろす。
「気分はどうだ、相棒?」
「だいぶ回復しました。世話をかけて申し訳ありません」
「いや、お前がいなきゃ死んでたのは俺だよ」
アレクセイはウン、と伸びをして隣に腰掛ける。
「イテ…」
「どうしました?」
「足、切られてたみてえだ。大した事ねえよ、気が付かなかったなぁ」
「改めて感じました。アリョーシャ様は本当にお強いです」
「お前もよく射てたな。実をいうとあんまり期待してなかった」
「私は暗闇でも射てますから」
「そうかよ」
空に鳩が飛んでいく。グレゴル達が放ったのだろう。
「…後は任せて俺達も帰ろうぜ」
「そうですね」
「あ、そうだ。なあ、ハン、さっき珍しいモン拾ったんだよ」
「珍しいもの?」
アレクセイはポーチから青く妖しげに輝く石を見せる。
「それは刹那の飛石ですね。とても貴重な物ですよ」
「高く売れるか?」
「売るよりも使う事に価値があります。高く投げれば原石の下に帰還することができます」
アレクセイは何のことか分からずに首を傾げる。
「つまり瞬間移動が出来るのです」
「ええ!?どこに!?」
「ヴェルムントにあるリムのモスクの近くに原石の礎がありましたね。そこでしょうか」
アレクセイは衝動と本能に赴くままウキウキで飛石を空高く投げた。眩い光が二人を包み込む。次に目を開ければ確かにヴェルムントのリムのモスクの場所にいた。
「流石は刹那の力ですね。丸一日掛かった道中も一瞬で着きました」
眩い光に目が慣れずアレクセイはシパシパと瞬きする。確かにヴェルムントのリムのモスクの前にいた。その力に感心しているのも束の間、アレクセイは込み上げてくる物にウッと口を抑えて蹲る。
「マスター?どうしました?」
「なんかすげえ気持ち悪…」
吐いた。殆ど吐くものが無かったが。ハンは不安げな顔で背中を擦る。
「飛石酔いですね。稀にあるようです。アリョーシャ様はもしかすると魔法に耐性が無いのかもしれません」
「クソ…!便利だが使い所は考えねえと…ヴェッ」
アレクセイの回復を待って念願の自宅に向かえば、ベルントが座して待っていた。アレクセイの姿を見て待ちわびたように立ち上がる。
「早かったな」
酷い顔のアレクセイに飛石酔いとはつゆ知らず、ベルントは「よくやった」と肩を叩いて労った。
「今夜、酒場で会おう」
詳細は聞かずにそれだけ言ってベルントは去っていった。家の改装は済んだようで、中は見違えるように美しくなっている。少し狭いが、暮らしていく分には不自由は無い。アレクセイは気分の悪さなど吹き飛んだ。記憶はないが“自宅”と呼べるものを持つことに憧れのようなものを抱いていた。叶うはずもなかった念願が叶った、そんな気分でいた。柱や壁、真新しい家具を手で撫でる。家の隅々を見て回った。ハンは何をするでもなく突っ立って辺りを見渡す。アレクセイは何かに気づいたように「お!」と声をあげてハンを手招いた。
「来いよ、ハン」
「はい」
地下に続くスペースだ。ハンはハッとする。
「キッチン、狭いけど作ってもらったぜ」
「これは…!嬉しい驚きです。ありがとうございますマスター!大切に使わせて頂きます!」
ロドリグおじさんに弓貰った時よりはしゃいでるじゃねえかよ。
ハンはキッチンの中のものを物色する。料理をしたことがないアレクセイにとってキッチンの重要さは理解出来ないが、ハンが目を輝かせている姿は奇妙な心地よさがある。アレクセイは自分でも気が付かぬ内に、この風変わりな従者の作る料理が気に入っているのだと素直に感じた。
「ハン」
「はい」
「好きなだけ見てろよ、俺は先に風呂ってくる」
「分かりました」
風呂は宿屋よりも狭いが、殆ど真新しい物ばかりで清潔感は申し分無い。アレクセイはベルントに感謝した。(が、アレクセイ本来の持つ貯蓄で多額のローンを組まされている事は全く知らない。)
「いっ、ッ…うわ、やべぇなこりゃ」
アドレナリンが抜けきると負傷した肉体は痛みを伴ってくる。裸になって初めて細かな傷や怪我に気付く。特に胴体部の青痣は酷い。真近で爆発を受けたのだ。ただの人間なら死んでいただろう。それでも普通なら動けない程の傷だ。アレクセイは改めて“覚者”という物がどれほど異質なのかを感じた。
「足の傷も塞がってる」
俺もいよいよバケモンだなぁ。つか、どの程度の傷なら死なずに済むんだ?つーか俺、死ぬの?死ぬ…か。俺のご先祖様も死んだみてえだし。俺の体で実験なんて嫌だけど…後でそれとなくハンに聞いてみるか。
思いつつ湯に浸かればノルアドレナリンが優位になる。襲ってきたのは眠気だ。強行軍の末、二日に及ぶ戦闘だった。眠いのは当たり前である。
「…風呂ったら即寝しよ」
アレクセイが風呂から上がれば、ハンは荷解きをしていた。いつの間にどこで摘んできたのか、テーブルに花が添えられている。どこまでも献身的で気配りの利く男だな、とアレクセイは改めて感じた。
「ハン、切りの良い所で手を止めておけ。お前も入ってこいよ」
「はい」
アレクセイはタオル一枚を腰に巻いたままベッドに横になった。
あー風呂上がりの濡れた体に冷たく貼り付くシーツが堪んねえ…
「………ん?」
あれ?待てよ、ベッドひとつ??俺、行き掛けに二つ発注した筈だよな。
アレクセイは見積書を捲った。家具の項目には確かにベッドは二つと書いてある。どういうことか分からないが何をすべきかは分かる。
後でベルントをぶん殴るか。
アレクセイは眠気よりも空腹が優位になっていた。
「腹減ったァ…そういや何も食ってなかったな」
ハンが風呂を終えるのを待てなかった。ハンの鞄が目に留まる。直ぐ様鞄を漁れば様々な場所から保存の効く食糧品が出てくる。
「お!スーシキ!アイツいつの間に?ベリーのジャムもまだあんじゃねえか」
※スーシキ/スーシュカとも言う。ドーナツ型の手のひらサイズの乾パン。塩味と甘味のバランスがよく歯応えのいいビスケットのようなもの。サモワールなどの湯沸かし器に紐で吊るされて保存していたりする。お茶請けにも甘いワインにも合う。但し保存が経ちすぎるとおが屑みたいな味になる。(少なくとも二年経つとホームセンターの材木売り場の味になった)
「スーシキにはやっぱりお茶がいるよな」
アレクセイは顎を撫でる。サモワール(湯沸かし器)が欲しかった。生憎キッチンには立ったことはなく、勝手が分からない。スーシキにジャムをつけて齧りつつ大人しくハンが出てくるのを待った。ややあってハンが出てくる。また髪が短くなっている。髭も整えたようだ。アレクセイは仰向けになったまま逆さの世界を見ている。
「…お前も体の痣がすげえな」
「見た目が派手なだけです。もう痛みは殆どありませんよ」
アレクセイは「フーン」と言いつつ起き上がると、タオルで頭を拭くハンの無防備な脇を指でつつく。
「いっ!?」
ゲラゲラ笑うアレクセイをハンはどうにもならない顔で見つめる。
「……何をしているんですか、まったく。人の傷をつついて楽しいですか?」
「めっちゃ楽しい。ハン、お湯沸かしてくれよお湯、お茶飲もうぜ」
ハンは食べ散らかされた跡を見てげんなりする。掃除をしてもした傍からこの覚者は散らかすのだ。
「空腹なのですか?」
「二日食ってなかったからな」
「では、凱旋祝いとして少し高級な物を作りましょう」
「大好きハンさん」
「フフ、何を隠そうとてもいい食材が手に入りましたからね」
アレクセイは期待に目を輝かせた。ハンは小さな氷室から布に包まれた大きなものを取り出す。
「お?なんだそりゃ」
「リザードマンの尾ですよ」
「……え?」
もしかしてお前、俺がマリーニャちゃんと待ってた時それを探して下処理してたのか?とんだサイコパスじゃねえかよ。
さて、今回は…
「ちょっと待て、料理をおっ始めるな、なにか大切な事を忘れてんだろ」
「大切な事ですか?」
「それ食えんのかよ?」
アレクセイはリザードマンの尾を指差す。
「ええ、この国の人々も私が赴く異界でもよく目にします。滋養強壮が高いので祝辞などで振る舞われる高級食材です」
「いやいやいや、他にもっとあるだろ?普通の肉が、豚とか鶏とか牛とか」
ハンは首を傾げる。それから旅の先々でアレクセイが何処となくリザードマンに対して消極的だったのを思い出した。
「アリョーシャ様、私の憶測なのですがリザードマンが苦手なのですか?」
「いやそんなことない苦手じゃないけどそんな気分になれないだけというかなんというか」
早口で捲し立てる。ハンはスゥと目を細めた。
「アリョーシャ様」
「なんだよ」
「別に何も取り繕う必要はありません。苦手なら苦手だと仰有って頂ければいいのです」
アレクセイは「ぐ…」と言い淀む。
「に、苦手じゃねえしュ!」
噛んだ。ハンは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「では調理を開始します」
「ちょっと待てェ!」
気を取り直して、今回はリザードマンの尾を使ったテールスープを作りましょう。このレシピには新鮮なリザードマンの尾が欠かせません。リザードマンの尾は切り落としたらすぐに綺麗な流水で血抜きをしましょう。水気をよく切り、切断部位に塩を塗り込みます。アカツキ草の葉で包めば抗菌作用と共に臭みを消す効果を得られます。ひと晩寝かせて熟成させたテール肉がこちらです。ツヤツヤで美しいですね。
「ハン、腹減ったんだけど」
「……あなたって人は、お茶をいれますのでスーシキでも食べていなさい」
──五分後…。
大鍋に湯をたっぷりと沸かし、塩と野菜クズを入れテール肉を入れます。ニ時間程臭みを取る為に茹でます。
「お?もう出来たのか?」
「いいえ、まだ下処理の行程ですよ。出来上がりは昼過ぎですかね」
「フーン」
アレクセイは未だに服も着ずにベッドに転がってスーシキを齧っている。
「マスター」
「あ?」
「そろそろ服をお召しになっては?」
アレクセイは生返事をしつつシャツに袖を通していく。
「マスター、ボタンが違えていますよ」
「どれが?」
「どうしようもない方ですね」
「ああ?」
ハンはシャツのボタンに手を掛ける。直しつつ、メルヴェのウルリーケに「とんでもない人の従者になったわね」という言葉が今になって響いていた。確かにその言葉の通りだ。ハンは付き従えた覚者こそ二人目だが、手助けをした覚者の数は数千人にも及ぶ。誰一人として忘れた事は無いが、アレクセイは数ある覚者の中でも一線を画している。
「ん、ハンもういいって、後は自分で出来るからさ」
そこへ控えめなノックの音と共にベルントがドアを開けた。
「アリョーシャ、言い忘れてたんだがベッドの発注が遅れ…て」
ベルントが見た光景はベッドに座り込むアレクセイとそのアレクセイのシャツのボタンに手を掛けている従者の姿だ。傍目にはこれから情熱的な行為に及ぼうとする様だろう。ベルントは咳払いをしつつ「すまない」と一言謝った。
「あとで出直す」
ドアが勢いよく閉まった。
「出直すンじゃねえ!ナニ勘違いしてんだよテメェ気持ちわりぃな!」
ベルントは額を抑えつつ人差し指を立てて戻ってくる。
「リョーシャ!言葉遣い!!」
「ああ?」
「お気持ち察しますよ、ベルント様」
ベルントからの説教も程々に、とにかく今夜はベッドがひとつしかない事態になった。それは寝袋を敷けば解決する為、それほどの問題ではないが、別の問題に直面したのはベルントからの新たな依頼の件だった。城内でも発言権の強い公妃派のひとり・財務官のアロルドという男の執務室に再び侵入してほしいという内容だ。アレクセイは「またか」と思った。
「勘弁してくれベルント…」
「すまない。お前を政治のくだらないいざこざに巻き込んでいる事には臣民のひとりとして責任を感じてる」
アレクセイは両手で顔を覆う。そんな事を言われては断れる事も断れない気がした。
「アロルドは買収や収賄で今の地位に昇りつめたような男だ。財務官という職権を振り翳し、あまつさえ国庫の資金にまで汚い手を伸ばしている」
「典型的な悪代官って奴だな。目に見えて悪党なら俺もまあやりやすい。何をすればいい?」
「使途不明金の証拠を見つけてきてほしい」
「また漠然とした内容だな。この前も結構大変だったんだぜ?」
「わかっている。しかし、今回は心強い協力者がいる。何分、その協力者こそがお前を推薦したのだ」
アレクセイは気乗りしなかったが、それを聞いて少し興味が湧いた。
「そいつは誰だよ」
「スヴェン公子だ。既に知り合いのようで驚いたものだよ…お前の事をいたく気に入っていた」
「そりゃ俺は皆から愛される覚者様だからな」
ベルントは額を抑える。頭痛がしてきた。夜勤明けだからかもしれない、とそう思い込む事にする。
「まったく…何故竜はお前を選んだのか、俺でも納得する理由があるのか一度問い質してみたいよ」
「近い内に紹介してやるさ、お前を黒焦げにしないようしっかり躾しておく」
「バカも休み休み言え」
「で?俺はスヴェンと会えばいいのか?」
ベルントはひと息つきつつ「いや」と切り出す。
「今、スヴェン公子は自室に幽閉されている」
アレクセイの眉がぴくんと動く。
「…そいつは聞き捨てならねえな、多感な時期の子どもの反抗期を縛り付けると後々痛い目に合うってのに…そもそも身内を幽閉しておいて誰も不審に思わねえのか?」
「何もディーサはヒステリックが理由でそんな真似をしたんじゃない。幽閉といっても形だけだ。現覚者王を含め、政権の支持率は前摂政公とは比較にならんほど低い。国民からの顰蹙を買うようなスキャンダルは出来るだけ避けたいだろう」
アレクセイはニヤリとする。
「読めてきたぜ、そこにアロルドの不正の証拠を見つけりゃ、信用は地の底だな」
「ああ」
そこへハンが二人分のお茶を持ってきた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
「気が利くよなお前ほんと」
「マスターが飲みたいと仰有ったのでは?」
アレクセイは「んー」と言いつつ音を立ててお茶を飲んだ。
「ン!うま!」
うわあ、なんだコレ!口ン中がめちゃくちゃいい香りだ。砂糖も入れてねえのに仄かに甘い。
アレクセイがほっこりしていると、ベルントもまた香りの良いお茶に頷く。
「これは壮麗花をブレンドしたのか?」
ハンは嬉しそうに頷く。
「左様です」
「ヴェルムント人には馴染がない。隣国のバタルではポピュラーな飲み物らしい。防衛部隊に獣人の教官がいるのだが、以前にこれをご馳走になったことがある」
「ああ、そうですか」
ハンのそのさっぱりとした返事にアレクセイは首を傾げる。
「なんだ、知らずにやってたのかお前」
「ええ。本来は薬として使うのがメジャーなのですが、ステビアに似た甘味とモクセイのような香りがするので試しにと…」
アレクセイは「フーン」と言いつつやはり音を立てて飲む。ベルントはスン、とした顔をした。
「静かに飲め」
「好きなように飲ませろ」
「記憶を失おうが何だろうが、変わらねえな」
淑やかになったとしてもそれはそれで恐ろしいのだが…。
「んあ、そうだベルント、ディーサの手紙について何か分かったか?」
「少し進展があった。あの手紙の内容は花や化粧品の礼状だったのだが、ディーサの侍女の話しによると暫くそういった品物は届いていない。恐らく花や化粧品の名前は“隠語”なのだろう」
「実際ナニが届いてるんだ?」
「それは調査中だ…それと」
ベルントは言い淀む。
「なんだよ」
「いや、あまり関係ないかもしれんが、近頃ポーンたちの様子がおかしいように思う」
アレクセイはキッチンにいるハンを呼びつける。
「はい、覚者様」
「ベルントがよ、お前のお仲間の様子が変だと言ってる。なにか分かるか?」
「さあ…検討もつきません。どのように様子がおかしいのですか?」
「…なにか、落ち着きがないように思う」
「覚者様が近くにいればポーンは自ずと惹かれます。人間にとってはそれは奇怪に映るかもしれません」
ベルントは考え込む。今までポーンについてそれ程意識が向かなかった。確かにそう言われてみればそう感じる。
「杞憂ならそれはそれでいいのだが」
「ハン、お前らポーンはなんで覚者とそうでない奴の違いが分かるんだよ」
「分かるからです」
「お前さ…」
「すみません。そうとしか言えないのです。近い表現で言うなら“本能”かもしれません。蝶やミツバチが花の蜜へ惹かれるように、私たちは生まれた時から覚者様へ惹かれるのです」
「それなら理解はしやすいが、花に例えられるとはな」
「それは私も同感だ」
「しかし、ポーン同士でしか共有出来ない情報も確かにあります。アリョーシャ様、今夜私は少し異界へ赴こうと思いますが、よろしいですか?」
「異界?お前まだ本調子じゃねえだろ。あの痣、深く息をするだけでも激痛の筈だ」
「今は確かにそうですが私の心配は無用です。寧ろ、私の憂慮は貴方ですよ。私がいない間に何かの騒動に巻き込まれやしないかと」
それを聞いたベルントがアレクセイより先にハンの肩に手を置く。
「痛み入るの一言に尽きる。この男は本当に誰の言うことも聞かないんだ」
「そんなことねえよ、なあハン」
「………」
「なんで黙るんだよ」
「ご容赦を、ポーンは嘘をつけないものですから」
「アリョーシャ、あまりハン殿を困らせるな」
アレクセイは不満気に眉間を寄せる。
「ハン、お前もポーンなら覚者様を信用したらどうだ?俺が神経衰弱の妊婦にでも見えてんのか?」
「いいえ、微塵も」
「なら何も問題ねえだろ。異界でもなんでも出掛けてくりゃいいじゃねえか。俺に遠慮することはねえんだぞ」
ポーン故にハンはアレクセイへ無条件に信頼をしているが、それでも自分の預かり知らぬ所で騒ぎを起こすのではないかと一憂する。
「では、貴方が眠る頃に出掛けましょう。貴方が目覚める頃には戻りますので」
「そうだな、何にせよベッドはひとつだ」
「アリョーシャ様の分があれば充分では?」
「ハン、ケモノにだって自分の寝床はあるぞ。少なくとも俺はお前を床に寝かせるなんて嫌だね」
「わかりました。アリョーシャ様に従います」
ベルントはアレクセイの幼少を知っている分、何故かその言葉が強く印象に残った。今のアレクセイの記憶には無いだろうが、レンナルトの元へ売られる前は自分達の寝床すら満足に無かった。
「アリョーシャ」
「あ?」
「ベッドの件はなるべく急がせる。すまなかった」
アレクセイはぽかんとする。
「あー…ウン、助かるよ。まあ野郎と雑魚寝なんてしたくねえしな」
言いつつボリボリと頭を掻いた。
「ベルント」
「ん?」
「昼飯食ってけよ」
続