私と君のアーカイブ 作:自産自消
たまにはふらふらと散歩をしようとしたのがいけなかった。
歩いていた大通りで爆発があったものだから、拳銃しか持っていない今の自分じゃどうにもならないと全速力で走ったのが運の尽き。日頃そんなに走る機会がないために脚が思うように動かず、足を捻って盛大にすっ転んだのが今の私だ。
「あー……っ、つつつ……」
膝小僧が擦り剥けて、ジワリと血が出てくる。少し傷の周りを押すと痛みと出血が増すとともに新たに痺れの感覚が出てきた。
何とか足を引きずりながら人通りの少ない路地に入って、腰を下ろして空を仰ぐと見事な青天。ここから自分の部屋までおよそ500mといったところか。
「ツイてませんね……せっかくの散歩日和だと思ったのに」
足首が疼くから満足に歩くこともできない。救急医学部に手当用具を貰うにも校舎に帰らなければ始まらない。かといってこの程度の怪我で救急車を呼ぶような真似はしたくなかった。
「あー、もう……あんまり手間をかけさせたくないんですが……」
となると、思い当たる頼り先は1つしかなかった。
スマホの電源を入れる。起動するアプリはモモトーク。そしてパパッと「先生」のトーク画面を開き、ゆっくりとメッセージを入力する。
『お世話になってます』
『突然ですみませんが、ちょっと迎えに来ていただけないでしょうか』
まずはジャブ。これで既読がつかなかったら途方に暮れていたところだが、どうやら今の時間帯は先生の近くにスマホがあったようで、すぐに「送信済み」が「既読」に変わった。
“どうしたの?”
『寮から少し離れた場所で足を怪我してしまいまして』
『申し訳ありませんが、肩を貸していただければと』
問題の右足首を見ると青く腫れている。ここは裏路地とはいえスケバンが屯するほど薄暗くも深くもない。しばらくは動かなくてもよさそうだ。
“待ってて、すぐ行く!”
『申し訳ありません。よろしくお願いします』
どうやら先生は来てくれるようだ。安心と落胆がない交ぜになっていっぱいになった胸の不快感を吐き出すように、深く息をついた。
ふと、汗が頬を伝うのに気付いた。走っていた際にかくはずだった汗が今更になって出てきたようだ。暑くなって帽子を脱ぐと、蒸れた空気がすっと頭上から抜けていって少し涼しい。
「……しかし、暇ですね」
ただの散歩のはずだったから、本もゲームも持ってきていない。現状とれる暇潰しの手段は手元のスマホでのネットサーフィンだけだ。だけどどうも今はそういう気分ではない。日頃から見飽きている画面なのだからたまには外の景色を楽しみたかった。
路地に差し込む光でできた影の模様が何に見えるのかをぼんやりと考えていると、すぐ近くでゴトリと物音がした。
「…………?」
足音ではない。何かを揺らしたような音。眉をひそめながら、音のした方を向く。
すると、ゴミ箱の陰で野良猫が1匹、目を光らせながら私の方を見つめていた。
猫が低くニャアと鳴く。突然現れた大きな何者かを警戒しているようだ。
「……大丈夫ですよ、あなたに害は与えません」
言葉が通じないなんて分かっていたが、声をかけた。声のトーンと表情で分かってほしかった。
「ここはあなたの餌場でしたか? ならすみませんでした」
猫がまたニャアと鳴く。見た感じ成熟した大人の猫のようだ。尻尾を振って、依然として私をその黄金色の細まった瞳で見定めているようだ。
「じきに出ていくので、もうちょっとお待ちいただけると……っ、てて」
少し姿勢を変えようとすると、足首にピシリと鋭い痛みが走る。膝の傷は出血こそ止まったが、体の表面が剥がれているわけだからまた別の種類の痛みが続いている。
猫はスッと目を細めたかと思うと、私にゆっくり近寄ってきた。手負いの私を餌と認識しているとか、そう言ったことはないと思うけど。
「食べられませんよー……にゃあ、にゃあ、なんて」
猫の鳴き声を真似してみると、猫は私のすぐ傍で止まった。じっと見つめるその瞳孔は開かれている。無害だと認識してくれたのか、私の弱点を探しているのか。前者だと思いたいけど、万一咬まれたら怪我がもう何個か増えることになる。それは避けたかった。
「……とりあえず、背中撫でてみますかね。確かそれがいいっていう話だし」
そっと手を伸ばすと、猫の目が私の手を追う。攻撃するわけではない、敵意がないということを分かってほしかったので、「大丈夫ですよ」なんて言いながらもう片方の手を振る。
そうして背中から腰にかけて撫でてやると、猫はリラックスした様子でングゥと鳴いた。
「お前は独り? 寮暮らしじゃなかったら飼ったんですけどね」
不思議だ。動物がこうして自分に心を許してくれる様子を目の当たりにすると、なぜこんなにも心が安らぐのだろう。単純に信頼されていることが嬉しいからか、それとも庇護欲でも芽生えたか。
「それとも、野良猫の方が性に合ってるんですかね。自由、混沌はゲヘナの校風ですよ」
喉を鳴らしているこの猫を見る。痩せ細ってはいない。それにどうも人懐っこいというか、何というか。いつか噂で「便利屋68の鬼方カヨコは猫好き」だと聞いた。彼女のような猫好きな生徒から餌を貰っているのだろうか?
「ここはゲヘナの自治領ですからね……お前も野良の方がいいか」
野良の世界もいろいろと大変だろう。それでも、その中でこうして逞しく生きているこのやけに太々しい猫を見ていると、日頃から議長の訳の分からない指示を聞いている身としては羨ましく思えてくる。
「尤も、お前が何考えてるかなんて、お前にしか分からないだろうけど」
猫は気持ちよさそうに背伸びをする。まるでもっと撫でてくれと言っているかのようだ。
「顎の下とか撫でるといいらしいですけど、危ないですから。これだけ」
自然と口に微笑みが浮かぶ。赤ん坊とかを撫でる時もこんな心持ちになるのだろうか。いつの間にか私は、目の前のブチ模様の背中を撫で繰り回すのに夢中になっていた。
そうしているうちにどれほど時間が経っただろう。後ろで鳴った足音に、私の身体が少し跳ねてしまった。
“イロハ、大丈夫?”
「大丈夫ではないのでここにいるんです……あっ」
私が今さっきまで撫でていた猫は、また突然現れた得体のしれない巨大な何かに怯えて風のように逃げてしまった。伸ばした手が虚しく空を掴む。
“今のは猫?”
「撫でさせてくれたんです。どうも手持ち無沙汰だったもので」
“そっか。遅れてごめんね”
「いえ、ありがとうございます」
スマホを開くと、私がここに逃げ込んでから20分ほど経っていたようだった。その間大人しく撫でられていたあの猫も大概だが、夢中で撫でていた私も私だ。苦笑してしまう。
“足怪我したって?”
「おそらくは捻挫と、膝の擦り傷です」
“擦り傷の方はここで処置するよ。道具は持ってきてるから”
そう言って先生は鞄から消毒液と大きめの絆創膏を取り出した。独特の匂いのするその液体が膝の傷にかかると、痛みがますます激しくなった。
「痛っ……」
“ごめんね、これで終わりだから”
肌色の見慣れた絆創膏が膝小僧にペタリと貼られた。ずっと思っていたことだけど、この「自分の身体の上にベタベタグジュグジュした付着物がある」という感触が気持ち悪い。
“後は捻挫だっけ”
「はい、右足首をやってしまいました」
“なら、私が学校まで運んでいこう”
「…………え」
慮外の申し出。いや、そういう可能性もあるとは思っていたけど、真っ先に出てくるとは思わなかった。
“あ、肩貸した方がいいかな。それともこう、抱き上げた方が……”
「背負う方でお願いします」
ただでさえ歩くのがきついのに肩を貸されたら変に体重がかかってますます痛みそうだ。抱き上げるなんて、それは世に言う「お姫様抱っこ」か「俵抱き」だろう。論外だ。
先生は私に背を向け、私が乗りやすいように屈んで後ろに腕を伸ばす。私がおぶさると、先生は私の太ももを抱えて立ち上がった。
“どう? 痛いところとかない?”
「ないです。高いですね、これ」
“これがいつも私の見てる世界だよ”
そうして先生が歩き出す。そっと振り返ると、薄暗い路地に瞳が4つ光っていた。
「ああ、連れがいたんですね。失礼しました」
私の後ろで、ニャアオと柔らかい鳴き声が聴こえた。
◇
先生が私を背負ってゲヘナの校舎に向かって歩く。目指すのは校舎内にある保健室だ。そこならちゃんとした処置ができるだろうと先生は言う。
すれ違う生徒たちから怪訝そうな目を向けられるが、膝に貼られた絆創膏と青く腫れた足首を見てみんな納得したようだった。でも、何かしらの波風が立つことは容易に想像がつく。
「いいんですか、先生」
“何が?”
「こんなことしたら、先生が万魔殿に取り込まれたって噂されますよ」
シャーレという組織は連邦生徒会に属している。言ってしまえば中立だ。名目だけとはいえ、私が持ちかけた「万魔殿との協力体制の構築」に難色を示したのはこれが原因だ。
というよりも、先生は全ての生徒の味方であると同時に、誰の政治的立場にも立ったことがない。あの議長はその辺のことを考えているのだろうか。そもそも私にそんな命令を出したことを覚えているのだろうか。
“いいよ。否定すればいいし”
「そんな簡単に言えるようなことですか?」
“それに、イロハが困ってるのを助けて何か悪いことでもあるの?”
こういうことを平然と言ってくれるものだから困る。一体何人の生徒が陰で泣いていることだろう。
「……あまり、そんなことを生徒に言うものじゃないですよ。いつか痛い目見ます」
“それ、別の生徒からも言われたな”
「へぇ……反省しないんですね」
“反省も何も、本音だし”
先生が誰のこともそういった意味合いで特別扱いしないのは分かっている。この人にとってはあまねく全ての生徒が尊ぶべき存在であり、奉仕の対象なのだ。
そんな先生が、今こうして私を背負ってくれている。その現実がくすぐったい。
先生がどこかで足を止めてくれやしないか、信号が赤になってくれないか。そう心の中で願うが、こういう時に限ってすんなりと進んでしまう。
「先生」
“うん、どうしたの?”
「私、重くないですか?」
先生の息が切れ始めているのを感じ、そう声をかける。先生は快活そうに笑っているが、500mはそこそこの距離だ。歩くのでさえ少し疲れるのに、私を抱えながらだとその体力の消費具合はかなりのものになるだろう。
「どれだけ軽く見積もっても30kgはありますよ、私」
実際は30よりも重いが、その辺は暈しておく。乙女の秘密というものだ。
“そんなもの? 軽いけどな”
「……ありがとうございます」
重いとかぬかしたら理不尽に肩パンして暴れてやろうかと思ったが、そういうことなら矛を収めてやる。そうですかそうですか、私は軽いですか。少しだけ自信がついた。
“しかし、どうしてそんな怪我をしちゃったの?”
「散歩してたんですよ。全く、たまに外に出てみたらこれです」
“災難だったね……お疲れ様”
先生の背中が大きい。私の細い体がすっぽり覆い隠されてしまうほどに。
そして、温かい。安心する温かさだ。他人の体温とはこんなに安心するのか。
「……あの仔は、夫婦だったんですかね。親子だったんですかね」
“ん? 何の話?”
「何でも……」
あの猫も、こうして誰かと寄り添って、その温もりを感じながら生きてきたのだろうか。
そして、その温もりを抱えながらこれからの日々を生きていくだろうか。
「…………温かいですね」
“そうだね、すっかり暖かくなって。上着脱いできちゃった”
目を瞑ったらすぐに眠ってしまいそうなほどに心地いい。この温かさをできる限り忘れないように、少しだけ先生の肩を掴む力を強めた。
太陽の光が優しく街全体を照らしている。もうすぐ春が来る、そんな日のことだった。