私と君のアーカイブ 作:自産自消
「そういえば先生、現代文って教えられますか?」
当番としてシャーレに来たイロハが、こんなことを言い出した。
どういうことだろうか、成績不良の話なんてなかったはずだが。パソコンの画面から、横に立っていたイロハの方に目線を移す。
“文系なら一応全教科できるけど、どうしたの?”
「いえ、この前の現代文のテストがですね……60点だったんですよ」
いつもの数割増しでげっそりした表情でイロハがぼやく。
60点。いいとも悪いとも言えない点数だ。少なくとも切羽詰まって改善するべきものではないと思うけれども。
「これの前のテストの点数が80点だったので、まあこれはちょっといけないなと」
“あー、20点減るのは確かに堪えるね”
「ですので、現代文の解き方についてご教授願えればな、と思いまして」
よっぽど今回のテストの結果が響いているのか、イロハは深くため息をついた。
そういうことなら話が早い。喜んで首を縦に振ると、彼女は「では早速」と言うように持ってきていた鞄の中からゴソゴソとテストの問題用紙と答案を取り出した。
“他の教科はどうだったの?”
「理系科目は最低95で最高100です」
“すごっ……”
「性に合ってるんですよね、計算するの」
確かに戦車長を務めているのならば、弾着距離をさっと試算できないことには始まらないだろう。他にも備品の管理など、頭の回転が速いイロハにはうってつけの仕事だと言える。
答案を開くと、まず目に入ったのは赤字の60、アンダーライン付き。名前欄には「棗イロハ」と丸っこくかわいらしい文字で書かれている。
“おお、本当に60点だ”
「きっかり60点です。どうにも最近のその、論説文っていうんですか? それが分からなくって」
問題文を見てみると、昨今の自然環境について解説した文がずらりと並んでいた。この活字の行列は見るだけで眩暈がしてくる。10年ほど前の自分はよくこんなものをすらすら読んでいたものだ。
“小説の方がわかりやすいよね”
「読み慣れていますからね。新書とか自分から手に取ったりはしませんし」
“小難しい話ばっかりだし、面倒だよね”
問題用紙と解答用紙の両方にざっと目を通す。漢字や慣用句といった知識問題に抜けがないのはさすがイロハといったところか。問題はやはり読み解きだ。
論述であまり点がとれていないのはもちろん、選択問題も間違えている箇所が多々ある。大体どこを指導すればいいのかを脳内で瞬時に構築し、ふぅと息をついた。
「……絶望的ですか」
そんな私の仕草を見て、イロハが恐る恐る問いを投げてくる。そんなに怖がらなくてもいいのに。
“ううん、どこに改善点があるかを整理し終わっただけ”
「教員の解説聞いてもさっぱりだったんですよね。むしろ寝入っちゃって。はぁ……」
“寝ちゃうのは感心しないなぁ”
笑ってやると、イロハが少しだけ相好を崩した。私は教員ってわけではないけど、一応「先生」と呼ばれている立場だ。一般的な高校レベルの知識と、その指導要領は頭に叩き込んである。
まずは聞く姿勢を引き出すところから始まりだ。
“うん、あんまり深刻に考えないでいいと思うよ。元々読書にある程度親しんでいるだけあってだいぶ線はいいと思う”
「本当ですか……? お世辞とかじゃないですよね」
“知識問題は落としてないからね”
実際ここで落とした1点や2点に泣いた同級生もいた。ちゃんと知識は身についている。後はその応用のやり方だ。
“今はざっと読んでみた限りのことしか言えないけど、こういう長文を読むコツっていうのがあるんだよ。接続詞とかね”
「『しかし』とか『そして』とかの、アレですか?」
“うんうん、その言葉を境に文章全体の指す内容が逆転したりするでしょ? 基本はこういうのに注目していたら文章の流れは読み取れるんじゃないかな”
文章内にあった「しかし」の部分をペンで指す。コンコンと音が鳴るが、ペン先は引っ込んでいるのでインクは問題用紙には付かない。
“ほら、ここで文章の意味合いが逆になってるでしょ?”
「……………………」
イロハは予測外といった顔つきで私を見ている。意味が分からなかったのだろうかと不安になって声をかけてやると、ハッと再起動した。
「……先生って、本当に『先生』だったんですね」
“これでもキヴォトスの外で勉強頑張ったんだよ?”
「でもこのキヴォトスでは、どっちかというとカウンセリングばっかりやってるじゃないですか」
“確かに、こういう指導をすることはあまりないなぁ”
教師らしいことをしたのは補習授業部相手くらいか。それだってハナコというトリニティの鬼才があちこち面倒を見てくれるから、私の出る幕はほんの少ししかないのだ。
“これは私の学生時代の読み方なんだけど、全体的な文章の流れを掴めた後で小問を読むんだ。そうしたら『これを解くためにはここを読み込んだらいい』ってのが分かってくるし”
「先に小問読んでた方が、手間は省けそうですけどね」
“そうかもね。イロハに合ったやり方を探してみるといいよ。私のやり方が合わないかもしれないから”
その話の流れで次は「どう選択問題を解くか」を解説しようと思っていた矢先、隣に座っていたイロハが突然私にぐいっと近寄ってきた。
彼女の右腕が私の左腕に密着する。ふわふわとした髪の毛が私の手首をくすぐってくる。そっと柔らかく細い手が私のごつごつとした手に重なる。びっくりして思わず身体が震えてしまった。
“い、イロハ!?”
「ちょっと見にくかったので近づきました」
“あ、ああ……”
その表情はやはりと言うべきか、いつも通りのいたずらっぽい笑みだった。この娘、私の反応を見て揶揄っているようだ。
だが、ここで狼狽えてしまってはイロハの思う壺だ。点数を改善したいと思っているのも本音だろうから、ここは真面目に解説する。
“じゃ、じゃあ次は選択問題ね。いつもどうやって解いてる?”
「うーん……ある程度読んで後は勘、ですかね」
イロハが首を傾げると、その揺れに従って髪が一気に私の方に降りかかる。いいシャンプーを使っているのだろう、清涼感のあるいい匂いがふわりと漂ってきた。
“勘じゃダメだよ。こういうのって間違い探しだからさ”
「間違い探し、ですか」
“『4つの選択肢のうち1つが正しい』ってことは、『他の3つは間違ってる』ってことでしょ?”
「ああ、その間違いを見つけてやればいいと」
そうして選択問題を一緒に根拠を追いながら解いてやると、イロハは得心したように頷いた。体の振動が直に伝わってくる。
「すごいですね。こんなにあっさり解けるものですか」
“イロハにもこれくらいできるようになるよ。筋いいから”
「……先生ってひょっとしてかなり頭良かったりします?」
心底意外そうに言われたものだから、私のガラスのハートが少しだけ傷ついてしまう。
確かに平常時の振舞いを見ていたら「こいつはバカだ」と思うかもしれないけど、これでもちゃんと教員免許も持っている。勉強はちゃんとしてきたのだ。
“まあ、イロハのぶち当たった問題は私も感じたものだったからね”
「先生も現代文苦手だったんです?」
“得意だったのに点数とれなくなったからショックだったんだよ。だから今イロハがしてるみたいに、先生に頭下げて現代文のコツを教えてもらったんだ”
今でも思い出す。あの職員室で教師たちがあちらこちらに動き回っている中で、現代文の教師のデスクに向かう時の緊張。机の上にあった、マグカップに入ったコーヒーの匂い。山積みになっている難しそうな本。
あの場所で、今度は私が教えを請われる側になっていると考えると感慨深いものがある。あの時勇気を出さなかったら、私の現代文への苦手意識はずっと脳裏にこびりついていたままだっただろう。
「先生になった」と報告したら、あの恰幅のいい老教師はどんな顔をするだろうか。
「では、今私は秘伝のメソッドを教えてもらっているというわけですか」
“秘伝っていうほど大袈裟なものじゃないけどね”
あの先生にはかわいがってもらったな、と思う。楽し気に教えてくれていたな、とも思う。
“じゃあ、後は論述だね。これもさっき言ったコツと同じで、要素をどれだけ盛り込めるかなんだよね”
「と言いますと?」
きっと教えるのが楽しかったのだろう。自分の仕事をする時間を潰されるよりも大きな、「生徒が問題を解けるようになってくれる」という達成感。
何より、こんな顔をされるのだから、嬉しくって仕方なかったのだろう。
“よし、じゃあゆっくり見ていこうか”
「はい、よろしくお願いします」
いつの間にか、イロハと密着していることすらもあまり気にならなくなっていた。
◇
結局、あの後質問に答えていたら1時間ほど経過してしまっていた。
ふと我に返った時は「自分だけ語ってしまったか」と慌てたが、イロハは何だかとても楽しそうだった。
「先生の『先生』らしいところも見られたので、満足です」
そうイロハは言っていたが、なぜ満足なのかを聞いてもはぐらかされるばかりだった。でもイロハが計算高く底知れないのはいつものことだから、勘繰るだけ無駄だろう。
「おかげさまで、これからの現代文も上手く解けそうです」
“それはよかった。忘れないうちに復習もしっかりしておいてね”
当番の帰宅時刻になったが、私はこの後も仕事が待っている。量自体は少ないから、今日はゆっくりと眠れそうではあるのだが。
「……えっと、何かお礼とかしましょうか」
“いやいや、いいよ別に。そういうのが欲しくてやったわけじゃないんだし”
「でも、それだとちょっと私の気が収まらないというか……」
イロハはこういう律儀なところがある。サボり魔でこそあるが、戦車長としての仕事はきっちりとこなしているし、こうして当番に指定された日にはちゃんと来て、仕事を黙々と終わらせてくれる。それはイロハの美点の1つだと思う。
「…………何か、奢ります。ご飯とか」
“いやいや、大丈夫だよ本当に!”
「えー……困る……」
困っているのはこちらなのだが、イロハの気持ちもわかってしまう。無償で何かをされてしまったら、何かを返したいと思うのが人間というものだ。
私も、かつて恩師に差し出した菓子折りを突き返されたことがあった。そんな時、あの人は何と言っていたか。
“……イロハ”
「はい」
“イロハが恩を感じてるのなら、それは私に返すんじゃなくって……いつか、他の誰かが教えを請っていた時に気前よく教えてやって”
そうして恩の連鎖というものが続いていくのだ、と彼は語っていた。
「…………そんなことでいいんですか」
“それがいいんだよ”
そんな少しばかりの善いことが積み重なって、社会というものは少しずつ善い方向に繋がっていくらしい。
私が卒業した年度に定年で退職した彼は、そんな言葉を私に遺してくれた。
「……はぁ、分かりました。分かりましたよ。先生がしてくれたように、ですね」
“うん、イロハならできるよ”
目の前の気だるげで、しかし心の中に確かに思いやりを持つ少女ならば、きっとできると私は信じている。
橙色の光が窓から差し込んできた。もうじき日が沈む。
「あ、これとは別なんですが、今度一緒にご飯食べに行きませんか」
“いいよ? 何なら今日でもいいけど。仕事すぐに終わりそうだし”
「本当ですか。では、荷物を置いたらすぐにシャーレに戻ってきますね」
これくらいのことならばいくらでも付き合ってやれる。目の前で喜色を顔に浮かべたイロハを見ながら、私は少し心が浮き立つのを感じた。
「今日は本当にありがとうございました」という言葉と共に扉が閉まり、私は部屋に独り残される。仕事にケリをつけようとデスクにつくと、イロハの残り香が鼻をくすぐった。
いつもよりも距離の近づいた椅子。柔軟剤の香りが移った白衣。確かに柔らかかった手の感覚。ここに確かにイロハがいたという証拠だ。
それが何となく惜しくなって、忘れたくないと思っている私がいた。