廣井きくりをぶん殴りたい。 作:けらんぐ!
インディシーンで人気のベーシストが死んだことは、ちょっとしたニュースになった。
彼女は何者かに顔面を強く殴打されて、頭蓋骨にひびが入り、脳液が少し流れ出ていた。
手の甲には刺青があった。
そのことはあまり追及されなかったが、一部の人間は反社会団体との関係を連想したし、事実そうだった。
廣井きくりは、反グレ集団「金色夜叉」の若頭の情婦だったし、彼女を殺したのもその男だった。
飯塚洋平は、彼女の葬儀に参加し、その事実を確信した。
そして、深くため息をついた。
自分が憎かった。
彼女を見殺しにしたのは自分自身だったからだ。
きっかけは、7日前の夜だった。
廣井きくりから、携帯に着信があった。
仕事でとることができない間に、4回も着信が残されていた。
そのことは、妙に切羽詰まった雰囲気を感じさせた。
ようやく夜の22時になってから、電話をかけると、きくりは泣いていた。
ぐずついた鼻声で、「あのさぁ、今から会えないかな」と言った。
少し迷ったが、承諾した。
酒に酔っているようではなさそうだった。
彼女が酔わずに電話をかけてくることは珍しい。
たいていの場合、泥酔しているような女だった。
呼び出された恵比寿のバーで、洋平は言った。
「珍しいな、新宿じゃないなんて」
きくりは新宿を根城にしていた。
彼女はちょっと有名なバンドをやっていて、たいていは新宿界隈のライブハウスに出ていたし、飲むのもその周辺だった。
「いやぁ、ちょっとあの辺に居づらくって」
言葉を濁す。
それも珍しいことだった。
酔って「やらかす」なんて日常茶飯事のような女だ。
それでも悪びれることなく、同じ店に顔を出す。
神経のねじが1本か2本飛んでいるのだ、この女は。
「よほどのことやったのか?」
「いやぁ、たははは」
困ったように笑うきくりは珍しかった。
生ビールとハイボールをしこたま飲むと、きくりがささやいた。
「抱いてよ」
直接的な言葉だった。
洋平は戸惑った。
断るべきだと思った。
しかし、彼はまだ若かった。
聞くりと同じ歳、たがいに26歳だ。
抗えなかった。
彼は、誘われるままに安ホテルに向かい、きくりを抱いた。
彼女とセックスをするのは、2回目だった。
おそらく、ただ性欲に溺れたいわけではないはずだ。
そう確信していた。
だが、何かを問いかける暇はなかった。
きくりの体は豊潤で、洋平を飲み込んでいった。
不思議な矛盾。
彼女は洋平に何かを語りたいはずなのに、彼女の体はそれを拒むかのように性欲だけのとりこになっていた。
朝、洋平が目覚めるときくりはもういなかった。
書置きも何もなく、ただテーブルに、再来週のライブのチケットだけが置いてあった。
そして彼女は、その再来週のコンサートを待たずに死んだというわけだ。
6月の半ばだったので、葬儀場を包み込むかのように雨が降っていた。
本格的な梅雨に入った日本列島は、まるで島全体が濡れているかのようだった。
洋平は、巨大なヴァギナを想像した。
葬儀場の外の喫煙スペースで、マルボロに火をつけた。
そういえば、廣井きくりは、酒はやってもタバコはやらなかったな、と思った。
しかし振り返ってみれば、そもそも彼女は昔は、酒さえもやらなかったのだ。