私と君のアーカイブ 作:自産自消
最近、イロハの距離感がおかしい。
「先生、こちらの資料は印鑑だけでよろしいですね?」
“あ、ああ、うん……”
今日の当番ということで来た彼女は今、デスクに向かっている私をあすなろ抱きしながら、手に持った資料を後ろから見せてきている。
顎が私の肩に乗せられ、息遣いがそのまま私の頬に当たっている。
「先生? どうかしましたか?」
イロハのウィスパーボイスが脳髄を揺さぶる。折れそうになった理性を踏ん張って押し留めた。
そんな強みを彼女自身も理解しているのだろう。最近は何の意味もなく耳元で囁かれることが多くなった。
「もしかしてぇ……興奮しちゃった、とか?」
“っ!?”
イロハの方を見ると、悪戯が成功した子供のようにクスクスと笑っている。私の反応を見て面白がっているのだろう。
この子は以前からそうだった。あの手この手で私を仕事から引き離し、乗せられた私を「計画が上手くいった」と揶揄うことなんかしょっちゅうだ。
「お疲れのようなら……サボっちゃいましょうか? 何なら一緒に寝てあげてもいいんですよ……?」
肩に手が置かれ、横から顔を覗き込まれる。視界の端に見えるイロハの眼は妖しげに光り、まるで私という獲物を品定めしているかのようだった。
「いつもお仕事頑張ってるんですから……ね?」
“……イロハ、最近どうしたの?”
元々そういう傾向があったのは確かだった。だけど、いくら何でもおかしい。
私は先生として、生徒に対して適切な距離を保つよう努力してきた。中にはそこに踏み込んでこようとする子もいたが、何とか一線を踏み越えさせるようなことは起こさずにいられている。
だが、最近のイロハは違う。駆け引きだとかを一切無視し、最短距離で私めがけて特攻を仕掛けてきている。そんな性格ではなかったはずだ。
「どうした、と言いますと?」
“ちょっと、ほら、距離が近いと言いますか”
そう言うと、イロハは「ああ」と何か思い当たったような声を出しながら私からパッと離れた。その移動で生じた風が私の髪を揺らす。
「あ、ひょっとして、意識しちゃいました?」
“ん、んー……”
実際しばしば押し付けられる身体や顔の感触は柔らかく、イロハがどこまで行っても女であるという意識はせざるを得なかった。まさかそれが目的だったのか?
「どうなんですか? ねえ、ねえ」
“…………したよ。あそこまでされるとイロハも女の子なんだなって思った”
「へぇ……!」
イロハが笑う。……やはりおかしい。
“イロハ、どうしたの? 何があったの?”
「……何がです」
“だって、イロハが焦ってるように見える”
本当に嬉しいなら、そんなぎこちない笑いなんて出ないはずだ。
そう指摘すると、イロハの表情が音を立てて止まったように見えた。
「私が、焦ってる? そんなまさか……」
“最近すごく距離感が近いからさ。何か悩みがあるのかなって”
「悩み……悩み? 悩みって言いました?」
彼女の右手がグッと握られる。その覇気に中てられて、私は思わず椅子から立ち上がってしまった。
「悩み? ありますよ。誰にだってありますよ」
“そっか。私に教えてくれるかな。何とか解決したいんだ”
その言葉を口に出した瞬間、イロハの雰囲気がガラリと変わった。
蛇のような剣呑な雰囲気から、赤く燃え滾るような炎。何かの感情が爆発したかのようなギラギラとした目線がこちらに向けられる。一瞬、思考と息が止まった。
「解決、してくれるんですか?」
“うん。私にできることなら”
「…………っは。その言葉、ウソじゃありませんよね」
そして、イロハが一気にこちらに近づいてきた。私は立ちすくんだまま何かすることもできず、勢いのままに机に押し倒された。
デスクが私の体重で動く。机上に置いてあった鉛筆入れが、中の鉛筆やペンごと床に落ちた。バランバランという音が部屋に響く。
イロハの顔は逆光になって見えない。両手は机に押し付けられて動かせない。抵抗ができない。
「先生」
“……イロハ?”
「私はですね、ずっとこうしたいと思っていました」
ポツリポツリと、いつもの流暢さなんてかけらもない話し方で、イロハが言葉を紡ぎだした。
「先生を組み伏せて、私の物だという印をつけて……私だけの先生でいて欲しいと、思っていました」
“そうだったの……?”
「なんて顔してるんですか。そんなだから……!」
手首にかけられる力がますます強くなる。イロハはその顔を私の首に近づけ、そして歯を立てた。
鋭い痛みが走る。後もう少し強く噛まれたら、血を噴き出してあっさりと死んでしまうだろう。
ぜぇぜぇと、なぜか私よりも辛そうな息遣いで、目の前の少女は語り続ける。
「……ねえ、先生。先生はご存知ですか?」
“何を?”
「先生って、いろんな生徒から好かれてるんですよ。先生としてじゃなく、大人としてでもなく、男として」
知っている。だから、あえて知らない素振りをしてその都度好意を煙に巻いていたのだ。
「いろんな子が先生を狙ってるんです。風紀委員長だってあなたと話してる時が一番楽しそうで……まさか、気付いてないはずがないですよね」
“…………イロハも?”
「私が? ……私が!? ふふふ、愚問ですよ」
口元だけが見える。三日月のように細く歪められた、紅く湿った口元。
「先生。私、先生が他の子と一緒にいるところ、何回も見たんです」
まるで面白くて仕方ないとでもいうように、イロハが体を揺らす。強く力を込めているからか、私の両手にその揺れよりも細かな震えを感じた。
「楽しそうに話してて、内容だって天然のジゴロですかって感じで……生徒が欲しいだろう言葉を的確にかけて…………」
“……私は、先生だからね”
「私とも一緒にサボってくれて……嫌な顔一つしないで……」
ポタリと、頬に水滴が落ちた。
「先生」
ポタリポタリと、水滴の量が多くなっていく。グスリと、鼻をすする音が聴こえた。
「私は、そんな先生が嫌いです」
身体の震えによるものだろうか、イロハの顔の全体像がハッキリと見えた。
眼前で私に覆い被さった少女は、普段の飄々さがウソのように、ボロボロと泣いていた。
「誰に対しても優しくて、八方美人で、そのくせ鈍感なふりして……」
私の頭に押されていたパソコンのキーが、画面に意味もない文字の羅列を投影している。
「私は、そんな先生を見る度、ぐちゃぐちゃにしてやりたいと思ってました」
“……イロハは、私のことが嫌いだったんだね”
「嫌いです。大嫌いです」
イロハの身体から一気に力が抜け、私の胸板に倒れてくる。私には、それを受け止めることしかできなかった。
天井で光るLED灯は、今の私には少し眩しすぎた。目が細まってしまう。
「だから、壊してやりたかったんです……!」
白衣の胸のあたりに、熱い染みのようなものができるのが分かった。
「先生の優しくないところが見たかった! 『先生』じゃないところが見たかった! 先生に、女として見てもらいたかった!」
まるで迷った子供が親を探すように、イロハが絶叫する。
「先生が、『先生』でいるのが堪えられなくって……他の子に優しくするのが気に入らなくって……!」
”…………うん”
「だから、壊してやりたかったんです……!」
イロハが私をサボりに誘うのは、決まって私が仕事に忙殺されている時だ。イロハは「自分の我儘」という名目で、私を何とか休ませようとする。
イロハは、「周囲をよく見て、相手のことを思いやれる子」なのだ。
“イロハは、優しいね”
「やめてくださいよ……。私が、バカみたいじゃないですか……!」
頭を撫でると、イロハのふわふわの髪の毛の感触が手に吸い付いてくる。
「やめてください……襲われるかもしれないんですよ?」
“イロハはそんなことしないよ”
「しますよ」
“しないよ。知ってる”
だって、イロハが私のことを邪魔するのはほとんどが演技で、本当に私のことを傷つけようと思えるような子ではないことを、私はよく知っているから。
そう言うと嗚咽が激しくなってくる。いよいよ言葉らしい言葉が聴こえなくなってきた。
“ありがとうね、イロハ”
「うぅ、ああぁぁぁぁ……! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
この優しい子が泣き止むまで、この胸をいくらでも貸してやろうと思った。
窓から見える空は、いつも通りに青く光っていた。
◇
「……すみません、忘れてください」
“忘れるのは嫌だなぁ”
「その、恥ずかしいので」
あれから数十分経った頃、イロハはようやく泣くのを止めた。鼻水が垂れそうだったのでティッシュを貸したら、「デリカシーがないです」と顔を背けられてしまった。確かに女の子に対する行動ではなかったかもしれない。今後はやらないようにしよう。
“イロハがいつもみたいにサボらせてくれるの、実はすごくありがたいんだ”
「それなら、あのままずっとサボってもいいんですよ?」
“でもそれをやったらダメだから。大人としてね、責任があるから”
「……手強いですね」
実際仕事は辛い。死ぬような目にだって遭っている。何だって自分がこんな目にと思ったことなんて数えきれないくらいある。
それでもこの仕事を続けてこられたのは、間違いなく私1人の力だけではない。
“でもね。イロハのように私のことを考えてくれる生徒がいると考えるだけで、もうちょっと頑張ってみようと思えるんだよ”
「……そうなんですか?」
“うん。それだけで、『この仕事も捨てたもんじゃないな』って思えるんだ”
混乱した机をイロハと2人で直す。この書類のしわは、リンちゃんにどうやって説明したものか。「持った際にできました」では絶対に通らないと思う。
「……先生は、『先生』でいることが嫌になったりしないんですか?」
“するよ? 仕事に追われてる時とか、ゴタゴタに巻き込まれた時とか。あ、これは秘密ね?”
人差し指を鼻に当てると、イロハはくすりと笑ってくれた。こんなこと、誰にだって言えるようなことじゃない。
「カッコ悪いですね。生徒の前でそんなこと言っちゃって」
“あはは……ごめんね”
「分かりました。秘密です。誰にも言いません」
だから、とイロハが笑顔で私に近寄ってくる。その雰囲気は先程のそれとは違う温和なものだ。
「その代わり、先生も誰にも言わないでください。仕事の弱音は、私の前でだけお願いします」
“お、おお……!?”
「できますよね?」
“わ、分かった”
ならばいいんです、とイロハが躍るようなステップで私から離れる。そうしてふと振り返り、いつもの微笑みを浮かべて私を揶揄い始めた。
「あ、私が先生のこと好きだってこと……あれ、どう思ってます?」
“うぇ!? えぇ、えっと……”
「本当のことか、熱に浮かされて口走った戯言か……」
答えなんてわかりきっている。きっとそうなのだろうと私も確信しているし、イロハも私がその想いに今応えることはないと信じているからこその問答だ。
「何ならスキンシップも、満更でもなかったりして」
“イロハさん……!?”
「バレンタインのチョコもあげたのに。あーあ、これはもっとアピールするしかないですね」
そうして机が叩かれた。その音の主はもちろん、いつの間に私の真向かいに陣取ったイロハだ。
「ですので、卒業まで待っててくださいね。『先生』?」
“…………おうっ”
気の抜けた返事だとキャラキャラ笑う声が、何だかとても愛おしく思えた。