私と君のアーカイブ   作:自産自消

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あの雨の日近辺の独特なにおいは「ペトリコール」というらしいです。


イロハが雨の日にシャーレに駆け込んできた話

「いやー、参りましたよ」

 

 執務室に突然入ってきたのは、ワインレッドの濡れ鼠だった。

 

“な。何!? どうしたのイロハ!?”

「降られました。傘も強風に吹っ飛ばされましてね……」

 

 突然のことですみません、と身体のありとあらゆる場所から水滴を垂らしながらイロハが言う。ブルリと一つ身震いをしたかと思ったら、クシュンと可愛らしいくしゃみが飛び出した。その音でハッと我に返る。

 

“と、とにかくタオル! いや、シャワー室だ! シャワー室で一旦温まっておいで!”

「いいんですか……? 雨が止むまでここにいさせてくれたらよかったんですけど」

“風邪ひいちゃうからそんなんじゃダメ! シャワー室の場所は分かる?”

「分かります……」

 

 普段はピシッと糊の効いている制服も、今に限っては見る影もなくびしょ濡れだ。空調はたった今全力で暖房を回し始めた。イロハがシャワー室を出る頃にはこの部屋もだいぶ温まっていることだろう。

 

“とにかく行っておいで! 服は洗濯機に入れてくれたらいいから!”

「……分かりました。ありがとうございます」

 

 私の圧に少したじろぎながらも、イロハは服を引き摺るようにシャワー室に駆けこんでいった。

 シャワー室を使う生徒はあまりいない。RABBIT小隊の面々は事ある毎に使っているが、あれは現状実質ホームレスなのもあるだろう。人間というものは身体を清潔にしていないと落ち着かないのだ。それが若い女の子だったならなおさら。

 

“しかし……あれはちょっと驚いたなぁ”

 

 思い浮かべるのは先程入ってきたイロハの様子。彼女の特徴的な紅くフワフワな髪が雨に濡れて身体にまとわりついている様は、いつか動画サイトで観たお風呂中のポメラニアンを彷彿とさせた。

 

“毛量が多いと大変そうだよなぁ、シャワーの時とか”

 

 外を覗くと、依然として大雨がザンザカ降っている。吹き荒れる風もガタガタとガラスを揺らしており、もしここで窓を開けてしまえば私のYシャツと机の上の書類が台無しになってしまうのは火を見るより明らかだ。

 ふと思い立ち、マグカップを2個棚から出す。そこにインスタントのコーヒー粉末とポットのお湯を淹れ、スプーンを添えてやる。こういう雨の日に外出した後には、コーヒーで温まるのが大変良いのだ。

 

“さて、仕事もう少しだけ進めるかな……”

 

 ちびちびとコーヒーを啜りながら作業をしていると、遠くからペタペタと足音が近づいてきた。洗濯機の回る音が遠くから聞こえてくる。おそらくは制服も靴下も今は洗濯機の中なのだろう。

 そして思い至る。あれ、ではイロハは何を着ているんだ?

 

「…………あの」

“うわあああああああああああっ!?”

 

 扉が開くと、もう明らかにお風呂上がりですといった感じに頬を紅潮させたイロハが、バスタオル一枚だけを体に巻き付けて執務室に入ってきた。

 

“な、なっ、何で!?”

「何でも何も……替えの服がないんですよ」

 

 バスタオルから覗く脚には水滴が伝っている。そうして私は、シャワー室に服の類を一切置いてなかったことに気が付いた。

 

「はぁ、温かい……暖房効かせてくれたんですね、ありがとうございます」

“あ、うん……コーヒー飲む?”

「待ってください、ちょっと、腰を下ろしてから……」

 

 ソファーに座ったイロハにマグカップを差し出す。フゥフゥと息を吹きかけてまだ熱を持ったコーヒーを冷ます姿を見るに、外は本当に寒かったのだろう。

 何ならシャワー室から執務室までの廊下も、お湯を浴びたばかりのイロハの身体には堪えたことだろう。自分の鈍感さが嫌になる。

 

“ごめんね、気が回らなくって”

「いえ、そんなことはないですよ。服については想定しろっていう方が難しいでしょうし」

 

 ズズッと液体を啜る音が執務室に響く。大の男に、バスタオル1枚以外は何も羽織っていない女子生徒。こんな場面を誰かに見られたら死刑どころの騒ぎじゃない。

 

「あ、乾燥機能も勝手にオンにしちゃいましたけど……」

“全然大丈夫! むしろバンバン使っちゃって!”

 

 乾燥機能も使っているということは、イロハの服が復活を果たすには今から4時間はかかると思っておいた方がいいだろう。

 そうなると困った。現状のイロハをこの部屋の外に出すわけにはいかない。かと言ってこの大雨の中で女性の服を買いに行ったら濡れ鼠をもう1匹増やす結果になりかねない。

 コーヒーミルクに角砂糖1個を入れたインスタントのカフェオレは、以前にイロハの好物だと聞いた覚えがあった。あまり眉を顰めず断続的に啜るその姿を見るに、私のコーヒーに関する目論見は成功したと言っていいだろう。

 

“とりあえず、その……いつまでもバスタオル1枚じゃ湯冷めするからさ”

 

 普段着ているコートをハンガーから外す。私が着たら膝上まで覆われるのだ。女子生徒の身体を覆うのには十分な丈を持っていることだろう。

 

“少し落ち着いたら、これを羽織りな”

「……それには、その」

 

 イロハが目を落とす。コーヒーを飲んでいる最中もずっと、左手は身体に巻き付くバスタオルの重なった部分を握りしめている。

 

“大丈夫。終わるまで私は部屋から出ていくから”

「あ……そうですか」

“見たりはしないから、心配しないで。じゃあ、終わったらドアをノックしてね”

 

 そして私はドアを潜る。後ろで衣擦れの音が聞こえてきたが、約束通り振り向かない。ドアを閉めると同時に、空の傘立てに足が当たってしまった。ガシャーンという音が誰もいない廊下に響き渡る。

 今後はシャワー室に予備の服を一式揃えておくべきかと雨の音を聴きながら考えていると、背もたれにしていたドアがコンコンと音を立てた。

 

“着終わった?”

「終わりました。前もしっかり締めてます」

 

 その言葉を信じてまた執務室に入り直すと、ふくらはぎの中間あたりまでコートに覆い隠されたイロハが私を出迎えてくれた。

 

“…………うおぉ”

「? どうかなさいました?」

 

 足を見るとやはり裸足だ。コートの一枚奥には本当にイロハの身体があるのだ。

 そう思ってしまうともうダメだ。バスタオルを巻きつけていた時には感じる余裕もなかった強烈なエロチシズムが、今私の脳内を襲い始めた。

 イロハもそれを感じ取ったのだろう。先程までは浮かべていなかったにやけ笑いと共に、少し屈みながら私に近づいてきた。

 

「先生、これ結構ブカブカなんですよ」

“ああ、まあ、そうだろうね”

「だからちょっと屈むだけでほら、こんなに隙間が」

“わっ、ちょ!?”

 

 慌てて眼を逸らしたのでコートの奥に何があったかは見えなかった。視界に入らなくてよかったと同時に、男として少し惜しいとも感じてしまう。

 

“は、早く入ろう! イロハに訊きたいこととかもあるし!”

「えー? まあいいですけど……ふふ、このコート温かいです。先生の匂いもします」

“保温性は保証するよ。匂いが不愉快だったらごめんね”

 

 机について一息つく。イロハはその傍らにある椅子に腰かけ、またコーヒーを飲み始めた。

 

“一体全体どうしたの。こんな雨の中に……”

「いえ、大した用はないですよ。先生に会いにシャーレに向かっていたら、前述の通り傘がおしゃかになりまして」

 

 そういえば執務室に入る時に「傘が風で吹っ飛ばされた」と話していた。未だに止まない雨をバックグラウンドに会話は続く。

 

“何でシャーレに来ようと?”

「任務です。ほら、『シャーレの先生を篭絡せよ』との」

“あ、ああ……”

「いい具合に仕事をサボれますからね。土砂降りの中来る甲斐はあります」

 

 イロハが足をぶらつかせる。その振動でコートの裾がずり上がり、真っ白な太ももが露になっていく。非常に目に悪い。

 

“じゃあ、何かイヤなことがあって来たってわけじゃないんだね?”

「はい。あ、もしかして心配しました?」

“うん、すごく心配したよ”

 

 そう言うとイロハは黙りこくってしまう。

 実際本当に心配したのだ。大雨の中で傘もささずに私のところに駆け込んでくるなんて、よほど酷いことがあったのではないかと身構えてしまう。イロハのように責任を負う立場にある生徒ならば特に。

 

“イロハに何かあったんじゃないかって思うと胸が痛んだよ”

「……そんなに、ですか」

“うん。イロハは私の大事な生徒だからね”

 

 コーヒーの苦い匂いが鼻をくすぐる。手に持っていたコップから一口飲むと、まろやかな苦みが口の奥に走り抜けていった。

 

“でも、こんな日にわざわざ来なくてもよかったのに”

 

 空調の音が室内にどよめいている。最初に私だけがこの部屋にいた頃よりもだいぶ温かくなった。リモコンで風量を少しだけ弱める。

 

「……来たかったんですよ」

 

 イロハがマグカップを机の上に置く。中を覗くともう空っぽになっていた。

 

「ここに来たかったんです、今日は……」

“それは、何か理由があって?”

「理由がないとダメなんですか?」

 

 強い口調でそう言われてしまうと言葉に詰まる。ダメだというほどのことではないが、ここに来る生徒は当番の子か、何か訳があるような子しかいなかった。

 私の心配を目線から感じ取ったのだろう。イロハはまだ温もりの残っているマグカップを両手でぎゅっと掴んだ。

 

「いいじゃないですか。減るもんじゃなし」

 

 目線は落ちたまま、私に向かおうとしない。

 

「別に、理由がなくたって……いいじゃないですか」

 

 私は、その言葉を信じる気にはなれなかった。

 その愁いを帯びた目つきが、いつもよりも数段落ちた口調が、浮かない表情が、何よりも「理由があってここに来ました」と雄弁に主張していたからだ。

 だけど、今ここで問い詰めてもイロハはきっと本当のことを言わないだろう。

 

“……そうだね。何もなくても来てもいいんだよ、本当は”

 

 だから、私はイロハの嘘を飲み込んだ。

 

“ただ、みんな学園生活を楽しんでるからここに来ないだけでさ”

「私も、楽しんでるように見えますか?」

“うん。大人の私からしてみれば、みんな1回だけの学園生活を楽しみまくってる”

 

 そして私も残りのコーヒーをぐいっと飲み干した。まだ溶けきっていなかった苦い粉末が舌に粘りつくが、それも一興として嚥下する。

 

“それとも、イロハは楽しくないの?”

「そんなことはないです。楽しいですよ、とても。先生のおかげです」

 

 いつの間にか私のPC はスリープモードに入っていた。電源ボタンを押すと、ファンの回る音が鳴る。パスワードを入れたら見慣れたメールの作成画面がお出ましだ。

 

“服が乾燥するまではここにいなよ。まだ門限には余裕があるよね?”

「いいんですか?」

“こんな天気の中にコート1枚じゃ絶対に帰れないでしょ”

 

 私はまだ仕事を進めなければいけない。100件近くあるメールにいちいち返信しないといけないのだ。全く嫌になる仕事だが、これも先生としての責務だ。

 

「……私の匂い、コートについちゃいますよ」

 

 イロハが悪戯っぽく笑う。この嗅ぎなれないフローラルな香りはイロハ自身から出されたものだったか。

 そう認識してしまうとこの状況も非常に背徳的なものに思えてしまうが、残念ながら私がその一線を越えることはない。

 

“いいよ、大丈夫。気にしないで”

「……私は気にするんですが」

“あ、ごめん。ひょっとして変な臭いがした?”

「そういうことではなく……ああもう、分かりました。ご厚意に甘えます」

 

 せっかくだからと執務室内でオブジェと化していたゲームを薦めると、イロハは大人しくそのゲーム機に向かう。テレビ画面に向かうイロハの背中は小さく、またどことなく淫靡なものに見えた。

 

 ひょっとして、と1つの考えが頭を過る。

 イロハは、最初から傘なんて持ってきてなかったのではないか? あの傘立てに何も入っていなかったのは、つまりそういうことなのではないか。

 無用の長物となった蝙蝠傘は道中のゴミ箱で処分したのかもしれない。何ならシャーレの建物の玄関に鉄とビニールのジャンクがある可能性だってある。

 だが、もしイロハが最初から傘なんて持たずにここに向かっていたとしたら?

 

“ねえ、イロハ”

 

 思わず声をかけると、イロハはどこか不服そうに「何でしょう」と振り向いてきた。

 そうして何かを訊こうとして開きかけた口からは、掠れた震え声しか出てこない。

 

“…………何でもない”

 

 そして私は、頭の中に浮かんでいた問いを掻き消すことにした。

 答えを聞くのが怖かった。もし私の想像通りだったとしたら、その先がどうなってしまうのか想像がつかなかった。

 

「変な先生ですね」

 

 イロハはフフンと笑っていたが、その眼はきっと笑っていなかっただろう。あんな細まった目つきが笑いであるものか。

 仕事に集中しようとしてもできなかった。書類を読んでいても、イロハの存在がどうしても視界の端に映ってしまったのだ。

 

 結局その3時間後に、イロハは乾燥し終わった制服とエンジェル24で買ったビニール傘を持って執務室を出て行った。

 隣の椅子の背もたれにかけられたコートの匂いを少しだけ嗅いでみると、明らかに私のものでない甘い匂いがふわりと漂った。

 

“もし、本当はそうだったとしたら”

 

 私はどうするべきだったのだろうか。先生として、大人としての対応と見るならば決して間違ってはいないだろう。

 だが、今シャーレの建物を出て行ったあの小さな影を窓から見送っていると、私の行動が正しいとは到底思えなかった。

 

”…………今日着てきたんだけどな、このコート”

 

 しばらくは、このコートを着られそうにもない。もちろん、洗濯する気になんてなれるわけがなかった。

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