富士演習場近くの,黒羽が取ったホテルのレストランで亜夜子と焔矢はディナーに嗜んでいた。2人ともちゃんとした正装であり,亜夜子はドレス,焔矢はスーツという恰好だ。
この3週間は2人とも忙しく,こうして二人でゆっくり話すのは心の処遇について亜夜子が焔矢に報告したあの日以来である。それ以外の時は亜夜子は情報収集や焔矢は作曲や作詞,そして練習に時間を使っていたのである。
到底婚約者とは思えないほど短い時間しか会って来なかった訳だが,そのドタバタも今日で終わりで亜夜子が焔矢を誘ったのである。
亜夜子のドレス姿に焔矢が照れたのはご愛敬で,そう言ったステージから離れた部分の焔矢を見ると亜夜子は今でも本当に同一人物なのかと思う事が多々ある。
2人は個室に案内され,夜景が美しく見える部屋から乾杯していた。
「ライブお疲れ様,焔矢」
カチンと鳴らしたグラスを掲げながら亜夜子が今日ある意味1番目立ったであろう焔矢に労いの言葉をかけ,焔矢も微笑んだ。
「寧ろまだ足りない位だがな」
「九校戦なのだから1曲だけなのは当たり前でしょ?」
主役は貴方じゃないのよ?とからかうかのように,それでも煽情的に色っぽく微笑んだ亜夜子。
普段焔矢は1曲だけ歌うという事も無く,基本的に1度のライブで20曲前後歌う事が殆どだったので焔矢が物足りないと感じるのは仕方がない事とも言える。
だが,九校戦という場を考えれば1曲だけでもライブするのは異常とも言える事だったのは亜夜子も感じていた。
「でもまさか九校戦の場でライブするなんて…よく魔法協会が許したわね」
実は,亜夜子はそうなった理由について”裏”の理由については知っているのだが…よくもまあ焔矢がステージに出る事を許されたものだと本気で感心していた。
因みに裏というのは,新城巳が焔矢を捕らえる為の機会を作る意味というのはさっき文弥から聞いて知った。
「The Last Resortを聴いてくれた魔法協会のお偉いさんがどうせなら当日歌ってくれないかって打診してきてくれたんだ。会長にも聴いてもらうなら当日,初めて聴いてもらった方が色々な意味で記憶に残りやすいかなって思って秘密にしてたんだ」
といっても文弥は知っていたし,本当に知らなかった人間は亜夜子と心だけである。
亜夜子は最初新城巳の捕縛の為に来ていて,そこには焔矢がライブをするという情報はなく亜夜子は当初魔法協会側から焔矢にタイアップの返礼品の1つと言うように九校戦の観戦の為に行くと思っていた。
それは半分正解ではあるのだが,少なくとも焔矢の今日一日の目的は今日のライブの為だった。
UFWが世間に公開されてから2回目のライブ,焔矢は同年代の生徒達を前にしても威風堂々とした見事な演奏をやってのけたのだった。
「亜夜子,会長はどうだった?」
心の処遇は,焔矢から見ても比較的マシな立ち位置になったと言っても過言ではなかった。元々何かしらの精神干渉系魔法を受けていた痕跡に加え,彼女の潜入スキルと何よりも文字通りの読心の能力が買われほぼほぼ強制的に彼女は亜夜子の部下になったのである。
諜報や工作任務をする亜夜子の下で色々やるというのは,心の能力を思えば寧ろ適任だし彼女も”普通の女の子”にはもう戻れないとどこか諦めもあったのか亜夜子の部下になる事を承諾したと焔矢は亜夜子からは聞いている。
そうして処遇によってある程度の自由を心は得たのだが,亜夜子の呼び出しには必ず答える事という制約があるので今日に関してもその権限を使って彼女を九校戦の会場に連れて来たのである。
そして,当初の目論見通り彼女は焔矢の新曲を聴いてどう思っていたのかという問いかけである。
亜夜子はソテーをナイフで丁寧に切りながら答えた
「泣いてたわよ」
「…えっ?!」
流石にそんな行動は予想外だったのか亜夜子と同じようにナイフを使って切ろうとしていた手を止め,ギョッとしたように眼を見開いた。
そんなバカっぽい表情を見たら,いつもの亜夜子ならからかうのがいつも通りなのだが…今の亜夜子はそうする事も無く淡々と小さく切ったソテーを口に入れる。
「そ…そうなのか。じゃあ目的は達成…って事で良いのかな」
独り言のように呟いた言葉を亜夜子は肯定する事は無かった。口に食べ物が入っているからというのもあったのだが,亜夜子がそうしたのは別の理由からである。
焔矢にその理由は知る事は出来なかったが,これで心の音楽が何か変わるのなら頑張った甲斐があったものだと1人納得しながらソテーを口に放り込む。
そんなどこか嬉しそうな焔矢を見て,亜夜子はため息をつきたくなったがそれを寸前に飲み込んだ。彼がこの3週間頑張っていたのは知っているし,焔矢が心に対する云々をしようと思ったのは同族意識からのものだというのは分かっている。
例え,それが他の女を救うために動いているように見えたとしても…誰かの価値観を変えたいという事は大変だしそんな難しい事をやり遂げたばかりの焔矢に更に疲れるような事を言うべきではないと思ったのである。
(嫌な女ね,私)
昔の亜夜子なら…それこそ焔矢の事を意識していなかった頃ならきっとこんな嫉妬などとは無縁な反応をして,「はいはい良かったわね」という所だった。
好きでもない男が他の女の為にあれこれしているのを見た所で何も思わない。
だが,亜夜子は自分でも気がついていないだけで自分の思っている以上に焔矢の事を好いていて…自分の為に曲を作るまではされたことがない亜夜子はある意味心だけの特別な曲を作った焔矢に対して色々ご立腹なのである。
そうして2人は他愛のない話をおかずにディナーをデザートまで食し,そのままレストランを出た。
「私はまだする事があるから部屋に戻るわ」
どこか調子の分からない声色でレストランを出るなり亜夜子が言ってきて,焔矢は一瞬首を傾げたが亜夜子が何かする事あるからという時は大概仕事絡みなので深く突っ込む事が出来ずそのまま2人は別れて亜夜子は部屋にまで帰ったのだった。
今日は焔矢は魔法協会に用意された部屋で,亜夜子は普通に予約した別々の部屋なので焔矢もそのまま自室に戻った。
部屋に帰って来た亜夜子は,軽くシャワーで汗を流して就寝用の服に着替えた後机の上に置いておいたタブレット端末を手に取る。
すると文弥から色々な情報が送られて来ていて,1つ1つ確認していく。
内容としては大雑把に新城巳と,マフィア・ブラトヴァについての報告書だった。
もう直ぐ1カ月前になるのだが,新城巳と焔矢がタイアップの依頼をしに来た時に亜夜子が付いて行ったのは新城巳が怪しい人間だった思っていたからではなく,本当に偶々魔法協会側の意図を自分の眼で見る為だったというのが大きかった。
焔矢が賊に狙われた次の日という事もあったので,偶々なのかそれとも必然だったのかを亜夜子は知る必要があった。
しかし,結果から言えば亜夜子の打ち合わせ参加はファインプレーとも言える事だった。
あの時,AR端末で新城巳のパーソナルデータを見た時…一見してなにも違和感のない履歴だったのだが,亜夜子は新城巳が一時期ロシアに行っていた事があるという所に着目し調べる事にしたのである。
魔法協会に属する人間の全てが魔法を使えるわけではないが,それでもパーソナルデータでは彼は魔法を使えたはずなのに,魔法師の出国が厳しい現代でロシアに行く事が出来たというのはいささか疑うには十分な理由だった。
だから亜夜子は新城巳の事を更に調べる事にして…彼とマフィアブラトヴァの関係について調べ上げたのである。たったの一日で調べ上げる亜夜子の諜報能力を褒めるべきなのか,それとも統率が取れていなくて情報をあっさりと漏洩したマフィアのざるさを呆れればいいのかどちらか分からない状況だったが,亜夜子が九校戦についてレクチャーしたあの日には既に焔矢が翌日狙われる事は分かっていた。
しかし,狙い方が不透明な所があり取り合えず焔矢を誘拐するマフィアの方に張り付いていたのだがその時に焔矢の情報端末から盗聴していた会話から心が焔矢に襲い掛かり,戦闘が余り得意じゃない焔矢が必死に時間稼ぎをしている事をや,心の能力について驚愕しつつ,”分かっていても防げない”という攻撃手段を持つ文弥が学校近くに着くまで待っていたのである。
それが亜夜子たちが遅くなってしまった理由であり,この事の顛末だった。
このタブレットにある報告書は,新城巳から聴取したものを文弥が文字化し報告書として転送してくれたものである。
彼らの目的が,大亜連合から漏れた焔矢の魔法力増幅というものを手中に収め達也の暗殺を達成するという,四葉の契約にしても亜夜子や文弥個人にも許されない所業であり…無事に今日新城巳を捕らえる事でそれも阻止する事が出来た。
まだ他のマフィアは密入国者として入り込んでいるだろうが,それでもこの短期間で一部とはいえ殲滅できたのは良い事だ。
「はぁ」
だが,亜夜子の顔色はそれほど良くなかった。それには複雑な事情があるのだが,話す相手もいないので胸の内にしまっておこうとタブレットの電源を切ると同時…呼び鈴がなった。
「…っ」
既に時刻は21:30,こんな時間に誰が来たのかは分からないが予想は出来る。文弥は新城巳の取り調べとかで既に富士演習場を去っているしわざわざ報告書の補完でやって来るとは考えずらい。
そしてこの部屋を知っているのは消去法で…
「あっ…ごめん,寝ようとした?」
扉を開けると,そこには亜夜子と同じようにシャワーして着替えたのかいつものような白シャツに赤のジャケットに黒パンという恰好の焔矢である。
彼は扉を開けた亜夜子の就寝しようかというパジャマ姿に間が悪かったかと申し訳なさそうな顔をした。
一瞬焔矢の杜撰な格好を見て眼を細めた亜夜子だったが,直ぐにこのまま焔矢を部屋の前にいさせる方が不味いと思い
「いいえ,それよりも部屋に入って?」
「え…あ,うん」
何となく言葉に出来ない違和感を感じながらも焔矢は亜夜子に導かれるがまま部屋に入った。部屋の扉はオートロックなので2人が部屋に入ると自動的に閉まり,焔矢は亜夜子の部屋に踏み入る。
彼女の部屋は一日だけ泊まるだけだからか,それとも今日は単身だったからか…どちらにせよスイートでもなく他の客達と同じシングルルームだった。
それでもそこらのホテルよりも豪華な設備だったが,焔矢がパッと見る限りでは亜夜子はそれほどアメニティとか使っていないようだ。
「それで,こんな時間にどうしたの?」
焔矢はこの瞬間に亜夜子の違和感が何なのかをようやく察する事が出来たのだが,取り合えず元々聞こうと思っていた事を問いかけた。
「亜夜子に聞きたい事があって…新城巳さんについてだ」
焔矢の口からその名前が出てくるとは思っていなかった亜夜子は少し眼を見開いたが,焔矢の問いかけを遮ることなく続きを促した。
「彼がどうしたの?」
「あの人は…もしかして会長のお兄さんじゃないのか?」
「…」
亜夜子は…割と真面目に絶句して焔矢を見つめていた。さっきまで自分のドレス姿を照れて見ていた男とは思えないほどで,流石の焔矢もなんの調査もせずにその真実に辿り着くとは思わなかったのだ。
「…どうしてそう思うの?」
それは言外に半分くらいはそれを認めているという事であり,焔矢の瞳にどこか安心したような光が宿ったのを見て亜夜子は少なくとも自分達の調査結果がバレた訳ではなさそうだと思いながら問いかける。
もしも焔矢が新城巳のしようとしていたことを知っていたら,きっと心にお兄さんが存命しているという事に安堵するのではなく,心を利用していことに怒りを見せる筈だからだ。
「もともと,新城巳さんを見た時にどっかでみたような顔だなとは思ってたんだ」
それは新城巳との打ち合わせの時に焔矢が思っていた事である。当初は亜夜子の金髪サングラスグルグルドリルの髪型に呆気に取られてその余裕はなかったのだが,改めて新城巳の顔を思い出した時に既視感を感じていた。
しかし,名字が違う事もあって心と結びつけることはなくそもそも新曲の課題が山積みだったのでその事を後回しにしていた。
「それで会長とのごたごたの後,亜夜子から会長に兄がいるって聞いた時にも違和感を感じた。」
「それで立てたお兄さん候補が新城巳さんって訳ね」
「うん。名前が違うのは何でか知らないけど,新城巳さんの名前をローマ字に直して並び替えたら天霧になるアナグラムだし…顔のパーツが所々似ているからそうかなって」
亜夜子は新城巳の名前が天霧のアナグラムだと聴かされて思わず内心で「あっ」と思いながら,焔矢のいうように新城巳をローマ字に直して「ARAGIMI」とした後に並び替えると…「AMAGIRI」で確かにアナグラムになるという事に初めて気がついた。
焔矢はその記憶力で心と新城巳の顔も鮮明に思い出せるだろうから顔のパーツが似ているというのも,彼らが実の兄妹であれば納得の出来るものだと考えたのだ。
焔矢の推理はほぼ勘で,物的証拠も何もないが筋は通っている。本当になぜあなたは自分を一般人と言っているの?と思いながら…焔矢の推理を肯定した。
「焔矢の考えは正しいわ。新城巳さんは…心さんのお兄さんよ」
「そっか…じゃあ新城巳さんを会長に会わせる事って」
いないと思っていた肉親がいるというだけでも,心の心理的負担はマシになるはずだという善意からの言葉。だが,亜夜子はそれを一刀両断した。
「それは出来ないわ。」
「え…なんでだ?」
肉親に会わせることが出来ないという亜夜子に,焔矢は怒りを見せる事も無く何故だと問いかける。焔矢だって両親を亡くした身,兄弟とかはいなかったから当時は本当の意味で一人になったと思っていた。
そして,それは多分心だってそうだったはずだ。彼女は”拾われた”という嘘か本当か分からない事の後ろめたさにマフィアに協力していたらしいが,もしかしたら兄が生きていると知っていただけでも何かが違ったかもしれないと焔矢の視点からは思ったのだ。
だからこそ,家族には会わせられないと言われて本来は怒りを感じる所だったのだが…亜夜子のどこか憂いを帯びた表情を見てただ茫然と問いかけたのだ。
亜夜子は内心で無駄なことをツッコまない焔矢の性格をほくそ笑みながら,それでも思う事があるので淡々と返した。
「新城巳は,もう四葉の手の内だからよ」
「…はっ?」
つまり,焔矢の視点から言えばタイアップの為にあれこれ動いていくれた新城巳が,何かをしようとして四葉の人間に拘束されたという事。
心とかならまだ分かる。彼女は前まで自分を,そして達也を狙う輩に加担していたのだから今四葉の監視下にあるというのは分かる。だが新城巳に関しては焔矢の想定外の所で四葉に捕らえられていると知って,逆に驚愕しない方が無理というものだ。
「いやいや…なんでだ?」
四葉は基本的に何もやっていない人間に対して何かをするという事はない。理不尽に命を奪う事はしないし,心のような唯一無二を持っている魔法師であれば傘下に入れるくらいの度量の深さは持っている。
何もしなければ何もしてこない,というのが「アンタッチャブル」と呼ばれる所以だ。
寧ろ,本当に何もしていない焔矢が一時期四葉に狙われたのが色々な意味で普通ではないのだ。
だから,亜夜子達が新城巳を捕らえたというのならそれなりの理由があるという考えの下での問いかけ。
亜夜子は一瞬,彼に事実を話すかどうか悩んだ。
これ自体は正直胸糞の悪い話だし,このまま四葉の仕事だからと突っぱねても焔矢は無駄な深追いはしないだろう。
既に心の処遇については安堵して,そして自分の目標は達成しているのだから第三者である新城巳の処遇なんて聞かなくても多分焔矢は日常を続ける。
亜夜子も仕事と焔矢との事はそれなりに線引きしているし,焔矢もその事は理解してくれている為に尚更だ。
そこまで考えて,亜夜子は焔矢の精神衛生上の為にも話すのはよしとこうと思った所…
「亜夜子がなんか調子悪そうなのと…関係ある?」
思わぬところからそんな事を言われて,亜夜子は一瞬戸惑ったように眼を大きく見開いた。
目の前の焔矢は,普段余り人を心配するという事に慣れていないせいなのか,それとも純粋に心配なのか…どちらにせよヨルみたいな悲しそうな顔をして亜夜子の事を見つめていた。
そんな顔を見た亜夜子は,思わずクスっと笑った
「あら,どうしてそう思うの?」
亜夜子は内心,結構喜んでいた。
しっかりと隠していたつもりである自分の感情の機微に,婚約者である彼はしっかりと気がついてくれた事に。
それが思いのほか自分の事を理解してもらっているという事であり,その事に嫌悪感ではなく喜色が浮かんでしまう辺り亜夜子も相当焔矢に絆されているようである。
もっとも,焔矢はその事を知らないし寧ろ今こうして笑った亜夜子の魔性な笑顔が美しくてつい照れた。
「いやだって…何となくいつもの3倍位はテンション低いし,普段俺をからかうような所でからかう事してこないし」
焔矢が亜夜子の違和感に気がついたのはこの部屋に入る時の事,普段の亜夜子であればアポも無しに来た焔矢に対してケラケラ嗤って「夜這いしにきたの?」くらいの事は言ってきそうだったのにそう言う事も無く普通に部屋に通された事が焔矢にとって違和感だったのだ。
そしてその事を指摘すると,さっきまでの事も忘れたのか亜夜子は途端に悪戯心に火が付いたように紅い瞳に蠱惑的な光が宿った。
「ふふっ,からかってほしかったの?」
「…まあ,そうかもな」
「——っ」
からかったつもりだったのに,思わぬカウンターを食らって亜夜子は言葉に詰まった。それこそいつもの焔矢なら「やめろ」とか言うのに,素直に肯定されてその先の言葉を用意してなかったのだ。
焔矢は焔矢で恥ずかしい事を言った自覚はあるのか,少し顔を赤くしながら眼を反らしていた。焔矢にしてみても今のはクロスカウンターだったのである。
こうなった時に復活が早いのはやっぱり亜夜子である。
「ふーん,じゃ…こっち来て?」
「え,なに?」
「いいから」
亜夜子は立ち上がると手を差し出し,その手を焔矢が取ると移動して…いつかのように焔矢をベッドに放り投げ,亜夜子も焔矢の隣に一緒に倒れた。
「あ,亜夜子?」
顔と顔が直ぐ近くにあり,少し動けばキスも出来てしまいそうなほど近い距離。少しいきなり過ぎる亜夜子の大胆な行動に焔矢は口をあわあわとしていた。
そんな焔矢の様子を亜夜子は愉しそうに見て,そっと自分の右手を焔矢の頬に添える。焔矢は恥ずかしそうにするが,亜夜子のその手を取ることはせず逆に自分もそっと左手を亜夜子の頬に添えた。
「焔矢からすれば,多分凄くやるせない気持ちになる話。知った所でどうする事も出来ない。…それでも聞く?」
そうして,亜夜子は最後の確認の為に問いかけた。亜夜子のその問いかけから,焔矢は彼女が割と重い話をしようとしているのが分かった。
亜夜子はいつだってそうだった。亜夜子から見て焔矢がしなくても良い事を,わざわざしようとしていた時は焔矢を何度も止めようとしてくれた。
拘束した天王達と対峙しようとした焔矢を,亜夜子は偽善だと言って止めようとした。今回も同じ,いやその意味はあの時よりもずっと明確で亜夜子は焔矢に傷ついてほしくないのだ。
いろいろな出来事を経て,絆を大切にしてきた焔矢には聞かせたくない話で…だから焔矢の知らない所で闇に葬ろうと思っていた。
焔矢に余計な傷を付けたくなかったから。
焔矢も亜夜子が本当は身内にはとっても優しい女の子という事を知っている。四葉の悪い噂よりもずっと人間らしく,彼女達が冷酷であるのはあくまでも仕事の上であって真実ではないのを知っている。
亜夜子と婚約してからはその事を更に意識するようになり,焔矢自身には四葉に対する偏見はそれほどない。
だから,亜夜子が自分を傷つけたくないが為に話そうとしなかったのだと悟り…亜夜子の問いに頷いた
「会長の事とか抜きにしても,俺は…亜夜子にだけ嫌なことを押し付けたくない。そりゃ…亜夜子の仕事のお手伝いとかは俺には出来ないけれど,辛さを共有する事は…出来るよ」
そう,焔矢がこの話を聞きたいのはあくまでも亜夜子との辛さの共有の為である。亜夜子1人が嫌なことを感じなければいけない訳ではないと焔矢は言っているのだ。
なぜなら
「だって俺は…亜夜子の婚約者だから」
全く理論的じゃない焔矢の婚約者だからという言葉を,亜夜子は笑う事なく…優しく微笑んで受け入れた。
「新城巳さんと心さんは年の離れた兄妹,これは良いわよね」
そして確認するように問いかけ焔矢は迷うことなく頷いた。
「新城巳は,心さんが中学2年の時にロシアに渡っていた。」
焔矢はその事を意外に思い少し眼をパチパチさせたが,必要な情報なら亜夜子は話してくれるだろうと口を挟む事はしなかった。
「ここで焔矢に問題,心さんはあの事故の時忽然と姿を消した訳だけどどうして彼女だけが姿を消したのだと思う?」
そこで亜夜子はいきなり問題形式でそんな事を聞いてきて,焔矢は少し戸惑いながらも「そりゃあ心を読める能力を知っていたからだろ。或いは生きている人間なら誰でもよかったんじゃ」…と言おうとして,事はそう単純な問題ではないと思い直した。
確かに言われてみれば変な話で,そもそもなぜマフィアの人間が事故の所にいたとか,他にも少数だが生存者がいた中でどうしてピンポイントで心を選んだとか疑問点が直ぐにこれだけ浮かんだ。
心が狙われたであろう読心だって,そもそも生と死を彷徨っていたであろう心の様子を見るだけでは分からない筈だ。
焔矢はそこまで考えて新城巳が一時期ロシアに渡っていた事が大事なのだと思い直した,亜夜子が無意味な前置きをする訳がない。彼女は癖なのかは分からないが報告すべき事を理路整然と話す事が出来る女性だ。
だから無駄なことは話さない。必要な事だから話したのだと考えて…
その可能性に至った時,焔矢は大きく眼を見開き絶句してしまった。
「おい…まさか,新城巳がロシアに渡った時にマフィアと手を組んで…会長の能力の事を教えたのか?」
マフィアブラトヴァと言うのがロシアンマフィアとシシリアンマフィアの連合体というのは以前亜夜子に教えてもらったことで,心と新城巳,そしてロシアを繋ぐのはマフィアという事しか焔矢には考えられなかった。
だが…これは兄である新城巳が心の事をマフィアに”売った”ということであり,焔矢から見ても腸が煮えくり返るような最低最悪な家族からの裏切りだ。
そして…こんな少ない情報からそれを推理し言い当てる事が出来た焔矢の推理力に畏怖にも似た気持ちを感じながら亜夜子は頷いた。
「彼はロシアでマフィアに取り憑かれて帰国,…貴方と同じ便で北海道に渡る心さんを誘拐する計画だったそうよ」
それは焔矢の思っていた数段は重い話だった。
焔矢の中では感動の家族再会の物語だと思っていたのが,実は違くて家族の裏切りの物語だったのだ。
「新城巳は,心さんみたいに魔法を手放す事が出来なくて自分を必要だと言ってくれたマフィアに魂を売ったみたいね」
「それで会長も売ったってのか」
信じられないという感情と,新城巳に対しての怒気が焔矢から溢れるのを見ながら亜夜子はその言葉を肯定した。
魔法師は自分を兵器として受け入れている人間もいる事を亜夜子は知っている。父親である貢は娘と息子が大好き過ぎているからそんな事を考えていないのは知っている。
焔矢を助けたのだって,巻き込んでしまったことに対する申し訳なさと両親を死なせてしまった申し訳なさからだと亜夜子は思っている。最もこの2人はあの日以降一度も会っていないが。
新城巳はそんな貢とは正反対で,自分は兵器だと思っていて…その忠誠心から彼は自分の妹の隠しておきたかったであろう能力を教え彼女がマフィアに囚われる原因を作った。
新城巳は自分の戸籍を改竄し,名前を偽り…心の誘拐計画を立てた。
結果から言ってしまえば,恐らく同じ飛行機に乗っていたであろうマフィアの誰か…五体満足でテロから逃げ切り心を誘拐する事が出来たと思えば恐らく魔法師が心を誘拐し心の記憶を改竄し,洗脳したのだろう。
実の兄に売られたと知ったら,心は立ち上がることがそもそも出来なくなる可能性だってあった。それでは心を利用したいマフィアにとっては誘拐した意味がない。
だから兄の記憶を何かしらの魔法で改竄し,彼女が潰れないようにマフィアに依存させる事にした。それが心が事故で失った両親の代わりの衣食住の提供であり,学校の学費だったりして…心はまんまと彼らに依存させられていた。
「…マフィアって言うのは想像以上に性根が腐っているみたいだな」
焔矢もそんな毒が出てしまう位には辟易して…亜夜子の言ったやるせない気持ちになるという言葉の意味を知った。
確かにこれは,兄に会わせたいと言った自分自身を殴りたくなるような話だ。こればかりは焔矢にどうする事も出来ない話で…多分,心にとってはこのまま兄の事を忘れていた方が良いだろうというのが本音だった。
婚約者が呟いた言葉で,彼もこの問題のやるせなさというのが伝わったのか亜夜子は真剣身を帯びた表情で彼の瞳を見つめた。
「そう。焔矢は…そんな人がいる世界を変えたいと思っているのがどれだけハードルが高いか…少しは分かった?」
焔矢は心に対する音楽の破壊する話をした時に言った。焔矢のいう世界を変えるというのは,例外の1人も無く全ての人間の世界を音楽で変える事。
身内を平気で売るような輩がいる世界を変える事が,どれだけ大変なのか…亜夜子に言われるまでもなく知っていた。
だから…
「ああ…改めて突き付けられたのは分かってる。だけど,簡単に叶う野望ではないのは最初から分かっている事だ。俺は…俺達は俺達が信じる力で世界を変えてみせる。」
つまり,焔矢にとってやることはそれほど変わらないという事。
世界の裏について垣間見た今回の一件を見ても,揺るがない焔矢の意志をキスしてしまいそうなほど近い距離で見た亜夜子は微笑んだ。
「焔矢…野望って言い方はどうかと思うわよ?」
あなたはどこかのラスボスかという亜夜子のツッコミ。彼女的には夢とか理想の方がポイント高い言い方なのだが,焔矢が野望と形容したのは理由があり
「夢や理想じゃない,ここが
焔矢達にとって”世界を変える”というのは目標であり,それを夢や理想という抽象的なもので未来に向けてキラキラみたいな表現するのには収まらない誓で,表現するには野望と言った方が良いと思ったからである。
亜夜子は「そうはいっても,そう言う後ろめたい事をしている輩は音楽なんて聴かないわよ」と言おうとして…その言葉を飲み込んだ。
なぜなら,今日も改めて突き付けられたではないか。
焔矢達の音楽は音楽の押し付けの究極系だ。だが直接そのサウンドを叩きつけられた人間はほぼ例外なく焔矢達の音楽に取り憑かれる。虜になる。もっと聴きたくなる。
この22世紀に入ろうとする現代で,生演奏ライブで今や日本そして世界に名前を轟かせつつある焔矢の人気が上がって来ているのを亜夜子は知っている。
彼らの音楽は”そう言う風に”出来ているのだ。
だから,例え新城巳のような人がいたとしても…彼はきっと「聴かないなら聴かせる」というに違いないと思い直したのである。
今の焔矢にとって悔しいのは,自分のライブの裏で新城巳が自分を誘拐しようとしていた事である。それは逆に言えば新城巳に自分の音楽が本当の意味では届いていなかった事と同義であるからだ。
「そうね,ここが現実だもの」
なので,亜夜子は頬に添えていた自分の手を焔矢の頭に回してコツンとお互いのおでこをくっつけた。
「亜夜子?」
「焔矢のそういうリアリストの所,結構好きよ」
「…っ,いきなり言うな恥ずかしい」
本当に恥ずかしいと思っているのか,思わず顔を反らそうとしたが亜夜子が頭を持っている為それも叶わず2人は直ぐ近くで見つめあう形になった。
そして亜夜子はそっと焔矢の顔に自分の顔を重ね,数秒経つと離れた。
「…亜夜子,なんかまだ不調?ていうか,怒ってる?」
何の脈絡も無く,以前一緒に寝た時にですらしなかったキス…普通なら嬉しいはずだし焔矢は実際結構嬉しかったのだがそれとは別に亜夜子がいきなりしてきたことに戸惑い,理由がやっぱりなにかあるのではないかという問いかけ。
初めて2人がした時も,亜夜子は自分の好意を証明する為にやったがあれ以降2人がキスしたことは今の今までなかったから焔矢にしてみれば普段しない事をする亜夜子が不調だと思うのは当然…ではないが変だなと思ったのである。
しかし,亜夜子は焔矢の躊躇いがちな問いかけに逆に面白い事でも聞いたと思ったのか色っぽい笑みで応える。
「そんな事言うならこれからキスなんてしてあげないわよ?」
せっかくキスしてあげたのにそんな事を言われれば誰だって思う事があるだろう。ある意味信頼されていない言葉なのだが,亜夜子も焔矢が本気でそう言っている訳ではないのは分かっている。
焔矢にしてみても,あの日以降しなかったキスをされて頭が少しハイになって違和感と喜色をごちゃ混ぜにした結果こんな事を言ってしまったのだろうというのは見れば分かったからだ。
だから亜夜子のもうキスしてあげない宣言も,お遊びの一種だったのだが,亜夜子のキスによって焔矢は少し幼児退行してしまい
「そ,それは…こまる」
そう言って亜夜子の頭に手を回し,控えめに頭と頭をくっつける。心なしか,亜夜子を抱き寄せる力も強くなって2人の身体が密着する。
それをしている焔矢本人は凄い顔を赤くしてしまっていて,正気に戻ったようだがこの状況からの言い訳が思いつかなくて…亜夜子の事を感じていた。
そして反対に,焔矢からそんな可愛い感じで困ると言われた亜夜子は亜夜子で内心結構ときめいていた。
普段は飄々とした焔矢が,自分の前ではこうして”好き”を表してくれる。
それが嬉しくて亜夜子の頬もさっきまで暗い話していた時とは正反対に緩み,焔矢の頭に回していた手で彼の頭を撫でる。
「うそうそ,これからもしてあげるから」
まるで小さな子供をなだめるかのように言うが,焔矢は特に気にする事も無く安堵したように笑った。
「あ,でも少し怒ってるのは本当」
「えっ?!」
なんかいい感じに物語として終わりそうだったのを,亜夜子はぶった切ってきて焔矢は目を丸くしてマヌケ面を披露する。
そんな焔矢をクスクス笑った亜夜子は答え合わせするかのように答えた
「だって焔矢,この3週間他の女の事を考えてたじゃない」
「うっ…いや…」
今回の新曲は九校戦を戦う生徒達と心の曲の為必然として心になにをぶっ放したら音楽を破壊できるのかを考えながら色々やっていた事は否定の出来ない事。
「でもあれは…」
結果的に心の事を考えていたであって,亜夜子の好きという事実は変わらないよ?という言い訳にも近い言葉を言おうとして…その前に亜夜子の頭を撫でていない方の手が口を動かそうとした焔矢の口元を止める。
そうして亜夜子は妖艶とも言える,美しくも危険な香りがする笑みを浮かべて
「今度の日曜日,オフだったよね?」
「え…う,うん」
そんな事を聞かなくとも,焔矢のオフの日なんて亜夜子は知っているに決まっているだろという疑問符を命一杯浮かべた焔矢。焔矢のオフの日と亜夜子の休みが重なる事はそれほどないのだが,焔矢に言っていないだけで亜夜子は最近目立った仕事がない。
というよりも,文弥が黒羽の次期当主になる為に最近は更に邁進している状態であり諜報任務や工作任務に亜夜子が充てられる事が少なくなったのである。
亜夜子の魔法は諜報向きである為,下手に頼り過ぎると自分の潜入スキルが上がらないのだ。達也絡みの時に文弥が自分を頼る事が少なくなってきたのは亜夜子自身も感じていた。
それだけ弟が成長しているという事なのだが,そう言った事情もあって亜夜子がフリーになる日が最近は少し増えて来たのである。
「この前の貸し,返して?」
この前の貸しというのは,亜夜子が焔矢の為に九校戦をレクチャーした時の事である。亜夜子は間違っても焔矢の命を狙う賊を捕らえた事かは貸しとかにはしない。あれは四葉の契約の名の下に行っている事であり,彼は既にその条件として四葉に入っている。
だから亜夜子が彼に貸しを作るのは大概が個人的な用事の時である。
焔矢は普段オフの時に何をしているのかと言うと…亜夜子に会わない以外では大概楽器に触って歌ってヨルと戯れて筋トレしたり…ほぼ練習の日と変わらない時間を過ごしている。
だから,こうでも言わないと焔矢はオフの時間を空ける事をしないのは亜夜子は経験則から知っていた。
…まあ,事前に言われていれば焔矢も普通に亜夜子について行くのだが。
「…お手柔らかにお願いします」
亜夜子の悪戯心に灯が付いたその表情を見て,なんかヤバい事をされそうだなと思いながらも…結局亜夜子には逆らえないし,それに一緒にいること自体は嬉しいので”しょうがないなぁ”と言った様子でそのデートの誘いを許諾したのだった。
お疲れさまでした!!
九校戦編は終わりです!次回はただのデート回です。
分かりにくかった人用に→心と新城巳は年の離れた兄妹。ただ心が魔法に拘らなかったのに対し,新城巳は精神干渉系魔法という希少性も相まって劣等感とかはありながらも魔法を捨てられなかった。
そんな時にロシアに行って,マフィアに取り込まれる。マフィアを崇拝した結果妹である心の情報を売り誘拐計画を立てる。偶々テロによって飛行機ごと落ちてしまったけど,マフィア側の人間は魔法でどうにかして心を誘拐。兄の記憶があると色々面倒なのと,マフィアに依存させる為に記憶を改竄。学費とか衣食住を提供しマフィアに依存させた。
ってな感じです。
今回の編で洗脳の精神干渉系魔法を使ったのは魔法の強度が弱い心と,彼女の兄である新城巳です。ちょっとややこしくし過ぎたと思いながらも,こんな感じでした。
亜夜子がやるせないと言ったのは,心が堕ちたきっかけは兄のせいであり家族からの裏切りに対して思う事があったからです。
亜夜子は個人的な主観になりますけど,それなりに家族愛を信じている方だと思ってます。勿論深雪父のように”どうでも良い”と思っているとかはあると思いますが,貢との関係とか見ていたらそう思いますね。
では,次回はただの?デート編です!
どのお話見たい?
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達也&焔矢(UBW強化話?)
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空澤&焔矢(亜夜子についてあれこれ話す)
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貢&焔矢(修羅場)